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母の手術〜術後

 

翌日。姉と嫁と3人で、再度金沢の病院へと向かいました。姉もやはりあまり眠れなかったということで、車を運転する姉を眠らせないためにも、ずっと車中で話し続けていました。それは互いに母の合併症に対する不安を紛らわしたかったためかも知れません。

やがて病院に到着し、緊張して集中治療室に入ると、母がまだ酸素マスクを付けたまま目を瞑って眠っているようでした。

看護師の方は「大丈夫です。今朝一度目を覚まされました」と言い、「ご家族の方が見えられましたよ」と肩を叩くと、母は身動きして何かを言おうとしていました。

しかし、口に酸素用のチューブを通されているせいで声が出ません。それでも母に「大丈夫?痛くない?」とか話しかけると、目を瞑ったまま頷いたりして応答がありました。

「手とか足とかちゃんと動く?痺れとか無い?」と聞くと、やはり頷いて応じました。どうやら脳梗塞の併発は無かったみたいで、我々はこの瞬間ようやく安心することができました。

母は何かを尋ねたいらしく口を動かしていましたが、残念ながら空気の漏れるような音がするだけで、全く声にはなりません。なので母は指を一生懸命動かして、空に文字を書いていました。

それを読みとると「なんじ」と書いたので「何時?って聞いているの?」と聞くと、頷き返しました。私が「13時」と言うと「わかった」と言わんばかりに、何度も頷いていました。指で文字をかける程に、問題なくしっかりと動くようです。

しかし、血管を取り出された腕や切られた胸には、かなり痛々しい血の筋が走っていました。それらの傷は大手術の結果を雄弁に物語っていました。

とにかく無事を確認できて安心できたので、長居は避けて面会時間は10分程度で切り上げ、我々は集中治療室を出ました。熱はまだ39度あるということで昨晩からあまり下がっていませんでしたが、特に大事に至るような話ではないようです。

面会時間は昼と夜の各1時間に限られていたので、我々は昼食をとって病院の外を散歩したりして、夜の面会時間が来るまで時間を潰していました。

 

夜の面会時間には姪と甥の二人も駆けつけてきました。昨晩は結局姉が帰宅するまでずっと家族全員で起きていたらしいですが、それぞれ学校や仕事を終えた後に疲れも見せずに金沢までやってきました。

面会時間までもう少し時間があったので、私はここまでの経緯を手短に話ししていました。彼らは落ち着いた様子で聞き入っていました。既に手術も終わって、午前中の面会の段階では問題も無かったので、後は回復を待つばかりの状況です。

それにしても、こうして考えてみると母はつくづく「生かされている」んだなぁと思いました。ここに至るまでには様々な「偶然」が重なって、何とか無事に手術を終えることができたのですから。

まず最初にもしあの日、嫁が埼玉に帰っていなかったら。私は嫁が埼玉に行った時は実家に帰ってご飯を食べたりすることにしています。逆に言えば、嫁が帰らなかったら母は一人で実家で過ごし、そしてその兆候を見逃して、やがて息を引き取っていたかも知れません。

もし地元の病院でカテーテル手術を受けるだけで終わっていたら。地元の病院の医師の説明では当初カテーテルでも対応できるかも知れない、という話でした。

しかし結果的には冠動脈の99%が詰まっていた、ということですから、もしカテーテル手術を行ったとしても、再度血管が詰まるリスクが高かった、ということだそうです。ですから、バイパス手術を選択したことは正解でした。

しかし私はその選択の段階で「たまたま」緊急バイパス手術による合併症の話を詳しく聞かされていなかったので、多少難易度が上がる程度であれば、いっそのことバイパス手術に、と思いました。

それがカテーテル手術に必要な血をサラサラにする薬がバイパス手術では逆効果、その他の合併症リスクが格段に跳ね上がる・・・などという話をその時聞いていたら。バイパス手術という提案は母にしなかったと思います。結果的には、地元の病院の医師の説明不足が、良い方向に我々を導いてくれたのです。結果、母は「生かされている」のです。

私と姉は手術の間「もし、これで祖母ちゃんの手術が失敗したら、(超祖母ちゃんっ娘の)姪に怒られるね」と言っていました。しかし、最終的には我々は賭けに勝つことができました。客観的には失敗率は5%ということで、冷静に考えれば勝率の高い賭けですから心配には及ばないのですが、「万一の最悪の事態」という期待値の高さを考慮すると怖いものです。

