ダルマじょうしょうダルマ〜未来に繋げる株式投資〜

ご挨拶| 筆者紹介| Blog| 各種サービスのお申込| 過去のパフォーマンス| 銘柄レポート| FAQ| 掲載すべき事項|

父との別れ その1

 

時系列として10年前に遡ります。丁度このブログを開始した年の冬のことになりますが、当時私は東京で証券各社に勤めていまして、ある日実家の母から電話がありました。「お父さんが雪で転んで頭を打って、手術をしなければいけなくなった」とのこと。結局2度手術をして、父の命には別状が無かったものの、術後に高次脳機能障害と診断されました。

当時71歳だった父は以来ずっとベッドの上で暮らすことに。間もなく老健施設に移ると、食事の時だけは車いすに移乗させてもらって食べ、それ以外の大半はベッドで寝てテレビをずっと見ているだけという生活が続いていました。年老いた母一人に父の面倒を任せるのは酷だということで私も証券会社を辞し、地元で試行錯誤しながら結局自宅でもできる現在の仕事にたどり着いています。

父は極めて異例でもありますが、同じ老健施設に10年置いてもらうことができました。その間、私は父が寝たきりだと残りの人生面白く無いだろうと思い、連日施設に通いながら何とか父の身体を持ち上げて支えながら立たせていると、多少筋肉を取り戻し、やがて歩行器を使いながらであれば数十メートル程度歩くことができるようになりました。

その後も何とか家に戻って生活したいと、施設の方でリハビリを続けていました。結果、一時期は夏の間だけ自宅に戻って暮らすということも出来たのですが、10年の間でわずかに二夏だけ。今度は母が心臓のバイパス手術を受けて身体が弱ってしまい、家で父の介護ができなくなってしまいした。

そうなると父もリハビリの目標を失うと言いますか。次第に歩く距離も減ってきて、スピードも遅くなり。遂に足が痛いと言って歩かなくなったのが昨年の秋頃。それから加速度的に父は弱っていきました。

精神的にも参ったようで、鬱病に近い状態になり、何事にも反応も鈍くなりました。今までは介護士さん一人の介助があれば車いすへの移乗もトイレも出来たのですが、二人がかりでの世話が必要になり、車いすもより介護が必要な人のものに。当初3だった介護度も、遂には最大の5にまで引き上げられてしまいました。

そんな状態ですから、次第にご飯も喉を通らなくなり。1時間半ほどかけてご飯を食べ、痰も詰まりがちになって、自分でなかなか痰を切ることができなくなってきました。歩けなくなってからわずか半年ほどで急速に弱っていく父を見て、つくづく「歩く」ことは人間にとって大切なことなのだと思い知らされました。

患者の痰が詰まった時、病院など医療機関では細長いノズルで痰を吸引します。ただ老健なので一般の介護士にはそれができません。ですから父は10年近く置いてもらって在籍期間では最長老でしたが、その老健では遂に面倒が見きれなくなり、特養施設に移ることになりました。それが5月の終わりのことでした。

 

実は以前から老健側から「特養の方に移って欲しい」と言われてはいました。あまり長期間同じ施設には置いてもらえないので。なので、家から近いとある特養に申し込んではありました。ところがご存じのように介護施設はものすごく入所希望者が多いことから、3年程前に申し込んだ段階で「今は大体30番目から40番目くらいの間での順番待ちでしょうかね」と言われていました。

また、介護できる家族の有無、患者を含めた様々な状態、介護度などを総合的に勘案し、優先順位の高い人から申し込みが来ると順番は平然と抜かされてしまいます。そのため既に老健に入ってる父の優先順位は低い位置付けでした。なので老健でも仕方無く継続して置いてもらっていた、という事情がありました。

ところがいよいよ痰が切れない身体になってきたものですから、老健のケアマネージャーの強い押しもあって、急遽その特養への入所が決まりました。

荷物をまとめて長年お世話になった職員さんに別れを告げると、我が家の車は車いすごと乗せられる福祉車両でしたから、父と母を乗せて次にお世話になる特養施設へと自分達で向かいました。今思い返せば、これが親子3人での最後のドライブになりました。10分にも満たないわずかなドライブでしたけれど。

