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サンクチュアリ
−− 9 −−
一週間後、夕方の飛行機で戻ってきたコウを出迎えて、家の中はにぎやかだった。
「おい、リョウ。……何故おまえがここにいる?」
自分の真正面に座っている人物を見ながら、レイが言った。それを聞いてリョウが微笑む。
「そりゃあ、決まってるさ。コウが戻ってくるとなれば、おまえはきっと、豪勢な食事を用意するだろう? 作りすぎて、あまったら大変だと思ってね。微力ながら、手伝いに来たんだ」
「微力って言うわりには、結構、食欲がおありのようね?」
リョウの隣で、ロビンが微笑む。その言葉に、コウも笑った。
「結局、リョウさんが一番食べてるよね? でもおいしいよ、レイ。レイの手料理は久しぶりだし。体の具合はもういいの?」
気遣いを見せるコウに、レイがうなずいた。
「ああ。二日前からウィードでも働いてるしな」
「そうか…そうだね」
安心したように、コウがうなずく。そのまま、ロビンの方を見て、微笑んだ。
「ロビン、レイはちゃんと働いてる?」
「…コウ、なんだよ、その言い方は?」
レイの抗議の声を無視して、ロビンが首をかしげる。
「そうねえ…。仕事に関しては言うことないけど……でも、レイって、いいのは仕事の腕だけよね」
「……何か、文句でもあるのか?」
レイの質問に、ロビンが微笑む。
「昨日、早速、室長とやりあってたじゃない。移植技術研究室長の…ええと、そうそう、カデス室長だったかしら? あのあと、レイに骨董品呼ばわりされたって、怒ってたわよ」
「名前なんか覚えてない。白髪のじじいだろう? あんなのをあのポストに置いとくなんて、ウィードは先が見えてるな。あんな、棺桶に片足どころか全身つっこんで、蓋が閉まるのを待つだけになったような年寄りに、何がわかる。あんなの、頭の中のカビ掃除がすんでない分、骨董品よりタチが悪い」
「また…レイ、もう少し柔らかい言い方もあるだろう?」
レイの言葉を聞いて、コウがあきらめたように溜め息をついた。レイが反論する。
「だがコウ、その何とか言う室長は、アイゼンメンゲル複合の対処すら出来ないんだぞ?あんな奴に人工心臓なんか触らせるな」
「その…アイゼン何とかっていうのは?」
首をかしげるコウに、レイが説明する。
「心臓と肺との関係上のことなんだが、心臓に疾患があると、血液を送り出す力が弱くなるだろう? それが長期に渡って続いた場合、肺の末端まで血液が届かなくなることがある。そうなると、毛細血管はだんだん壊死していくわけだ。結果、肺の内部の血圧が高くなっていく。それが高くなりすぎると、心臓を手術しても無駄になる。肺が血液を受け止められなくなって……ああ、もういいだろう? 家に帰ってきてまで、講義なんかしたくないからな」
そう言って、手を広げて見せたレイに、コウがうなずきつつも、もう一つ質問をする。
「それって、手術のときに処置できるの?」
「ああ。人工心臓につながる血管のバランスを変えるんだ。場合によっては、幾度か手術を繰り返す。簡単な技術じゃないことは確かだが、出来ないことじゃない。たとえ、技術は伴わなくとも、その知識を持っていることは、移植外科医のなかでは常識だ。そんな常識も知らない奴が、ウィードの室長だぞ!? 俺に言わせれば、人工肺が今まで製品化しなかったのは全部、あいつのせいだ」
「じゃあ……レイには手応えはあるの?」
幾分、真剣な面もちになってコウが尋ねた。レイがうなずく。
「データと試作品を見た限りじゃ、かなりいい出来のものだと思う。今までの実験結果が不思議なくらいにな」
「対処はできそうなのか?」
リョウの質問にレイが視線を向ける。
「ああ、多分。術前処置の不完全さが原因だろうな。それと、心臓に流れる血液の量と交換されるべき酸素の最低量と最大量を、徹底的に調査しなくちゃならない。あとは、バイパスの太さ…まあ、個人差もあるが、病歴と体格によっては、いっそ心臓も一緒に手術するべきなのかもしれない」
それにうなずきながら、リョウがもう一度口を開いた。
「だったら、心臓そのものを人工の物に変えるか? ペースメーカーで拍動数のバランスをとるとか…。それとも、一時的に弁の強度を変えて……」
