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防衛大学校物語 成長

 

防衛大学校物語 役割からの続きです


そんなこんなで極限の生活をギリギリで耐えつつ入校から1ヶ月もすると、待ちに待ったGWがやってきました一週間ほどのお休みが与えられ、基本皆帰省します当然外出点検がありますが、まあさすがにこの日ばかりは予約している電車のチケットなどの事情もありますから、余程酷くなければ外出点検はすんなり通してもらえます

ちなみにこのGWを心待ちにしているのは1学年だけではありません。2学年にも特別な意味を持ちます。というのはカッター競技会(短艇という10人で力を合わせて漕ぐ競技会)というものがGW前に行われ、2学年はそれが終わってようやく「奴隷」→「人」に昇格することができるのです

逆に言えば、4月の一ヶ月は1学年の面倒を見ないといけないわ、また自分達も競技会の過酷な訓練を毎日毎日耐え抜かないといけないわ・・・という、実は4年間で最もきつい1ヶ月を過ごします体力が微塵も残らないくらいに走らされ、懸垂や腕立てをして、大声を張り上げ気合いを入れ・・・絶えず己の限界を超えることを求められます

そうやって体力を付け、競技会に勝利して「カッター優勝大隊」の看板奪取を目指すのです(※看板とは、こういったイベントの度に優勝大隊が1年間玄関に飾ることのできる名誉の証です)。それを厳しく指導する「鬼軍曹」的なポジションがカッター総長を始めとするクルースタッフというわけです。

↓カッター競技会の様子(訓練はさすがに公開できない?



訓練後に2学年が精根尽き果てボロ雑巾のように倒れ込む姿を見ながらも「すみません。対番呼んでこいとシバかれました・・・」となかなか言えない空気になるのが1学年にとってもプレッシャーですし、これが一年後の自分達の姿なのか・・・と思うと、また絶望の深淵をのぞき込む気持ちになります

 

 

しかし逆にカッター競技会が終わった後は一人前として認められるわけですから、2学年の解放感は半端ありません競技会で勝とうが負けようが、終われば皆が感極まって号泣するのもわかりますただ私の場合、正直言ってそこまでの熱い気持ちにはなれませんでした

というのは、丁度私の期から少しカッター訓練の指導方針が緩和され、あまり厳しい指導を受けなくなったこと、また私が2学年の時に移った12中隊がそこまで厳しくなかったこと、更に私の所属艇が大隊クルーといって勝敗にあんまり影響しなかったことがあります。これは正直、非常にラッキーでしたなので泣かなかった私は「冷めた奴」のレッテルを貼られてしまいました

ちなみに競技会が終わると、カッター総長から一人一人にタバコが振る舞われ、(成人していれば)その日からタバコが吸えるようになります当時は廊下のソファーに煙管があり、そこでのみタバコを吸うことが許可されていました。もっとも今はご時世的にそんなことは無いのでしょうけれど

ですからソファーには必ず誰かしら上級生が座っていますし、まあ大概タバコを吸う上級生は怖い上級生の確率が高いですなので夜の街灯に群がる害虫・・・という表現をすると上級生には失礼ですが、それ以上にその前を通るのは嫌でした何も不備は無いはずでも突然「おい」と呼び止められてビクッとすることが度々ありましたから

まあタバコを吸っている間は、上級生もリラックスしているので、深くシバかれることはあまりなかったですけどそして2学年も上級生の列に加わり、今までは1学年をフォローする側にいた2学年も、いよいよ1学年をシバきだすのですつまり更に敵が増えるのでした・・・

 

 

話を1学年に戻します。GWで実家に帰るわけですが、下宿を持っていない1学年は制服のままで実家まで行くことになります。横須賀までならば同胞も多く、街の人も見慣れているので問題がありません。が、横浜、そして品川・・・と防衛大学校から距離が離れるにつれ、次第に小っ恥ずかしくなってきます(ぶっちゃけ、品川辺りまで離れれば見つかる確率が減るのでトイレなどで着替える者も多かったですけれど)。

