M-136

「現代音楽」へ向かって

オーケストラ・プロジェクト 2016

 

2016年9月11日  加 藤 良 一
 

池辺晋一郎さんはじめ多くの作曲家集団からなるオーケストラ・プロジェクトは、「オーケストラ作品の創造と発表のための運動を展開する。その目的に賛同する作曲家が、毎年1回、独立採算制による自主公演を開催し、新作オーケストラ曲の発表を行う。」ことを目的として1979年に旗揚げしました。以来、2015年までに30回のコンサートを開催しています。

今年は97日、東京オペラシティコンサートホールで、<「現代音楽」へ向かって~4人のまなざし>と題して4人の作曲家による全曲初演が行われました。

コンサートに先駆けて作曲家自らが「脱・現代音楽」というテーマについて語るプレ・トークがあり、これがじつにおもしろい。それぞれ4人のどなたの発言か記憶が定かでない部分もありますが順不同に列挙し、現代に生きる作曲家のみなさんが抱えている音楽に対する思いを聞いてみたいと思います。そんなことから、まとまりのない話になるかも知れないことをお断りしておきます。

 
まず、クラシック音楽における「現代音楽」とは何かということをはっきりしておくことが必要です。進行役の山内雅弘さんによると、近代・現代の音楽は、第二次世界大戦を基準とした1945年以降の音楽と捉えるとしています。するともう70年も前からの音楽ということになります。4人の方々は一部年齢不詳の方もいますが、察するに5060歳代です。ですから4人の方々が音楽を学びはじめた頃は、20歳前後となります。

1960年代末ごろまでが「前衛の時代」とされ、それまでの古典的な様式を大きく塗り替えるさまざまな音楽が登場してきました。それまで常識とされていた「調性的」つまり協和音や規則的なリズムなどが、次第に破壊されていったのです。即ち「無調」の音楽が生まれました。そのような音楽シーンの中にあって「調性」のある音楽を創るということはなかなか受け入れられない状況だったといいます。無調音楽は、一般の人にとっては、難解だ、聞きにくい、わけがわからない、などネガティブな印象ばかりの音楽と敬遠されはじめてしまいました。作曲家たちはこのような状況から抜け出したいと葛藤を続けていたのです。

1957年、武満徹が登場、『弦楽のためのレクイエム』を発表しました。日本の作曲家の多くはこの作品を黙殺したそうですが、なんとストラヴィンスキーが絶賛、世界的評価を受けるに至りました。音楽が飛躍的に動き出したときでしょうか。タケミツのある作品の終わりが〇調ではないか!、そうなのか、無調でなくてもいいんだ!と、まさに目から鱗、あらたな展開がはじまりました。自由な創作の時代が来たのです。

 
木下牧子さんは若いころ、「美しさ」とか「綺麗な響き」ということをいうと周りに無視されたと述懐しています。木下さんが以前からよく仰っているのは「奇を衒わず個性的に美しく、誠実に…」というスタンスを基本にしていることです。ご自身が演奏畑の出身であるがゆえに、名作といわれる音楽を弾きながら、聴きながら、浴びながら、心の中に溜まったもの、自分の中に醸成されたサウンドを音楽にしたい、時代がどうかとかいうことは関係ないといいます。器楽曲からスタートし、合唱、声楽、オペラと幅広いジャンルで作曲してきたので、今では室内楽も含めて総合的な音楽創りができるようになったといいます。

脱・現代音楽というようなことではなく、現代音楽の扉を開き自由に音楽を創りたい、そして重要なことは何かというと、もう一度聴きたい音楽か、何度も聴きたい音楽かどうかであると力説します。

 
「現代音楽」と「現代の音楽」とははっきりわけて考えるべきです。「現代の音楽」とはまさに<いま>ここで生まれ演奏される音楽だから、上で述べた「現代音楽」という狭い範疇に閉じ込めることはできません。すでに現代音楽の扉は開かれているのです。では、「現代の音楽」はなんと呼べばよいのでしょうか。これは過去がそうであったように未来にある一時代を総称して付けられる名称ですから、適当な言葉が出てきません。

たとえば、現代の絵画では「モダンアート」というネーミングがされていますが、「現代音楽」を「モダンミュージック」と名づけることはできないといいます。なぜなら、つまり「視覚」の世界である絵画に対して音楽は「聴覚」であり、両者のちがいには相当の開きがあるからです。

