佐渡の歴史

 
 
[佐渡の歴史]
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なぜ佐渡は流人の島になったのか

流刑の思想は古くからあります。制度として定められたのは大宝律令以後です。隠岐・伊豆・常磐・佐渡がそれにあたります。佐渡は絶海の孤島で、当時の航海を考慮すれば流刑地としては最も重い刑罰でありました。しかし、江戸時代には、金山の国として、1700年以降、流人は無くなりました。


佐渡御金荷の輸送路は
 

佐渡金山陸揚之地(出雲崎町)

1600年、徳川家が政権を手にすると佐渡を直轄地として金銀山の開発にあたらせました。越後街道は江戸と佐渡を結ぶ主要街道として再編成され、佐渡三道と呼ばれました。佐渡で産出された金銀を「佐州御金荷」と称し、相川から小木まで陸送、小木から佐州御用船で出雲崎へ。出雲崎では、代官所役人立会いの元、御金蔵に納め2 〜3日後北国街道経由で江戸へ向かいました。


佐渡金銀山の人夫の生活
 
 

近世初期には佐渡金銀山で働くため、佐渡へ渡る農民が多く、渡海禁止令が出たほどでした。人夫と言っても彼らは立派な技術者であり、「大工」「山留」「ほり子」などの職種がありました。佐渡金銀山で働く人夫が特別な目で見られるようになったのは、「ほり子」の中の「水替」という坑内の深い場所で水を汲み上げる仕事をしていた者に無宿人を使うようになってからです。


天保の佐渡一国一揆発生したのは
 
 

天保9年(1838年)4月から8月にかけて、佐渡全島を巻き込む百姓一揆が起きました。この一揆の首謀者の一人が現羽茂町の善兵衛でした。天保年間は全国的に凶作に見舞われ餓死者を出すほどでした。しかし、税は軽減されず、農民は苦しんでいました。同年4月、幕府から「巡見使」が来島し、善兵衛らは島民の苦しみを直訴する計画を立てました。その案には、当時261町村の内、220町村からの賛同を得ました。しかし、奉行側のワイロ政策にその願いも叶わないませんでした。さらに、善兵衛は逮捕された。それに反発した農民たちが、前年の「大塩平八郎の乱」を例に、佐渡奉行から押さえつけられた豪農たちをも味方にし直訴しました。やがて、豪農と小前百姓は対立し、一揆は鎮圧された。善兵衛ら首謀者は江戸で獄死しました。


順徳天皇は、なぜ配流されえたか

 

 
 

第48代順徳天皇は、12歳のとき即位されました。当時は政権が幕府に移り、院政が形だけになってしまっていました。三代将軍源実朝が暗殺され、源氏の血が絶えたにもかかわらず、北条義時は幼少の将軍を立てて執権となり、依然として実権を握っていたので、ついに義時追討の院宣を発した。それを知った義時は、東海・東山・北陸の三道から京都へ進撃させ、朝廷を破りました。これを「承久の変」といいます。義時は、後鳥羽上皇を隠岐へ、土御門上皇を土佐へ、順徳上皇を佐渡へ遷し申しました。 佐渡における順徳上皇は、仏の勤行と歌道を精進され、仁治3年(1242年)ご絶食のうえ、崩御されたました。御年45歳、ご在島21年でした。


日野資朝は、なぜ佐渡に流されたか
 

日野資朝の墓

権中納言日野資朝は、鎌倉幕府の執権北条高時の軍勢が、京都の後醍醐天皇の朝廷へ攻め入った「正中の変」の際、幕府方に拘禁され鎌倉に護送されました。後醍醐天皇は、「承久の変」の後鳥羽上皇の意思を継 いで、倒幕し朝廷による直接政治をお考えでありました。鎌倉幕府の北条高時は、政治に力を入れず、田楽などに興じている失政を機に日野資朝、日野俊基らと謀議して倒幕を目指しました。各地から同志を集めたましたが、密謀の内容が露見し、資朝、俊基はともに捕らえられました。しかし、資朝は自らが首謀者であることを申し立て、佐渡への流刑となりました。元弘2年(1332年) 、佐渡の地で斬首の刑となりました。享年42歳でした。