ハロウィンの時期ならともかく、平時では単なる軍人コスプレ好き野郎的な感じですとか言いつつ、私はちょっと目立つし、まあ格好良さも感じていたので、案外まんざらでも無かったですけど

唯一の難点は、羽田空港で金属探知機に制帽の校章や、襟章が反応してしまい、毎回必ず搭乗検査に引っかかってしまうことでしたそして地元富山まで来ると完全に「何者?」という感じで浮きますまあそんなことより、地元に生きて戻ってこれた解放感の方が何万倍にも勝るわけですが

私もこれまで、長期休暇の事を考えるのが何より楽しみでしたしかしそれは帰省する時がMAXで、実家に着いた途端「あぁ、あと何日でこの休みが終わってしまう・・・」とマイナスのカウントダウンに変わってしまい、日に日に胃が痛くなるのです救われませんね・・・。後日母は「そうだったの?」なんて、はは呑気だね〜なことを言っていますが、当人はとても深刻なのです・・・

母曰く「(一緒に防大に入るため上京した)A君のお母さんやお婆ちゃんは、A君が毎日電話口で泣きながら嫌だ嫌だ、と訴えてくるから、お婆ちゃんは電話がかかってくる度にドキッとしていたんだってあなたはそういう電話をしてこないから、逆に心配だった」とか言われました。

それには二つ理由があって、まず私は物理的に(当時は携帯がまだ無かったので外線を部屋に引く必要がありましたが)電話を引いてなかったので、一々公衆電話まで出て電話をするのが躊躇われたのでしなかった、というのが一つ。

もう一つは私の中隊は確かに厳しかったのですが(後々皆に聞いた話を総合すると、全16中隊中4番目くらい)、小隊の上級生や同期に何とかフォローしてもらえたので、寸前で耐えることが出来ました

ところがA君が配属された中隊は実は後に自殺者が出た程(※詳細はいずれ後述しますが、4年間で一件だけ起きてしまった哀しい事件であり、この期のこの中隊だけ異常でした。ただ実際の原因は当然本人以外は知る由もありません)に最も厳しい中隊だったのでA君が泣き言を言うのは当然なのでしたこの辺りを回避できたところも、私が卒業まで辿り着けた理由の一つだろうと思います。

 

 

いくら寝ていても、また布団をきれいに畳まなくても誰にもシバかれることのない、心安らぐ実家でのGWは光陰の矢のごとしちなみに母が良かれと思って制服のアイロンがけをしてくれるのですが「あぁっ二重線(プレスの線がいつもの場所からズレて二本線になってしまう)が入ってる余計なことしないで」と理不尽にキレるのは、1学年あるあるです

一方、わずか一ヶ月の寮生活で、例えば整理整頓や洗濯など、全て自分でやらないといけなくなったことで、初めて親の有り難みがわかりました私はこの頃から食べ物も残さなくなりましたね自分で働いて食べ物を得ているという感覚に変わったので、残すことが勿体ないとようやく感じるようになりました。これは良い効果ですね

そんな感じで短い夢の実家生活に別れを告げ、また飛行機で羽田に飛んで、羽田から横須賀へ近づくにつれドンドン足が重くなり、収容所に収監される囚人の心境のまま、正門を通過して隊舎に戻っていきます

なお、GWを終えると更に50名が辞めましたこの一ヶ月間は何も考えるヒマが無いくらい忙しいのですが、ふと緊張の糸が切れるGWに実家で過ごしかつての日常が戻ってくると、もう戻りたくない、これ以上耐えられないと考えてしまうのは当然です地元の友達の充実した大学生活などを聞くと一層その気持ちが強くなるのは致し方無し

