道楽探偵の夢のような一日



◇  ◇  ◇



 その日、深津和己(かずみ)──二十八才自営業──は退屈していた。長身をソファに沈めて、持て余した足を組んで、ついでにあくびなんぞしてみたりして。ひたすらに退屈しまくっていた。意味もなく、組んだ足を組み替えてみる。首をこきこきと鳴らしてみる。冷め切っったコーヒーを飲み干す。…まずい。
 とりあえず煙草でも…と手を動かしかけて思い出す。三日前から禁煙していたことを。というわけで、軽く舌打ち。しかし…それにしても退屈だ。禁煙を始めた事実さえ、ついうっかり忘れそうになるくらいに。そして、彼にとっては到底救いになることではないが、退屈の原因ははっきりしていた。
 それは、新聞を読み終えてしまったからでもなく、かけっぱなしのテレビがくだらないワイドショーしかやっていないからでもなく、はたまた、いつもなら、退屈しのぎにからかって遊ぶ甥が図書館に出かけてしまったからでもない。確かにそれらも退屈の原因と言えば言える。だが、決定的な原因があった。
 それは…。
「来ねぇなあ……客…」
 ここは、東京の某所にある古ぼけたマンションの一室。和己にとっては住居兼事務所である。客が来ないこと──それが、退屈の大きな原因であった。少しばかり長めの後ろ髪をいたずらに引っ張ってみても、退屈は解消されない。どうせなら、三つ編みにできるくらいのばしておけば良かったと思いながら、和己はソファからわずかに身を起こした。
「ふう……」
 幾分わざとらしい溜め息をついてみる。その時、玄関の呼び鈴が来客を告げた。だが、事前に来客の予約は入っていない。つまり、今訪れたのは客ではないということだ。
「ただいまー」
 案の定、呼び鈴に続いて開いた扉から聞こえる声は、なじみのあるものだった。
「何だ、おまえ、図書館に行ったんじゃなかったのか?」
 居間に入ってきた声の主──事情があって、三ヶ月前から預かっている姉の息子──に向かって、和己が聞いた。
「それが、せっかく行ったのにさ、今日は休館だってさ。…テスト勉強しなくちゃいけないのに。土曜日に休館されるのは困るよね」
 そう言って、小さく溜め息をついた。西島悠(はるか)十五才。和己の甥である。都内の高校に入学したばかりではあるが、まだ中学生らしさを残しまくっている。成長しきっていない体つきと、母親似の容貌は、女の子だと言っても通用しそうだ。
「休館日くらい調べとけよ、常識だろうが。…ああ、でもちょうど良かった。悠、ちょっと買い物に行ってきてくれ」
 台所で冷蔵庫を開けようとしている甥を呼びつけて、和己は財布を捜し始めた。
「やだよぉ。勉強しなきゃって言ってるじゃないか。どうせ、下のコンビニだろ? 叔父さんが行けばいいじゃない」
 少し華奢な肩をすくませて、悠が言い返す。が、和己はそれを一蹴した。
「ばーか。自分で行くのがめんどくせえから言ってんじゃねえか。おまえは俺んちの居候なんだから、働いてその恩を返すんだ。…なんか雑誌と飲み物買ってきてくれ」
「居候…って…母さんから仕送りは来てるじゃないか。別に叔父さんに養ってもらってるわけじゃないよ」
「オジサン言うな。意味が違うのが分かってても、響きが悪すぎる」
「はいはい……で、和兄、買い物はそれだけでいいの?」
 冷蔵庫から取り出した缶ジュースを口に含みながら悠が問いかけた。まだ五月とは言え、今日のように天気のいい日に自転車で図書館まで往復すれば、汗もにじむ。冷たい炭酸飲料は喉に心地よかった。
「ああ。…っと、昼メシどうする? ピザでも頼むか?」
「うん、それでいいよ。どうせ、作るのは面倒なんでしょ? 飲み物は…ウーロン茶でいい?」
「ああ、そうだな。それと、ミネラルウォーターも」
 和己は、ようやく見つけだした財布から、五千円札を抜き出して、悠に手渡した。
「ピザ屋に電話しとくからな」


「あ、照り焼きチキンがいいって言うの忘れたな。…ま、何でもいいや」
 誰にともなく呟きながら、悠はエレベーターに向かった。このマンションの一階部分は店舗がいくつか入っている。コンビニが一つと小さな不動産屋、中古ゲームショップなどだ。
 叔父から預かった金をポケットにつっこんで、悠はコンビニのドアを開けた。なかで、いくつかの品物を物色し、適当なものを手に取っていく。
