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父との別れ その2

 

 

父との別れ その1

 

姉の義父は10年以上前に突然の事故で亡くなりましたが、私は段々弱っていく親の姿を見ながら、事故で突然亡くなってしまうことのどちらが遺族にとっては良いのだろうかと考えていました。姉は「どちらも辛い」と言いました。母は「生きていてくれるだけで良い」と言いました。

こちらの問いかけにはかろうじて反応があるものの、父が時折喉が詰まって苦しそうな顔をするのを見る度に、私は「安楽死という選択肢があれば・・・。早く父を楽にしてやりたい」と思っていました。一方、生きている母のために、父には生きていて貰わねば困るという思いもありました。

結局転院から3日後には、父はナースセンターから最も近い要看護の部屋に移され、鼻からチューブで酸素吸入を受けることになりました。酸素を吸入すると見た目は血色も良くなって顔に赤みがかかり、手も随分と温かくなりました。ただ父が半昏睡状態にある感じには変わりありませんでした。

しかしそれは後々わかったことですが、酸素の影響ではなく、単に発熱の結果であったようです。父は39度の高熱を発し、抗生物質を点滴されました。

熱は引いたものの、遂には「あー」という返事すらできなくなった様子。声帯がもうダメになったような感じでした。いつも口が開きっぱなしでいびきのような呼吸を繰り返していたせいでしょう。呼びかけると目は開きます。

母は「お父さん、何か返事して」と呼びかけるけれど、父はどうすることもできません。何か反応しようとする素振りはあるけれども、それが呼吸のリズムを乱して疸が絡んだように咳き込み、苦悶に歪めます。私は「もういいよ。父ちゃんを楽にしてやらんけ」と言うと、母は諦めたように肩を落としました。

 

転院してから母は毎日午前と午後の2回、父の病室に見舞いに行っていました。私も週に2、3度見舞いに行きました。父の目の前に手をかざすとそれを追いかけるように眼球は動くけれど、どれくらい意識が残っているのかはわからない状態。母は病室に行っても結局父とコミュニケーションをとることができないので、お経を持ち込んで病室内で黙読しているようになりました。

その間父は相変わらず口を開きっ放しの状態でイビキのような音をずっと立てていました。こんなに口を開けていると喉が渇くんじゃないかと心配になりますが、看護師さんが定期的に見回りに来ては、噴霧器のようなもので父に水分を与えていました。

転院してから3週間が過ぎ、母から「お父さんここ3日間くらい目を開けていない」と聞かされました。私も一緒に見舞いに行くと、確かに父は相変わらずずっと目を閉じた状態でイビキをかいていました。看護師の方に聞いてみると「目を開ける時はある」とのことだったので、たまたま我々が行った時に寝ている、ということなのだろうとは思いました。

ただそれだけ身体が弱って睡眠を欲していることは明らかでした。肺炎を起こしてからわずか2ヶ月。一度弱り出すと加速度的に弱っていくものなのだと改めて気付かされました。

「おむつを交換させてください」と看護師さんが病室に入ってくると、我々は一旦待合室の方へと移動します。私は「父はあと何度おむつを替えてもらうことができるのだろう」などと考えていました。

病室のテレビは父が見るものではなく、我々が見るためのものになっていました。丁度その頃はリオオリンピックが開催されており、ニュース速報で日本人金メダル第一号の報が流れてきました。

父が最初に頭を手術したのは10年前のトリノ冬季オリンピックの頃。あの頃も術後しばらく昏睡状態が続いていた父は開会式もメダル獲得の瞬間も見れませんでした。病室のテレビで興奮気味にアナウンサーが喜びの声を挙げるのを聴きながら、私にはその当時が重なって蘇ってきました。

 

 

明くる日、父はまた39度の熱を出しました。病院から呼び出された母が医者から聞いた話では「今回がヤマだろう」と言われたとのこと。母からそれを電話で知らされた私も「いよいよか」と思い、車で急いで病院に向かいました。

ひょっとしたら死に目に間に合わないのか、いや母が私を動揺させないために、既に事切れているのに嘘を付いているのではないかとすら思うと、一々引っかかる赤信号がいつもより長く感じました。

私が到着した時、幸い父はまだ生き長らえていましたが、呼吸は酸素マスクに替わっていました。手を触ってみると冷たく、生命エネルギーが残りわずかであるような印象でした。