このGWが最後の「ふるい」で、同期は450名にまで絞られました。ここまで生き残れば、後はなかなか辞めませんね。以後は例えば希望の学科や要員にならなかった、別にやりたいことが見つかった、あるいは何らか退校、放校の要件に抵触して辞めさせられた・・・というような感じで4年間で50人程居なくなり、卒業時に帽子を投げる同期は400人くらいになりました

ちなみに退校、放校の要件。警察の厄介になるような大問題は勿論、「制帽紛失」「テストでカンニング」「校内恋愛」などでも退校となります

一応、私の知る限り制帽紛失やカンニングでの退校者はいませんでしたが、校内恋愛はいましたまあ恋愛といっても恋愛感情だけの話ではなく、校内でABC(古い)まで見つかると完全にアウトですね。結構優秀そうな奴でしたが、隊舎の屋上で○○してて見つかったとか。2学年で男女共に退校になりました

でも不思議と(?)女子学生の大部分は卒業後に同期や先輩などと結婚するんですよねぇ一体どこで上手くやっていたのやら・・・

 

 

GWから帰ってくると、翌日から早速またいつもの厳しい厳しい「日常」生活に戻ります朝起床ラッパで起きて「おはようございます」キレイに畳んでもベッドが飛ばされ、掃除から戻ってきたら直し、走って朝食に行って、帰ってきたら課業行進の支度授業の間だけは一息ついて、隊舎に戻ってきたらミーティング消灯後は眠い中で夜話をして、12時頃にようやく就寝・・・の繰り返し

「2小隊の○○辞めるらしいよ」「3小隊の△△、小隊指導官に言ったらしいぜ」GWが終わって同期が一人、また一人辞めていきます。生活に少しずつ慣れはしましたが、その中で私も着実に心身共に疲弊していきました次の長期休暇(夏休み)は2ヶ月以上も後なのです。気持ちの維持が大変でした

心の中では「辞めたい、辞めたい」の大合唱が続くものの、「辞めたら2浪か・・・また予備校に通うお金もかかるし、親にも迷惑かけるし。わざわざ他の大学を蹴って選んだ道なのになぁ。そもそももう一年間勉強するモチベーションは持つのか?」などと考えると、簡単に辞めるわけにはいかない背水感もありました。

親戚や友人など周囲の目も気になります。何より辞めてしまうと人生の落伍的な感じがいつまでも残り、今後何をやるにつけても負け犬根性の中途半端なヤツになるんだろうなとそういった様々なしがらみが私を縛り付けていました。ですから、辞められる奴らが羨ましくさえ思えました

思い当たる節がたくさんありすぎて、正直何がきっかけかは覚えていません。ミーティングでターゲットにされ「お前みたいなヤツはミーティングに参加する資格は無い帰れ」と言われつまみ出されたので、廊下でしばらく立っていましたが、いたたまれなくなって本当に部屋に帰ったら「あいつ本当に帰りやがった」と上級生にまた目をつけられたり。

他にも色々やらかして、温厚な私の対番も遂にキレて「もう知らんわ」とサジを投げられたり。他の皆はシバかれないくらいに成長したり(あるいは要領良くこなしたり)しているのに、私はいつまでたっても不器用で、要領悪く、同期にも迷惑をかけたり

そういう毎日毎日のストレスが遂に許容量を超えました私は発熱し、課業を休んで医務室に受診風邪だろうということで、休務となりました

 

 

休務とは、その名の通り業務を休む状態。医者から診断が出れば認められます病人ですから授業も休みますし、当然シバかれない無敵モード一日体操服(寝巻き)の姿で過ごします点呼にも出ません。ベッドにカーテンを引いて大人しく寝ていることが仕事です

ところが大変なのは同部屋ですまず休務の届け出を本人に代わって週番に報告書を書いて提出しないといけません食事は同部屋が食堂からお盆ごと運んでくれます掃除は私の担当分を誰かが代行しないといけません他にも4学年のベッドメーキングや靴磨きなど、同部屋も普段の生活が大変なのに、休務の私のために一層負担が増えるのです