>>佐渡の観光


日蓮は、なぜ佐渡に流されたか
 

 

日蓮は文永8年(1271年)、幕府により佐渡に流されました。それは、他宗を排撃し、幕府を批判したためです。日蓮は著書の中で「人々が法華経の教えを捨て、浄土教に帰依したために災害が続出しており、このままでは内乱や侵略が起こるであろう」と主張しました。日蓮から批判された僧達は、「日蓮は法華経に固執し、他宗を批判し、また弓などの戦の道具を蓄え、凶徒を庵室に集めている」と幕府に訴えました。日蓮は拘束され、これを認めました。また、幕府の実権を握る北条氏一門の帰依する僧たちが批判の対象になっているため、幕府側も何らかの処置をとる必要がありました。日蓮は法華経が正しいか、さもなければ流罪・死罪になっても法華経のために身を捨てる強い覚悟で幕府に対し、主張を曲げなかったため、文永8年、幕府は日蓮を逮捕し佐渡への流刑にしました。


日蓮洞窟
蓮洞窟(赤泊村)
「おけやき」

日蓮がご赦免になったのは、文永11年3月8日。河原田一谷(いちのさわ)を出発して真野渋寺より梨の木道を通って大木戸越よりこの坂道を下って、その日遅く真浦に着きました。しかし、泊まる宿も無くこの洞窟で夜露をしのぎました。翌14日舟本家に一泊、翌15日に出船しました。その間、立子家の老婆が粥をもてなしたそうです。明治30年の水害で、洞窟も埋まってしまいましたが、最近になってその一部を掘り出しました。この近くに「おけやき」という日蓮由来の大木もあります。


日蓮 波題目の碑

日蓮波題目の碑(赤泊村)

 

日蓮がご赦免になり、文永11年3月13日、国津の松ヶ崎から出船しましたが、沖合いに出ると東風にさえぎられ、真浦津に入りました。そして、15日に出た船も寺泊にはつけず、柏崎に流されて到着しました。江戸時代の天保のころ、この真浦は家数28軒の集落で、日蓮ゆかりの「波題目の碑」があります。言い伝えによると、船に乗って少し沖に出たところで「この島に4年間もいたが、自分の願望は空しくなかった。妙法が広まるとき、この島は自分にとっては、実に開運の地である」と言いました。そして、名残りを惜しまれ、朝日に向かって合掌すると静かな海面に「南無妙法蓮華経」の七文字が浮かびあらわれました。これを「波題目」と言い、その後もこの海上で信心の深い者は拝むことができると伝わっています。


金北山と金山の関連
 

金北山(佐渡汽船より撮影)

金北山は1173mで、佐渡の最高峰です。山頂には金北山神社があります。江戸時代初期に大久保長安が金山奉行とし、山頂の神社を修復し、その後も奉行所が修営を行っていました。また、島内の男子は7歳になると、父兄に伴われ、「初山」と称して、海岸の石を3つ持って登山する習慣がありました。こうして島内から信仰があった金北山でありますが、金山そのものは鉱山ではありません。佐渡鉱山は相川町の郊外に栄えた鉱山です。相川金山の象徴と言える上相川山にある「道遊の割戸」がその採掘跡です。従って、金北山自体は直接鉱山でなく、佐渡鉱山の北に位置することが由来なのです。


「おけさ柿」はどんな柿なのか
 

柿の実(7月に撮影)

佐渡南部の羽茂は古くから干し柿の産地とし、北海道から関西まで出荷していました。しかし「平核無柿」の導入により「十二が柿」に接木が行われ、昭和10年代から干し柿の生産が少なくなりました。甘柿の代表が岐阜の「富有柿」なら、渋柿の代表は新潟の「平核無柿」で、一般的には「八珍柿」と呼ばれます。この渋柿に35度の焼酎を振りかけ、密封して一週間で渋が抜けます。実は、これが「おけさ柿」の正体なのです。昭和27年12月、佐渡園芸振興大会が羽茂で開催された際、千葉大学水沢勝雄博士により、この八珍柿を「おけさ柿」と呼称し、以来、名称が統一され今日に至っています。