(お菓子ぐらい買ってもいいよね…)
 いいことにしよう、と、勝手に決める。
 会計を済ませ、品物を押し込んだ袋を手に提げて、悠は部屋に帰ろうとした。
「エレベーター、遅いな」
 二基あるはずのエレベーターのうち、一つは先週から故障している。もう一つのエレベーターは一〇階のあたりに止まったきり、なかなか動かない。
「階段のほうが早そう」
 どうせ、部屋は四階だ。いつまでも降りてこないエレベーターを待つよりも、階段を上った方が早いと判断して、悠は非常階段のほうへ向かった。マンション内の階段は廊下の端にある。今いる位置からも遠いし、そこから部屋までも遠い。それよりも、外に面している非常階段のほうが、ここからも近いし部屋までも近いのだ。和己も悠も、階段を使う際は、非常階段をよく使っていた。
 カンカンカン…。むき出しの鉄材は、悠の足下で甲高い音を立てる。リズミカルに階段を駆け上がって、悠は四階に向かった。いや、向かおうとした。が、二階から三階へとつながる踊り場で、悠の足が止まった。
「うわ…!」
 小さく悲鳴じみた声を上げて、悠が立ちすくむ。視線の先には、踊り場でうずくまった人間がいる。長い黒髪と白い肌、服装はジーンズにボーダーの長袖シャツ。ごく普通の女性のように見える。が、非常階段の踊り場にうずくまったきり、動こうとしない。
(まさか……死体じゃないよね?)
 一瞬、頭をよぎった不吉な考えに、自分でぞっとする。死体…変質者…犯罪者…。いくつかの、あまり関わり合いになりたくない単語が頭の中をぐるぐるとまわりだす。
(エレベーターが動かないから悪いんだよなあ。それに非常階段じゃなくって、なかの階段を使えばよかったな)
 今更思っても仕方のないことばかりを考える。が、ふと、別のことを思いついた。
(ひょっとして、怪我してたりとか具合が悪くてうずくまってるだけだったりして)
 どちらかというと、そちらのほうがあり得そうだし、本来なら最初に考えるべき可能性でもあった。見た限りでは、ごく普通の女性…多分、二〇代前半のように見える。
(具合が悪いんだったら、助けてあげなくちゃ。…救急車とか?)
 意を決して、悠は階段をのぼり始めた。その女性に近づくべく。女性の位置まで、あと三段を残すだけになって、再びネガティブな方向に思考が傾く。
(ユーレイってことも考えられるよなぁ。あ、でも昼間は出ない…はず…かな? ああ、もう! ここまでのぼったんだからよけいなことは考えるなって)
 半ばやけ気味に、残りを一気にのぼりつめる。女性の手前、一メートル弱を残して、そこから話しかけてみた。
「あのー…どうしたんですか?」
 が、反応ナシ。悠はもう一歩踏み出した。
「あの? えーと…具合が悪いなら…」
 言いつつ、もう一歩。もうその女性のすぐ近くである。うずくまっているせいで、彼女の顔は長い髪に隠れている。その顔を横からのぞき込む。が、白い頬がかすかに見えただけだった。
 しばらくの逡巡の末、悠は彼女の腕にそっと手を添えてみた。どこを触れば、セクハラだと言われずに済むだろうと考えながら。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
 結局、悠は肩先を選択した。本当なら、背中を選びたかった。だが、彼女は非常階段の壁の役割をつとめている鉄柵に背中を預けたまま、うずくまっている。その姿勢ならば、触れられる箇所は限られている。肩先を軽く、というのは、まあ妥当な選択だろう。
 悠が触れた瞬間、彼女がふと顔を上げた。だが、悠は別のことに驚いていた。いくら非常階段が日陰にあるとはいえ、五月も末のこの陽気で、しかもそろそろ正午になろうかという時間で、彼女の肩先は異常に冷たかったのだ。
(…やっぱ……ユーレイさんなんじゃ…)
 反射的に、自分の手を引っ込めながら、悠がそう考えた直後、彼女と目が合った。その瞬間、悠は彼女に見とれていた。艶やかな黒髪に真っ白な肌。そして、その双眸は深く鮮やかなブルー。顔立ちだけで見るなら、どこの国の人間かはわからない。ただ、日本人ではないように思えた。というよりも、人間ではないように思えたというのが正しいかも知れない。それほどに、その顔立ちは整っていた。いっそ整いすぎるほどに。
(すっごい綺麗だ、この人…青い目ってことは…外国の人かな?)
