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母の手術〜心臓バイパス手術

 

金沢の病院に着くと、私はしばらく待合室で一人待っていました。やがて執刀医からの説明があるということで呼び出し。私が説明を聞いている途中で姉と伯母が到着し、一緒に説明を受けることになりました。

そこでは母の心臓の状態の再確認、そして具体的な手術の方法を図解で説明してもらいました。

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心臓バイパス手術に使用される血管は人工だと思っていたのですが、自身の血管を使うということ。人間の身体には何本か不要な血管があるということで、それを利用するのだそうです。

それはまず胸に2本、両足、両手にそれぞれ1本ずつ計6本あるそうです。母は3カ所心臓に狭窄部分があるので3本必要だということですが、順番的には胸、足から3本使うことになるとのこと。

ただ、実は母は糖尿の気があり、そういう人は胸の血管は1本しか使えないとのこと。そして両足の血管の状態を見て、適正であれば両足の血管を使うし、細かったり弱かったりして使用に耐えられないようであれば腕の血管を摘出するということでした。なので母の身体は胸以外にも色々切られることになるそうです。

そして続いてリスクの説明に。これがまた厄介な話でした。

まず前提として、本来心臓バイパス手術を受ける人であれば、事前に検査のための入院をしてから行うので、合併症にかかる様々なリスク要因を排除する準備をしてからの手術になるとのこと。それが今回のように緊急に外部の病院から転院となると、我々には患者の十分なデータが無いので、合併症のリスクが通常の場合よりもグンと跳ね上がると言われました。

合併症として、まず出血が多量になるリスク、それに伴う輸血リスクが挙げられました。当初はカテーテル手術を前提にしていたので、手術に必要な血液がサラサラになる薬を入院中に飲んでいたのですが、それがバイパス手術では血が止まらなくなることで一転逆効果になるのだとか。

その他感染症のリスク、結果的に心筋梗塞や心不全が起こるリスク、脈が止まってペースメーカーを埋め込むリスク、心臓破裂で即死のリスク・・・これなら手術を行わなければ良いのではないかと思うくらいにたくさんのリスクを説明されました。

そして何より恐ろしいのが脳梗塞のリスク。現在詰まりかかっている心臓の血管から血の塊などが体中に流れていくことによって、最悪脳の血管が詰まり、そこで障害が起こってしまうリスクとのこと。

発生確率は通常でも3%程度という説明でしたが、今回のような緊急手術の場合は5%になると言われました。そのため、術後の翌日目が覚めてから手足がきちんと動いたり、しびれがないことが確認できて、初めて成功と言えるのだと。

実際の手術の成功率は98%以上とも言われて安心していたのですが、実は手術そのものよりも合併症のリスクの方が大きな問題であるということに気付かされました。それを聞かされて、我々三人は言葉を失っていました。

 

そういうリスクがあるのなら、日をズラして事前に十分検査して手術してくれればリスクが減るのではないかと思いましたが、医者側の判断としては一秒でも早く手術しないといけないということでした。

私は救急車に同乗してくれた先生が一緒に手術に立ち会ってくれるから、それらのリスクも緩和されるのではないか、と思っていましたが、どうやら状況を一通り説明するとそのまま救急車に乗って帰ってしまわれたようでした。確かに他の病院の手術にしゃしゃり出てくるわけにはいきませんが。

我々は色々と質問した上で、最終的には同意書にサインする他ありませんでした。今更リスクの小さいカテーテル手術に戻すこともできませんし、そもそも金沢側の医者の見立てでは、カテーテル手術では無理だという結論に至ったそうです。そういう意味では、結果的に我々には元々選択の余地が無く、結果的に上手く正しい方を選べたようでした。

手術自体は18時からの開始となりました。実は執刀医の先生は本日福井の方に出張されていたそうなのですが、母の緊急手術が入ったので急遽呼び出しているのだとか。手術まであと1時間くらいあるのですが、その間にできるだけ母の検査を行うということでした。

我々が再び待合室で待っていると、姉の旦那さんが仕事の途中で駆けつけてくれました。たった今医者から受けた説明を私が繰り返し、状況を説明しました。我々は4人で言葉を交わしながら、不安を取り除いていました。

その間に私は未だ仕事中の嫁に「こういう事態になって金沢に転院となったけど、特に心配は要らない」とメールを入れておきました。一方、姉の携帯には娘(つまり私の姪)から「祖母ちゃんの手術無事に終わった?」とメールが届きました。