新しい施設に着くと、まずは施設長やケアマネージャーなど、7人ほどの職員さんと共に簡単な入所式が行われました。お互い挨拶をして、父も喉が弱っていますから正直ほとんど聞き取れない声でしたが、それでも自分の名前を名乗りました。

入所式を終えると、まずは部屋に案内してもらいました。正直先の老健よりは古い建物でしたが、全般的に清潔感はありました。個室になっていて料金はやや高かったのですが、そのうち空きが出たら安い二人部屋に移れるということでした。「とにかくこちらで最期まで面倒みさせてもらいます」ということでしたが、結果的には1ヶ月も満たない短い付き合いになるのでした。

 

その後、私と母はケアマネージャーや現場の介護士さん、栄養士さんなどから立て続けにヒアリングを受けました。前の老健からは紙一枚で父に対する注意点などは引き継がれているようでしたが、詳細はまた家族から聞き出す必要があるとのこと。

これまで老健に居た10年間ずっと、母は週に2、3度、私も仕事がありますから週1ペースで父の元へ通っていました。他のご家族は無論諸々の事情がおありでしょぅけれど、正直、施設の中では一番家族が寄り添っていた方だという自負があります。とは言うものの、ここ10年父と長い時間を過ごしていたのは老健の介護士さんだったわけで、なかなか我々だけでは状態が掴みきれない部分もありました。

そして話の最後にケアマネージャーから一枚の紙を渡されました。それは「状態が今よりも悪化した場合の対応について」という家族に対するアンケート。こういう状態になったらどうするか、というものが5項目くらいに分かれていましたが、つまりは「延命治療をするか、しないか」というものでした。

私は以前から延命治療には反対でした。母は「お父さんがどんな状態であっても生きていてくれるのが私の支え」と言っていましたが、私は父の気持ちを思うとなかなかそうは思えませんでした。

ずっと病院のベッドの上にいて、ただご飯を与えられ、ぼんやりとテレビを見続ける毎日。父は10年間ずっとそんな日々を過ごしてきました。私は自分がそうなったらと考えると正直ゾッとします。自分は何のために生きているのだろうと思わざるを得ないでしょう。

であれば正直ボケてしまった方がいっそのこと楽です。自分は何をやっているかわからない。家族も多少距離を置いて割切って接することができるかも知れない。

しかし幸か不幸か、父は頭はしっかりしていたのです。高次脳機能障害ですから単語が結び付かず、例えば私を含めた親族の名前を間違う(取り違う)ことが多々ありました。ただ記憶などはしっかりしていましたし、毎日新聞を読んで時事問題などには精通していたので、むしろ母よりも物忘れがありません。

ですから余計に辛かったと思うのです。実際父は「手術をしなければ良かった」と言っていました。

普通に生活していれば事故に遭ったり、突然発作に見舞われて命を落とすことがあるかも知れません。しかし身動きが取れずにベッドの上にいる生活は、嫌でも自殺することができない。毎日体調がきちんと管理され、病の兆候が出たらすぐに薬が処方される。

ゆっくりゆっくり身体の機能が低下し、死へのソフトランディングに向かうことを体感しながら生きていかないといけないのです。これはある種終身刑よりも辛い日々かも知れません。ご飯を食べて体操を兼ねたレクリエーションを受ける以外、何もすることがないのですから。

そんな父親のことを思うと「早く楽にしてやりたい」と思っていました。とは言っても、当然私が何か直接的に手を下すわけにはいきません。ですから私はせめて延命治療に関しては反対でした。単なる医療費の無駄遣いとも思いますし。

「このアンケートはあくまでアンケートですから、実際にそのような状態になった場合は改めてご家族のご意思を確認致します。もし何らかの事情でご家族と連絡がとれない場合のものです。ですから難しく考えないでください」ということだったので、母にも「アンケートだからとりあえず延命治療はしないということで」と言い聞かせて、延命治療はしない方に○を付けて提出しました。