「あ、あの…えーっと……日本語わかりますか? 大丈夫ですか?」
 あたふたとしながら、悠はようやくそれだけを口にした。口にしながらも彼女の瞳からは目が離せなかった。
「………?」
 無表情のまま、彼女が何事か呟いた。だが、悠には聞き取れない。もう一度聞き返そうとしたとき、彼女は疲れたように、目を閉じた。
「え? あ、あの!」
 とりあえず、いつまでもこうしているわけにはいかない。それにどうやらこの女性はとても疲れているらしい。…いや、それ以前に、この状況は結構…アヤシイんじゃないだろうか? だが、当の本人の意識がない以上、病院やら警察やらに、連絡してしまうのはあまりにも短絡的だろうか? いや、でも意識がないなら、やっぱり救急車のほうが…? あ、どっちにしても、電話するなら部屋まで行かなきゃならないんだ。
 そこまで考えて、悠はもっとも簡単でもっとも適切と思われる方法をようやく思いついた。
「なーんだ。和兄んとこに連れていけばいいんじゃん」
 自分の考えを実際に口に出すと、それはますます良い考えのように思われた。
 その考えの名を、責任転嫁と言う。だが、悠は細かいことは気にしないたちだ。
 善は急げとばかりに、悠はまずコンビニの袋に腕を通して持ち直すと、あらためて、女性の体をそっと抱き上げた。
 悠の体格はお世辞にも頑強とはいえない。身長だって、多分抱えている女性とほとんど同じくらいだろう。それでも、その女性が予想外に軽かったことと、男としての見栄もあって、悠は残り一階半ぶんの階段をのぼりとおした。
 四階に到着し、目指すドアを見つける。非常階段からならすぐ向かいだ。
 抱えていた女性をドアの横に座らせると、あらためて悠はドアを見上げた。かかっている小さな看板を。
『深津探偵事務所』
 和己が営む事務所の名称だ。二年前にこの事務所を開いたとき、悠の両親はそろって溜め息をついたものだ。父は、今時探偵なんて、と言った。母…和己の実の姉は、名前にひねりがなさ過ぎる、と言った。だが、本来なら必死になって止めるはずの、和己の両親…つまり、悠にとっての祖父母は、すでにそのとき、他界していたのだ。
 悠自身は、この年若い叔父のことを嫌いではなかった。若いぶんだけ、両親なんかより話は分かるし、実際、見た目もなかなかのものだ。若い頃は美人だったらしい祖母に似た顔立ちは、女性受けするだろうと思われる。実際、男の目で見ても、かっこいいなと思うこともしばしばだった。…そう、好きだったのだ、叔父のことは。ただし、一緒に住み始める前までのこと。
 生活態度に関しては、三ヶ月で愛想は尽きている。いや、それを言うなら、最初の一ヶ月で「愛想」などというものは、かけらも残さず尽きていた。だが、海外赴任していった父と、それについていった母のところへ行く気にはなれなかった。名門進学校と言われる高校を受験する頃でもあったし。実際、その高校に合格した今となってはますます、日本を離れがたい。最終的に日本に帰ってくるなら、日本での学歴を持っていた方がいいはずだ。…ケニアよりは。