佐渡「堂の六号貝塚」の男性の人物は

金井町大字貝塚にある貝塚は、金井貝塚・貝塚古墳などと呼ばれています。昭和44年金井町教育委員会が発掘調査を実施した結果、本遺跡は縄文時代前期前葉〜中期中葉に形成されたサドシジミの貝層と埋葬人骨を伴う土層、立石をもつ土坑群が検出されました。発見された人骨は壮年〜熟年男性で、装飾品などと共に埋葬されており、縄文時代中期前半に漁労や狩猟を主とする集落を統括する首長である可能性が高いと言われています。


真野御陵(真野・真野)
 

真野御陵の公称は「順徳天皇火葬場」でありますが、「御陵」と同じ扱いで宮内庁で管理しています。順徳天皇は第84代天皇で、後鳥羽上皇の第3皇子にあたります。仁治3年(1242年)9月12日46歳で崩御され、翌日ここで火葬にし、そのあとに松と桜を植えて目標としました。翌年5月供奉の藤原康光がご遺骨を京都の大原の法華堂の傍に納めました。その後、御火葬塚は荒廃したので、延宝6年(1678年)国分寺賢教と真輪寺賢照が連名して、時の佐渡奉行曽根五郎兵衛に修築を建議し、翌年6月に工事が完成しました。現在は外観を眺めるだけで、中には入れません。


真野宮(真野・真野)

(真野宮)

 

 

(石抱きの梅)

順徳上皇を奉祀し、菅原道真と日野資朝を配祀しています。国分寺の末の真輪寺の旧跡で、明治の初めに「真野宮(まのぐう)」と改名されました。大正9年、現在の社殿が造営され、昭和17年の「700年祭」には神域を拡張しました。 また敷地内には、「真野町三貫目沢 西古墳(えぞ塚)」があります。真野町には25基の古墳がありますが、近年の開発で破壊され、その内の1基を移築したものです。佐渡の古墳は横穴式石室の円墳です。

真野宮は真野御陵と約800m離れていて、御陵への道中には「石抱きの梅」と言って、順徳上皇のお手植えとされる石を抱いた梅の古木があります。また、この付近の海岸は「恋が浦」と言い、御着船のところと伝えられています。


杉野浦の一里塚(羽茂・大崎)
 

一里塚は江戸時代街道の両側側一里ごとに土を盛り、里程の目標としたものです。塚の上には榎や松が植えられました。ある川柳に「くたびれたやつが見つける一里塚」というものがあり、長旅を歩き続けた昔が偲ばれます。島内には街道沿いに31の一里塚があるといわれています。一例として、金山のある相川町から小木町までをおおよそ記してみると、相川から中山峠(旧街道)〜佐和田町窪田〜佐和田町八幡辰巳〜真野町豊田〜真野町大木〜真野町西三川〜羽茂町小泊〜羽茂町村山〜小木町小木とありました。現在は県道などの整備により壊滅してほとんどわかりません。


佐渡にある「駅」とはなにか
 

(松ヶ崎駅跡)

佐渡の道を走っていると「駅」もしくは「駅跡」という表示を目にすることがあります。佐渡には鉄道はありません。では、なぜ「駅」なのでしょうか?写真の「松ヶ崎駅跡」は佐渡の三駅のひとつで、そのほかには西三川、佐和田にあります。この駅跡は奈良から平安時代のもので、律令制のもと、公私の旅のため、駅馬・駅船・人夫などを常備していたところだと思われます。また佐渡の国津(正規の港)であり、30里ごとに駅を置くことが定められた時代があり、(駅制)松崎駅として繁栄した経緯あり、その名残かと思われます。ただし、あまりにも古いために、駅跡の標はここら辺ではないか?という推測の元に設置されているとのことです。また、畑野町や金井町、相川町にも「駅」との表示がありますが、これは近世のもので、以前のバスの切符売り場の跡だということです。


鎮目奉行の石塔(相川・下相川)
 

(鎮目奉行の石塔)

