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父との別れ その3

 

 

父との別れその2

 

それから親戚に連絡したり、病院から葬儀屋に電話をしてもらったり、色々と実務的にバタバタした流れが続きました。よく葬式まで忙しすぎて「悲しんでいる暇は無い」と言われますが、その忙しさの幕開けでもありました。

まず病院の方が父の鼻に綿を詰め、顔に白い布をかけ、遺体処置をしてくれました。死亡診断書など必要な書類も受け取ります。

やがて葬儀屋さんがやってきて、簡単に色々打ち合わせした後、自宅に遺体を運ぶ流れに。用意してもらったワゴン車まで、手際良く遺体を運び出します。

こういう場合病院の裏口から出て行くのかと思いましたが、案外表玄関から堂々と出て行きました。職員ができる限り玄関に並んで、父が病院を離れるまで見送っていただきました。

私は自分の車でワゴン車の後ろを追いかけながら「父ちゃんやっと家に帰れるな」と思いました。あれだけ「家に帰りたい」と口にしていたのが、遂に身体が思うように戻らないと悟った頃から諦めたように「もういい。施設が良い」と言い出した父。家族に迷惑をかけたくないという気持ちが伝わってきて、何ともやるせない気持ちになりました。

家に到着すると、近所の方もそれぞれ玄関から顔を出し、様子を伺ってくれていました。この辺りは田舎ならではの近所付き合い、町内の結びつきが残っているので、それぞれ「久しぶりやねぇ」「大変やったねぇ」と父に声をかけていました。

遺体が玄関から運び込まれると同時に、葬儀屋さんが手際良く玄関に黒幕や忌中の文字を備え付けます。仏間の前に布団が引かれ、父の遺体を横たわらせると共に、ドライアイスなどを布団の中に入れます。祭壇もあっという間に出来上がり、線香やロウソクに火が付きます。

こうして父は何年かぶりに実家に戻ってきたのでした。

 

それからは葬儀屋さんと打ち合わせ。葬儀の日取り、規模などは元より、引き出物の種類、町内から出る送迎バスの発車時刻などなど、細かいところまで1時間以上話合いが続きました。ある程度固まると、また最終打ち合わせを昼以降にするという段取りになります。役所への死亡届は葬儀屋さんが提出してくれるとのことで、基本は全てお任せです。

翌日が友引になるので葬式は明後日ということになり、二晩我が家で父の遺体を安置するということになりました。その分色々な準備をする余裕があるという反面、何かと忙しさも付いてきます。話を聞きつけた親戚や父の友人・知人などが次々やってきて、その都度これまでの経緯や状況を説明します。

また、都会の人に言うとビックリされるのですが、こちらは田舎なので新聞やケーブルテレビなどの「お悔やみ欄」に亡くなった方の名前が掲載されます(昔は公立高校の合格発表も氏名がテレビや新聞に掲載されました)。実際、取引先や知人関係の情報を得るため、それ目的で新聞をとっている人も多く、母も「ニュースは見ないけど毎日お悔やみ欄は見ている」と言います。

それは死亡届が役所に提出されると、新聞社などに情報が伝わるようになっています。それでも最近は個人情報がさすがにうるさいので、新聞社から事前に掲載の有無を確認されます。一般的には葬儀の案内の意味もあって掲載する人がほとんどですが、近年多少減っているのかも知れません。それで4社から立て続けに電話がかかってきて、喪主である私が受け答えします。

その他お坊さんの手配をして、寺に無成仏を受け取りに行ったり、それからお坊さんが我が家に来て枕元でお経を詠んだり。なんだかんだでバタバタと時間が過ぎていきました。

夕方頃になり、姪(父にとっては孫)は仕事を終え、ようやく駆けつけました。父は3人いる孫の中で真ん中のその姪が一番お気に入りなのか、施設に見舞いに来た時に機嫌が良かったり、写真でも姪と一緒の時が一番良い笑顔を見せていました(ちなみにそれが遺影になりました)。

その姪がなかなか家の中に入ってこないと思ったら、玄関先で号泣しています。玄関に備え付けられた黒幕や忌中の文字を見て、じいちゃんの死をようやく実感した様子。

やがてようやく仏間に入ってくると、ずっと泣いて声になりません。その姿を見て、私も姉も、初めて涙が出て止まらなくなりました。

 

その日の夜。いわゆる「寝ずの番」で母や姉などと交代でロウソクの火を守っていました。丁度リオオリンピックの時期だったので、深夜でも中継があり、興味の無い種目でもボーッと眺めていました。ただ、最近のロウソクはハイテク(?)なので、24時間消えないんですね。なのでその意味では寝ずに起きている必要が無いのかも知れません。

前日も未明に起こされ、二日間続けて寝ずの番は体力的にきついので、喪主である私の権限で二日目以降は普通に寝ることに。私は父の隣に布団を引いて寝ました。やはり身内の遺体であれば、特に気にはならないと言いますか。

そしてお通夜当日。朝にはお通夜で受け付けを手伝ってもらう町内の方へ挨拶回りを行い、喪服を用意をして準備を整えました。

朝にはいわゆる「おくりびと」がやってきました。40代くらいの女性の方と、20代くらいの男性の二人組。厳かに挨拶を終えると、仏間に衝立をしてしばらく身内からの視線を遮り、支度を整えます。大きな簡易ユニットバスのようなものが運ばれ、外の給水車からお湯を注ぎ込みます。一通り準備が済むと「宜しければお見届けください」と呼ばれ、一人衝立の中に入りました。

中に入るとその簡易ユニットバスの上に父の遺体が横たえられていました。「おくりびと」達は父の肌などは死装束で隠すようにして、中に手を入れながら手際良く丁寧に洗っていきます。私は改めて大変な仕事だなと感心しながら眺めていました。

やがて一通り洗い終わると「喪主様もお体を拭いてさしあげてください」と言われ、部分的にほとんど形だけですが、タオルで父の身体を拭きました。それが終わると髭などを剃り、死に化粧を施す段になると「また外でしばらくお待ちください」と言われ、外に出ました。

一通り終わり、衝立が外されると、再度キレイな布団に寝かされ、旅立ちの準備が整った父が姿を見せました。

それから夕方となり、通夜の時間が近づいてきて、また葬儀屋さんがやってきて、今度は父は棺に納められます。喪主は手を出さないということで、親族の男性数人が加わって遺体を棺に納めると、それから葬儀屋さんが用意したワゴン車に父の棺を乗せました。そしてワゴン車の助手席に座ると、葬儀場までの道中、葬儀屋さんから通夜に関する様々なレクチャーを受けました。

それから、通夜、翌日の葬式、火葬、初七日まで一通り終えましたが、しばらく父が居なくなった実感はありませんでした。元々父は家に居ませんでしたから、そういう違和感は感じなかったのだと思います。父が施設に入って、私が富山に戻ってからの8年間、毎週土曜に父の施設に行くのが日課でしたが、土曜を通過する度に段々と実感も沸いてきました。そして現在に至ります。


−−最初に父が危篤と伝えられ、以降父の意識が無くなった8月5日。父の耳元で「やっと孫が出来たよ」と報告した時、わずかに父の目が動いたような気がしました。それから2週間生き長らえたのも、喜びや希望を感じ取ってくれたからではなかったか。ですから、私は父にはちゃんと初内孫懐妊の報は届いたと思っています。(完)

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