 わずかな後悔はあった。両親とともに行けば良かったかもと。その後悔は主に和己に起因する。ずぼらだとかガサツだとか、めんどくさがりでいいかげんでだらしなくて口が悪くて非常識で無責任だとか、そういったようなこと。それでも、ある一点で、悠は和己のことを信頼してはいた。──豊富な知識。これである。実際、頭もいい。どこだったかは教えてくれないが、どうやら有名な大学を出ているらしい。ただ、知識は確かに豊富なのだが、どこか偏ったところがある。一般常識な知識が多いのだ。
 とにかく、和己ならば、例の彼女に関してとるべき手段が思いつくのではないか。そう思って、悠はドアを開けた。
「和兄ーっ! ちょっと手伝ってー!」

◇  ◇  ◇

 玄関先で、何やら叫んでいる甥を、和己は無視した。どうせ、荷物が重いから手伝えとかそういった類のことだろうと見当をつけていた。そんなことは手伝いたくはない。なんとなくつけたままになっているテレビに見入ってる振りをすることにした。教育テレビの『中国語会話』である。…見ているとこれはこれでおもしろい。
「和兄ったらーっ! いるんでしょ!?」
 いることはいる。だが、返事をする義務はあまりないだろうと和己は考えた。
 叫びが聞こえてからややしばらくの後、『中国語会話』が実践編に移った頃、悠が顔を出した。
「何やってんだ、おまえ?」
 悠に背を向けて、テレビ画面に見入ったまま、和己が聞く。
「……ねえ、テレビ見てたの? 僕の声、聞こえなかった?」
 声変わりしたばかりの声を、精一杯すごませて、悠が尋ねる。だが、和己はあっさりとうなずいただけだった。振り返りもせずに。
「聞こえてたけど、めんどくさかった」
「大変なんだよ! テレビなんていいからこっち見てよ!」
「…なんだよ、うるせえなあ…」
 画面が変わったのをきっかけに、和己が振り返った。
「…それ、下のコンビニで買ってきたのか?高かったんじゃねえか? 金、五千円で足りたか?」
 それ、と和己は、悠が足もとに横たえた女性を指さした。
「そ、そうじゃなくて! 非常階段のところでうずくまってたんだよ! 具合が悪いのかも知れないと思ってさ。救急車を呼ぶにしても、電話は部屋までこないとないしさ。それまで、あんなところに置き去りにするわけにもいかないじゃないか」
 悠の言葉を聞きながら、和己は大きくうなずいた。そして、めんどくさそうな表情のまま、ぽつりと呟く。
「なるほど。そうしておまえは、ひょっとしたら重症者かもしれない人間を、動かしまくってここまで運んで、あげく、床に置いてるわけだな?」
「え? あ!」
 言われて初めて気がついたのか、悠が慌てて女性を抱き上げようとする。
「と、とにかくソファに…あ、でも、みだりに動かしちゃいけないんだっけ?」
「……悠。おもしろいな、おまえ。どっかにゼンマイでもついてるみたいな動きだよな」
「のんびりしてないで、どうにかしてよ!」
 悲痛とも言える甥の叫び声を聞いて、和己は『中国語会話』を見るのをやめた。もともと、覚えようと思って見ていたものではない。言ってみれば、暇つぶしだ。頼んだピザが届くまでの。だが、暇つぶしというなら、悠をいじめるほうがよほどおもしろいに決まっている。