鎮目(しずめ)市左衛門惟明は、名奉行として知られています。それは大久保長安の没後、衰退に向かっていた金山の復興に大きく寄与したからです。金山、銀山で働く者たちへ、生産資材を提供したり、米を市価より安く売るなど、労働者の労働意欲を意欲をかきたてました。また、貨幣流通の円滑化と銀の島外流出を防ぐため、佐渡の一国通用の極印銀や小判を作るなど、経済の活性化にも力をいれました。そのため金銀山は産出量も増え「前後無類の盛り」といわれる時代を築きました。鎮目奉行は64歳で他界しましたが、その死因にはこんな話が残っています。彼は非常に釣りが好きで相川の吹上ヶ浦で大たこが海に引き込もうとしましたが、刀を抜いて自らの手を切りたこに与え、一命を取り留めましたが、この傷が原因で亡くなったと言われています。こうして鎮目奉行は下相川に葬られ、弘化2年(1845年)に供養碑が建てられました。また、彼は甲州の出身で、供養碑の隣には甲州からの碑も並んでいます。


良寛 母の碑(相川・郷土資料館前)
 

(良寛 母の碑)

独特の書と、子供たちに親しまれた良寛の母親は佐渡の出身です。良寛は出雲崎町の海辺に立って、佐渡を眺めて、母の故郷をなつかしく想いました。佐渡を詠んだ和歌は数首ありますが、「たらちねの 母がかたみと あさゆふに 佐渡が島べを うち見つるかな」の一首を、肉筆のまま銅板に彫った石碑が残っています。母は秀子といい、相川町の橘屋山本庄兵衛の娘です。17歳のとき、出雲崎の親戚の養女となり、のちに与板町の新木左門を婿に向かえ、その長男栄蔵が、のちの良寛です。母秀子は、49歳で亡くなりました。良寛の和歌に「沖つ風 いたくな吹きそ 雲の浦 わがたらちねの 奥津城(墓所)どころ」の一首から、母の墓はここにあると言う説があります。しかし、「雲の浦」は出雲崎を文学的にしたもので、出雲崎にあると言う説もあります。良寛は、母の故郷である佐渡には一度も渡ることはありませんでした。


安寿塚(相川・南片辺)
 

(安寿塚)

奥州54郡の大守、岩城判官正氏は罪を得て筑紫(九州)に流されました。その子、厨子王丸と安寿姫は、母とともに父を慕い筑紫へ行く途中、直江津で悪人に騙され、人買船に売られました。母は佐渡の鹿の浦(かのうら)に連れてこられ、虐待の果て盲人になりました。安寿と厨子王は母と別れ、丹後(京都)の強慾な山荘太夫の手に渡り酷使されました。のちに、父の死後、無罪であったことがわかり、厨子王は父の後を継ぎ、太守に。そして、安寿とともに母を迎えるため佐渡に渡りました。安寿は、「太守」の格式をもつ厨子王と別れ下男を連れ、鹿の浦にいる母を探し出しました。しかし、盲目の母は、いつも村の悪童どもに騙されていたので、本当の安寿が来ても信用せず、ついに、枝で打ち殺してしまいました。あとで、このことを聞いた母は、泣き悲しみ安寿の亡骸を川の上流に葬りました。それからは、安寿の涙のためにこの川に毒が流れるようになりました。安寿の母を虐待した佐渡二郎の子孫は衰退し、この鹿の浦にも人は住まなくなりました。このほか、畑野町にも「安寿塚」が残っています。


流人大納言(相川・鹿伏)
 
(実起の墓)
 
(公連の墓)

小倉大納言(実起)、長男公連、次男季伴が配流されたのは天和元年(1681年)12月でした。小倉実起は一流の知識人であり、儒学にも優れていました。長男公連は和歌をよくし、親子の在島は佐渡の文芸の興隆に寄与するところが大きかったと言われています。実起親子が流罪になったのは、実起の娘が天皇の第一皇子をもうけながら、皇位継承をさせないと天皇に逆らったためです。実起親子が相川町の鹿伏村にわびしく暮らすことになりました。流人とはいえ、日常生活は束縛されず、配流の3ヶ月後には役人や山師などが参加して長男公連を講師に歌合(うたあわせ)が催されました。また、佐和田町の中山家に20日間も滞在したり、長谷寺へも出かけていました。実起と公連は現在も相川町鹿伏の里観音寺の墓地に眠っています。墓は風化していますが、かつては「故左遷人藤原氏之墓」と書かれてあったと言われています。戒名も、実名も無い墓です。これは、自分の名を後世に残す意図もなく、あらゆるものに執着を断った心があったと思われます。


