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山本昌講演会

 

地元で中日ドラゴンズの元エースで球界最年長の50歳まで現役を続けた山本昌の講演会があり、喜び勇んで聞きに行きましたドラゴンズファンの私(落合竜終了以降は残念ながら過去形になりつつありますが・・・)にとっても伝説の人であり、小学生時代にドラゴンズファンになってから15年までずっとドラゴンズに居た人「フランチャイズ・プレーヤー」ですね。万難を排してでも聴講したい講演会でした

これまで聴きに行ったプロ野球選手の講演会といえば、衣笠さん、落合さん、桑田さんの計3名。今回が4人目。やはり何か偉業を成し遂げた人達の話は千金に値します

内容は氏の子供時代から。元々中学校で野球を辞めるつもりだったという程に選手としては芽が出ず、ずっと補欠だったのだとか。ただ中二の頃から毎晩素振り100回と4kmのジョギングは自らに課して「辞めるにしても意地を見せて辞めたい」と努力したのだとか。

そうして努力と準備を続けていると、3年生の時にエースがケガ。そこで山本昌に出番が回ってきて勝利を収めると、そのまま県大会で快投を続け、日大藤沢高校の野球部監督の目に止まりスポーツ推薦。それが長い長い野球人生を続ける契機となりました。自分の現況に腐ることなく、「常にいつでも全力を出せる準備しておくことが大切」だということです。

高校時代には強豪横浜商業高校と神奈川県大会で準々決勝で対戦。1年生の山本昌とエースの2年荒井直樹氏(現前橋育英野球部監督)がめちゃくちゃに打ち込まれ14点を取られる大敗。それに奮起した荒井氏が毎朝山本氏を8kmのロードワークに雨の日も風の日も連れ出して、それで力が付いたのだとか。「嫌なことは習慣化してしまえば苦にならない」というのも山本昌の金言

そして迎えた2年の夏。山本昌と荒井氏が交互に先発し、順当に県大会を勝ち進みます(荒井氏は2試合連続のノーヒットノーランという快挙)。そして準々決勝では宿敵横浜商業高校が。その先発は荒井氏ではなく山本昌ということで、大きな期待を背負って投げた試合でしたが、好投虚しく2-3で惜敗

それが山本昌の野球人生で一番泣いた試合だったとのこと荒井氏は一本もヒットを打たれることなく、最後の夏が終わってしまったのでした

 

 

高校3年の秋。授業中に教頭先生に呼び出された山本昌は校長先生から「中日ドラゴンズがお前を5位指名してきた」と伝えられたとのこと。プロのスカウトの影を感じ無かったことから、青天の霹靂とばかりに驚いた山本昌。

ただ地元の英雄原辰徳氏と巨人の大ファンだったし、当時は教員になろうと思っていて断ろうと考えていたそうです。が、大の中日ファンだった父親があまりにも「断るのは勿体無い」という秋波を送ってくるので、父親を喜ばせるために「やるだけやってみよう」と入団を決意したそうです。自分が控えで試合に出なくても毎回毎回試合を観に来てくれていた父に対して、恩返しにでもなれば、と。

しかしルーキーイヤーに小松の親分や鈴木孝政氏など、当時のドラゴンズの主力投手のピッチングを見て圧巻されます。「随分場違いなところに来てしまった」と。実際に入団から4年間は1軍で一勝もできず。5年目はクビを覚悟の背水の陣でのシーズンでした。

当時の星野監督に志願してオープン戦初日に先発をしたのですが、初回からボコボコに打たれてKO。「死ぬまで走っておけ」と言われ、400mグラウンドを100周したところでようやく許され、次に告げられたのは「アメリカに行け」と。当時ドジャースと業務提携し、野球交換留学に選出されたとのことでした。

本人曰く「これはポテンシャルから選ばれたのではなくて、体の良い口減らし」。シーズンが開幕するずっと前の2月に言い渡されて、そのままシーズン終了の11月までアメリカにいろ、というわけですから戦力としては考えられていないのだということ。ただ当然断る権利も無いですし、考え方次第ではクビが一年延びたという見方もできるので、渋々了承したいということでした。

 

 

山本昌は自身の性格を評して「モチベーションがいつも高い」のがウリということです。ところが、このアメリカ行きだけは本当にまいったそうで、最初の一週間はとにかくやる気が無かったのだとかメジャーの4軍ともいえる「1A」の所属で、誰にも期待されない自分。落ち込んで自棄になっていたようです

そんな山本昌に付いてくれたのが、ドジャースオーナーの補佐だった日本人のアイク生原氏。テンションの低い山本昌に親身になってあれこれと指導してくれたのだとか。最初は「プロとしてのプライドから聞く耳を持たなかった」山本昌でしたが、根気強く彼の尻を叩き続けてくれたこと、また「1A」でも他のメンバーが腐らずに「優勝する」と頑張っていたことに改心し、また野球へのモチベーションを取り戻したそうです

ただなかなか成果が出せずに悩んでいたある日、チームメイトの内野手がスクリューボールを投げて遊んでいたのを見て「教えてくれ」と頼んで教えてもらい、それが彼のピッチングと人生を大きく変える転機になりました。「投手が内野手に変化球を教えてもらうなんて」と自嘲気味に話しておられましたが、それだけ藁にもすがる思いだった模様。