そこまで言って、ふとリョウが顔を上げる。ロビンが、レイとリョウの二人をにらみつけていた。
「ああ、ロビン、何か?」
眉間にしわを寄せて、ロビンが答えた。
「……食事中に、その手の話題はちょっと…。もう! こないだ、レイに見せてもらった手術、思い出しちゃったじゃないの!」
「……それは失礼」
咳払いをしつつ、リョウが言った。
「思い出したら…何か不都合があるのか?」
レイが首をかしげる。その隣で、コウが微笑んだ。
「レイ、ロビンのは普通の反応だと思うよ?僕はもう慣れたけどね。レイやリョウさんなんかは、食事しながら手術の打ち合わせもするんだろうけど」
「しかも、レイはビデオグラムを見ながら、食事してるよ」
リョウが肩をすくめる。二人の言葉を聞いて、レイが意外そうな顔をした。
「…リョウはしないのか?」
「そこまではね」
「そうでもしないと、食事する暇なんかないだろう」
レイのその言葉が、終わらないうちに、リビングで電話の音が鳴り響いた。一瞬の緊張が走る。立ち上がりかけたコウを、ぎこちない微笑みで制して、ロビンが立ち上がった。
沈黙の中、受話器を手にしたロビンの声が響く。
「……はい…ええ、それはもちろん。…………そうですか…わかりました。はい、よろしくお願いします」
電話を終えて、食卓へ戻ったロビンを沈黙が迎えていた。無言のまま、椅子に腰を下ろしたロビンを見ながら、レイが静かに口を開く。
「……何て?」
ロビンがゆっくりと顔を上げた。
「いったん、救助活動を打ち切るからって。……事故のあった場所の近辺の戦況が悪化したから…。ほとんどの人は所在がわかったらしいんだけど。規模の割に死者は少なかったらしいし…。ただ、現地から送られてきたリストを見る限り、父の名前は生存者のところにも死亡者のところにもなかったって……」
「救助活動は…いつ再開されるの?」
コウの問いに、ロビンが首を振る。
「わからないわ。戦況しだいね」
「…行方不明なら、生きてる可能性はある」
そう言って、レイはワイングラスに口を付けた。その言葉にうなずいて、ロビンは無理矢理微笑んでみせた。
「そうね。わかってる。……ここからじゃ、どうすることもできないし。どんなことをしていても事態が変わらないなら、悲しむのは後回しにするわ」
きっぱりと言い切ったロビンを見て、リョウが感心したように息をついた。
「……なあに?」
不思議そうに尋ねるロビンに、リョウは首を振った。
「いや…なんでもないよ」
「 料理がさめるぞ。リョウ、あまらないように手伝いに来たんなら、もっと食え」
リョウとロビンのグラスに、ワインをつぎ足しながら、レイが言った。
その夜、自室に戻ったレイが着替えを済ませた頃、かすかなノックとともに、扉が開いた。姿を現した人物を見て、レイが微笑む。
「コウ…どうした?」
パジャマ姿で戸口に立ったコウは、じぶんが抱えている枕を指さして微笑む。それを見て、レイが苦笑した。
「おいおい、コウ……そんなものまで持って…。子供じゃないんだから」
「いいじゃないか。レイのベッドは広いんだしさ。こないだ…レイにあんなこと言ったくせに、一週間も留守にしちゃったから。約束通り、甘えさせてあげるよ。一緒に寝よう」
「と言っても……当然、キスまでだよな?」
悪戯っぽく尋ねたレイに、コウが慌てて弁解する。
「い、いや…それはそうだけど…僕は…そういう意味じゃなくって……」
「わかってる。……一緒に寝るのは子供の時以来だな」
赤い顔で弁解を続けるコウをさえぎって、レイが柔らかく笑った。それを受けて、コウがうなずく。
「そうだね。……リョウさんから、最近レイがよく眠れないみたいだって聞いたから…誰かがそばにいれば安心できるんじゃないかと思って」
「……眠れないわけじゃないんだ…。眠りたくないだけで……」
「どうして? 眠らなきゃ駄目じゃないか。 ほら、ベッドに入ろう?」
レイの返事も聞かずに、コウは無理矢理レイの腕をとると、さっさと毛布の中に身体を滑り込ませた。
「かなわないな…コウには」
苦笑しながら、レイもコウに続く。
「…それで? どうして眠りたくないの?」
自分の持ってきた枕に、半分顔を埋めながら、コウが尋ねた。コウの目の前で、レイの黒髪が揺れる。
