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    山田耕筰 自伝/若き日の狂詩曲



                                         加 藤 良 一   
2014年2月16日





 山田耕筰は1886年(明治19)、東京本郷で父・山田謙造(医師、キリスト教伝道者)と母・ひさの二男として生まれた。

彼の自伝は、1951年(昭和262月、講談社から『若き日の狂詩曲』と題して出版された。その後、1962年(昭和37)、全26巻の〔世界の人間像〕という角川書店全集の第9巻に、バッハ、ベートーヴェン、シューベルトと並び『自伝若き日の狂詩曲』として収載され、さらに1985年(昭和60)には、かのう書房の〔私の世界シリーズ-1〕として出版されているが、このときのタイトルは『はるかなり青春のしらべ』と改題され、副題が「自伝/若き日の狂詩曲」となっている。
 山田耕筰は自伝を書くにあたり、「全生活」を叙述しようと試みたものの、余りの分量の多さのため前後二篇とすることにした。従って『若き日の狂詩曲』はその前篇にあたる。しかし、1948年(昭和23)、脳溢血により左半身付随となったことの影響が長く残り、後篇を書くことを断念せざるを得ず願いは成就されなかった。従って、ドイツ留学から帰国し、作曲家の入口に立つまでの生涯の前半だけが書き残される結果となった。帰国後の旺盛な音楽、作曲活動の重要な部分が記録されなかったのは何とも残念なことである。
 この自伝は、父の遺志による10歳から15歳までの労働に明けくれる日々、19歳までの中学生時代、母の遺言で許された音楽の道へ歩むようになった上野の杜の時代、さらにドイツへの留学、そして奔放な青年期がみごとな筆致で書かれている。山田耕筰の文章の素晴らしさには定評があったようだ。


 耕筰は、2歳のときに横須賀に移り住んでいる。その頃の家庭は音楽に溢れた環境だった。「私の姉たちはスクで学んでいた。兄も熱心な日曜学校の教師で、禁酒会の会員でもあった。家にはイオリもあり、もあった。家庭で唄われる歌は、主として讃美歌であった。それも、ありふれた讃美歌ではなかった。多くは、やや高尚な英語の讃美歌であった。」
 話しが逸れるが、山田耕筰が外国語をカタカナ書きするときの表記はとても凝っている。これについては、「外国語を現わすに場合の表記法は、より原語の発音に忠実ならんために敢えて私の試みに拠りました。」というように、自分なりの工夫をしている。たとえば、ルン、ドイユツルフ、ベ、ヨハン・シトウス、ヴアグ、ヘツプなどと彼なりの工夫が見られる。因みに、ルンケルンKölnのことに違いない。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ云い」と同じ“O”ウムラウトを日本語風にしたものだ。そういえば、先年亡くなられた音楽評論家の吉田秀和さんも、たとえば一般にドボルザークというところをドヴォルジャークと書いたり読んだりしていた。このあたりが、言葉=音として揺るがせにできないということだろうか。