試しに投げてみると思いの外よく変化したので、キャッチャーに「ここぞという時にスクリューボールのサインを出してくれ」と言ったら、相手の強打者を三振。それが確信に変わって、彼を代表する変化球になりました。

その後、あれよあれよと成績を上げていき、遂には「1A」のオールスターゲームにも選出される程に活躍元々11月まで滞在する予定だったところに、急遽8月に球団から国際電話がかかってきます「マサ、日本に戻って来い」

しかし山本昌にも意地があり「(戦力外扱いしたのに今更)何言ってんですか、ボクはまだ帰りません」と突っぱねたのだとか。ところがそれから数分後、また電話が鳴って、交換手の女性の声が切り替わった後に耳に届いたのは、聞き慣れた男性の声。星野監督が「マサ、日本に帰ってこい」と。彼に言われたら有無は言えず、二つ返事で「はい」と答え、日本に緊急帰国したのだそうです

 

 

8月に日本に山本昌が戻ってきた頃、ドラゴンズは優勝争いの真っ最中先発の柱が足りなかったこともあり、すぐさま先発ローテーション入り戻ってきてからは見事に星野監督の期待に応え、5連勝となり、88年のドラゴンズ優勝に大きく貢献しました

残念ながら日本シリーズでは西武ライオンズに負け敗戦投手チームもそのまま日本一を逃してしまいましたともあれ、その3ヶ月間の働きぶりで年俸は400万円→1100万円の3倍増。「たった3ヶ月の働きでこんなに評価が違うのか」というのが正直な感想だったそうで、モチベーションアップに繋がったのだとか。

その後の活躍は推して知るべし。翌年は10勝を挙げ、今中とのWエースの二枚看板として、敵チームに嫌がられる存在になりました。94年には2年連続の最多勝と投手の最高勲章沢村賞を受賞。長年チームの大黒柱として君臨し続けることになります

個人的に特に印象に残っているのは何と言っても41歳で達成したノーヒットノーランあの落合監督が帽子をとって最敬礼のお辞儀をして出迎える程の偉業を達成しました元々技巧派投手であり、力で押すタイプではなかったからこそ、円熟して長く続けられたのだと思いますが、50歳という球界最年長記録を残して31年間というプロ野球史上最も長い現役生活に幕を下ろしました。

翌年3月、一旦自由契約扱いになり、1日だけドラゴンズと契約するという奇策でオープン戦での引退試合が行われました。なお、中学時代に散々練習したバントのお陰で、通算犠打数153は投手最高記録。その裏側で、全1209打席に一本もホームランが無く、野球人生の心残りは日本シリーズで結局一勝もできなかったことと、ホームランが一本も打てなかったことだそうです。

 


聞き終えて終わったことは、やっぱり色々なことが他の職業にも、人生にも、また株式投資にも通じるなということ。

「嫌なことは習慣化してしまう」。長く現役生活を続けられたのは、毎晩手首のリフトアップは欠かさない、というトレーニング癖を付けたお陰で、鍛えられたのではないかということです。私も昔から実践していて、やらなかったら「気持ちが悪い」と思ってしまい、気になって寝れないことがあるくらいやはり一度やらなかったらそのまま止めてしまう恐れがありますし、その分取り返すのも大変になります。

「準備することの大切さ」も、全てにおいて重要です。中学時代に絶対的なエースの控えで出番が無いかも知れないのに、またもう野球を辞めようと思っていたけど、全力を尽くしてから辞めたいと万一の出場準備を欠かさなかったことが、彼の野球人生の全てに繋がっていきました1度しかないチャンスを見事にモノにした、そのチャンスを引き寄せたのも結局はそういった油断のない努力からでしょう。

「モチベーション」も重要です。その後も色々な出会いがあり、そういった場面場面でのチャンスを掴んだのもモチベーションがあればこそ。モチベーションが無ければ、内野手にスクリューボールを習いに行ったりはしません。全てに前向きに取り組む事の大切さも一流になるために必要なことです。

講演会の最後には、山本昌直筆サイン入りユニフォームレプリカを1着プレゼントということで、質問コーナーで質問した人の中から一人が選ばれるということでした。私も含め、皆が手を挙げて質問を希望するも、結局私は当てられませんでした・・・

ちなみに、講演の最初は正直「固いな」と感じたトークも、進むにつれて柔らかく自然になっていきました。勿論野球選手なので話上手である必要は無いのでしょうけれど、氏曰く「野球人生で緊張しなかったことはない」というくらいに、最後の最後まで緊張したのだそうです。

一度隣のロッカーの立浪選手に「なんでそんなにいつも緊張しているんですか?力を抜いていきましょう」とアドバイスされ、緊張感をほぐして登板したらボコボコに打たれてノックアウトされたのだとか以来、やっぱり緊張することは重要だと認識して生きてきたそうです。まあ緊張の程度にも因りますが、私も緊張しぃなので、その辺りも含めて大いに参考になった講演会でした

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