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友人との別れ

 

 

昨年のクリスマスは、私も普通に過ごしていました。一応3歳の娘が居ますので、子供が居る家庭の標準的なパターンで、サンタさんから枕元にプレゼントが届いたり。

その日に友人が亡くなったというのは、妹さんから2日後に届いたメールで知らされました。私は「あぁ、遂にか」と思うと同時に、自分自身心の準備が案外出来ていなかったのだと気付かれて、少し動揺しました。


昨年6月、突然電話がかかってきて「末期の胃がん」だと知らされました。彼は陶芸家として数々の賞を受賞し、あの東儀秀樹さんにも気に入られたり、皇族の方も彼の作品を鑑賞にお見えになるなど、大きく足跡を残しました。

彼と私は20代の頃、大阪で出会いました。偶然同じ通天閣の傍にあるマンションに住んでいたのが縁。玄関先に灰皿があり、そこで管理人のおばちゃんと彼が話ながらタバコを吸っていたところに私が帰ってきました。大阪のおばちゃんらしく「おう、あんたとよく似た子おるねん」と彼を紹介してくれたのがきっかけでした。

まあ似ているのは年齢だけで、性格も外見もまるで違うのですが、おばちゃん特有の感性で大抵の若者は「似ている」と見えたのでしょう。彼は私より一つ年下でしたが、私より一年早くからマンションに住んでいたということで、最初は何となく体育会系のノリで敬語で話していました。ただそのうち「タメ口でええよ」と言われ、普通に話すようになりました。

姫路出身の彼は当時芸人を目指し、そのマンションで独り暮らしをしていました。吉本の養成所であるNSCに在籍して、現在まあまあ名前の知られた芸人(舌禍で炎上した某コンビの一人)と組んでいたこともあったとか。ネタ合わせを彼の実家でしていた当時の写真も見せてもらいました。

ただ最終的に彼は自分の限界を知り、夢を諦めて上京。夢を諦めて上京・・・というのも何か不思議な感じですが、とにかく彼と私が同じマンションに住んでいたのは1年間だけでした。彼は東京で新聞配達をしながら、また何か別の夢を追いかけていたようです。

 

 

半年くらいした頃。当時なんばグランド花月の向かいに「BASEよしもと」という若手芸人の劇場があり、たまたまそこに入って無名芸人のゴングショーを観覧していました。そこで私は「えぇっ」とビックリ。なんと何組目かの新人の中に、彼が突然登場。彼はいつの間にか大阪に戻ってきて、また芸人として再活動していたようなのです。

なら連絡くれれば良かったのに・・・と思いましたが、本人はやはり恥ずかしかったのでしょう。つい半年前に上京するといって出て行ったのに、半年もしない間に戻ってきて(3ヶ月も経たずに帰ってきたそうです)、そしてまた芸人を目指して頑張る。そりゃ確かに言い辛いでしょうね

そう思いましたが、私は彼の携帯番号を知っていたので、後で「今日たまたま見たよ」というと「あ、見てたんや」と気恥ずかしそうに応じました。確か当時はそれきり会うこともなかったと思います。

それから5年ほど経過し、私が東京の証券会社で働いていた時に、彼から久しぶりに電話をもらいました。「もう芸人は完全に諦めて、普通の会社に就職した。その会社の上場記念パーティで東京に来たんだけど会えない?」と。というわけで上野公園で待ち合わせをして、久しぶりにどこかで飲んだ記憶があります。

更にそこから数年が経過し、私は父が倒れたことなどもあり富山に戻ってきました。するとまた久しぶりに彼から電話がありました。「今は会社も辞めて陶芸を始めたんよ。まだそれだけで食ってはいけないけど、本当に面白い。今まで色々なことに手を出してはすぐ諦めてきたけれど(歳の数だけバイト経験があるのが彼の自慢でした)、ようやく自分の天職を見つけた」と嬉しそうに語っていました。


彼は普通の会社勤めが性に合わず、何か自分の道は無いかと模索していたところ、たまたま地元姫路のカルチャースクールで陶芸に出会い、それにどっぷりとハマってしまったのだとか。そのうち趣味が高じ、とあるコンテストで最優秀賞を受賞し、賞金100万円を獲得。以来、本格的に陶芸で食べて行こうと会社を辞めて自分の工房も作りました。バイトしながら陶芸に励む充実した毎日。