源三郎自刃の地(相川・春日崎)
 

(大岡源三郎の塚)

 

(相川町市街)

相川町の南西に春日崎があります。この地に「大岡源三郎の遺跡」があります。その近くに円形の塚があります。この塚は、承応3年(1654年)5月、大岡源三郎の自刃した地として築かれたものです。中間頭(ちゅうげんがしら)大岡源右衛門、長男源三郎、次男虎之助が流されたのは、慶安4年(1651年)8月13日でした。流罪の理由は、幕府転覆を図った「慶安事変」を犯した丸橋忠弥に槍の道場として、長屋を貸していたからです。親子は佐渡に流されて、相川諏訪町で、丸橋忠弥から習った槍の道場を開いて生活していました。道場の門をたたいたのは奉行所の下級の地役人達でした。その後、3年を過ごし、承応3年(1654年)5月18日、大岡源三郎は春日崎にて切腹しました。書見では「渡世致し難く」とだけしか残っていません。道場に通う下級武士たちの心情を知る源三郎は、相川を一望できるこの地で切腹をし、権力に対する抵抗を示したのではないかと言われます。父、源右衛門は3年後に病死。次男虎之助は赦免になり、中間頭に復職し、事件の政治的複雑さが見受けられます。


手なし仏(真野・竹田)
 

(手なし仏)

 

(阿新榎)

真野町竹田に、通称「手なし仏」があります。恐れられ、崇りのある仏とされています。ここは、日野資朝が斬られた場所と伝えられています。資朝の子息で13歳の阿新丸(くまわかまる)が父との対面を許さなかった城主本間入道を恨み、入道の弟、本間三郎を討ち、その首をここに置き父の霊に供えました。その時、追手が迫り、近くの松に身を隠し、落ち延びました。この松を「阿新隠れ松」と言われましたが、その松が枯れ、榎が自生したので「阿新榎」と称しました。なお、資朝の処刑地は紅田(べんだ)と言う所ではないかという説もあります。今では竹田集落の人たちは、この地は阿新丸を脱出させた山伏大膳坊が、城主の怒りにふれ、石子積(いしこづめ)の醜刑に処された所と伝えられています。生きながら穴に入れられ、さらに小石で埋め殺された大膳坊が「手なし仏」という通称を呼び起こしているのでしょう。現在では、阿新丸の隠れ松は阿仏坊妙宣寺の近くに、また大膳坊を奉る大膳神社もあります。


藤塚貝塚(真野・新町)
 

(藤塚貝塚)

 

(貝殻)

藤塚貝塚は真野町の南西のはずれにあります。この貝塚は縄文中期末頃、4500年前くらいのものだと言われています。この貝塚の貝殻の9割は淡水産のシジミ貝。その他はハマグリ、バイ貝です。ほかにマダイ、クロダイの魚類。イノシシ、野ウサギ、鳥などがあります。また、狩猟の石鏃や魚をとる骨角製のヤスなどの石器片が出土します。土器は沈線文様が主で、貝殻条文がある佐渡独特のものです。また出土する人骨からは 身長が低い短頭型の佐渡人の祖先も想像できます。 なお、この貝塚は県史跡文化財に指定されています。私が取材に行った時は、地元のご老人が草刈をされていて、お話しをお聞きしたところ、今は原型がわからなくなっていて、畑になっている辺りではないかとのことでした。また、偶然にも貝殻を見つけることができました。 本物の遺跡かどうかはわかりませんが・・。


太運寺(真野・竹田)
 

(太運寺 山門)