「どうにか…って? ん? なかなかいい女じゃねえか。お? 日本人じゃねえの?」
 ソファから立ち上がって、悠の足下に横たわる女性を見下ろして、和己が言った。
 こうして横に並ぶと、二人の身長は頭一つぶん、違う。その叔父の顔を見上げて、悠が答える。
「うん。さっき、一回だけ目を開けたんだけど、青い目だった」
「なんか、喋ったか?」
「うーん……喋ったような…喋らないような?」
「…どっちだよ。ま、どうせ、聞き取れなかったんだろ?」
 揶揄めいた笑いをにじませて、和己が言った。何かを言い返そうとした悠を完全に無視して、和己は女性の上にかがみこんだ。
「…ふーん、真っ白だな、肌。怪我も見た限りじゃないようだし…脈もどうやら正常か。にしても、冷てえな、ずいぶん」
 手首の脈に触れながら、和己が呟く。その動作をのぞきながら、悠が不安げに尋ねた。
「どうしようか? 救急車とか呼んだほうがいいかな?」
「貧血かなんかじゃねえの? ソファに移して、もう少し様子を見ようぜ」
「ひょっとして、何かの事件に巻き込まれて、とかじゃないよね?」
 女性をソファに移すのを手伝いながら、悠が呟く。和己が冷めた目で見つめ返した。
「で? 一体なんの事件だ?」
「いや…たとえばさ……なんだろうね?」
「ばーか。…ま、事件でもいいじゃねえか。もしも事件だったら……」
 そこでふと言葉を切って、和己は真剣な表情になる。その目を悠がのぞきこんだ。
「事件だったら?」
「…仕事だな。二ヶ月ぶりの客じゃねえか」
「…………そうだね」
 それ以外に、どんな返事ができただろう。

 結局、シーフードとスパイシーソーセージという、和己の好みで選択されたピザを手に取りながら、悠はぽつりと呟いた。
「彼女…どうしてあんなとこにいたんだろうね?」
 タバスコを盛大に振りかけながら、和己がそれに答えた。
「聞いてみりゃいいじゃねえか。起きたら」
「でも…まだ、目を覚まさないのかな。ねえ、救急車とかって…」
 その言葉に反応したわけではないだろうが、ソファの上で黒髪の美女が身動きをした。少し離れたダイニングテーブルでピザを食べている二人にも、その気配は伝わってくる。
 手に持っていたピザを、口の中にねじ込みながら、悠が立ち上がった。視線の先に映るソファの上で、女性が身を起こす。作り物めいた美貌には表情がない。そのままゆっくりとあたりを見回して、最後に、悠に目を留める。
「あ! あの…!」
 反射的に言いかけて、悠は口をつぐんだ。果たして日本語が通じるのかどうか、自信がなかったのだ。かといって、日本語以外の言葉は話せない。
 ソファに上半身を起こしたままの姿勢で、彼女は悠を見つめた。あまり感情をうかがわせない表情で。
「あー…えーっと……どうしよう、日本語って…わかります?」
 しどろもどろになりながら、悠が尋ねる。だが、彼女は無表情のまま、小さく首をかしげた。
「ああ! 和兄、どうしようっ! やっぱり日本語、ダメみたい!」
「何、うろたえてんだ、馬鹿」
 悠の正面に座っていた和己が、ソファの方角へ肩越しに振り返った。
…で? 英語なら話せるのか? 口がきけねえんじゃねえんだろ?