 耕筰は、横須賀海軍の軍楽隊の演奏する音楽に魅了され、行進のあとをどこまでも追いつづけて迷子になることもしばしばあった。幼少の頃から音楽に対して目覚め始めていたのだ。
 父の没後、巣鴨の自営館という活版工場に入れられた。10歳であった。そこは夜学校のある勤労学校で、近所では耶蘇学校と呼ばれていた。自営館の食事は実に粗末なもので、「一週間に一度、塩鮭の薄い一片か、わずか二尾ばかりの目刺し─それを塾生はお頭付きと呼んでいた─が与えられるだけ、あとは鹿尾菜(ひじき)などを食っていたので、誰も彼もが腹を減らしていた。『からたちの花』で後年名を成そうとは夢にも思わなかったが、その枳殻(からたち)の実をすら取って食ったほどである。」というほどだった。
 塾の中では最年少だったためか、「刷り」を除くほとんどの仕事をやらされた。小さくてすばしっこかったので重宝がられ、朝の7時から夜中の12時近くまで仕事に追い回されていた。今でいうところのコンビニ、セブンイレブン以上であった。他の塾生が学校へ行くのに、どうして自分だけが普通の職工のように一日中働かねばならないのかと訝ることもあったが、「家を出る時、母から、病気以外は絶対に家へ帰ってはならぬ、と優しく、しかし、厳かに諭されていたので一切は我慢することとした。」
 世の中は日清戦争が終わって不景気の絶頂にあった。節約の二文字が当たり前だったから、広い活版所は夜になると灯りが消され、真冬の凍てつく深夜にランプを抱えて活字を拾うのは辛かった。左手に持ったランプの灯が油を吸い上げる不気味な音が大きな工場の中で聞こえてくるのに気が付くと、急に母の家が恋しくなって、そのまま逃げ帰ろうと思ったことは一度や二度ではなかったという。そんなときに慰めてくれたのは、やはり歌だった。母に心配かけたくないいっぽうで、たまらなく寂しくてやる瀬なかった。こぼれ落ちる涙を拭こうともせず、嗚咽しながら低く唄ったという。

 だが、ささやかではあるが喜びもあった。早稲田の政治科に通う先輩や、中学部に通っていた塾生たちの話を聞くことが無上の楽しみであった。現代とちがってこれといった娯楽のなかった時代ではあるが、それにもまして胸に大志を抱いていた者たちにとって、大きな夢を語ることは無上の楽しみであったにちがいない。相対性原理の石原純博士やのちに神戸新聞社の社長になった進藤信義氏などがその頃の自営館に在籍していたのである。

 工場では先輩職工たちが気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るった。活版の職工はほとんど両手が塞がっているので、手で殴るよりは足蹴にするほうが早かった。些細なことでよく蹴られた。痛さに耐えかね庭に飛び出し枳殻の垣根の傍で人知れず涙を拭った。


 山田耕筰は「枳殻の、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活において私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ。」と述懐している。



「からたちの花」 記念碑  関根盛純氏(男声合唱プロジェクトYARO会)撮影

   この記念碑は東京の巣鴨教会に設置されています。この教会は、山田耕作が10歳から15歳まで働いていた自営館という施設が経営難から1919年に廃止され、その跡地に建てられたものです。



 1904年(明治371月に母ひさが亡くなった。耕筰は関西学院本科を経て同年9月に東京音楽学校予科へ入学した。東京音楽学校へ至るまでには相当の苦労が付きまとったが、持ち前の負けん気で猛勉強に明けくれる毎日を過ごした。とにかく何から手を付けてよいものやら皆目見当も付かないなか、ただ一人教師と仰ぐ従兄の大塚からも「駄目だよ、そんなことでは。入学どころか、音楽者になんか──なれるものか」と見放される始末だった。
「今にみろ!」
 途方に暮れ考えた末に見出した道は、「そうだ。私は音階が歌えるのだ。ド・ミ・ソ・ドだって歌える。自分の音階の物尺で、音程を計れないはずはない。試験までには間に合わなくとも、耳を鍛え上げてやろう。──そう決心がついた」

 受験当日の控室では、どこかの私立音楽学校を出てきたような生徒たちが
ア・ユブンゲンをいとも容易く歌うのを恐れおののきながら聴かねばならなかった。それらの生徒には学科試験もなく音楽の試験だけで済むのだった。というのは、耕筰の通っていた関西学院は当時まだ認可されていない学校だったため、すべての学科試験を課されるというハンデを背負っていたからだ。耕筰が音楽勉強のためにやったことといえば、耳を徹底的に鍛え上げたことだったが、唯一のこの武器で試験に臨み、学科もパスしてみごと入学を許されたのである。男女合わせて30人が合格したが、その後規定年限で卒業したのは耕筰ともう一人だけだった。

