K-28
私が Lio-ichi と書くわけ
加 藤 良 一 2011年7月16日
「ルゥーウォ…?!イッチ」
「ノー、リョーイチ」
「ゥル-リー! … アハァ…!」
しまいには、もういいや、“Kato“だけわかればOK、ニコニコして終わり。私はそもそもイングリッシュが苦手なのに、その上書いたものまでまともに読んでもらえないとは…すっかり自信喪失。日本人にとっての英語以上にアメリカ人にとって英語で書いた日本語はそんなにむずしいのかと、あらためて感じたものだった。
その後、その会社の女性マネージャから届いた手紙には“Mr.Keito”と書いてあった。たぶん“Kato“を「ケィトー」と覚えてしまい、名刺を確認することなく、記憶だけで書いたためにまちがったものではないか。いや、そうではなく、名刺を見て「ケィトー」と読んだ結果、書くときに“Keito”となったものかもしれない。いずれにしても“a”は「エィ」だから、“Kato“は「ケィトー」、“Aoki“は「エィオキ」になってしまう。その伝でゆくと、「ケィトー」がなぜ“Keito”となってしまうのか、このあたり、米国人なりに迷いがあったのだろうか。
ゴルファーの石川遼くん“Ryo
Ishikawa“も、アメリカでは「リョー」と呼んでもらえないんですと何かのインタビューで苦笑しながら答えているのを見て、「やっぱり、そうなんだよね」と同情したことがあった。
因みに重さ6kgもあるヘビー級英英辞書《Webster’s Third New International Dictionary》でさえも、“ry”で始まることばは20個くらいしか収載されていない。しかもそれらはふだん使われないような単語ばかりである。研究社の新英和中辞典に至っては、“rye”(ライ麦)の1語しかない。中辞典といえども見出し語が約56,000あるにもかかわらずである。つまり、英語の世界では“ry”で始まることばはほとんどないに等しいのである(と、言い切ってよいかどうかは責任がもてないが)。
余談だが、この《Webster》は、英語の専門家で「あった」魚水憲さんから譲り受けたものである。「あった」と過去形で書いたのは、魚水憲さんは2006年に脳内出血で倒れ、一命は取り留めたものの後遺症として右片麻痺と失語症の重い障害が残ってしまい、それまでの英語の仕事ができなくなったことから私が引き取らせていただいたものだからである。
振り返ってみれば、高校生のときに“Lyoichi Kato”と半分ふざけて書いたが、あれはあながちまちがっていたわけでもなさそうだ。ふつうの日本人にとって永遠の課題である“R”と“L”のちがいに関するもうひとつの側面といえるかもしれない。
“R”を発音するには、キスをするように唇をまるめながら「ウ」と発音するそうだ。そうすると舌がどこにもつかない状態で上にそっていることがわかる(たしかに舌が自由でないとキスはしにくかろうと推察する)。さらに、そのままでは音にならないから、お腹に力を入れて発声する。“R”は共鳴音なので、上に立てた舌の周りで響かせる。片や“L”は、上の歯の歯茎のあたりに舌をつけて「ウ」という音を口と鼻から出せという。“L”の方が日本語の「ラリルレロ」に近いらしい。
ということで、「ラリルレロ」には“L”が最適ということになる。英語人は“R”に対しては最初から舌の位置が浮いているのだから、そのままでは“L”すなわち「ラリルレロ」は出ようがないのである。答えはここにあった。この原理に気づいてからのち、名前の表記を変えることにした。しかし、“Lyoichi”では母音が続いているので戸惑うだろうし、様々な読み方をされるに決まっている。試行錯誤を重ねるうちに、英語の単語の中から近しいものを使ったらどうかとか、「リョウ」は「リオ」でもいいのではないかなどと頭をひねってみた。
“Lioitch“はどうか。これは“R”がないだけよいが、母音の連続をどう処理されるか危惧される。ブラジルのRio de Janeiroの“Rio”はどうか。英語としては馴染みがあってよいだろうが、しょせん“R”の問題が消えない。そこで、“Lioitch“に少しストレスを与えて“Lio-itch“と分割してみた。これならば連続する母音が離されるので「リオ・イッチ」と分けて読んでくれるのではないか。ただ“itch“では「イッチ」と跳ね過ぎて、なんだか東欧系の名前のようになる心配がある。もうちょっと平坦に読ませるには“ichi“のほうがよかろう。ということで「リオイチ」に落ち着き、“Lio-ichi Kato”の完成となった。ただし、残念なことに日本国内ではヘボン式が主流かつ正式なようなので、ローマ字併記のときは“Ryoichi”を使っている。そうしないと私が日本人だとは思って貰えないだろうし、読んで貰えないと心配している。
さて、外国人に日本語を読ませる場合の例として、音楽とくに合唱曲の「日本語の読み方」について調べてみた。最近は、海外でも邦人作品がよく歌われるようになってきたのに応じて、アルファベットのフリガナを付ける楽譜が増えてきたのである。
たとえば、木下牧子の7曲からなる無伴奏男声合唱『いつからか野に立って』(2003)からいくつか引用してみる。
ぎらぎらひかる gi-la-gi-la hi-ka-lu
夏の光 na-tsu no hi-ka-li
虹になる ni-ji ni na-lu
天を飾るのだ ten wo ka-za-lu-no-da
心のなかで ko-ko-lo no na-ka de
彼は年柄年中 ka-le wa ne-n-ga-la-nen-ju
苦しんでゐるから ku-lu-shin-de i-lu-ka-la
葡萄に種子があるように bu-do ni ta-ne ga a-lu-yo-ni
ぎらつかせる gi-la-tsu-ka-se-lu
喜んだらう yo-lo-ko-n-da-lo
終始「ラ行」には“L”が使われていて“R“は一切出てこない。木下さんは、私と同じように日本語の「ラ行」を読ませるには“L”でないとダメだと感じておられるにちがいない。ヘボン式に真っ向から勝負である。
ところが、最近人気の作曲家・信長貴富の男声合唱とピアノのための『くちびるに歌を』(2007)という曲集では、ヘボン式にならって「ラ行」すべてに“R“が使用されている。木下さんとは正反対である。
青空を a-o-zo-ra wo
身振りで落ちる mi-bu-ri de o-chi-ru
流れの岸の na-ga-re no ki-shi no
白い雲は shi-ro-i ku-mo wa
メロディのように me-ro-di no yo-o-ni
外国人が読むとき、果たしてどちらがより日本語らしく発音してくれるだろうか。また、この曲では歌詞の中にドイツ語も含まれていて、たとえば“Melodien“ということばが出てくるが、当然ここにアルファベットのフリガナはない。付けるとしたらどうなるか…。
“R“と“L“をどのように日本語に当てはめるか、木下流がよいかそれとも信長流がよいか、どちらに軍配を上げるかは読まれた方におまかせしたい。