 

特養はやはりと言いますか、老健よりもワンランク上の要介護者が多いものですから、こういう言い方はちょっと皮肉かも知れませんが、皆生気がありません。食堂に集められた人達を見ていると、大声で同じ事を何度も繰り返す人、無表情のまま口に次々と流動食を流し込まれる人、車いすに座ったまま苦しそうな顔で眠っている人ばかり。正直見ているこちらの気持ちも沈みます。

「お父さんは頭がしっかりされている分、こういった環境に自分が置かれてしまったことにショックを受けているのかも知れない」と母。そもそも10年変わらずに続いた環境から変化してしまったことも、年老いた身体には大きなショックだったでしょうけれど、こればかりはどうしようもありません。

前の老健施設では就寝までの日中の半分はベッドの上で休んでいる時間がありましたが、特養の方は施設の方針もあって、基本父はいつも食堂で車いすに座っていました。その分父は辛そうで、いつも不機嫌そうな顔をしていました。

確かに寝てばかりいると身体が弱くなりますから荒療治的な感じもありますが、恐らくは食堂に全員集めておいた方が管理しやすいという運営側の事情もあるのだと思いました。実際、食事の時間は各テーブルに6人ほどの入所者が集められ、一つのテーブルに介助者は一人。主に自分でスプーンを持つことのできない患者に付きっきりでしたから、職員にとって食堂は修羅場です。

元々加速度的に父が弱っていたせいもありますが、その疲れもあるのか、父の生気も周囲の人達同様に衰えていくのが感じられました。車いすを自力でこがせようとしても、わずか10数メートルの移動に10分近くかかります。リハビリの意味もあるわけなので、敢えて私と母は手を貸さないように見守っていましたが、力が入らないので車いすがゆりかごのように同じ場所を行ったり来たり。

問題の痰に関しては、自分で痰を切ることができない場合に吸引してもらうことができるようにはなりました。吸引は家族の同意書も必要な医療行為になります。ただその頻度も次第に増え、また実際に痰を吸引してもらうと掃除機を喉に突っ込んでいるようなものですから、端から見ると咳き込んで苦しそうな表情を浮かべていました。それを見ていると、気持ちが益々落ち込んできました。

 

ある日、初めて自分の携帯に特養施設から電話がかかってきました。前日に38.5度の高熱を出したので、病院に連れて行くからご家族の方も来てくれ、とのこと。いつもは母にまず連絡がいくのですが、たまたま母の携帯がつながらなかったということで、私の方にかけたのだそうです。私は急いで病院へと向かいました。

前の老健を含めて10年、施設から直接私に電話がかかってきたことなどなかったものですから、受けた瞬間かなり驚きましたが、とりあえず最悪な話ではありませんでした。ただ、その直後に私も母の携帯にかけてみると繋がらなかったので、母は母で何かあったのかと思うと心配になりました。

と言うのも、実はその二週間前にも私は同じ病院に来ていたのです。母が心臓が苦しくなったということで。それが連想されたので、そちらも気になったのですが、幸い何事もありませんでした。結局母はたまたま用事があって今回電話に出られなかっただけで、やがて留守電に気付いて病院にやってきました。

ちなみに先に母の付き添いで来た際の診察の待ち時間は計3時間半で、今回も5時間。40歳の私は脂の乗った一番働き盛りの世代に入りますが、それがこれだけの時間を無駄に費やさないといけないという生産性の低下、また医療費の増加がこの国の病巣でもあるように感じました。

それで肝心の父の様子ですが、病院で診察前に会った時には案外ケロッとしていました。高熱ということからかなりしんどい感じなのか・・・と思いましたが、特にこれまでと様子は変わらない印象。特に辛そうな感じはありません。一応現段階で熱は36.5℃にまで下がってきたとのこと。

それで診察を受けたのですが、結果は肺炎。どうも食事に関わる環境の変化に対応できず、誤嚥を起こしてしまったのが原因のようでした。そして遂には痰が絡んで食事も全く食べられなくなったのだとか。