 受験勉強の合間の楽しみは、白金の瑞祥寺の唐豆腐屋のお琴さんという女性に会いに行くことだった。「私はお琴さんを恋していたとは思わない」ながら、会いに行くのが心和むささやかな楽しみだった。
 当時、従兄大塚の叔父の家に身を寄せていた。そこは現在でいえば東京都目黒区下目黒四~六丁目あたりらしいが、私の子どもの頃は目黒競馬場があった場所と聞かされていた。耕筰が住んでいた頃はまだその競馬場すらない、東京府荏原郡目黒村といわれていた時代のことである。現在も「元競馬場前」としてバス停に名残がある。私が子どもの頃住んでいたのは下目黒二丁目であった。目と鼻の先である。
 耕筰はそこから白金まで歩いて通った。「淋しい目黒の畑道を通り抜け、大鳥神社の傍を過ぎ、そのころには胸を突くようだった権之助坂─今の雅叙園のあたり─を上り、目黒駅前を通って、白金は瑞祥寺の唐豆腐屋を訪れる。それが唯一の楽しみだった。」

 私が通った下目黒小学校は、権之助(ごんのすけ)坂を下った大鳥神社との間にあったから、元競馬場前から白金まで歩いたと聞くと、さして遠い距離ではないけれど目黒村と呼ばれていた明治時代はそんなものであったかと思わざるを得ない。「目黒のさんま」に出てくるお殿様が狩猟を楽しんでいた時代とさして隔たりがなかった時代ではないだろうか。余計なことではあるが、雅叙園の近くというならば権之助坂ではなく南側のもっと急な行人(ぎょうにん)坂のほうが近いのではあるが…。


 ドイツ留学中に耕筰は、シトルム社と呼ばれた新芸術活動の同人とも交わった。カンデ、マルク、マリ・ロランサン、アキペンコ等々名立たる芸術家が居並んでいた。ここでも大きな影響を受けたようだ。マリ・ロランサンの版画はその後書斎の壁に飾っていたという。またこんなエピソードもあった。ドイツで“Zehn Japanische Lieder”(日本歌曲十曲集)を出版するにあたり、名前の綴りをどうするかで問題が起きた。ツプン式ではKOUSAKUとなるが、これをそのままドイツ流に読むとザクとなってしまう。は牝牛の意味もあって面白くない。語学の専門家に相談したところ、日本語のSは単なるSではない、フランス語の
Çの音とSの結合したもの、それに発音しないUを入れるからとなる。もしUを残したらフランス人はコサキユウと発音してしまう。そこで、最終的にKÔSÇAK  YAMADAと決め、以後世界中どこでもそれで通した。
 筆者も自分の名前をRyoichiと書いて、欧米人がリョウイチと読んでくれなかったという経験がある。それもその通りでリョウイチの“R”は欧米人は舌が浮いた状態で発音するので英語の“R”ではだめなのだ。そこで一計を案じ、やむなくLio-ichiと書くことにしたが、まだ国内では認知して貰えない感じがあるのでパスポートやクレジットカードなどで使うには至っていない。



 角川書店の『自伝若き日の狂詩曲』の解説で遠山一行氏は、この自伝を読む前は余り多くの期待をもたなかったと書いている。それは、何よりも「楽壇の大先輩」であり「日本音楽界建設の大功労者」であってそれ以外のものではなかったからである。そういう人物であれば、楽壇建設事業の実際を知ることのほうが青年期の自伝より意味があると思ったのである。
 遠山氏は、実際に読んでみて、「私の予想は美事にはずれたわけだが、最初の数ページで、著作者としての山田氏の豊かな才能におどろいた。簡潔で明快なイメージにあふれた文章が私をひきつけた。山田氏が、音楽ばかりではなく、どのような道に進んでも、第一流の人物になり得る素質をもった人だということを、今までしばしばきかされていたが、それを私は、この書物にかかれた内容よりも、むしろその文章によってはっきりと理解したと思った。」と述べるほど、山田耕筰は人を惹きつける文書を書く人でもある。

 


関連情報
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