強いて同部屋のメリットを挙げるならば、休務の学生が寝ている部屋に荒っぽいことはできないので、週番が部屋を「飛ばしたり」はできませんから助かる、というのはあるかも知れませんね・・・


正直に言います。私はその時はそこまで酷い風邪ではなく、半分仮病でした元々身体がそんなに強くなく風邪を引きやすい体質で、風邪っぽかったのは事実ですが、もう少し頑張れば何とかなる程度の微熱程度でした。咳や鼻水もとくには出ません。ただ心身疲労の蓄積で身体がサインを出して倦怠感が出ていた感じです

私はいよいよ本気で「もう辞めよう」と思うくらい、かなり参っていました負け犬と言われようが構わない。どうせもう辞めるんだ。だから一日くらい休み貰ったって良いじゃないか。辞めるんだから。同部屋を始めとする同期に迷惑をかけてしまうのは申し訳ないけれど、許してくれよ・・・

同部屋C君、D君は私が最近かなり弱っていたのは知っているので、文句も言わず「大丈夫か?」と気に掛けて色々世話してくれました。その同期の優しさが染み入りましたが、私はベッドに潜って風邪でしんどい「フリ」をしていました

 

 

その日の夜皆が掃除に行っている間の時のことでした。部屋がノックされて誰かが入ってきました。カーテンを引いていたので姿は見えないのですが、声で同小隊の同期F君だとわかりました。「大丈夫か?」と聞かれ、私は「うん、何とか大丈夫」と小声で応じました。

F君は現役で入ってきたので、1浪の私より1歳年下。ただ優秀なヤツで、何でもテキパキこなせ面白いところもあるのですが、性格的にドライで、言いたいことはハッキリ言う。私はどちらかというと苦手なタイプでした。

私自身は休んでいたので、どういうやりとりがあったのかは知りません。が、同部屋が調整してくれて、どうも私の担当の階段掃除はF君がやってくれたようなのです。そしてさっさと掃除を済ませ、一番に戻ってきたようです。

私はF君に「代わってもらって悪かったね」とカーテンごしに言いました。F君は「うん」と短く応じました。「風邪どう?」「うん、もうだいぶ良くなった。明日には復帰できると思う」・・・その後、数瞬の間、沈黙が流れました。私は「あれ、F君は自分の部屋に戻らないのかな?同部屋の誰かに用があって待っているのかな?」と思いました。

カーテン越しでもF君が逡巡しているのはわかりました。言おうか、それとも言わずに帰ろうか迷っている感じ。しかし意を決したように
「あのさ、お前のおかげで皆迷惑してるんだ。C君もD君もさ、優しいから何も言わないだろうけど、すごい大変なんだぞ。迷惑かけてんだぞ」
「うん、わかってるよ・・・。ごめん」
「もう、そういうのは止めてくれ。ちゃんとしっかりやってくれ
とだけ短く言い残し、ドアをバタンと閉めて出て行く音が聞こえました。

私に対して、これまでのこと(ターゲットにされる程に出来が悪いこと)もあり、かなりフラストレーションが溜まっていたのでしょう。挙げ句に仮病っぽい感じを見抜かれ、こいつズルして逃げたな、というのが伝わったのでしょう。

C君は性格的に優しいので、私に対しては気を遣いつつ冗談っぽく「お前が休むから色々と大変だ」とは言ってましたが、恐らく仲の良いF君にも半ば冗談っぽく、半ば愚痴っぽく私のことを言っていたのだろうと思います。そのC君の気持ちや状況を慮って、F君が代弁も兼ねてやって来た、ということなのでしょう。

やはり面と向かって言われると堪えます。その後何も知らないC君やD君が部屋に帰ってきましたが、私はカーテンの向こうで寝たふりをしながら、消灯の時間を待ちました。昼に本当に寝ていたのもあり、夜にはなかなか眠れません。皆が寝静まった後にも、色々と頭の中で考えて決断しました。