私は職業柄行動経済学を勉強しているので「人間は確率が低くても、その結果が大事になればなるほど、その確率を過大評価する」という心理状態を頭では理解していました。宝くじの当たる確率、大地震が起こる確率、テポドンの落ちてくる確率は極めて小さいものなのに、起こった時の衝撃の大きさのあまり、人は宝くじを買い、大地震や災害に過剰に不安がる、というものです。

しかし頭で理解していることと、体感は異なります。何とか理性的に押さえ込もうとしても「もしかして」と悪い想像ばかりしてしまうものです。そうやって心の準備をしておくことで、実際に起こった際の衝撃を和らげようとする防衛本能なのでしょう。実際に起こった時には何の防衛にもならないのですが。

そんなことを話している間に夜の面会時間がやってきました。我々は再度集中治療室に足を踏み入れました。

 

集中治療室に向かう道すがら、姪は笑いながら「私、祖母ちゃん見たら泣いてしまうかも知れん」と言っていました。私も「お前が泣いたらワシも泣くわ」と笑いながら応じました。手を消毒して治療室のエリアに足を踏み入れると、また雰囲気がピンと張りつめます。

そうして母のベッドのところまで行くと、母はやはり目を瞑ったままベッドに横たわっていました。看護師さんがまた「ご家族の方が見えられましたよ」と声をかけると、身動きしました。

母の状態は6時間くらい経過しただけでは何ら変わるはずもなく、引き続き目は瞑ったまま声は出せずに、指先での筆談で会話をしていました。とりあえず経過も無事な様子。

姪が何も言わずにいるな、と思ってふと目線を姪に向けると、既に姪は大粒の涙を流しながら立ちすくんでいました。声も出さずに、ただずっと鼻をすすっていました。元気だった頃の若々しい感じの祖母と術後のシワシワで弱々しい祖母の相違に、安心と驚きと悲しみと、様々な感情が渦を巻いた結果、涙という形に結実して表れている様子。

姪に「お前泣き過ぎや」というと「だって涙止まらんもん」と言いながらずっと泣いていました。ほとばしる感情を抑制できない姪。そしてようやく母の両手を握ると「祖母ちゃん、祖母ちゃん」と繰り返しながらわんわん泣いていました。母はその状態で何度も頷いていました。その光景に、周りはもらい泣き。

面会時間も程々に切り上げて帰ることにしましたが、姪はまだ泣いていました。名残惜しそうにしていましたが「長居して祖母ちゃんに今これ以上負担かけらん」という言葉に、ようやく傍を離れました。

病院から出て「運転危ないから泣くな」と言っても一向に泣きやみません。姉の車と姪の車と二台並んで帰りましたが、結局終始泣きながら運転していたようです。

途中で我々は夕飯に丸亀製麺に寄ってうどんを食べて帰ることに。ようやく少し落ち着いていた姪でしたが、うどんを前にしてまた泣き始めました。「何でまだ泣くんよ?」と聞くと「だって祖母ちゃんご飯食べられんもん」と言って、また泣き始める始末。

姉が半ば呆れ気味に「私が死んだらあんた泣いてくれるん?」と冗談めかして聞くと、姪は「泣くに決まっとるやろ何で今そんなこと言うん」と大激怒結局うどんは一すすりしかせずに食べ止めて、彼女の残りは私がいただくことになりました。

そんなこんなで、その日は無事皆帰宅することができました。

 

毎日金沢の病院まで通うのは大変なので、以後は姉、姪、私が順番で母の見舞いに行くことになりました。翌日見舞いに行った姉の報告によれば、母はもう上半身を起こせるようになり、声も出せるようになったとのこと。姪もすっかり安心して、元の元気を取り戻していました。

ところが、姪と姉が共に「祖母ちゃん性格変わってしまった。何か怒りっぽくなった」と言うのです。よく手術をして性格が変わる、というのは聞きますが、脳の手術ならまだしも、心臓の手術で、というのは聞いたことがありません。

また輸血で性格が変わる、という話もありますが、医学的には根拠の無い話だそうです。なので、その辺りは気のせいやろ、と言っていました。が、私はそれを聞いて母に会うのが少し怖くなりました。本当に変わっていたらショックだな、と。