既に意識は無いということで、時折目は開けるものの、ほとんど白目の状態。目の前で手を振っても目が何かを追うことは無く、まつげを触っても反射の反応がありません。恐らく目が開いていても、もう視力は無いようです。私が父を見下ろしながら呆然としている間、母は姉や親戚に電話で次々知らせていました。

結論を言えば父の容態はその後安定し、我々はホッと胸をなで下ろして帰りました。しかし一方でもういよいよ本当に覚悟を決めないといけない瞬間が近いのだなとも思いました。

 

その翌日の午前3時頃、突然携帯電話が鳴って起こされました。母から「父の容態がまた危ないから、すぐに病院に来てくれと言われた」と。私と嫁とで急いで身支度を調えて、急いで病院へと向かいました。

病院の入り口に着いた頃、丁度母も到着したので、インターホンを押して非常口から一緒に中に入れて貰いました。いつもと違う薄暗い病院の中には、いつもと違う重苦しい空気を感じました。

電子音がピッピッと流れるナースセンターを横切って病室に着くと、父の呼吸は乱れ、イビキが一定では無くなっていました。時折呼吸が止まり、数秒間の沈黙が流れます。その度に我々はドキッと緊張していました。

看護師さんから「お父さんの肺の辺りを触ってみてください。ザラザラしたような感じがあるでしょう?」と言われましたが、正直よくわかりませんでした。とにかく肺炎がまた再発したようです。

いよいよ覚悟を決めた母は耳元で「お父さんお疲れ様でした」「有り難う」と何度も繰り返していました。それが本人に届いているのかどうかはわかりません。父の表情に何の変化もありませんから。それから「一昨年に温泉に行ったね。去年は五箇山に行ったね」と、旅行の思い出話を続けていました。

私は気恥ずかしさもあるし、まだ終わったわけでもないので「父ちゃん、しっかりしられ」と呼びかけるくらいで何も言いませんでした。それからイスに座って、呼吸を続けるだけの父をぼんやり眺めていました。父の胸の上下動を眺めていると、普段の何気ない呼吸一つ一つに重みを感じました。

母はまたお経を黙読していました。その隣で私は何かを考えようとしてはハッキリせず、結論も出ず。通夜はいつになるか、喪主はどういう服を着れば良いのか、父の預金は引き出しておいた方が良いのか、一つ考え始めては結論が出ず、順序だった思考はできませんでした。

やがて親戚や姉もやってきて、狭い病室に6人が集まりいっぱいになりました。病室でする話でもないのですが、皆と共に「事切れた後に一旦自宅に父を運ぶのか」「運んだ後にどの部屋に安置するのか」「墓はどうするのか」などといった実務的な話をしました。

それから午前中ずっと皆で父を囲んで見守っていましたが、結局その日は父の熱も下がり、容態が安定したということでそれぞれ家に帰ることになりました。

姉は「案外このまま年末まで大丈夫なんじゃない?」と楽観的なことを言っていました。確かにそうかも知れないし、実際隣のお爺さんは意識が無くなってから4ヶ月程持ちこたえました。私もそれくらい余命はあるのではないかと思っていました。

 

ただ父はこの日を境に完全に意識や反応が無くなり、いわゆる植物人間のような状態になってしまいました。

そしてその後も何度か39度レベルの発熱を繰り返し、その度に緊急の電話がかかってきて我々は都度呼び出されました。特に患者の容態が悪くなるのは夜中や明け方が多いですから、午前3時や6時に度々呼び出されました。そしてその後は容態が安定し、数時間後結局また家に帰ります。

看護師さんも「万一のことがあるといけないと思って」「先ほどは一時血圧も急低下して本当に危なかったのですが」とその都度バツの悪そうに言われました。我々は「いえ、とんでもないです。また危なかったらいつでも呼んでください」と応えていました。

ただ現実的に人でなしな感想を言えば、最初に発熱して危なかった時が悲しみのピーク第一波で、後は段々と耐性が付いていき、呼ばれても「またか」というような気持ちの方が強くなっていったのは正直な気持ちです。こんなに父が頑張っているのに。