姪は超が付く程の祖母ちゃんっ子で、暇さえあれば祖母ちゃんのところに遊びに来ます。毎週一度は一人暮らしの祖母ちゃんと一緒にご飯を食べて、母の相手をしてくれていました。当初地元の病院に入院した時点で、姉は「祖母ちゃん入院した」とだけ伝えて内容を詳しく言わなかったそうなので、余計に不安になって仕事中に号泣していたそうなのです。

当時私に「祖母ちゃん死んだりしないよね?」とメールが来たので、私は「死なんよ。今まで祖母ちゃん死んだことあるか?」と返信したりしていました。

なので、手術は姪にとってもかなり不安な出来事でした。ですから「金沢に転院した」とでも言おうものなら、動揺して急いで金沢まで来ようとして、車で事故でも起こされたら多重遭難です。

それが心配で、姉はメールには返信せずに後でパパから落ち着いて説明してもらう、ということに。そして私の携帯にふと目をやると、姪から「どうやった?」とメールが来ていました。姉からの返信が無いので、私に問い合わせたようです。私も敢えて無視することにしました。

 

やがて18時が近づいた頃、一度手術前の母と面会できる、というので、皆でストレッチャーの上に横たわる母に「大丈夫」と励ましの言葉をかけていました。母は引き続き緊張した面持ちで、未だ事態の展開を上手く把握できていないような表情をしていました。私はまた写メを撮っておきたい誘因に駆られましたが、ここで撮ると不安が現実になりそうで止めました。

ごく短時間の面会が終わると、母は大型の寝台用エレベーターに乗せられて手術室まで運ばれていきました。我々はエレベーターの扉が閉まる最後の瞬間まで、それぞれの不安と表情を携えて、並んで黙って見送りました。

ただこれから長丁場なので、とりあえず晩ご飯を食べに行こう、と非常に現実的に食堂へと向かいました。その食堂のおばちゃんがやたら愛想が無いので、嫌な印象だったのを覚えています。とりあえず文句も言わずに食べ終わると、我々は手術室前の家族用待合室に入って待っていました。

その待合い室には別の手術に立ち会っている家族の方が既に控えていました。そのうちの1組は朝からずっと脳の手術が続いており、夜にまで及んでいるということでした。

我々は待っている間、不安を打ち消すようにずっと話し続けていました。「さっきの先生感じ悪かったよね」「あんな怖いことを言わなくても良いじゃない」「難しそうなことを言っておいて、成功したら感謝されるから、最初にハードルを高くしているだけなんじゃないの?」などと大ブーイング。

これは我々患者の家族の勝手な言い分です。母を救ってくれる唯一無二の恩人なのに。ただ、当時の我々の正直な気持ちであり、今となっては大いに反省しております。すみません。

1時間経ち、2時間経ち、当初「2〜3時間の予定」と言われていた手術時間の3時間が経過し、時計の針は22時を指していました。「ひょっとしたら何かまずいことでもあったのか?」と不安に思い始めた頃、看護師さんが我々を呼びにやってきました。執刀医から説明がある、とのこと。

カンファレンスルームのようなところに通されて、手術衣のままの執刀医が我々を出迎えてくれました。その先生は当初我々に説明してくれた先生とは別の先生で、まさか我々の大ブーイングが届いたわけではないでしょうが、アレ?と思いました。

どうやら最初に説明してくれた先生は少し若い感じだったので、副執刀医のようなポジションだったのだと思います。そして今回説明をくれるのがリーダー格の主執刀医。それでもまだ40代後半くらいの若い感じで、体格がかなりしっかりしている先生でした。この先生が福井からわざわざ母の手術のために緊急で呼び戻された方のよう。

「まず手術は無事成功しました」と告げられて、我々は一様にホッと胸を撫で下ろしました。しかしそこに続く言葉で、大いに驚かされたのでした。

 

執刀医の先生はホワイトボードにまるで予備校の教師のように、図を描いて手術の流れを説明してくださいました。当初受けた説明の通り心臓バイパス手術を行い、やや血管の接合に手間取り繋ぎ直しなどを行ったため予定より遅れてしまったものの無事成功。ちなみに繋ぐのは手で縫うのだとか。

しかし実際に見てみると、母の冠動脈は99%詰まっていたということでした。一番大事な冠動脈の根元が詰まっていたため、もし100%詰まってしまうと心臓に酸素が送られず、心臓の機能が完全に死んでしまい、即死となるところだった、と。

我々はその事実を知らされて唖然としました。狭心症と聞いて心筋梗塞では無いからまだ安心だ、と考えていたのですが、それは一番太い血管が100%詰まったわけではないから定義上「狭心症」なのであって、実際には他の部位が詰まる「心筋梗塞」よりも危険な状態だった、というわけです。

