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多 田 武 彦



 出会いは銀行の仕事から

 1951年(昭和26年)、私は京都大学男声合唱団で組曲 月光とピエロ を指揮したのを契機に、清水脩先生(故人)より薫陶を受けるようになった。しばらくして清水先生から 「日本の詩歌に曲を付けるに当っては、山田耕筰先生(故人)の日本歌曲を徹底分析せよ」 と命ぜられた。
 卒業後、銀行に就職したが、1957年(昭和32年)最初の転勤で上京、某支店で融資業務に従事していた或る日、支店長に呼ばれ 「取引先の山田耕筰先生から業務上のことでお叱りを頂いている。聞くところによると君は趣味で作曲をしているとのことだが、今日から君を山田先生の担当にしたので、お詫び言上(ごんじょう)かたがた、問題解決に当ってくれ」 との命令が下った。

 山田先生の寛容なお人柄に助けられ、誠意を込めて対応したことで問題は解決、退出しようとしたところ、先生から 「君の趣味は と尋ねられたので、祖父から命じられた動態芸術の見聞を拡げること、将来ミュージカル映画の監督になるために始めた和声学と楽式論の独学、関西学院グリークラブの名演奏に感動してから志向した男声合唱、清水先生から受けた薫陶などをお話し、すでに男声合唱組曲3篇を作曲したことを伝えた。すると、先生は支店長に電話をし 「例の問題点は氷解した。ところで経済問題について尋ねたいことがあるので、この行員に夕方まで居てもらってもいいか?」 と了解を取られた。問題が片付いたので支店長は了承。しかし、先生の意向は経済問題ではなく 「今日の出会いは茶道にいう一期一会だし、自分も老い先の短い年齢だから、若い篤学の君に西洋音楽の事など教えよう」 と仰って次のような話を始められた。



 「からたちの花」は養護施設の辛かった経験から生まれた

 山田先生の自伝 『若き日の狂詩曲』 にも書かれているが、10歳の時、父と死別。姉の夫の紹介で、東京巣鴨の 「自営館」 という施設に13歳までお世話になった。「自営館」 は、親と死別した不幸な子どもたちを養育するだけでなく、将来自立するための強い精神と職業技術を習得させるための施設だった。しかし、過酷な労働に耐えられず、中庭の枸橘(からたち)の花の傍で号泣した。そんな時に何時も慰めてくれたのが、賄いの優しいおばさんだった。
 後年、その折の心境を北原白秋先生にさり気なく話したところ、あの 『からたちの花』 の26節の詩を贈られ、いつの日か作曲してみてはと勧められた。



 「からたちの花」に込めた作曲技法

 クラシックの歌曲、長歌・清元・常盤津などの邦楽、演歌・浪曲・校歌・軍歌・民謡などに用いられている日本語の詩には、「春夏秋冬・花鳥風月・喜怒哀楽・起承転結」 が巧みに組み込まれているものが多く、さらに名曲の中には異文化の歌曲に実にしっくりと馴染むものが少なくない。

 『からたちの花』 を例に、歌曲の作曲や指揮に際しての要点を教えるから、心して聴きなさい。

 

      からたちの花

                         北原白秋

      からたちの花が咲いたよ

      白い白い花が咲いたよ

      からたちのとげはいたいよ
      いい針のとげだよ

      からたちは畑の垣根よ
      いつもいつもとほる道だよ

      からたちも秋はみのるよ
      まろいまろい金のたまだよ

      からたちのそばで泣いたよ
      みんなみんなやさしかつたよ

      からたちの花が咲いたよ
      白い白い花が咲いたよ



 第一節は、詩の内容は読めば誰にでも解かるものなので、ここは音楽に重点を置き、冒頭の
「か」 から 「ら」 6度跳躍する特長をもたせた第一主題として提示。


 第二節は、詩の後半が 「青い青い針のとげ となっているので、第一節の 「白い白い花が に対し対照的なモチーフを使おうかと一瞬思ったが、楽式論の常道に則り、第一節の冒頭と同じ6度跳躍を使って、第一主題に類似した特長をもつ変奏主題とした。

 先生は話しながら時折、剽軽(ひょうきん)な風情で会話されることがあって、ご自身が江戸前の寿司を食する時の順序に譬えて、次のように話された。

 最初の二貫(客に出す一回の寿司の数を一貫というか二貫というかについては諸説あるが)は、中とろで頂き、次の二貫を大とろで頂く。三度目はサッパリと酢でしめたコハダを、四度目は貝類を注文する。ある時、ソナタ形式全盛期の楽式論を思い出すと、第一主題の後には、それを懐かしむかのように同系統の変奏主題がくる。しかし、これを何度も繰り返していると飽きがくるのか、その時代の名作には第一主題とは無関係な、作曲家の思い付きのような新鮮な主題や繋ぎの主題、いわゆる推移主題がくる。モーツアルトの交響曲第40番第一楽章の冒頭がよい例である。白秋先生の詩をみると、第一節は白い花、第二節は青い針の刺となっている。