「うわ、和兄、英語〜っ! どうしよう、僕、和兄のことソンケーしちゃいそう!」
「うるせえな、少し黙っとけよ、おまえは」
 拍手までしている甥に、一言投げかけると、あらためて和己は、英語で彼女に話しかけた。
わかってるかもしれねえが、一応、ここは日本だ。したがって、公用語は日本語。あんたが英語でしか話せないってんなら別だが、できれば日本語で話してほしい。英語は単語の読み書きしかできないヤツがここにいるんだ
 最後のせりふを言いながら、和己は悠のほうを親指で指し示した。
「え? 何? 僕がどうかした?」
 悠の言葉にではないが、彼女がゆっくりとうなずいた。
「……はい、大丈夫です、日本語も話せますから。ただ…ちょっとびっくりしてて…」
 外見にそぐわず、流暢な日本語だった。外見に、というなら、その濡れたような長い黒髪には、これ以上ないほど似合ってはいるのだが。
 彼女の言葉にうなずいて、和己は悠を振り返った。
「だとさ。よかったな、悠。英会話の実践しなくて済んで。とりあえず、拾い主としては状況を説明してやれよ」
「拾ったわけじゃないけど…」
 何やら言いかけた悠を無視して、和己は再びピザとタバスコに手を伸ばす。
 そんな叔父に、諦めに似た溜め息を漏らすと、悠はあらためて女性に話しかけた。
「えーっと…具合悪くないですか? あなたは、貧血起こしたみたいで、このマンションの非常階段にうずくまってたんですよ。で、勝手とは思ったんですが、とりあえず、ここに運んじゃいました。体調のほうがよければ、家まで送って…どちらにお住まいですか?」
 その問いに、彼女はあっさりと答えた。
「わかりません」
「──────え?」
 無意識に発した悠の問い…いや、それは問いですらない。ただの、声でしか。
 とにかく、悠のその声に、彼女は再び口を開いた。初めての表情の変化といえる、優雅な微笑みさえ浮かべて。
「知らないんです」
「……えーっと……叔父サマぁ?」
 額に、冷や汗のようなものを浮かべて、悠は裏返った声を出した。だが、和己は一口かじったピザにタバスコを追加しただけだった。
 ふと、何かに気づいたように、和己が顔を上げる。
「悠…!」
「ねえ、助けてよぉ! 何がなんだか…!」
「悠、オジサンって言うなっつってんだろ!まったく、てめえの脳味噌はものを覚えねえな! どうせ、中に隙間でもあんだろ、タバスコでも詰めとくか!?」
「…ねえ、問題はそこじゃないと思わない?なんていうか…ほら、もう少し、この事実に対する驚愕とか当惑とかそういうのがあってもいいんじゃないかって思うんだよね、僕としては」
 半眼で言い返した悠に、和己は軽く手を広げて見せた。
「おまえも、変なとこ図太いよな。さっきまで慌てふためいてなかったか? なんだかなあ、パニックに弱いくせに、妙に図太いってヤツ? こーゆーのって、要領悪いくせに、運だけよくって、結構生き残っちゃうタイプなんだよなー。なんか、むかつくよなー」
 そのセリフには言い返す気力も尽きたか、悠は話題の方向を修正しようと試みた。
「だから! 問題はそこじゃないって! 彼女だよ!」
 びし、と指をさされて、問題の彼女は、細い首を傾げた。
「私が…どうかしましたか?」
 動作につれて、さらりと流れ落ちた黒髪はしっとりと濡れたような輝きを見せている。その髪に縁取られた白い顔を、微笑みの形にしたまま、彼女は聞いた。自分の答えに、大仰な反応を示す悠が、とても不思議だとでも言うように。
 その反応に、多分、今この部屋のなかでいちばんまともな対応をしたのは、やはり悠だった。
「だからさ、えっと、あなたは自分の帰る家がわからないんでしょう? それって…つまり……あ! そうだ! 名前は!? あなたの名前!」
「名前…? あら、知りません」
 またしても、微笑み。悠はがっくりと肩を落とした。
 ──決定的だ。ああ、これで決まりかも。そうだ、よく見かけるよ、こういう状況は。でもそれはテレビとか漫画とか小説なんかではすっごくよく見かけて、今時こんな設定で漫画でも小説でも投稿なんてしたりしたら、絶対、批評には『オリジナリティがない』なんて書かれちゃうんだよなー。でも、オリジナリティがないのと、現実味がないのとって一緒じゃないよね。でも、今の状態はかなり現実味がないよな…オリジナリティ云々は別にしてもさ。
