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道楽探偵の夢のような一日
◇ ◇ ◇ 翌日。日曜日なのを良いことに、悠は寝坊を楽しんでいた。枕元の時計は十時近くを指している。カーテン越しの光もそろそろ、柔らかさを失う頃だ。 (和兄もどうせまだ寝てるよね…。でもまあ、そろそろ起きようかな。洗濯もしようと思ってたし……) 寝返りを打ちながら、目を閉じたまま悠はそう考えた。実際、もう半分以上目覚めてはいる。本格的に起きあがるのが面倒なだけだ。 (昨日はなんだか疲れたしさ…って…あれ?どうして疲れたんだっけ? 和兄がまた何かやらかしたんだっけ? うーん…とってもすごいことがあったような気がしたけど…) 思い出せない。どうやら、まだ脳の奥は眠っているらしい。 そんな悠の鼻先に、いい匂いが届き始めた。 (何の匂いだろう? 朝ご飯? あれ? 和兄がもう起きてるのかな?) 意を決して、悠は目を開けた。ベッドの上に体を起こして、鼻を動かす。やはり、朝ご飯の匂いである。 (和兄が日曜日に早起きするなんて、珍しいな) そう思いながら、適当に着替えを済ませて、悠は自分の部屋を出た。 リビングに向かいかけたところで、目の前のドアが開く。和己の部屋である。 「おはよう、和兄。って……あれ? 今起きたの?」 少し長めの髪についた寝癖と、パジャマ姿を見て、悠が問う。和己がうなずいた。 「ああ。おまえもだろ?」 「うん。そうだけどさ。…じゃあ、この朝ご飯の匂いは?」 「…シギじゃねえの? もともと掃除と料理はするっていう条件だろ。だいたい、昨日の晩メシだってシギが作ったじゃねえか」 事も無げに言って洗面所に向かう和己の背中を見ながら、悠は自分の思考回路をつなぐことにようやく成功した。 「…シギ? ……ああ、そっか…」 成功したが、そのことにちょっぴり後悔もしていた。夢だったらどんなによかっただろう。でも夢じゃない。悠は自分の左手を見下ろした。数カ所の小さなやけど。 「レーザー光線だもんなあ…」 受話器の残骸はすぐに放り出したし、シギ自身が言ってたように、威力が小さかったからだろう。レーザー光線は受話器の表面を溶かしただけで、手のひらはほとんど無傷ですんだ。指先に、軽くやけどをした程度だ。ひりひりとした、かすかな痛み。それでも痛みは痛みだ。 「…夢じゃないんだよね」 がっくりと肩を落として、悠はリビングに向かった。
「ああ、あとで出かけるからな、シギ」 朝食を口に運びながら和己は、それを作った当人に言った。 シギがうなずく。 「わかりました。どちらへ? それと、食事のご感想は?」 「うん、うまい。…おまえに味覚はないんだろうけどな。…出かけるのは、昨日言ってた故買屋だ。おまえも一緒にな」 「私もですか?」 「もう一度、あいつに聞いてみるさ。メールじゃ、つれない返事だったけどな。実物(おまえ)を見せりゃ、何かわかるかもしれない。それと、汗かいたりはしないんだろうが、着替えがないと不便だろう。出かけついでに、服の二、三枚も買ってやるさ」 「わかりました。──ありがとうございます」 シギがにっこり微笑んだ。そうして、ふと、和己の向かい側に座っている悠に目を向ける。 「悠さん、朝食はお気に召しましたか?」 チーズトーストとスクランブルエッグ、野菜スープ。簡単なものではあるが、味はいい。和己も、学生時代からずっと一人暮らしだったせいで料理はうまいが、その叔父の料理よりもさらに美味だ。 「うん。おいしい」 悠は素直にうなずいた。もともと人見知りをしない性質(たち)ではある。相手が若く美しい女性なら、それに輪をかけて愛想もよくなる。…が、ロボットに対してというなら、今まで経験したことがない。どう対応していいのかわからなくなる。 正面で、チーズトーストをかじっている叔父は、そういうことに全く頓着していないように見える。ただ単に、手の掛かる居候が一人増えただけ。そうして、たまたま新しい居候は人間じゃなかっただけ。でも料理はうまくてラッキー…そう思っているのだろう。 そして、その推測は当たっていた。コーヒーのおかわりを要求しながら、和己が微笑んでいる。 