周りの人は「その施設の対応が悪いのではないか」と言っていましたが、私や母は施設毎に介護士さんの余裕も変わってきますし、このような事態になってしまったのも仕方が無いと思っていました。本来は我々が介護すべきところでもありますから。

 

結局父はそのまま入院することになり、しばらく点滴で過ごすことになりました。肺炎が治ってご飯が喉を通るようになったら、少しずつ口から栄養を摂取していくように、と。病院のベッドに入って横になってから、逆に父の顔色が悪くなったようにも見えました。ただ医学的なことはよくわかりません。

それから数日が経過。入院前から全く食事をせず点滴だけで過ごす父は、骨と皮だけのようにやせ細っていきました。そして我々が行った時はほとんど目を瞑ってイビキをかいて寝ているだけのようになりました。

目はほとんど開くことがなく、時々目を細く開けるものの、寝ぼけているような、ちゃんと我々を認識しているかどうかわからない感じ。終始口を開きっ放しで、発声も「あー」としか言えない状態でした。ただ顔色は血色を帯びて赤みを増していき、肺炎も治った様子でした。

その病院は10年前に父が脳の手術をしていた大病院でしたが、その際父のリハビリを担当してくれた先生が今もおられました。その先生が病室の前を通る際、父の名前を見つけて声をかけてこられました。私は「よく10年前の患者のことを覚えているなぁ」と変なところに感心してしまいました。

そのリハビリの先生が、父の昼食の「リハビリ」を担当してくれるとのこと。昼食のリハビリとは、昼食が喉を通るようにするリハビリです。そんなものまであるのか、とまた妙なところに感心する私。

どうも今の状態だと、例えば普通に母や看護師の方が父の口に何かを入れても、父はむせてしまって食べられないのだとか。あまり無理をするとまた誤嚥を起こして肺炎になってしまいます。そのリハビリの先生が持つ「コツ」があれば、上手くむせないないよう喉に食事を通すことができるのだそうです。

昼食にそのリハビリ用のゼリーが毎回出ていました。グレープ味、ピーチ味、オレンジ味・・・と色々あるようですが、あくまで医療用の食品。そのリハビリの先生が昼に一時間くらいかけて父に食べさせようとするのですが、その先生の「コツ」をもってしてもあまり上手く喉を通らない様子。必要な量全てが通らずに、病院に来る度にゼリーの在庫(使われなかった分)が、父のテーブルの上に増えていました。

 

父の部屋は4人部屋でしたが、周りの患者は痴呆があり、一人は手にミトンのようなものをはめて固定されているような状態でした。看護師さんが痰の吸引やおむつ交換をしようとして近づくと、大声で「人殺し!」「誰か助けてくれ」を繰り返すような状態。

慣れているとは思いますが、気の滅入るような仕事をされる看護師さんに、頭の下がる思いでした。私なんてこの人達に何らか因縁(?)をつけられないかと思うと、なかなか父のところに長居できないと思う程。

一方、やがて父の意識も少しハッキリしてきたように、明確にこちらの動きを目で追うようにはなりました。

私はいつも父のところに来る度に「やぁ」と少しふざけた感じで手を挙げて挨拶をしていました。すると父も同じように返す、というのがパターン化していました。一応、多少手を挙げる運動になっているかなと思ってやっていたのですが、そのいつものやりとりも、ようやく弱々しく右手を少し挙げるだけになりました。

まあ認識をしているところまでは確認できてホッとしましたが、ただここから一体どれだけ回復できるのか。私は父の命の炎がここ数ヶ月で急速に消えつつあるように感じていました。いよいよ覚悟しなければならないのか、そう考えるようになってきました。

 

入院してから一週間後、病院から電話がかかってきました。電話がかかってくる度ドキッとしましたが、看護師さんからで「担当の先生がご家族の方と話がしたい」とのこと。母と私と嫁は指定された時間に病院に行き、カウンセリングルームで父の今の容態と状況の説明を改めて受けました。