たまたま私の住んでいる富山県高岡市が工芸都市として毎年クラフト展を実施していました。これもまたたまたま、彼が見つけて応募してみたら入選したのだとか。そのクラフト展に出展した縁もあり、高岡の工芸品を展示するスペースなどに彼の作品を毎年置いていたので、毎年秋には高岡にやってきて、その都度顔を合わせ一緒にご飯を食べていました。本当に数奇な縁でした。

ところが一昨年は連絡も無く。私も子育てでバタバタしていたので音信不通の状況になっていました。彼も彼で忙しかったようです。ただ私のブログの熱心な読者の一人だったので、私のことは日々把握してくれていたようです。

そして昨年、彼は身体の異変を感じたそうです。背中がとにかく痛いとのこと。元々陶芸という職業病もあって、こんなものかと思って過ごしていたそうなのですが、いよいよ我慢できなくなり。コロナが流行り始めた間の悪いタイミングでもありましたが、6月に病院で精密検査を受けてみたそうです。

元々病院嫌いで、ほとんど病院に行っていなかったそうですが、遂に決断した検査で出た結果は「胃がんです。しかも末期的でもう手遅れです」ということでした。

 

 

突然の電話は「久しぶり。最近全然連絡してなかったけどごめんな」という切り出しで始まり、「高岡のメシは美味しい」「連れて行ってもらった焼き鳥屋が人生で一番美味い焼き鳥屋だった」など数分思い出話をした後に、「実はな・・・」と、その事実を打ち明けられました。「年賀状が次来なかったら、オレはもう死んだと思って欲しい」。

私にとっては人生初の経験で衝撃でした。いや、普通なかなかそういう話には遭わないでしょう。友人の人生にタイムリミットが設けられてしまった。一体どう声をかけたら良いのか。「マジか」「あー」などと相づちを打つ以外に思いつきません。そして、彼の人生の終わりまでに私にできることは何なのか。

これから更に大きな活躍が期待されていたのに、とても無念ではないか。ただ電話口の本人は「もう十分やりきった。別に結婚もしていないし子供も居ない。思い残すことはない。両親より先立つことだけが心残りだが、やりたいことは全部やりきったし、案外気分はスッキリしている。悔いの無い人生だった」と達観している様子でした。

「だから治療はしない。このまま死を受け入れようと思う」と。私は何も言えませんでした。こればかりは本当に本人次第であり、他人がとやかく言うのはエゴでしかありません。究極的に病魔と闘うのは患者本人でしかなく、徹底抗戦するにしてもその辛さ、大変さを受け入れるのは本人やもっと直接的に関わる家族ですから。

例えば私が彼だったら、やはりそう言ったように思います。どうせ治る見込みが無いのであれば、痛い思いをして病床で生き長らえるよりも、自宅でやりたいことをやって死んだ方がマシだと。ただ例え今の私がそう思っていたとしても、実際にその立場に置かれた時にどう思うのか。それを「そうだな」とも「違うよ」とも言えず、ただ「そうか」とだけ返しました。

私が「一度姫路に見舞いに行くよ」と伝えると「弱った姿を見られたくないから来ないで欲しい」と。一ヶ月で体重が10kgも落ちてしまって、体力も無いのだとか。確かに見舞いは結局こちら側のワガママでしかありません。コロナも流行っていますし。そう言われると、また「そうか」としか応えられません。

一方、話しながら彼はどういう気持ちで皆にお別れの電話を入れているのだろうか?と思ったり。約2年ぶりに話をしたのは、最後に縁を繋ぐものか、縁を切るためのものなのか。

その日は結局トータルで1時間くらい話をしました。最後に「また電話を待ってるから」と伝えました。彼は「おう、また」と言って切りました。電話口では今までの彼と大差無い感じのマシンガントークでもありましたし、にわかに信じられない気持ちもありました。

 

 