「無理に眠っても、どうせ眠りは浅いし……夢を見るんだ。何度も同じ夢を…。その夢を見たくなくて…いや、違うな。本当は見たいのかもしれない。それでも……わからない。見たいくせに、それを見ると、何とも言えない気分になって……」
「それは……お母さんの夢?」
「コウ……?」
いきなり核心をつかれて、レイが目を見開く。そんなレイに、コウが優しく笑いかける。
「何となく、そんな気がして。…ねえ、レイ、スタシアさんのこと…まだ許せないの?」
「許せない? 俺が? ……違う、コウ…許されないのは俺の方だろう? 俺さえいなければ、スタシアは死なずにすんだはずだ。それは…事実だろう?」
半ば諦めたように、レイが哀しげな笑顔を見せる。
「違うよ、レイ。確かにそれも事実かもしれないけど、それよりもっと大切なことは、それをわかっていながら、スタシアさんがそれでもレイを選んだってことだろう? レイは、許されてるよ。ううん、それ以前に、誰も君を責めてなんかいない」
「…だからだ。誰も責めないから……よけいに…」
「レイ…じゃあ、君は、生まれてきたくなかったの? 生まれてきたことに感謝したことは一度もなかった?」
そう尋ねる空色の瞳を見て、レイはゆっくりと首を振った。
「いいや。コウに出会えて……一緒に過ごせて…よかったと……」
それを聞いたコウが満面の笑みを浮かべる。
「じゃ、君は何よりもまず感謝しなくちゃ」
「……感謝?」
「そうだよ、君を生んでくれたスタシアさんに。そして君を育ててくれたウィルおじさんに。 僕は感謝してるよ。僕の両親に…君に会わせてくれたスタシアさんとウィルおじさんに。そして、僕を愛してくれている君に」
無言のままのレイの頬に、コウがそっと手を触れる。
「ねえ、レイ。自分を責めるとか、誰かを責めるとか…そんなことは必要ないんだ。許すとか許されないの問題じゃない。もしも……仮に、誰かがレイの存在を否定したとしても、僕がいるよ。僕はレイの全てを許してる。そして…感謝してる。それじゃ駄目?」
自分の頬に触れているコウの手を握り返して、レイが小さく笑った。
「……あいつと同じことを言う…」
「あいつ? …ひょっとしてロビン?」
「 コウには何でもお見通しだな」
「そのぐらいわかるさ。ロビンを見ていればね」
微笑むコウの手を離して、レイはふとコウから視線をそらした。天井を見上げながら、真顔で呟く。
「夢の中で…スタシアが泣くんだ。愛してる…ごめんなさいって…そう言いながら…泣くんだ。俺は黙って見てるしかない。そんな彼女を見てるのは…つらい。夢の中の彼女は少しも幸せそうじゃない。一度も微笑まないんだ。そんなふうなのは、俺のせいだと思うと…。 愛してるって……そういう言葉をほしがってたのは、自分自身のはずなのに。どうして…どうして謝るんだ? 俺は…責めてなんかいないのに…」
それを聞いたコウが、寂しげに笑う。
「…馬鹿だなあ、レイ。それは、全部、自分が言ってる言葉じゃないか。お母さんに、愛してるって言いたかったんだろう? ごめんって、伝えたかったんだろう? もういなくなってしまった彼女に、それを伝えたかったんだろう?」
「 俺が?」
「そうさ。スタシアさんの瞳は……レイと同じアメジスト色だ。自分と同じ瞳を見ながら、レイはずっと愛したかったんだ。……謝りたかったんだ。 でもね、さっきも言ったろ? 謝る必要なんかない。自分のお母さんに、愛を伝える一番の方法は、謝ることなんかじゃない。ありがとうって、その一言で十分なんだ」
囁くように告げるコウの言葉は、いつまでもレイの耳の奥でこだましていた。
眠りについたレイの脳裏で、金の髪が揺れる。瞳をうるませながら、彼女は囁いた。自分の息子の名前を。愛おしげに、哀しげに。愛してる…愛してる、と。その光景を、魅入られたように見つめていたレイが、何度も首を振る。彼女の頬に涙が伝う寸前、レイはその瞳を見つめた。
(淡い紫の……俺と同じ……)
コウの言葉がよみがえる。夢の中の彼女の瞳と見つめ合ったまま、声に出さずに、レイは呟いた。
あなたを……責めてなんかいない。ただ、謝りたかった……許していると、責めてなどいないと伝えたかった。きっと、あなたがあのとき、俺を生まないで、自分の命を選んだとしても、俺は許しただろう。現実は違うけど…でも、俺を選んでくれたのはあなただから…コウと逢わせてくれたのはあなただから……。今まで、縛り付けていたことへの謝罪と、そして……精一杯の感謝を……。