一生懸命酸素を取り入れようと頑張っている父の肉体を目の前にして「早く決着を付けてくれ」とか「父ちゃん、せめて夜中は頑張って」とか。自分勝手な気持ちが去来していました。少なくとも私と姉の中で父は実質的にこの日に亡くなったような気持ちになっていました。もう父がこちらの呼びかけに応えることは無いでしょうから。

ただ一人、母だけは父が一日でも一時間でも一秒でも長く生き長らえることを祈り、毎日ヤキモキした日々を送っていました。母は以前から「父よりも一秒でも長く生きるのが私の使命」と言っており、それが母の生きる意義にもなっていました。そのためだけに父の身体は命を繋いでいるようにも見えました。

父に付けられた色々な計器の数字が何を意味するのかも教わり「今日もこのくらいの数字なら大丈夫そうやね」などと言って自分達を安心させて帰りました。正直、数字が安定しているうちに帰らないと、また今度いつ呼び出されるかわかりません。しかもずっと病室に居ると、まるで父が死ぬのを待っているようにも思え、その分自己嫌悪感が一層強まるのが嫌でした。

 

そうやって病院に呼び出される状況が4回続いた後の8月19日。たまたま夕方に見舞いに行ったその時にも、父が危篤状態に陥りました。が、またその後回復を見せ、父の容態は安定しました。もっとも、意識や反応が無いのには変わりませんけれど。

その際も計器の心拍数や酸素濃度の数字が安定していたので、母に「もう今日は帰ろう。早く帰らないとまた帰れなくなるよ」と言いました。すると母がその日に限って「そうやね」と同意せず「あんた達帰りたいなら帰られ。私は残る」と言いました。

そう言われると何となく帰り辛くなりましたが、私と姉は反応が無い父に「じゃあ明日また来るね」と言い残して病室を跡にしました。

一応その日はそれで過ぎたものの、翌朝の早朝。病院から母に「すぐ来てください。もう呼吸されていません・・・」と電話がかかってきました。母一人で車を運転させるのが危ないと思った私は「今日はそっちに迎えに行くから待っとられ」と告げ、実家の母を乗せて病院に向かいました。

電話から15分くらいで病院に着くと丁度姉もやってきて、3人で病院のインターホンを押し、非常口から中に入れてもらいました。足早に病室に向かうと、もう計器の反応が無くなって呼吸もしていない父がベッドの上に横たわっていました。ただ触ってみるとまだ暖かさが残っており、つい先ほどまで生命があった様子はわかりました。

「すみません。もう電話をかけた頃にはほとんど呼吸も止まった状態でした・・・」と看護師さんに言われ、結果的にはどんなに頑張って急いで来たとしても、死に目には間に合いませんでした。ただ、前日に母が病室に居残ったのは、もう一緒に居られる時間がわずかと感じ取ったからなのだと思いました。

我々3人は最後にそれぞれ「お父さん、今までお疲れ様でした」などと声をかけました。呼吸を続け口を開けっ放しの状態のまま亡骸となった父を見ると、最後の最後まで戦った姿に、3人とも涙はありませんでした。

昔、私が丁度二十歳の頃、父の母である祖母を亡くしました。祖母は最後に痴呆が入り、施設にしばらく入所。父を含めた親族のことが誰もわからなくなってから5年ほど後に亡くなりました。

私にとっては人生で初めて親族の葬式だったのですが、その葬儀の後、父は母に「正直ホッとした」と言いました。横で聞いていた私は「父ちゃんそんなことを言うんや」と内心思いました。次男であるのに実質的に実母の面倒を見ていた大変さもわかりますから、責める意味はありません。ただ父が自分の感情を口に出すことはほとんど無い人だったので、余計不思議で印象が強かったです。

そしてそれから更に二十年が経過し、私もようやくその時の父の心境がわかるようになりました。特に死に際の2週間、苦しそうに呼吸だけしかしない父の様子を見ていると、むしろ死が双方の苦しみをようやく解放してくれた、というような気持ちが勝りました。私以外の2人も、むしろ安堵の色彩が強かったと思います。

その後、呼び出しに応じた医者が病院にやってきて、瞳孔などをチェックし正式に死亡を確認しました。父は生物学的には私が到着する前に、書類上では私が到着した後で8月20日7時6分に亡くなりました。(つづく)

 

 

父との別れ その3

 

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