 と、瞬時にそこまで考えて、結局悠は和己にすがった。
「ねえ、和兄…これって、アレじゃない?」
「アレってなんだよ。はっきり言わねえか、はっきり!」
「だから、ほら…アレだよ」
「だから、アレって!? おまえ、ボケはいったジジイじゃねんだから、少しか脳細胞使えって。それでなくても少な目なんだからよ」
 とりあえず、最後のセリフは聞かなかったことにして、悠はそっと口を開いた。
「…記憶喪失」
 その言葉に、和己は黙り込んだ。腕など組んでみたりして、考え込む。いつになく真剣な表情だった。
「和兄…どうしよう! ああ、やっと和兄にもこの状況が理解できたんだね! よかった、これ以上説明しろなんて言われたら、僕、どうしようかと…!」
 うっすらと涙すら見せて、悠は満面の笑みを浮かべた。ひどく満足げな悠に、和己は問いかけた。しごく真剣な声音で。
「なあ、悠? どっちがいいと思う?」
「え? 何が? 何と何でどっち?」
「だから、彼女の過去を探って、彼女から礼金をもらうのと、彼女の家族を見つけだして、家族から礼金をもらうのと。…とりあえず、病院に連れていくのは却下な。そこで身元があっさり分かってもアレだし、警察に連絡されるのはもっとアレだろう?」
 一瞬前、素直に喜んだ自分を後悔しつつ、悠は溜め息をついた。
「和兄の言うアレってのは…おもしろくない、ってことだね?」
「それはおまえにしては珍しく的を射た見解だな。あと表現的には、上にクソがつくと、もっといい感じになる」
 ああ、そうだね、と悠はもう一度溜め息をついた。軽く頭を振りながら、自戒する。
(こんなことくらいで、くじけちゃダメだ。がんばれ、僕。和兄と暮らしてて、このっくらいで溜め息ついてちゃ、そのうち僕の溜め息でオゾン層に穴があいちゃうし。でも、牛のげっぷより数的には多そうだけどなあ。とにかく、がんばれ、僕)
 小さく握り拳など作りながら、悠はあらためて女性に視線を向けた。
「じゃあ、自分の名前とか住所は分からないんですね? 他に、何かありますか? たとえば、手がかりになりそうなもの。覚えてる風景とか」
 聞かれて、女性はふと考え込む仕草をした。細い指を顎に当てて。目を覚ましたばかりの頃とは違って、かなり表情豊かになっている。
「んー、特には」
 さらりと言ってのけたその言葉に、再びがっくりしそうにはなるが、何とかこらえて、悠は重ねて聞いた。
「あなた、不安じゃないんですか? 自分のことがわからないわけですよね? 当然、僕たちのことも知らないし。周りのことも自分のことも何一つ分からないなんて、不安になりませんか?」
「不安…ですか? そういった感情も、あまりよくは知らないんです。とりあえず、目覚めたときに近くにいたから、あなた達は、私のことを知っているものと思ってたんですが…ちょっと、違うようではありますね」
 悠は、必死の努力で溜め息を呑み込んだ。
「じゃあ…どうして、非常階段になんか、いたんですか? それと、見た感じでは怪我とかもしてなさそうですけど、頭を打ったとかそういった事実は…?」
「質問の流れが、ほんのちょっぴりわからないんですけど?」
 その優雅な微笑みに、悠はもう一度質問し直した。軽く咳払いなどして。
「ですから、あなたは自分の住所も名前も分からない。つまり、記憶喪失でしょう? で、そういった症状が出る原因として、頭に何か怪我をしたとか…とても強い精神的ショックを受けたとか…」
「あら、そういうことでしたか。んー、でも、そういうことではないと思うんですよね。つまり、私は知らないだけで、忘れてしまったのではないと思うんです」
「…は?」
「ええ、そうです。記憶喪失っていうのは、持っていたものを無くすことでしょう? ですが、私はそういうものをもともと持っていないんです。ですから、忘れたとか失ったとかっていう言い方は、私には不適当と思われますが? ですから、ご安心下さい。私は記憶喪失ではありませんから」
「…は……あ…」