いよいよ私の見舞いの番に。嫁と二人で金沢に向かい、集中治療室に入りました。すると、既に母は上半身を起こして我々を迎え入れました。声はまだかすれたような感じで、どうも腹筋に力が入らないような声でしたが、普通に問題なく会話できる程度ではありました。

で、我々が行った時の印象として、母は別に怒りっぽいわけではなかったのですが、何となく「さばさば」と言うか「あっけらかん」としたような、よく言えば憑き物が取れてスッキリした感じ、悪く言えば人間味がやや薄れたような印象になっていました。これが姉たちの言っていた「性格が変わった」ということだろうな、と思いました。

「具合はどう?」と尋ねると「これだけの大手術をしたのにどこも痛くない。ただ腕はちょっと石が入っているように重くて上がらないし、胸の辺りは板が入ったように突っ張る感じ」とのこと。それでも、その日から実際にベッドから降りて歩く練習も始まるとのこと。

ご飯はまだおかゆで、全体的にペースト状のものが主流でしたが、魚とかも出たりして、普通の食事に近いものでした。半分ほどだけ食べて後は残していましたが、それでも概ね順調に回復しているようで何よりでした。

しかし母は変なことを言うのです。「壁に髪の毛がたくさん見える」「隣の部屋に変な男の人がいる」「夜中に老医者がやってきて、ずっと変なスプレーを一缶丸々頭にふりかける」等々。

母は元々霊感が強い(らしい)ので、私は「すわっ、この集中治療室で亡くなった数々の怨念が見えるのかひょっとして死地から生還したことによって、新たなスピリチュアル的な能力を体得したのでは」と思いました。

 

最初は本当に母が臨死体験から蘇ったことによるスピリチュアル的なものかと思ったのですが、どうやら麻酔などによる薬物反応的な幻覚のようで。「術後譫妄」という言葉まであるようで、私は初めて知りました。そういうのが高齢者の手術になると起きやすいようです。

それでも母の表情はすっきりしていて、母自身も「私は0歳。今から生まれ変わった。寿命を10年くらい延ばしてもらったから、そのつもりで生きていく」と言っていました。それを聞いて嫁も「お母さんも今までお父さんや他人の心配ばかりして、いつも物憂げな表情をしていたから、逆に良かったんじゃない?」と言っていました。私もそう思いました。

次回行った時にはすっきりと幻覚も見なくなったようで、何事も無いようないつもの母に戻っていました。実はお腹に10円玉程の穴が開いていて一本管が通っていたのですが、それも抜いて、次第に母から医療具が少なくなっていきました。ようやく人造人間から普通の人間に戻っていくような感じ。

それにしても人体って不思議だと思いました。お腹に穴が開いていても、抜いたらまた自然に傷口が塞がって戻っていくということ。特に痛くも無いようです。

その結果、腹筋にも力が入るようになってきたようで声も次第に戻ってきて、一般病棟に移っていました。母も積極的に病棟を歩き回ったり、エアロバイクでのリハビリをこなしたりと、社会復帰にむけて順調。手足や胸の傷口はまだ痛々しくはありますが、段々と治っていく過程がわかりました。

ただ、あまりにもひっきりなしにお見舞いが来るので、母も休む間なくやや疲れ気味な感じ。まあこればかりは贅沢な悩みかも知れませんが、友達が多すぎるのもこれはこれで一苦労。そして早速また同室の他の人と仲良くなって、また友人知人が増殖中でした。

そんな金沢の病院の往復を繰り返し、最初の入院から一ヶ月ほど経て退院。それでもあの大手術を経ているので、思ったより早く退院できた、というのが我々の正直な感想です。周りの人もあまりの早さにビックリしていました。

そんなわけで、母は無事シャバに戻ってきました。ただ体力が急低下しているようで、バッグ程度の荷物を持つのもしんどがったり、人混みに居ると今まで以上に疲労感を感じたり、まだ本調子では無い様子。毎日昼寝も欠かせません。

本人は「背も縮んでしまった。手術きっかけで段々身体が弱っていくんじゃないか・・・」と心配していますが、周囲の我々にしてみれば、あれだけの大手術だったからしばらく体力が低下しているのも当然だろう、と。ただ気持ちと体力のギャップに、精神的にまた弱っている感じです。

車の運転も2ヶ月禁止と言われているので、退院後は日中私が実家にパソコンを持ち込んで仕事をしながら母の足になったり、荷物持ちになったり。私は前職を辞めて家でできる仕事になっていたので、そういう意味では都合が良かったとも言えます。