その後彼から「遺作」としてコーヒーカップが送られて来ました。既に以前彼から貰ったコーヒーカップを使っているのですが、それとは別の新作が送られて来ました。「使って」ということなのですが、これ以上彼の作品が出来ないとなると、正直使うことはできません。新作の方は大切にとっておくことにしました。

そのお礼として、地元高岡「能作」の風鈴を送りました何を贈れば良いのか悩みましたが「もう第二の故郷だと思っている」とまで言ってくれた高岡の品物で、また彼が病床で少しでも気が紛れるものになれば良いと思って贈りました。

彼からお礼の電話がかかってきて、大層気に入ってくれた様子。これはこれで良かったです。そしてもう一つ良かった報告として「オレ、やっぱり治療を受けることにしたわ」ということでした。その間どういった心境の変化があったのかわかりませんが、医者と話を続け、先日抗がん剤投与による延命治療を選択したようです。

ただ医者には「治療しなければ余命半年、治療をしても1年」と宣告されたとのこと。それでも、その半年の猶予を得るために、彼は治療を受け入れることにしました。「不幸中の幸いで、たまたま2年前からかんぽ保険に入っていて、それで治療費は全部出るらしく、親にも金銭的な迷惑がかからないし。できるだけ頑張ってみる」ということでした。

私は素直に喜びました。自分だったら病魔と闘うのが嫌なくせに、友人であれば闘って欲しい。勝手なものですそして彼は病魔と最後の最後まで闘う決意をしてくれたのです。それは現世に生き長らえる彼の周囲の人達にとっても嬉しい決断でした。

 

 

それから一ヶ月後、また彼から電話がかかってきました「抗がん剤打ったら無茶苦茶調子ええねん」「陶芸の意欲も戻ってきた」とやや興奮気味。元々マシンガントークの彼でしたが、ちょっと薬の影響でハイになっている感じがあり、一層私に相づちの隙を与えない程のスピードで話し続けました。

ただ、抗がん剤というものは段々効き目が悪くなるものですから、正直この状態が果たしてどこまで持続できるのか。とにかく目先だけでも元気になった彼からの電話は素直に嬉しく感じました。

それからまた3ヶ月経った頃。私は思いきって「今度11月の連休に姫路に行ってみようと思うけどどう?」と提案してみました。以前「弱っているところを見られたくない」と言ってたけど、その後心境の変化があれば、と。「丁度Go Toトラベルで安く行けるし、もし会えなかったら姫路観光だけして帰るし」と。

正直観光なんてどうでも良いのですが、彼に無理強いせずに済みます。彼も「あぁ、僕も会いたい。体調は月一で打つ抗がん剤のタイミングで変わるから、正直当日になってみないと何とも言えない。だから観光のついでに寄るって感じで来てくれるなら有り難い頑張る目標が出来た」とOKしてくれました。

当時はコロナが一旦沈静化したものの、少しずつまた感染者数が伸び始めた頃でした。彼が入院中だったら家族すら面会できませんが、抗がん剤を打つ日前後以外は自宅療養ということだったので、自宅であれば会えます。

私の唯一の心配は「県外からの来客と接触があった場合、病院で治療してくれなくなるのではないか」ということでしたが、その辺りは「かめへん、かめへん今更オレにコロナなんて関係無いわ」という返事でした。

勿論そんなわけにはいかないのですが、まあ富山は感染者もほぼ0でしたから、正直こっちから感染者数が多い地域に行って否定されるのはちょっと理屈に合わない感じです。というわけで、私は早速チケットやホテルなどを手配し、再会の日を心待ちにしました。

 

 

11月になり、姫路に行く日が近づくにつれ、コロナの感染者数が全国的に少しずつ増えてきました。むしろ私の方が母親から「どうしても今行かんとダメけ?」と前日に電話で釘を刺され、「いやいや、今行かなかったらいつ行くんよもう二度と会えないのかも知れないのに」とケンカに。当時でも兵庫で100人も出ていない時期でしたから、過剰に心配し過ぎだと。

コロナが年配者や基礎疾患のある人には取り返しのつかない大病であることは重々承知。ただ確率論で言えば感染者に遭遇するのは何万分の一レベルのお話。その人と濃厚接触する確率は更に低いはずです。