 


 第三節で初めて人との関わり合いが書かれていたので、「か」 から 「ら」 に8度の跳躍を用い、曲想に広がりをもたせた。

 第四節では、秋という穏やかな季節の到来が描かれているので、「か」 から 「ら」 4度跳躍に抑えた。

 第五節一行目では前に述べた一人号泣した痛みが心を貫いた。この動揺を、一般的にはあまり使われることのない、高低差の乱れたメロディーラインで表現したが、二行目の都度慰めてくれた賄いのおばさんや同僚たちの優しさを高低差4度内の穏やかなメロディーラインに収めて表現した。

 第六節の詩はいうまでもなく第一節の詩情でもって締め括ってあるので、第一主題の変奏主題で曲を終わった。



 日本歌曲の作曲の要点

 山田先生は最後に、日本の歌曲の作曲や指揮に際し留意すべき事項としてまとめられたことは次のようであった。

一、 歌曲や合唱曲は、詩と音楽との複合芸術。しかし自分も若造の時は、音楽に重点を置き過ぎた。年をとるにつれて、洋楽・邦楽を問わず、名曲といわれるものは、最初に詩を検討する段階で、聴衆に深い感動を与えるために 「詩や曲のどの部分に重点を置くか」 「詩情を汚さないように、詩に寄り添うようにいかに作曲するか」 「詩情だけに惚れ込んでしまって、歌曲としての適切な時間をも無視し、名詩に徒に長々とした作曲をしてはいないか」 「場合によっては、詩情と対峙するように作曲できるか」 などが大切であると感ずるようになった。

二、 前に述べたように、日本人はとくに 「春夏秋冬・花鳥風月・喜怒哀楽・起承転結」 が巧みに取り込まれている詩を好む傾向が強いので、そうした風雅に富んだ詩を選ぶこと。

三、 作曲家も指揮者も演奏家も評論家も、詩が表現しようとしている内容、叙述の事柄の探求に努力を惜しんではいけない。

四、 しかし同時に、古今東西の動態芸術を(つかさど)る多くの名人たちは、これまで述べたようなことすべてを、基礎的表現技術の乏しいメンバーに押し付けても、忽ち消化不良を起こし、全体の調和が乱れてしまうと勧告している。

五、 とくに我が国の場合、西洋音楽を本格的に導入し始めてから(当時)未だ89年(現在では141年)しか経過していない上、教育の場を通じて型通りの指導が行われたため、西洋音楽の鑑賞・作曲・指揮・演奏・評論などについて、その基礎的実践的表現技術も奥儀も知らなさ過ぎる人が少なくない。

六、 こうした向きの書籍や演奏音源を見聞した外国の世界的音楽家から、「山田先生、これらの著作物や演奏音源は、日本のどんな人が書いたり演奏したものですか」 と笑いながら尋ねられて、赤面させられたことがある。君も、趣味とはいえ、やる以上は、音楽をはじめ多くの動態芸術の名作を聴取して分析し、基礎的実践的表現技術や奥義の追求に努力しなさい。



 川の流れに喩えて

 そして、山田先生の結論は次のようなものであった。

 これまで話したなかで、指揮者がよかれと思って真摯に的確にすべてのことを指示すると、メンバーによっては消化不良を起こすし、熟達の士もそれぞれ自分本位の解釈で演奏してしまい、アンサンブルは確実に乱れてしまう。

 著名な宮大工や寺大工の名棟梁たちは、職人たちに対し 「原木の表面をまず手斧(ちょうな)で荒削りし、その後に(かんな)でさまざまな構造用木材を寸分違わず作り上げていく技術」 を習得させる。

 カール・ベームが育てたウィーン・フィルも、アレキサンドル・スヴェシニコフが作り上げたソヴィエト国立アカデミー合唱団も、メンバーのあいだで徹底した基礎的構築と装飾性とを駆使して楽曲の
8割を仕上げさせた上で、指揮者は 「主題の提示部分や変奏部分」 「特筆すべき箇所のデュナーミクの部分」 「特筆すべき終始部分」 「長短に限らず、特筆すべきフレーズでの抑揚感」 などについて、全員に演奏と同時に聴き耳を立てさせ、「アンサンブル」 や 「団内の楽想の整合性・対峙性」 を指示するに止めている。


 古今東西の名指揮者は、メンバーに対して枝葉末節的な指示は与えず例えば、ここからここまでは 「滔々と流れる大河のように」、ここからここまでは 岩走(いわばし)る急流のように」、ここからここまでは 「澱んで穏やかに流れるように」 などなど、様々な水の流れの変容を描くような骨太の曲想に基づく演奏を求め、スケールの大きい音楽を作っている。

 また折に触れ、こうした骨太の流れを引き立てるかのように、「キラリと光る珠玉のような演奏」 を配置する。こうして巧みなデュナーミクやフレージングを駆使しながら、時間的空間を埋め尽くしていく。

 

                                                2014年2月1日







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