肺炎は治ったものの、全然ご飯を口から食べることができるようにならず、リハビリの先生でも難しい状態であるとのこと。リハビリの先生ですら難しいなら、もう自分はもとより、誰か介護する人に食べさせてもらうのも無理だろう、とのことでした。

「今回お呼び立てしたのは、今後についてどうするかをご家族で決めて欲しい」ということでした。選択肢としては2つ。首から管を通して高カロリーの栄養を注入するような「PTEG」と言われる処置をするか、もしくは胃に穴を開け、そこから食べ物や水分などを直接入れて必要な栄養分を摂取させる「胃ろう」という処置のどちらかを選択して欲しいという相談でした。

私は「一時的にPTEGにして、また口から食べられるようになったら取り外して以前のように戻れますか?」と尋ねましたが、「まあ可能性としては0ではないけれど、現実的には難しい」との回答でした。「胃ろう」の方にすると、もう今後口から食事を採ることはないだろう、とのこと。

そして「そもそも動物は自分から食事が取れなくなったら終わりだ。後は衰弱していくだけだ」と淡々と言わました。私も確かにその通りだと思ったので、その吐き捨てたような言い方にも特段腹も立たなかったし「やはりそうか」と思っただけでした。母はある種の死亡宣告を受けたような感じで、隣で固まっていました。

私は単なる延命措置には反対でしたが、実際父はまだ我々に対して反応を見せる。昏睡状態や意識が無くなった場合にはやはり反対しなければならないだろうけれど・・・その線引きが実際は難しいんだな、とそのような状況になって初めて理解できました。

「これは延命治療になるのでしょうか?」・・・とは医者には聞きませんでした。ある種、このような思考が「言い訳」になっているのでしょう。本質的には延命治療なのだけれども、延命治療とは考えたくない、と。そもそも実際に昏睡状態になった場合、果たして自分は父の命を奪う決断ができるのか?その自信すら無くしてしまいました。

まして母は少しでも延命して欲しいと考えているじゃないか。そして私は最後に「先生はこの二つの選択肢が現状でベターな選択肢と考えておられるのですね?」と問いかけ「そうです」と回答を得ました。結局コレを免罪符にしたような形で、私は「ではPTEGでお願いします。PTEGならまだ口から食べれるようになるかも知れないんですよね?」と都合良く決断の責任を周囲に分散させました。

 

9ヶ月前に歩けなくなって以降、急速に父は衰えてきました。そして結局昨年車いすの父を乗せて五箇山に行ったのが、最後の家族旅行となりました。

まだ今年の寒い時期に、父に何か楽しみを持たせようと母が「今度どこに行きたい?」と聞くと父は「五箇山」と。「え、去年行ったばかりなのに?」と聞き返すと「うん」と。ただ理由に関しては聞き返しても、残念ながら発音がハッキリしないのでよくわかりませんでした。

私は「北陸新幹線は乗りたくない?」と聞きましたが、「別に乗りたくない」という返答。電車好きの父だったのに意外な回答でした。何か遠慮していたのかも知れません。父と数年前に北陸新幹線が出来る前、加賀温泉に旅行に行ったのが最後の電車旅行。その時に車いすで移動したのが大変だったと感じたのでしょうか。

「PTEG」の処置をして首に管を通してしまうと、もう外出はできません。こうなるならば、春にもう一度五箇山に行っておけば良かった。結局父は肺炎こそ治ったものの、もう食事をとることはできず、車いすに移乗することも無くなり、遂に完全な寝たきり状態になってしまいました。一時少し回復を見せて「これなら多少は良くなって、少しは食べられるようになるかも」と思った淡い期待は瞬間的に打ち砕かれました。

そうして「PTEG」の処置がなされました。処置自体は1時間もかからないそうで、万一のことがあった時のための同意書はいつもながら書かされましたが、そんなに難しいものではないとのこと。なので術中の家族の立ち会いすら不要でした。