 

 

翌日休務の人間は起床ラッパで起きてベッドを畳む必要はありません。ただ課業行進で皆が居なくなるまで、ずっとベッドで大人しくしています。

課業行進が終わると、実は4学年などはパラパラと部屋に戻ってきますというのは、1学年は課業がぎっしり詰まっていますが、4学年はちょくちょく授業の空きがあったりして卒研などの自習時間があります。必要単位数を3学年までに大体取ってしまって、4学年の時はあと数単位取れば卒業要件を満たす状態になったりしているので。

程なくして、隣の部屋長(カッター総長)のドアが開く音がしました。部屋長は在室しているようです。

私は服装を普段の作業服に着替えると、意を決して部屋長の部屋に行きました。ドアをノックして部屋の中から「はい」と返事が聞こえると「入ります」といつもの入室要領の動作をして入ります。部屋長は「おぅ、どうした。風邪は大丈夫か?」とちょっと不思議そうな表情で迎え入れてくれました。

私は部屋長の前で一礼すると「相談があります」と切り出しました。「なんだ」と言われたので「実はもう防衛大学校を辞めようと思います」と言いました。

部屋長は突然の出来事に少し困ったような半笑い的な表情で「どうしてだ?」と言うと、私は「もう皆のように上手くできませんし、このままここにいても皆に迷惑をかけるだけで・・・」というと、涙がポロポロと出てきて涙声で上手くしゃべれなくなりましたそしてそれ以上言葉を発することができなくなりました。

 

 

部屋長は小刻みに震えながら涙を流し鼻をすする私に対して「まあ最初は皆そういうもんだ」「対番も同部屋も迷惑だなんて思ってないよ」「嫌なこともいっぱいあるけど、良いこともあるぞ」などと色々慰めてくれました。

正直、私は自分が情けなくて情けなくて、あまりこの時の会話を覚えていません。何かハッと気付かされるような劇的な言葉をかけられたわけでも無かったように思います。ただ、胸中を吐露できたことで、憑き物が取れたような感じになりました。

また「お前は向いてないよ」とか「辞めたければ辞めたら」というようなバッサリ切り捨てられた言い方をされなかったので、私はまだ何とか気持ちを繋ぎ止めることができました。自分はここに居ていいんだ、と思えましたし、何より誰かに「相談できた」「口に出して言えた」ということが大きかったように思います。

元々自分で選んで来た大学です。出来ることなら辞めたくはありません。確かに入校前の覚悟と、実際に入校してみた後の現実のギャップは大きかったですが、辞めようと思えばいつでも辞められる、辞める前にもう自分にできることはないんだろうか?何とかもう少し続けて、全部出し切ってもうダメならその時に辞めよう、と腹をくくりました。

本当に私にとってここが大きな岐路でした。相談に行く前までは「あとは小隊指導官と親にどう言おうか」ということを考える段階で、部屋長には相談というよりも報告に行くだけのつもりでしたから。

私にとって本当にラッキーだったのは、この中隊でも実力者である人が部屋長だったこと。もしこの人が私の部屋長でなかったら、多分この人に無茶苦茶シバかれていたでしょうね。そしてGW以前にさっさと辞めていたでしょう・・・。

部屋長は私のような出来の悪い部屋っ子ほどかわいく思えたようで、同部屋のC君、D君よりも目を掛けてかわいがってくれた感じは十分伝わってきました。C君に「お前はお坊ちゃんだもんな」とか「部屋長のお気に入りだもんな」とか何かにつけて言われました(嫌味ではなく、冗談っぽい感じで)。

 

 

私はこの瞬間から色々と変わりましたまず「他人は変えられないから、自分が変わるしかない」という人生の真理を悟りました。どうせもう一度死んだようなものだ、全力でやってダメなら本当に辞めれば良い、と自分のメーターを振り切りました。恥も外聞もない、出来るとか出来ないとか関係ない、とにかくがむしゃらに全力でぶつかっていこうと思いました。ネガティブな思考は止めてポジティブに生きていこうと変わりました