「シギ、おまえのどっかに料理のプログラムとかって入ってんのか? すげえ便利じゃん。良かったよ、悠のヤツは何もできねえから」 「僕、温室育ちだからさ」 「てめえで言うなよ」 全く普段と変わるところのない叔父を見て、悠は小さく溜め息をついた。それを見とがめるように、和己が口を開く。 「何だ、朝からうざってえな。溜め息なんかついてんじゃねえよ」 「溜め息くらい出るよ。ねえ、和兄は何とも思わないの?」 「何が?」 「だって、僕たち今、ロボットの作った朝ご飯食べてるんだよ?」 「…うまいじゃねえか」 「たしかにおいしいけどさ。普段、和兄のご飯食べてもおいしいなって思ってたけど、今日のはそれよりさらにおいしいけど。スープの中の野菜の絶妙なバランスと彩り、塩加減。どれをとってもカンペキだし、スクランブルエッグの黄身と白身の混ざりかたと、ちょうどイイ半熟加減、そして塩と胡椒の……」 「悠。ウルサイ」 食事を終えて、コーヒーを手にしていた和己が、悠を一蹴する。軽く咳払いをして、悠が続けた。 「とにかく。料理評論はともかくさ、和兄はこういう状況は変だと思わないの?」 「ロボットと一緒にいることか? 確かに変だとは思うさ。世間一般でいうところの日常とはちょっぴり違うよな」 「…ちょっぴり?」 「そうじゃねえか。違うとこなんて、一つだけだろ? シギが人間じゃねえってところだけじゃねえか。けどまあ、それはいいんじゃねえ? たいしたことじゃないと思うけど」 「………そう…かなあ?」 今ひとつ納得のいかない様子の悠に、和己が言い募る。 「だってよ、考えてみ? シギがロボットだからって、俺達が何か困るか? どっちかっつーと、いいことのほうが多くないか? だって、食費もかからないし、人間の女と違ってめんどくせえところはないぞ?」 言われてみればその通りなのである。ロボットであるという事実さえ認められるのならば、そこから先の問題は人間よりも少ないかもしれない。 「それは…そのとおりだね」 悠は納得することにした。
「…いいんですか、こんなに買っていただいちゃって?」 買い物を終え、いくつかの紙袋を和己と分けて持ちながら、シギが尋ねる。それぞれ、中身は、全て洋服である。それらを合計するとしたら、相当な金額になるだろう。 「ああ、いいのいいの。どうやら、おまえは料理上手らしいから。報酬先払いって感じだから、気にすんな」 片手に、袋を掲げて見せながら和己が微笑んだ。その言葉に今ひとつ納得しかねるように、シギが呟く。 「でも、私なんか、所詮……」 「いいんだって! 確かにおまえは人間じゃないし、なおかつ、俺の部屋にだって長く住むわけじゃないだろうけど。まあ、それでもおまえの身元調査には時間がかかりそうだしな。着たきりスズメってのも見栄えが悪い」 人間じゃないし、のあたりは声をひそめて、和己が言った。シギがようやくうなずく。 「わかりました。ありがとうございます」 「それでいいんだ」 うなずき返した和己の横を歩きながら、シギがふと、空を見上げる。 「でも、今日はいい天気ですねえ。悠さんも一緒に来れば良かったのに」 「あいつは図書館でお勉強だ。テストが近いとか言ってたし、そのテストで俺と賭けしたしな。負けられねえとか思ってるんだろう」 「あら、そうなんですか?」 「そうそう。でもまあ、あの進学校で五〇位以内ってのはさすがに無理だろうから…そのテストが終われば、俺は晴れて煙草を吸えるってわけだ。……ふふん、もし五〇位にもれたら…笑うだけでなんて済ませてやるもんか。思い切り罵倒してやる。これでもかって言うくらい、イヤミを言いまくって、その上であらためて爆笑してやるんだ」 心底楽しそうに言う和己に、シギが小さくうなずいた。 「…そういうもんなんですか」 「ああ、そういうもんなんだ」 自信満々に言う和己のセリフに、疑う理由は見つけられず、シギは納得することにした。 「…ああ…っと、こっちだな。……確か」 住所表示すら定かでない、細い小路を、和己は曲がっていった。ついて歩きながら、シギが辺りを見回す。 「…住宅街…ですか?」 「ああ、まあな。