 答えるべき言葉を失って、悠はただ呆然としていた。何かが違うような気がする。どこが違うかと言えば…そう、たとえば、先刻いみじくも連想したように、映画や小説…そういったフィクションの世界で見る記憶喪失の人間は、とりあえずとまどっていたはずだ。焦り、おびえ、とまどい、とにかく、そういった感情で手一杯なはずで…。それが本当かどうかは分からない。所詮、フィクションなのかもしれない。だが、目の前の彼女のようなリアクションではないはずだ。この反応だけは違うように、悠には思えた。彼女は、自分には記憶などなくて当然とでもいうような雰囲気である。
 不意に、今までウーロン茶をがぶ飲みしていた和己が口を開いた。
「…なるほど。一理ある」
「…………え? 和兄?」
「なあ、悠。確かに、喪失という意味から考えると、彼女の言ってることは、筋が通ってるような気がしないか?」
「…和兄、本気?」
 からになったグラスに、再びウーロン茶を注いで、和己は例の女性へと視線を向けた。
「なあ、お嬢さん。まあ、あんたの言うことももっともだ。だが、とりあえず、ごく一般的な世界では、記憶を最初っから持っていない人間は存在しないはずなんだけどな? 生まれたての赤ん坊でもあるまいし。あんたが何歳か知らねえが、今まで生きてきた分の記憶はどこかにありそうだな。…探したいと思わないか? そんでもって、探して欲しいと思わないか? なおかつ、探してくれたらどんなお礼でもしたいと思わないか?」
 流れるような和己の言葉に、口を挟む隙がなかった悠だが、ここでようやく和己に話しかけることができた。
「ちょ、ちょっと、和兄?」
「ンだよ? うるさいぞ、悠」
「ね、やばいって。礼金どころの話じゃないって。……この人、ヤバイ系じゃない? クスリとかピーーッとかさ、関わり合いにならない方がいい種類の人かもしれないよ?」
 和己の袖をつまみながら、悠が小声でまくし立てる。
「ピーーッって何だよ、はっきり言えよ」
「…出版コードにひっかかるでしょ?」
 例の彼女はといえば、和己の言葉に何やら考え込んでいる様子ではあったが、またしても、指を顎にそっと当てると、小首を傾げて話し始めた。
「えっと、あなたのおっしゃる意味も、理解できたとは思いますが…やはり、私にはもとから記憶がないように感じられるのですが。ああ、そうそう。先ほどおっしゃった、『生まれたての赤ん坊』という言葉、それにとても近いように思います。ですから、探しても無駄だと思うんですね」
 微笑みながらのその言葉を受けて、和己も微笑んだ。
「ま、そういうことにしといてもいいけどな。とりあえず、あんた、いくとこねえんだろ?どうせ部屋は余ってる。古いマンションで、しかも、野郎しかいねえが、しばらくここに住んだらどうだ? 掃除と料理してくれるんなら、タダで居候させてやる」
「ちょっと! 和兄!」
 悠が本格的に抗議を始める前に、彼女がうなずいてしまった。
「よろしいんですか? 掃除と料理は…多分、したことがないとは思いますが、できる限りつとめさせていただきます。よろしくお願いします」
 呆然としている悠を無視して、和己もうなずいた。
「ああ。…っと、名前がねえと不便だよな。どうする? なんか、適当に名前考えてくれないか?」
「名前…ですか? こちらでの一般的な名前はちょっと分からないので…お好きなようにお呼び下さい」
「こちらでの…って、まあ、確かに日本の名前はわかんねえだろうが…あからさまに日本人じゃないあんたに、日本の名前を付ける方が不自然じゃないか?」
 和己が首を傾げた。それでも、彼女はにっこりと微笑む。
「いえ、どうぞ、お好きなように」
「そっか。んじゃ……呼びやすい名前のほうがいいよな…。ちょっと不思議ちゃんだから…シギ。…どうだ?」
「それで、結構です」
「……なんかあんまり、人の名前っぽくないなあ…」
 茫然自失の状態から立ち直ったか、悠がふと呟いた。その頬を軽く引っ張りながら、和己が言い返す。
「いんだよ、別に。覚えやすくていいじゃねえか。──ああ、ちなみに、俺は和己。深津和己だ。この馬鹿は西島悠。あんたの部屋は悠の隣に用意する。ちゃんと鍵のかかる扉だから」
「……いひゃいよ、和兄…」


   
           
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