夜は姉の家まで連れて行って、そこで寝泊まりしてもらっています。何とか無事独り立ちできるまでは、しばらくこの体勢でやっていこう、ということに。まあ、ここまできたら後は時間の問題。私もようやくこのバタバタした生活に慣れつつあります。

そんなわけで、この長かった話も終わり・・・と思いきや、あとは外伝が続きます

 

母は入院するまで毎日父のところに通っていました。そうやって毎日夫婦の時間を一時間だけ過ごしていました。

そんな母がある日から突然来なくなると、当然父もおかしいと感じるでしょう。なので私は母が最初に入院した段階で父に報告に行きました。当初は簡単な手術だと私自身も思っていたので、別に隠す程でも無いと。父は驚いた様子を見せながらも、私が繰り返し「簡単な手術らしいから」と言い聞かせたことで、納得しているようでした。

その他、施設に毎日通って顔を合わせていた職員さんにも母の容態を伝えました。ただ、職員さんは父にそのことを言わない方が良い、私も伝えていないのでは、と思っていたらしく、しばらく父の前では母のことを口にしないようにしていたのだとのこと。余計な気を遣わせてしまいました。

父は全て伝聞で聞いて実際に会いに行けないので、余計に心配になるのでしょう。やはり父は元気なくベッドに横たわり、毎日続けていた歩行練習も休みがちになりました。

それから私は母と父の見舞いに両方通わなければならなくなり、姉と分担して交互には行っていたものの、なんだか少子高齢化の縮図を背負わされているような気持ちにもなってきました。昔に比べて医療・福祉サービスが充実しているとはいえ、こんなにも大変だったのかなぁ、と。

幸い、私は今は在宅での仕事ですから、自分の仕事時間は自分で調整ができ融通が利きます。それでもやらなければいけないことは溜まっていくしで、なかなか精神的にも疲れ、ストレスフルな日々が続きました。

まあこの状態がこれからずっと続くわけではないし、と思えば、少しは気持ちも楽になりました。そう考えると母が元気だった頃は何と楽だったことか。今までも父のところには週1ペースで行っていましたが、それはあくまで母のおまけ程度。しかし今、母が倒れたことで看るべき人が0から二人になり、私や姉にドカッと重くのし掛かってきたのでした。

 

父は施設で毎日歩行訓練をしていました。ただし誰か付き添わないといけないので、母が行った時に歩行器を使って、距離にして20mくらいを往復していました。たったそれだけの距離でも父にしてみれば相当難儀で、終わった後はいつも「あー疲れた」と言って、力を出し尽くした表情で座り込みました。

母は割と父に甘く、父が途中で「今日はもう限界」とか「今日は歩かない」とか言うと、すぐ手を貸したり車いすに座らせたりしていました。年々父の足は弱ってきているので、最近は特にそう言って止めてしまうことが増えてきました。

私は一日でも休むと筋肉が弱り一層歩けなくなると思うので、父には厳しく「継続は力なり。俺の目が黒いうちは休ませない」と言って、極力完遂させるようにしていました。なので、父は私の訪問を煙たがる日も。

それでも今は母のところにも行かないといけないので、毎日は父の方に来れませんから、来た日にはしっかりと歩いてもらわないと。父は渋々ながらも、それでも「母ちゃんも頑張っとるんやよ」というと、気合いで何とか歩いていました。

しかし入浴のある日は、身体が疲れてしまって歩き辛いようでした。ただ入浴のある日が父の洗濯物が出る日で、私はその日に父のところに行って、洗濯物を回収しなければなりません。それ以外の日に歩かせるために来るとなると、結局私が毎日来ないといけなくなってきますから、身体が一つしかない私は、入浴の日に歩かせるしかありませんでした。

すると父は突然「もう少し曜日を考えて来てください」と怒り出しました。つまり、そんなに歩かせたいのであれば入浴のある曜日は避けて、別の日や入浴前の午前中に来い、と言うのです。

それを聞いて私もカチン。「無理やあんたは自分の都合しか考えてないやろ俺だって仕事もあるし、母ちゃんの方も行かんとあかん。洗濯物もあるから、入浴の日しか来れん。あんたの都合にばっかり合わせてられんわ」と施設内で大声で喧嘩。