それまでの母は全く普段通り生活をしていました。自身が入院させられたのを不思議に思う程に。それが、いつ死んでもおかしくない状況だったとは。最初に母が胸を苦しそうに抑えたあの日、たまたま5分後に母は「あぁ苦しかった」と息を吹き返したから良かったものの、そのまま黙って息を引き取っていたのかも知れません。

その場合私は今頃喪主として、突然の出来事を信じられないまま受け入れさせられていたのかも知れませんでした。そう考えると、そら恐ろしくなりました。母は「たまたま生きていた」だけなのかも知れません。

結局、必要な血管は両足の血管では間に合わず、手の血管も使うことになったため、胸、両足、そして左手にもメスを入れられたとのこと。それでも何とかなったのであれば、由としなければなりません。

「これで手術は無事成功しましたが、まだ安心はできません。明日の朝無事に目を覚まして、手足がちゃんと動くか。そして痺れなどの不都合が無いか、それぞれ確認ができて初めて安心できます。手術の成功と完治はイコールではありません。一番怖いのが脳梗塞です」

それでも手術はオフポンプで行われたとのこと。私は待っている間に色々iPhoneで調べていたのですが、人工心肺を使わないオフポンプ手術の方が、脳梗塞のリスクが小さくなるとのこと。その分、執刀医に高い技量が求められるということで、難易度の高い手術ということになります。

とにもかくにも、まずは先生にお礼を言いました。今は他のスタッフの方々が傷口を縫い合わせる処置をしているので、術後の母を見届けるにはもう少し時間が必要だとのこと。なので、我々はまた待合室に戻って待つ事になりました。

まだ合併症、特に脳梗塞のリスクは残っているものの、一番大きな山場はクリアしたので、ほんの10数分前とは気持ちが全然違います。我々の顔には安心感が漂っていました。しかし、まだまだ長い夜が続くことになりました。

 

説明を受け終わって時計を見ると22時半でした。我々は口々に「良かった、良かった」と笑顔を見せていました。

ところが、待合い室にはもう一組別の家族が待機していました。朝8時半から脳の手術を行っているという患者の家族さん達は、未だ先生から呼び出しがありません。つまり、かれこれ14時間ほども手術が続いているということでした。

しばらくして、そんな彼らにもようやく先生から呼び出しがありました。しかし、やがて説明を聞き終えて戻ってきた時には暗い表情でした。

伯母さんが「どうでしたか?」と尋ねると、奥さんは「どうもあまり芳しく無いようです」と悄然とした感じ。長い長い手術は難易度の高さの裏返しでもあるわけですが、患者、医者、家族にとてつもない負担をかけながらも、結局はその分の見返りを与えてはくれなかったようでした。

我々はそれを聞いて「そうでしたか・・・」と言いながらも、母の手術が上手くいったこともあって、正直皆表情が緩んでいました。何となく同じ境遇の家族で明暗が分かれてしまい、本来そう思う筋合いは全く無いのですが、申し訳ない気持ちになりました。

結果を聞いて、彼らは先に帰って行かれました。ここは大病院なので、非常に難易度の高い手術案件がいっぱい持ち寄られるようです。そのため、成功しない、ということも多々あるのでしょう。

患者さんが大変なのは勿論ですが、医者側もかなり大変だとつくづく感じました。交代して休憩を取りながらやるのかも知れませんが、何時間も立ちっ放しで集中力を切らすことなく、細かい作業を神経をすり減らしながらやらないといけないのです。

先ほど我々に説明くださった執刀医の体格がしっかりしていたのは、そういったバイタリティがないと医師として務まらないことを証明していたようです。それだけベストを尽くしても、今回のように上手くいかないことだってあるわけで、その場合はとてつもなくやるせない気持ちになるのでしょう。

待合室に我々だけが残されたのですが、その後1時間経っても2時間経っても、一向に呼び出される気配がありませんでした。手術は成功と聞いたのに、その後何かまた容態が急変してしまったのではないか?縫合だけでこんなに時間のかかるものなのか?またしても急速に不安感が募ってきました。

 

日付が変わって深夜0時。伯母さんは「私たち安心して帰ったと思われてるから呼びに来ないんじゃない?」と言いました。あまりにも遅すぎます。

やがて姉や伯母さんは安心の後の疲れでうつらうつらとしていましたが、私はドンドン不安になってきて、寝ることもできませんでした。待合室の中はシンとしていて、時計の針が30秒毎に動く音だけが響いていました。