本当に私の性格はこの瞬間から180度変わり現在に至ります。上級生にも闘志をぶつけ、闘っていこうと思いました廊下で上級生にシバかれた際に逆ギレのような感じで大声で「はい!!」と返事をしたら、対番に「さっきのお前の声良かったよ。部屋にいても響いてきた」と褒められました。

 

これを成人前に理解できただけでも私は防衛大学校に行って良かったなと思っています。逆に言うと、これだけ極限状態にまで追い込まれないと、私は覚醒しなかったのでしょう。まあ覚醒したらかといって、出来が悪いのは相変わらずでしたけれど・・・

そうすると、やはり周りの評価も少しずつ変わってきます。一般的にも「出来るけどやる気の無い奴」より「出来なくても一生懸命やっている奴」の方に力を貸してやりたくなるものです。そういう感じが伝わったのか、F君ともほどなく和解しました

そういう経験があるので、他人に対しても追い込まれて逆境で吹っ切れない人は「まだ極限まで追い込まれていないんじゃない?」「まだ心のどこかに余裕があるんでしょ?」と正直思ったりもします。本当に追い込まれたら、精神的な防衛本能が働いてスイッチを切り替えるはずです。勿論、それが出来る人と出来ない人はいるでしょうけれど。

また限界は自分が思っているよりももうワンステップ上のところにあって、自分で思う限界を超えた時に出す力こそ、成長に繋がるものだと悟りましたアスリートなどは正にそんな感じなのでしょう

まあ最近の風潮としては「頑張り過ぎない」「無理するな」が主流で、それはメンタル面では安定に繋がるでしょうし、当人の現状をわかるはずもない他人がかける言葉としては無難です。勿論それはそれで一つの選択肢です。しかし本当に何とかしたいのであれば、それではいつまでたっても現状は変わりません。最終的には自分が変わらないとダメなのです。

 

 

この経験があるので、お陰様で残りの人生、大概のことは辛く無くなりましたあの時に比べたら・・・と思える大きな自信になりましたまあ、今は子育てが防衛大学校時代よりもきつい・・・とか思ったりしますけれど

なお、この一件の後、対番とはちょっと溝が出来た感じになってしまいましたというのは、やはり順番としては「相談するなら対番の方が先だろう」というのがあるでしょうから

まあここで弁解しても仕方無いのですが、対番は非常に頼り甲斐があって良い人なのは間違い無いですけれど、やはり2学年でまだ大変な時期でしたし、更に同い年ということもあってちょっと躊躇われました先に「もう知らんわ」とサジを投げつけられた言葉も刺さって(突発的なセリフであったとはわかっていますが)、これ以上迷惑をかけられないというのもありました

良いように解釈すれば私が少しは成長して教えることも無くなったと思ったのか、少し距離を置いて見守ろうというのもあったのか。また対番が小隊学生長付になって忙しくなり、私の面倒ばかり見ていられなくなったのか。あまり夜話などにも来なくなりました。タイミング的なものも色々あったかも知れませんが

そういう意味で4学年の方が年も離れていて経験も豊富で、部屋長でもありますから、一気に飛ばして相談に行きました。何よりいやらしいですが、実力者でもある部屋長の庇護下に入ればちょっと忖度があるかなと下心があったのも事実です

ちなみに恐らくですが、部屋長は実際この話を中隊学生長や他の4学年、上級生などにもしてくれて「ちょっとあいつには配慮してやってくれ」というようなことを言ってくれたのだと思います。なので、少し私に対する風当たりが弱く・・・なりませんでしたね特に相談後も変化は感じませんでしたまあ、自分だけ贔屓にされたらまたやり辛いんですけどね(つづく)

 

 

防衛大学校物語 校友会

 

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