父はふてくされた感じでそれ以上何も言わず、怒った感じで歩いていました。無論、父の身体が普通の健康体で無いことも、父の気持ちもわからないわけではありませんが、それでも歩かなければもっと暗い人生しか残されないと思うから、心を鬼にしてやっているのに私もイライラが最高潮に達して「ならもう来んわ」と言いました。

今や私の方が立場的に上なのを良いことに、私もひどいことを言っているな、という自覚はありますが、だからと言って何でもかんでも弱いから弱い方に合わせる、というほど私にも余裕があるわけではありません。

それを母に告げて「母ちゃん死んでもワシ父ちゃんの面倒見んからね」と言うと、母はただ苦笑いしていましたこれで母は益々簡単に死ねなくなりました。

 

そんな事を言いながらも私は結局父のところに一日置きに行っていましたが、その後母の事態が急転し、金沢の病院へ転院となって心臓バイパス手術となりました段々と深刻化し、父も次第に不安になっているようでした

私が繰り返し「心配しなくて良い」とは言うものの、一向に母は姿を現さないわ、私も金沢行きが増えるわで説得力が無かったのでしょう。言われる程に父はまた不安気な日々を過ごしているようでした。

それからしばらくして母の術後経過も順調な頃、私はまず父をiPhoneの動画で撮りました。最近はすっかり発声が上手くできなくなった父ですが、不明瞭ながらもようやく「頑張れ」とだけ言いました。

それを私が母の見舞いに行った際に見せて、今度は酸素チューブを付けたままの母の動画を撮りました。母も声がまだはっきり出ない状態でしたが「私も頑張るからお父さんも頑張ってください」と。それを父に見せたら父はiPhoneに向かって「こんにちわ」と言っていましたが、残念ながらテレビ電話ではありませんでした

これはなかなかiPhoneのCMにも使えそうな良い話やなーと我ながら思いつつ、とりあえずは父の不安をある程度解消することができました。

やがて実際に母が退院し、約一ヶ月ぶりに実物の夫婦ご対面となりました。さて、どんな感動の対面になるか、と思っていましたら、意外に二人ともあっさりした感じ。現実とは案外そういうものかも知れません

母は父に傷口を見せて、手術の証を示していました。それを見て父は痛々しそうな顔をしていました

 

 

現在母はとりあえず姉の家で寝泊まりする生活が続いています。幸い姉一家総出で母の受け入れを歓迎してくれているので、私は姉の家の好意に甘える形で母を託しています。

一方で母は母であまり姉の家に迷惑をかけられないという気持ちもありますし、実家の方が周囲に友達もいるし落ち着く、そもそもどうせ昼間は姉の家も皆出払って犬しかいない、ということもあって、昼間だけ実家に戻っています

それで朝に姪が出社する際に実家まで母を車で送り届け、そこに私が実家へパソコン一台持ち運んで、母の面倒を見ながら仕事をする、という体勢が今も続いています。しばらく母は車も運転できないので、買い物やら父のところへ行くやらお見舞いのお返しやら、私もあっちこっち付いて行かないといけません

姪は前も書きましたが「超ばあちゃんっ子」ですから、一緒に住むようになって一番嬉しいのは彼女かも知れません。昼の休憩時間には必ず祖母ちゃんにメールを送って様子を伺っています

先日、こんな事を姪に言われた、と母は嬉しそうに語っていました。

母は今回の手術で「生まれ変わった」ということをしきりに言っているので、それを聞いた姪が「じゃあ、今度本当に生まれ変わったら何になりたい?」と質問しました。

母「やっぱり人間が良いねぇ」
姪「残念。それは違うよ
母「じゃあ正解は?」
姪「あなたのお祖母ちゃんだよ、と答えるのが正解

一度母が死にかけたことで、本人も含めて周囲の人間に色々な意識の変化が生じました。一期一会と言いますか、そういう気持ちは忘れずに持っておきたいものです。

そんなこんなで長い長い母の手術話もこれで終了。母はまだ傷口が突っ張ったような感じがして、本調子では無い様子ですが、少しずつ元に戻っていくであろうことから、まあ後は時間の問題だろうと思います。

今回の母の一件にしろ、前回チラッと書いたバス事故の一件にしろ、人の命というものは本当に紙一重の連続で何十年も続いているんだな、と思ったりします。とりあえず母は幸いにもその大きな山を一つ越えたので、もうしばらく我々の親子関係は、なんだかんだありながらも続けていけそうです。(完)

 

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