国分寺から妙宣寺の道中に「寿宝山太運寺(たいうんじ)」があります。昭和の評論家 亀井勝一郎が佐渡に訪れた際、「苔むした石段の下から眺めたかやぶきの山門は、佐渡で私の見た諸寺の門の中で最も端正であった。背景の杉の大樹と実によく調和している。時代はそう古くはあるまいが、小さいながら清楚で、引き締まっていて、東山時代の高淡さえしのばれる。そういう山門を作ろうと思って作ったのではなく、ただ何気なく出来上がったという趣がいいのである。」と山門を賞賛しています。この寺は亨徳元年(1452年)本間信濃守長信が創立したといわれ、はじめは金井町貝塚にあって、雷沢山法久寺と言っていましたが、永正3年(1506年)その子、高康がこの地に移したものだと言われています。この高康は、のち山城入道太運寿宝庵主といったので、「太運寺」といいます。今も彼の使用した、袈裟や数珠などが保存されています。


佐渡の飛鳥路(真野・竹田、吉岡)

(佐渡飛鳥の碑)

(佐渡飛鳥路)

真野町の小佐渡山脈の丘陵地吉岡・国分寺・竹田の集落をぬって路線バス南線、約2kmの道は、奈良の飛鳥路を歩くようだと言われています。広く開けた平野の向こうに大佐渡山脈が、靄にうすくぼかされて聳えています。かつて、評論家 亀井勝太郎は、「この平野に香久山(かぐやま)、耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)を望むことができたら、奈良平野そっくりだ。」と言っています。ここは、佐渡において、最も史跡に富み、古い佐渡を偲ぶにふさわしく、その風光もまた奈良の飛鳥路をほうふつさせるものがあります。


秋葉山供養塔(両津)
 

(秋葉山供養塔)

秋葉山は火よけの神として、庶民の厚い信仰を集めています。佐渡にはこの秋葉山が200塔あると言われています。この塔は、現在の静岡県周知郡春野町にある、秋葉寺三尺坊、秋葉山大権現を信仰する講中が建立したもので、講から毎年代表者を出しますが、この供養塔にも日参り、月参りをして防火を祈願しています。


北 一輝、北 ヤ吉の碑(両津・原黒)
 
(北 一輝、北 ヤ吉 彰徳碑)
 

(北 一輝の生家)

北 一輝は、日本にかつて無いクーデター2.26事件の黒幕の人物と言われています。両津市原黒の勝広寺に墓があります。東京目黒の羅漢寺の境内にも墓と記念碑がありますが、佐渡のものは分骨したもので、同志西田税も遺言によりここに埋めてあります。一輝は明治16年4月15日、両津市湊町北 慶太郎の長男として生まれました。小・中学校とも秀才でしたが、小学校の時の眼病により、19歳の時右眼が失明しました。この失明が彼の青春を暗いものにし、その生涯に大きな影響を与えたと言われています。24歳の時「国体論及び純正社会主義」という1000頁もの著書を自費出版しました。その資金は実家が破産の際、弟達の学資金でした。その為、弟ヤ吉とは長い間不和になりました。しかし、この著書は当時の学者や評論家から絶賛を浴びましたが、懸念していた通り発売禁止となりました。彼は貧困のどん底落ち、その後中国に渡り、2.26事件で反乱軍将校のバイブルとなった「日本改造法案大綱」を書きました。昭和11年2月26日、大雪の東京の未明、1500人あまりの軍人が主要大臣を殺害し、重要官庁を占拠しました。彼の思想が影響したという理由で事件後逮捕され、翌年8月処刑されました。54歳でした。今では両津市湊若宮八幡神社境内に弟とともに、記念碑が建っています。


小川台場跡(相川・小川)
 

(小川台場跡)

「台場」とは、江戸時代要害の地に設けて大砲を備え付け海防に備えた砲台のことです。佐渡には60の台場がありましたが、小川台場はただ一箇所、完全な形で残っており、平成14年に新潟県指定文化財となりました。この台場は、文化5年に建てられ、今まで置かれていた小型の筒では敵を追い払うことができなかったということで、嘉永3年(1850年)4挺の大筒(おおづつ)が作られました。4挺の内1挺は海府番所に置かれる予定でしたが、隣の小川村(相川町小川 )の「殿見崎」からは周囲が良く見渡せるため、ここに設置されました。また、残りの3挺は鹿伏村の春日崎(相川町鹿伏)、鷲崎村(両津市鷲崎)弾野、住吉村(両津市住吉)に置かれました。異国船の来襲による交戦はなかったものの、訓練は行われ、地役人達が砲術を習いました。