おおっぴらな店じゃねえからな」 さらに数度、入り組んだ路地を曲がる。しばらくの後、和己とシギは目指す建物の前に立っていた。 ビル…と呼べないこともない。かなりの無理をするならば。決して、狙ってやっているのではないだろうことが一見して知れる、コンクリートの打ちっ放しの壁。その壁を幾本かの汚れの筋が彩っている。汚れの筋のように見えるもののさらにいくつかは、コンクリートそのもののひび割れでもあるようだ。真正面から見える五つの窓のうち、ひび割れていない窓のほうが少ない。 周囲の二階建ての一般住宅よりも背は低いが、窓の位置と数を確認する限り、三階建ての建物であるようだ。一階の正面には、古ぼけた、ガラスの引き戸がある。内側にひかれている薄汚れたカーテンに遮られて、中は全く見えない。 「……変だな。休みかな?」 引き戸に手をかけて、それが動かない事を確認しつつ、和己が呟いた。その後ろでシギがうなずく。 「ええ。…カーテンも引かれていますし…」 「ああ、カーテンはいつだって引いてあるんだ。ただ、営業中の時は、カーテンのこっち側に、小さな緑の札がかかってる。…んで、休みの時は赤い札が…かかってるはずなんだけどな」 見る限り、どちらの札もかかっていない。 「…どっちかはかけとけよなあ…」 溜め息をつきつつ、和己はガラス戸に肘をついて、それに体重を預けた。古い割にたてつけそのものは悪くないガラス戸も、その重みにかすかな悲鳴を漏らす。 「……ん?」 下に、視線を向けた和己が、小さく疑問の声を上げた。 「どうかしましたか?」 「…いや…ここに……ガラス戸の内側に札が落ちてるんだけど…」 「まあ、では、かけてあった札が落ちたんですね」 「そりゃそうだろうな。…でも、緑色の札だけどな」 ガラス戸の内側、カーテンの裾近くに落ちている札を見つめながら、和己が呟く。その呟きを耳にしてシギは、立てた人差し指をそっと顎にあてて言った。 「そういたしますと……緑色の札で、営業中でいらっしゃるのに、鍵がかかってる、っていうことですか? 間違えていたら、ごめんなさい」 微笑みとともに、ゆっくりと発音されたその言葉に、和己も微笑みで返した。 「その通りだ。偉いぞ。悠よりも頭がいい」 「あら、そんな♪」 「…っていうか、わかって当然だけどな。わからねえっつったら、頭ひっぱたいてたところだ」 「…………あら…そんな」 シギの呟きを無視して、和己はガラス戸を叩き始めた。 「おーいっ! ゼン! いるんだろ!? 居留守ぶっこいてんじゃねえよ、サラ金じゃねえから! 俺だよ!」 ばんばんっと、ガラスが割れない程度に、だが、気を遣っているとは思えない微妙な力加減で、和己は戸を叩き続けた。
……がしゃん。
思わず、和己が手を止める。シギが、わずかに非難を滲ませた目で和己を見上げた。 「……俺は割ってねえぞ」 「…でも…?」 「見ろよ。ガラス戸は割れてねえだろ。中からの音だよ。…やっぱ、いるんじゃねえか、ゼンのやつ」 「…ひょっとすると、中で何かのアクシデントがあったのかもしれませんね。その方…ゼンさんって方、ご病気か何かかもしれませんよ?」 内容の割には、緊張感のない口調でシギが進言する。 「…そんな、人並みな奴じゃないはずだけどなあ…」 首を傾げながらも、和己は再び戸を叩き始めた。 「…おーい! ゼン! 大丈夫かぁっ!? 俺だって!! 和己だよ!」 ややしばらくの後、中で人の動く気配があった。その気配は、ガラス戸の辺りまで近づいてくる。 「お? ゼンか?」 カーテンと、ガラス戸が開けられるのを待って、和己は一歩下がった。ちょうどシギと並ぶ形になる。その時、ふと思い出したようにシギが呟いた。 「……あら…ゼンさんって方はたくさんいらっしゃるんですのね……」 それを聞きとがめて、意味を尋ねようと思った和己の鼻先で、ガラス戸が開く。 「……和己…一人か? …そっちのねえちゃんは?」 …もともと、不細工ではないにしろ、ゼンは周りにいい印象を与えるタイプではない。和己と身長はそう変わらないはずなのに、猫背気味のせいか、かなり低く見える。やせぎすなその体つきと、鋭いのか鈍いのかよく分からない眼光は、はっきり言えば、人相が悪い。 