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「おやじのせなか」

                                 小林哲哉


 父は学級通信に命を燃やす小学校教師でした。一年間に百号から百五十号近くも発行していました。学校でのでき事や、授業に必要な用具について詳しく学級通信に書いたので、生徒の父兄は、父のガラス張りの学級運営に感心していたようです。

 父は朝五時に起きて、一般紙(朝日新聞)を一時間かけて丹念に読んでいました。新聞配達員が我家に新聞を入れた音が聞こえた瞬間、新聞を取りに行っていました。我家では、父より早く新聞を読むことは許されませんでした。

 父は仕事から帰ってきて、夕刊もまた丹念に読み、テレビは、ニュースやドキュメンタリー番組を中心に観、すべてを学級通信の原稿の思索の糧としていたのではないでしょうか。

 父の就寝時間は遅く、非常に睡眠時間は短く、父はずいぶん不健康な生活を送っていたと思います。父は長年の無理がたたったのか、六十歳で天寿を全うしました。

 私は、いつの間にか詩を書くようになり、二年前に詩集を出版いたしました。そして、尊敬する料理人の詩を創作しました。

「 心の水

  水は

  流れてこそ

  水かもしれぬ

  その清き水

  その冷たき水こそ

  おいしい水

  その水に 手をいれて

  肌で感じる冷たさが

  その冷たさのみが

  世の中の

  たった一つの 真実なのです

  おいしい水を飲みたければ

  冷たい思いをするしかない

  あなたの

  その美しい手で      」

 私の尊敬する料理人は、自己には秋霜のごとく厳しく、他者には春風のごとくやさしい方なのです。私はどこかに、父の自分の健康を省みない厳しさを、尊敬する料理人から感じていたのかもしれません。

 父が亡くなる数ヶ月前、家のベッドの上で父は、ラジオから流れるバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を聴き、自分の葬儀の時にこの曲を流して欲しいと言いました。父は末期の大腸ガンであり、医師から余命宣告を受けていましたが、家族の相談により、父には病状は告げませんでした。しかし、父は自分の余命のことは誰よりも知っていたのだと思います。

 父は若い時には、ガリ版と鉄筆にて、そして壮年期からは和文タイプライターで学校通信の原稿を創っておりました。和文タイプライターを使ったときの音を、家族はよく、昔話の「つるの恩返し」のつるが機を織る音に似ているのではと、笑いながら話していました。

 父の背中を見て育った私が、今、詩を書いています。人が喜ぶ詩を創作できた時に、亡き父に恩返しが少しできたのではないかと思います。これからも、父を想い、詩を書いていきたいです。