真法院の苔梅(両津・梅津)
 

(苔梅)

両津の梅津に真法院があり、その境内には、順徳上皇のお手植えとされる梅の老木があります。これを「苔梅(こけうめ)」と言い、木の幹を包んでいる苔の間から梅の花が咲くのでこの名が付けられました。花は重弁、淡紅色です。「佐渡国寺社境内案内帳」によると、「安永3年(1774年)損ず」とあり、その後、大正7年(1918年)羽黒山大火で焼けてしまいましたが、その古木の根本より生じたのがこの梅とされています。


真野古墳群(真野・大立)
 
 

佐渡の古墳は真野湾に集まっています。二見に2基、真野に25基を数えます。しかし、近年の開発により破壊されました。昭和2年の調査では78基が報告されていました。佐渡の古墳は横穴式石室をもつ円墳で、出土品は人骨、直刀、鉄鏃、鍔、鎌、鍬、管玉、土師器などの鉄製品が多いのが特徴です。これより、当時鉄を使う文化の人々の墳墓と推測され、また古墳の近くからは製塩遺跡から出土する土師器が同じものであることなどから、鉄を作る人は塩も作っていたのではないかと考えられます。鉄釜による製塩という新しい文化をもった人たちが作ったのが佐渡の古墳なのです。


砂金山(真野・西三川)

(砂金山)

西三川に沿って8kmほど上ると赤茶けた山肌が見えます。昔、この砂金山は水路を引き、それに水を流して彫った山の土砂をそこへ崩して金を採りました。赤茶けた山肌は崩し取られたあとです。「今昔物語」には能登の砂金取りが来て金を採ったそうです。今でも川から砂鉄と砂金が一緒にとれることは、古くからの由緒を感じさせます。また、こんな話も残っています。昔この地の農民が自分の畑のネギを港に持って行き売りました。その時、そのネギを買った船頭が、根についた砂の中に砂金を見つけ、農民に頼んで、その畑に代価を払い砂金を採りました。船頭は度々、西三川に来たので村人が砂金のことを知ったそうです。そして、一ヶ月18枚ずつ砂金を税として納めたので、笹川十八枚村と呼ばれてきました。現在は、下流に「西三川ゴールドパーク」があり、観光地としてにぎわっています。


小泊須恵器釜跡(羽茂・小泊)
 
 

羽茂町小泊の検地帳によると、亀川や亀畑などの「亀」のつく地名が多く見られます。「瓶」「甕」のあて字で、小泊窯の由緒を伝えています。窯跡は標高100m〜150mの海岸段丘地帯にあり、今までに3箇所、調査されました。出土品は皿形土器、高台付坏、蓋形土器、壷形土器など多量の須江窯と、少量の瓦や陶硯などです。皿は浅いもの、高付台坏は深い容器です。蓋形土器は、ろくろの跡がはっきり残っています。また、文字瓦は「庇」と読めるものや「×」印、「石」ではないかと思われるものがあり、このような文字瓦は、国分寺瓦を焼いた段畑遺跡から出土されるだけです。このことから、国分寺の瓦は良質粘土をもつ小泊窯で焼かれたと考えられています。また、ここ小泊は隣接する真野町椿尾とともに古くから佐渡の石仏や石造物の中心的生産地で、佐渡だけでなく島外にも輸出され、富山市長慶寺の五百羅漢は有名です。なお窯跡までは車では行けません。


人形つかいの碑(羽茂・大崎)
 

(人形つかいの碑)

佐渡の人形芝居は「説教人形」「文弥人形」「のろま人形」に分けられます。この内、説教人形は最も古いもので、台本は説教系統の三庄太夫、信田妻、小栗判官を語りました。また金平(きんぴら)系統の熊野合戦、浜松合戦、大田合戦などを語ったもので、「金平人形」とも言われています。合戦ものを主とした芝居で、舞台も客席を区切るさげ幕1枚だけでした。この説教人形を改良して明治初期、文弥人形を創始したのが大崎屋松之助でした。松之助、没後、追善碑が大正7年、生家近くの道沿に建てられました。


 


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