遠くで扉が開くような音が聞こえる度に「手術が終わって呼びに来たかな?」と思いました。しかし全然待合室の扉が開く気配はありません。

待ちきれなくなった私が様子を見に外に出た瞬間、たまたま手術室の方に入っていこうとする看護師さんを見かけたので「すみません、説明を受けてから2時間くらい経っても呼び出されないのですが・・・」と尋ねました。

すると「実は集中治療室の方に既に移されたのですが、痛い痛いと言われるので、再度麻酔をかけて眠らせたり、色々処置をしているので、もう少しだけお待ちいただけますか」と言われました。とりあえず事態に何か問題があったわけでもなさそうなので、私は安心してまた待合室に戻りました。

それから30分位経過して、ようやく集中治療室で酸素マスクをしている母に面会することができました。無論母は眠らされているので、応答はありません。それでも呼吸はきちんとしているようで、生きている、ことは確認できました。

ただ、母の身体からは生気が無くなったような感じで、私がよく知っている母とは随分と異なった人が横たわっていました。手術後ですから顔はむくんだ感じになっているのですが、全体的にしわしわで「50代に間違えられる」と言われていたご自慢の外見は、すっかり71歳相応の身体になっていました。

そして医師からは「今40度近い熱が出ているので、ちょっと思わしくない」と言われました。私は「手術したので、熱が出るのは普通なのではないですか?」と聞いたのですが「それとはちょっと違う感じです。ひょっとしたら手術前に風邪気味か何かで、肺炎を併発するかも知れません」と。

とりあえず解熱剤を投与して、明日の朝また様子を見る、とのこと。私は正直肺炎くらいならまだ良いやと思いました。最初私は病院に泊まっていこうかと考えていましたが、いずれにしても目を覚ますのは明日の昼になるだろう、ということで、今日は一旦帰ることにしました。

 

結局家に帰り着いたのが午前2時過ぎ。当時3月も後半でしたが、あまりの寒さにフロントガラスが凍り付いて、出発させるのに苦労しました。それでも車道も空いていて、何とか無事家まで到着しました。

家に帰ると嫁が不安そうな顔で起きて帰りを待っていました。私はとりあえずぬるくなってしまった風呂にさっと入って、寝支度を整えてから落ち着いて嫁にここまでの経緯を話しました。それを聞いて嫁は大変驚いていました。

やはりその日は色々なことがあったので、布団には入ったものの、簡単には寝付けませんでした。私は寝るまでの間に色々なことを考えていました。

実は私の中で一つショックだったのが、手術自体のことではなく、待合室で姉や伯母から聞いた話。一人暮らしの母は最近少しずつ気持ちが滅入ってきて、夕飯を段々作る気力が無くなっていたとのこと。

父の施設に行った帰り、イオンの食事処に行って、一人寂しく外食して過ごすことが増えていたのだとか。姉も伯母も「今まであの人は必ず自炊していたのにねぇ」と口々に言っていました。

私は母が「一人だと何も作る気力が起きない」と、時々スーパーで総菜を買ってきて済ませているというのは知っていました。また私と嫁が食べに行くと必ず「皆で食べるご飯は美味しいねぇ」と言いました。

父が施設に入ってから約6年。時々私や孫がご飯に食べに行くことはありますが、基本は自分一人でテレビを見ながら晩ご飯を食べていました。

私は母が一人で外食に行って、店の楽しげな雰囲気で寂しさを紛らわせているという話は今まで一度も聞いたことがありませんでした。多分、私に言って余計な気を遣わせることを我慢していたのだと思います。

母はすごく交友関係が広く、街にでかければ必ず知り合いに顔を合わせます。そして日中はほとんど出かけて家を空けていることが多い活動的な人です。なので、私はあまり母が一人暮らしでも、そこまで寂しさを感じているとは思っていませんでした。結局、その分余計に夜一人でご飯を食べるのが寂しく感じるのでしょう。

自分が老人のクセして、町内の色々な高齢者の世話をしたり、周りの信望も厚い母。入院中に母を見舞う人は、入れ替わり立ち替わり休まる暇が無い程ひっきりなしに来ていました。私は「もし母ちゃん死んだら、東京ドームで葬式やらんとあかんのじゃないか?」なんて言っていました。そんな母が万一孤独死という結末を迎えるとしたら、何と報われないことか。

手術が無事に終了した今、「あぁ、これで母ちゃんが死んでいたら、私はものすごく後悔していたんだろうなぁ」と思った時に初めて涙が出ました。そういった一人で過ごすことの不安が、心理的なストレスなど間接的な病気の遠因になったのかも知れません。母が元気になったら、もう少しかまってやらないといけないなと、つくづく感じました。

 

母の手術〜術後

 

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