勿論「万が一」というのはあり得ない話では無いけれど、それを言い出すならば地下シェルターにでも籠もって家から一歩も出歩くなということになります。この辺りは本当にそれぞれの立場で意見が真っ二つに分かれ、議論は平行線になるだけ。株同様に未来のわからないことに明確な答えなど出るはずもなく、リスクとリターンを秤に掛けて考える他ありません。

それがわかった上で「行く」と決断し、相手側からも返事を貰っているわけなので、母からそのようなことを言われたからと言って今更翻意するはずがなく。心配しているようで、単に相手に心理的な負担を与えているだけということに何故思い至らないのか?「帰ってきてから2週間母ちゃんに会わないから大丈夫や」と電話を切り、道中うちの母に対してのイライラばかりが頭を占めていました

しかしこの母のような思いは、向こうの親御さんも同様に感じているのでしょう。息子がこんな大病を患って大事な時に、遠方から見舞いに来るなんて非常識じゃないのか。そう思われていると嫌だなぁとこの辺りも無論先方に確認したのですが「いやいや、うちの両親も君に会いたがっているから」と快い返事は受けていました。まあ真実なのかどうかは謎ですが・・・。

 

 

そして当日。電車を乗り継いで金沢から大阪にサンダーバードで移動し、大阪から姫路までは山陽線の快速で。当日は快晴で、海沿いを走る山陽線から見える海は本当に気持ち良く明石大橋がキレイで、すごい晴れ晴れした旅行日和でした。過剰に沈んだ気持ちにならず、お見舞いに行けます。ただ直前まで彼の体調が大丈夫かどうかわからないので、会えなかったらどうしようという不安もありました。

姫路に着いてケンタッキーで昼食をとり、ここで改めて「姫路に着いたけど体調はどう?大丈夫そう?」と連絡してみました。そこで「大丈夫」ということだったので、また電車で最寄り駅まで移動し、そこからGoogleマップを頼りに彼の家まで歩いて行きました。道すがら「あぁ、ここが彼が生まれ育った土地なのかと感慨深く。

家の前に到着すると、彼が玄関の扉を開けて出迎えてくれました。数年ぶりに会った彼は確かに少し痩せて老け込んだ感じはしたものの、一見大きな病気を患っているようには見えない程度でした。「久しぶり」と挨拶を交わし、お土産などを手渡すと、家に入る前に庭に作られた彼の作業場などを見せてくれました。

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「撮った写真はブログにあげて良いよ」と言われたので、今続けている防衛大学校話が終わったら今回の話を書こう・・・と思っていたのですが、結局彼の存命中に披露することはできませんでした。

作業場には焼く前のカップなどが棚にズラリと並んでいましたが「もう電気釜の重い蓋を開ける力が無いねん」と、彼は寂しそうに呟きました。カップたちの方もどこか寂しげでした。

 

 

それから手を消毒して家に招き入れられ、私はマスクをしたままご両親とご挨拶。この子にしてこの親あり。気のよさそうなお父さんとお母さんでした。ただお母さんに「電車はいっぱいでしたか?」と尋ねられ「特急はいっぱいでしたね」と応えると、表情が曇ったところは私は見逃しませんでしたまあコロナの環境下で心配しない人はいませんね

闘病中の彼は日がな一日ベッド生活。彼のベッドは家の中で一番陽当たりの良いところに置かれていました。ベッドの傍らには暇つぶしのジグソーパズルと大量の薬。たまに地元の友人にドライブに連れて行ってもらっているそうで、それ以外は家に居るか病院に行くか。彼はベッドの端に腰掛けると、そのまま横たわることなく久闊を叙していました。

昔の二人の思い出の振り返りから始まり、大量の薬を飲まないといけないこと、やはり抗がん剤の効き目が悪くなってきたので相談し、担当をよりガンの専門医に替えてもらったこと、血管が細くなってきたので胸に注射用の刺し口を人工的に作って貰ったこと。今の病状と状態を聞かせてもらいました。