それから数日して、父の容態は相変わらずでしたが、顔色は少しずつ良くなってきていました。やはり今までの点滴での栄養摂取よりは、効率的にカロリーを採ることができるようです。

ある時私が見舞いに行くと、父は目を開けており、相変わらず「あー」としか聞こえない返事しかできませんが、比較的調子が良さそうでした。

恐らく「母ちゃんは?」と私に尋ねているのだろうと思いました。と言うのも、前の施設にいた頃、私と母のどちらかだけが顔を出すと、必ず第一声は「もう一人は?」と聞いていたので。

私は「母ちゃん午前中に見舞いに来たやろ?」と聞くと「おー」と返事をしました。「父ちゃんベッドの上ですることなくて暇け?」と尋ねると「おー」とまた返事をしました。その日、私は地元にやってきたプロ野球の試合を観に行く予定だったので「じゃ、また来るわ」と言って病室を跡にしました。結局、私が父とコミュニケーションを取れたのは、これが最後でした。

 

「PTEG」の処置をしてしまうと、医療機関に入院する他なく、もう前の特養施設に戻ることはできないとのこと。結局父は転院から1ヶ月足らずで退所することとなり、次は老人病院に転院することになりました。

母と二人で次の転院先へ申し込みに行ったところ「今はいっぱいですが、恐らくもう一週間くらいしたら空きが出ると思いますから、その際改めてご連絡します」との回答。「もう一週間くらいしたら空く」ということは、誰かがもう一週間くらいで亡くなるという意味なんだろうなと思いましたが、実際に間もなく連絡が来て転院が決まりました。

実はこの老人病院は元々隣のお爺さんが最後に入っていたところ。まさか父も厄介になるとは。そしてここが父の終の住処となるんだろうと思うと、何とも奇妙な縁を感じました。

転院は介護タクシーでベッドに横たわったまま移送となりました。専門の男性が二人やってきて、手際良く可動式ベッドに父を移し替えると、そのまま玄関前に停めてあったタクシーに移乗。そこから10分くらいの距離にある老人病院に到着すると、また病院のベッドに移し替え。家族は一切手を出す必要がありませんでした。料金は7000円程。

老人病院ではまず最初に改めて診察を受けることになりました。寝たままレントゲンを撮ったり、血液検査をしたり。先の病院からのカルテと状態や症状を照らし合わせるのでしょう。

検査結果が出た後、母と私が診察室に呼ばれ、面談となりました。年配の女医さんでしたが表情を曇らせ「私が思っていた以上に状態が悪い。正直見通しは暗い」ということでした。先の病院からの引き継ぎ以上に症状は悪く、やがて酸素吸入も必要になってくるだろう、と。

実際、その後病室に行ってみると、ここに入院している誰よりもうちの父の状態の方が悪く感じました。他の人達は患者らしくベッドに横たわってはいますが、半身を起こしてテレビを見たりはできる状態。

対して父は自分で身体を起こすことはおろか、半分目が開いているものの、常にいびきのような呼吸音、起きているのか寝ているのかはっきりわからない状態がずっと続いています。医者が言うには舌が筋力の衰えからか、もう喉の方に落ち込んでしまい、呼吸をする度にいびきのような音になってしまうのだとか。実際、身体を横にするといびきは止まります。転院前から段々とこの状態が酷くなっていました。

転院にあたりタオルや衣類、テレビを持ち込みましたが、看護師さんは気の毒そうに「恐らくそれを着ることはできません」「テレビも見られないでしょう」と次々と否定しました。母は少しでも健康体に近づけたような状態にすることで安心感を得たかったようですが、私の目から見ても恐らくそれは無理だと思いました。

私も正直年内いっぱいだろうと覚悟はしていたものの、やはり現実を突きつけられると気落ちしました。特に母の落ち込みは大きく、その後家に帰ってからはため息ばかりついていました。(つづく)

 

 

父との別れ その2

 

 

 

お問い合せ radi.res@gmail.com  北陸財務局長(金商)第23号 Copyright (C) radish-research. All Rights Reserved.