人間が視覚から得る情報量はたいへん大きいが、いっぽうで聴覚は音の記憶をつなげて再構成するので必ずしも直覚的ではない。視覚的な情報があるとないとでは、それに対する集中力はずいぶんと変わってくるなどの背景を考えると「モダンミュージック」と安易に名づけられないのではないかというのです。このあたりの話はいまいちよくわかりませんでしたが、視覚と聴覚の人間に与える影響のちがいが如何に大きなものであるかは理解できました。

 
  オーケストラ・プロジェクト2016 脱「原代音楽」へ向かって~4人のまなざし
        201697日、東京オペラシティコンサートホール

 1南 聡 《昼op.53 (2006/09)
   Satoshi Minami, HIRUop.53 (2006/09)
 2山内雅弘 主題の無いパッサカリア〜オーケストラのための
   Masahiro Yamauchi, Passacaglia without the theme for Orchestra
 3森垣桂一 ヴァイオリン協奏曲 第2番(2016
   Keiichi Morigaki, Concerto No.2 (2016) for Violin and Orchestra
 4木下牧子 《ルクス・エテルナ 永遠の光》 〜オーケストラのための
   Makiko Kinoshita, "Lux Aeterna" for Orchestra

   指揮:大井剛史 Takeshi Ooi   ヴァイオリン独奏:大谷康子Yasuko Ohtani
          管弦楽:東京交響楽団 Tokyo Symphony Orchestra

 

プログラムにそれぞれの作曲家が自身の作品について紹介しています。初演にして終演?、と自虐的な冗談が出るほど再演される機会は多くありません。だから、今日聴きに来てくれたお客さんはまさに生き証人だ、ということなります。録音音源は多分ないと思いますので、作曲家自身の解説を引用します。

1.南 聡 《昼op.53 (2006/09)
 三部構成。第一部は一定のリズム・オスティナート(反復)により発展し飽和状態に達する。第二部は金管の咆哮で始まり、やがて穏やかな楽想を経て再びフォルテッシモとなり第三部へ。第三部は最もオーケストラ的書法といえる。音域が面状に広がっていき、個々の音型が絡み合うというより、音響の総体的運動が中心。曲尾では強調されたリズムによってクライマックスとなり、その後崩壊して終わる。

2.山内雅弘 主題の無いパッサカリア〜オーケストラのための
 パッサカリアは、1718世紀の形式で、一定の主題が繰り返される上で次々と変奏が行われる楽曲。従って、パッサカリアには必ず主題があるが、冒頭のサンドブロックのようにピッチ感の曖昧な楽器や、ピッチが明確でも同時に複数なるため旋律として認識できないという意味で「主題が無い」とした。最後にパッサカリア主題も解体して終わる。

3.森垣桂一 ヴァイオリン協奏曲 第2番(2016
 2管編成、3楽章形式。ヴァイオリン独奏は大谷康子さん。1楽章はオーケストラのみの前奏の後、ヴァイオリンのカデンツァがテーマを提示。独奏の緊張感が高まったときにオーケストラが再登場、静かに終わる。第2楽章は発展の役割を持つ。軽快なテンポの自由なソナタ形式。終楽章は急速なテンポで激しく始まる。様々な楽器がヴァイオリンとアンサンブルを作り出す。最後は力強く華やかに終わる。創作段階で大谷康子さんからヴァイオリン独奏パートへのアドヴァイスを受けながら完成させた。

4.木下牧子 《ルクス・エテルナ 永遠の光》 〜オーケストラのための
 オーケストラは作曲家にとって一番創作し甲斐のある魅力的な編成。通常の三管編成とした。同形反復が中心、装飾を取り除き響きの美しさを追求した。
 木下さんは、作曲にあたりタイトルを先に決めたと種明かしされました。《ルクス・エテルナ 永遠の光》はレクイエムの一節ですが、とくにキリスト教を意識したわけではなく、単にラテン語の響きが気に入って採用しています。作曲家は誰でも一度は大規模なオーケストラ作品を書いてみたいと思うものだといいますが、今回の三管編成がおそらく最後になるとも仰っていました。


        
 
【関連資料】
M-128木下牧子<もうひとつの世界> (20141124)
M-127)贅沢なコンサートThe Chorus Plus II (20141013)
M-82)〈現代音楽〉と〈現代の音楽〉 木下牧子作品展3 〔室内楽の夜〕 (20081011






       
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