「こうして考えてみるとな、去年虫の知らせというか、無性にやりたいことがたくさん浮かんできて。好きなアーティストのライブ10回くらい行った。井上陽水なんて2回行った
「いや、ホンマに虫の知らせがあったんなら、まずガン検診行けよ
私はとにかく悲しい感情は出さないようにしよう、なるべく笑い声をたくさん出せるようにしよう、なるべく普段通りに接しよう。心に決め、それを実践できました

当初1時間で帰ろうと思ったのですが、2時間になり、3時間になり。途中ご両親が「大丈夫?」と心配そうに覗き込みにきましたが「大丈夫、大丈夫」と名残惜しそうに引き留められました。私もついつい長居しました。

 

 

「陶芸で闘病なんて、前の朝ドラのスカーレットの息子みたいやな」など途切れることの無い会話が続きましたが、夕方になっていよいよ別れることに。帰り際にお父さんにお願いして2ショットの写真を撮ってもらいました実は今まで一度も彼の写真を撮ったことがなかったのですが、これが最初で最後のものに。

帰り際に彼が「オレもちょっと外に出るわ」と、二人で外を少し歩きました。なんとこの期に及んでまだタバコを吸っているとのこと無茶苦茶ぶりに呆れながら、まあ残り少ない彼の人生、好きなようにさせたら良いとご両親も黙認しているのでしょう。近所の自販機まで一緒に歩いていきました。

「ちょっとゆっくりめに歩いてくれる?」と言われ、彼に歩調を合わせて歩きました。ほんの200mくらいの距離でしたが、5分くらいかけて。道中「ここの幼稚園に通ってた」とか「昔からこの床屋がある」とか、彼の地元トークを聞きながら。

自動販売機の手前の信号で別れることにしました。信号待ちの間、私は「自分の納得いくまで闘い抜いてくれ」と最後に伝え、握手して「じゃあまた」と別れました。彼は少し意外そうな、そしてまた少し寂しそうな表情を見せました。心中どうだったのかはわかりませんが「最近すごく寂しさを感じる」と漏らした彼の本音が現れたのかも知れません。

ここで変に名残惜しむと別れられなくなるのでスッと帰ろうと思い、横断歩道を渡って立ち去りました。数十秒歩いてから一度振り返りましたが、彼もそれを察したように、振り返らず家に戻っていきました。

私はこの時「これだけ元気ならば、また来年会うこともあるだろう。もう一度来よう」と思っていました。しかし結局、これが彼との最期になりました。

 

 

その後姫路駅に戻り、姫路城を見学したり(時間が遅かったので入れず外からのみ)、「地元の人しか知らないような穴場グルメ教えて」と彼から聞いた東來春のシュウマイを食べたり。そして翌日は大阪に移動して初めて出会ったマンションなど彼との思い出の地を巡っては、外出が難しい彼に一々写真を撮って送りました。そのやりとりが本当に最後の彼とのコミュニケーションとなりました。

それから丁度一ヶ月して彼は亡くなりました。クリスマスの1週間前に様態が急変したとのことで、治療しても彼の寿命は半年しかありませんでした。当初医者に宣告された「治療をしなければ余命半年、しても1年」というのは何だったのか。私はオプジーボのような薬が出来ているのだから一縷の望みがある・・・と思っていたのですが、結局まだ人類はガンに対して非力です。

「ブログの防衛大学校の話を本当に楽しみに読んでいる」と言っていたので、なるべく彼が生きている間に完結できるようにしよう、しかし早く書き過ぎるのも早死にを予見しているようで嫌だな・・・と思って書いていたのですが、結局間に合いませんでした。今年、彼からの年賀状は届きませんでした。私からの年賀状は彼の目に触れぬまま一方通行で終わりました。

妹さんからのメールで「闘病中も全く弱音も吐かず、タバコも1日1箱吸っていて最後まで本人らしく生きて兄らしいなぁという思いでいっぱいです!」という返事をいただきました。本当に太く短く、やりきった人生だったのでしょう。何事にも未練タラタラな私は、人生の最後にはそう思えるのでしょうか。自信がありません。

未だに本当に彼が他界したことに対して現実感が無いのですが、また今年の秋頃に線香をあげに二度目の姫路旅行を計画しています。そして彼の墓前に大好きだったタバコでも供えてこようと思っています(完)



 

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