〈ありがとう〉
最後の言葉が、どちらの口から発せられたかは、わからなかった。確かなことは、そう言った瞬間、彼女がひどく穏やかに微笑んだことだけだった。
温かな…誰かのぬくもりを感じる。…ああ、コウが隣で眠っているのか…… 。
カーテン越しに降り注ぐ柔らかい光を、かすかに感じながら、レイはまどろんでいた。隣で眠るコウの寝息が、ふわりと耳をくすぐる。 それだけのことが、ひどく幸せなことに思えた。
レイが、キッチンで朝食を用意し始めた頃、ロビンが姿を見せた。
「おはよう、早いのね。……また眠らなかったの?」
そう尋ねるロビンに、レイが首を振った。かすかに微笑みながら、答える。
「いいや。ここ何ヶ月か…いや、ひょっとしたら、ずいぶんと長い間、あんな風に眠ったことはなかったな」
「そう……何かあったの?」
「昨日の夜、コウが枕を抱えて俺の部屋に来た。甘えさせてやるって言ってな。…正直、あいつには負ける。コウの言葉を聞いて、コウの微笑みを見ながら、眠った。そして、今朝…あいつの体温と寝息を感じて……俺は、この上なく幸せだったよ。たったそれだけのことでな」
そう言うレイの微笑みを、ロビンがうらやましげに見つめた。
「あなたを、そんなふうに微笑ませることが出来るのは、コウだけね。…ねえ? あなたの中で、コウの存在は、まるで聖域のようなものなのね」
その言葉にレイは答えず、無言でロビンの前に朝食を置いた。
「それで? コウはどうしたの?」
隣で朝食を口にするレイを見て、ロビンが聞いた。レイが軽く肩をすくめる。
「まだ寝てる。あいつ、わりと朝寝坊だからな。隣で俺が着替えてるのに、身じろぎ一つしない。……それにしてもあいつは無防備すぎる。パジャマ姿で、俺の部屋に入ってきて、一緒に寝ようだなんて……俺が変な気を起こしでもしたらどうするつもりだったんだ」
怒ったふりをしながらのレイの言葉に、ロビンは声を立てて笑った。
「結局、そうしなかったくせに」
「 あたりまえだ。枕を抱えて来た奴にそんなことができるか?」
それを聞いてさらにロビンが笑う。
ロビンの楽しそうな笑い声がおさまるのを待って、レイが口を開いた。
「…ウィードでは、手術の様子をビデオグラムに残すシステムはあるのか?」
笑いの余韻がなかなか消えなかったロビンも、それを聞いて真顔になる。
「ええ、もちろんあるわよ。重要な手術や、技術教習に使うような手術に関しては、それを残すのが規則になってるわ」
「じゃあ、今日から俺が始める手術を、残らずビデオグラムにしておいて欲しい」
「それはかまわないと思うけど……どうして…?」
「…よく考えろ。俺の手術を俺がするわけにはいかないだろう? 昨日までで一応、術前の処置と検査は済ませた。今日は一例…ひょっとしたら二例手術する事になる。成功するにしろ失敗するにしろ、資料はあった方がいい。どうせ、今までの資料はろくなものじゃない」
そう言いきったレイを見て、ロビンがうなずいた。
「そうね…手術は誰にしてもらうの? リョウじゃないわよね?」
「学生時代の実習で、盲腸しか切ったことのない奴に? しかも、あいつはコウに次ぐ不器用な男だぞ? ……多分、カーリアの移植外科部長に頼むことになると思う。性格は悪いが腕は確かなじじいだ」
肩をすくめて言うレイに、ロビンがぽつりと呟いた。
「…腕がいい人ってみんな性格が悪いのかしら?」
その言葉に、わずかに複雑な表情を見せながら、レイが口を開く。
「……ビデオグラムのことは、あの骨董品に言えばいいのか? また、会話を成立させるのに苦労しそうだがな」
「ええ、移植技術研究室長にね。実際に手術をしてみて、その場でわかるような問題点があれば、あとでそれをまとめてちょうだい。あたしのいる開発部で処理するから。術前のシミュレーション結果と、術後の経過を比較するレポートも、後々つくってもらうとありがたいけど」
「わかった。…食い終わったら出かけるぞ」
自分はいつの間にか食事を終えて、皿を片づけながら、レイが言った。
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