そして今、ゼンは、その人相の悪さに磨きをかけていた。ついさっきまで喧嘩でもしていたかのように、顔にはいくつかの痣ができている。猫背をさらに丸めて、和己に話しかけながらも、あたりをきょろきょろと見回していた。 「…この女のことで、相談があってきたんだよ。心配しなくたって、サラ金も警察もついてきてねえから。…昨日、メール送ったけどさ…」 そこまで言いかけた瞬間、今まで三〇センチほどしか開いていなかったガラス戸が、一気に引き開けられた。 その場に固まってしまったゼンを取り巻くように、数人の男が姿を現す。いずれもゼンに負けず劣らず、人相が悪い。ただし、こちらには喧嘩によると思われる痣はない。 「へえ? この男がメールを送ったカズミってのはおまえか。てっきり女だと思ったんだけどなぁ?」 出てきた男達──数えると四人いた──のなかで、どうやらリーダー格らしい男が和己をにやにやしながらにらみつける。もともと長身の和己と、背はほとんど変わらない。ただ、横幅と厚みはかなり違う。有り体に言えば、ガタイのいい男だった。 反射的ににらみ返しながらも、和己は一歩下がった。シギを背後にかばった後で、思い出す。 (…そういや、こいつ人間じゃねえんだもんなぁ…かばう必要もないか? …まあいい、ついでだ) 「なあ、にいちゃん? この馬鹿から何か受け取らなかったか?」 この馬鹿、と指さした先は、ゼンだ。どうやら相手は、ほぼ確信を抱いてその質問をしているらしい。ということは。 「……じゃっ! またっ!」 言い放ちざま、和己はシギの手をつかんで走り出した。 「あっ!? てめえ…っ!」 一瞬遅れて、相手の男も追いかけ始める。 入り組んだ路地の多い住宅街。方向も確認せずに、和己は目についた角を曲がる。ついでに振り返ってみると、どうやら追っ手は二人らしい。必死に引き離そうとするが、距離は広がらない。 「…あのー…逃げてるんですか?」 和己のすぐ横からのんびりとした声。危うくこっちの緊張感まで持っていかれそうになる。それをぐっとこらえて、和己が答えた。 「そうだ。ああいう手合いとは関わらないほうがいい。ちょ〜っとヤバめのオニイサンたちだからな」 「あらぁ…大変ですね…」 「…どうでもいいけど、もうちょっと緊張感とか切迫した雰囲気とか…出ねえかな? すぐ隣でそんなにのんびり…」 答えながら、和己はふと気づいた。ほぼ全速力で走っている今、それを継続しながら喋るのは意外に難しい。が、シギはそれを全く感じていないらしい。 (…ああそうか…人間じゃねえんだ…) 心の中でそっと苦笑する。今、それを口に出している余裕はない。 「あのぉ…レーザーとかで撃退しましょうか?」 「……却下」 「じゃあ…」 「撃退は却下だ!」 「あ…そうなんですかぁ。それじゃあ、逃げるだけですか? あの方たちを振り切ればいいんですよね?」 「…そうだ」 「じゃ、…ちょっと失礼いたしますね」 「……ああ!?」 何をごちゃごちゃと…と、和己が振り返ろうとしたその瞬間、背中と脇腹に軽い衝撃を受けた。その衝撃の理由を分析する間もなく、体が宙に浮いた。 「え?」 一瞬、視界に空が映る。そして、反転。数秒してから、あらためて自分が置かれている状況に気がついた。 「…おい」 シギに声を掛ける。自分を肩に担いだまま、走り続けるシギに。 「何ですか? だって、このほうが早いでしょう? あ、あまり喋らない方がいいかと思われますが。…舌を噛むといけませんから」 そう言って、シギはにっこりと微笑む。 後ろ向きに担がれたまま、和己は思わず溜め息をついた。景色が遠ざかるスピードを考えると、確かにこのほうが早い。しかも、どんどん加速している。驚愕の表情をいささかマヌケ気味にさらした追っ手たちは、ほどなく見えなくなっていった。 人通りの少ない住宅街とは言え、全く人気がないわけではない。もう、追っ手も十分に引き離しただろう。 「おい…そろそろ止まれ」 「どうしてですか? このままでも私は一向にかまいませんが…?」 「俺がかまうんだよ。…恥ずかしいじゃねえか」
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