| |
サンクチュアリ
−− 8 −−
ロビンが置いていった食事には手をつけずに、ベッドの上に座り込んだまま、レイは溜め息をついた。息を吐き出すと同時に、背中に悪寒とは違う何かが走る。もう、幾度となく経験したもの。それでも慣れるということにはほど遠いもの。最初に経験したのは、自分の病名を聞いた瞬間だった。それは……恐怖、なのだろう。
漠然とした感情ではある。なのに、それが向かう方向はいつだって同じだ。もたらすものもいつだって同じだ。
あのとき…と、レイは思い返してみた。
…あのとき、検査結果をリョウの口から聞いたとき…多分、自分はその内容を予想していた。その可能性もある、とリョウと話し合ったこともあった。覚悟、と呼ばれるものならば、その時にすでにしていたようにも思う。だが、可能性があるということと、事実とは違う。それを、あの瞬間に思い知った。やはり、という思い。そして、まさかという思い。微妙に混ざり合った感情が生み出すものは、怯えだった。あのときほど、自分の医学知識を疎ましく思ったこともない。何も考えられなかった。何も考えたくはなかった。怯えをまとった空白の時間でしかなかった。…恐怖は、あとから訪れた。
可能性があると…その時点では、こんな…吐き気すら催すほどの恐怖など決して感じなかった。自分が年を取った姿など、あまり想像したことはなかったし、冗談混じりに、長生きなんかしたくないと口にしたこともある。だが、実際に生きられる期間が限られてしまうと、先のこと全てが闇に沈んでいくかのような錯覚にとらわれる。
頭の隅では、冷静な自分がいる。いつまで生きられるにしろ、精一杯のことをしろと呟く自分がいる。だが、感情はそれを許さない。怖い。純粋に、死ぬことが怖い。死、というその単語を想像するだけで、知らず知らず、手が震えてしまう。
それでも…ある日、気がついた。自分が死んだら、コウは泣くだろうと。自分の生みの親は両親ともすでに亡いが、育ててくれたコウの両親も泣くだろうと。自分が死ぬだけなら、自分の抱く恐怖だけに耐えればそれですむだろう。どちらにしろ、向かう先は決まっているのだから。ただ、コウにもその両親にも…そしてリョウにも。自分に関わる全ての人間に…自分という人間を知っていた全ての人間に、無様な姿をさらしたくはないと思った。それは…安いプライドにしか過ぎないのかもしれない。そんな風に見栄を張ることすら、無様でしかないのかもしれない。だが、自分は知っている。これまで、医者という職業をやってきて、何度となく目にしてきた。死にたくない、と泣きわめく人間を。その姿を無様だとは思わない。正直な気持ちだろう。よほど自殺願望の強い人間でない限り、死に対する恐怖は誰にだってある。自殺願望を持った人間でも、自ら死を選ぶのと、望まないときに死を与えられるのとの違いにはやはり怯えるだろう。だから、泣きわめく人間は正直だと思っていた。ただ、いくら叫んでも、いくら泣いても、救いの手がさしのべられるとは限らない。自分の受け持った患者ならば…外科的手術で助かる人間ならば、自分の力の及ぶ限り助けようとしてきた。実際に幾人かは助けてきた。だが…助けられなかった人間もいる。そうして、学んだ。所詮、絶対的な救いなどあり得ないことを。
そのことを言えば、多分、リョウは困るだろう。救おうとしているのに、と。だが、自分は知っている。職業柄、ある程度の医学的知識はある。移植外科に関係のないものでも、医学雑誌には目を通す。そして思い知らされる。…自分の病気には治療法は存在しないことを。どうあがいても、救いの手などあるわけもない。ならば? ならば諦めるしかないではないか。死にたくないとは思う。それでも助からないのなら、諦めるしか……。あがくこともやめて、叫ぶことも泣きわめくこともせずに。ただ、迫り来るものを待つしかないと。
恐怖を…全ての意志をも容易く凌駕するこの恐怖という感情を、克服することなどできはしない。だから…目を逸らすことにした。コウが泣くから、と。見栄のために、安いプライドのために、すぐそこにある恐怖を見ないふりをすることにした。
時折、こうして背筋を何かが這い登る嫌な感覚に襲われることもある。自分が、決して乗り越えてなどいないことの証拠だ。認めたくないがゆえに怯える。呑み込みたくないがゆえに吐き気がこみ上げる。それでも……叫び出したくなる一歩手前で、コウの顔を思い出す。
……それだけが、唯一の明かりだった。
リョウとロビンから話を聞き終えたコウは、うつむいたまま、疲れたように息を吐き出した。
それきり、誰も口を開かない。永遠に続くかと思われた沈黙を最初に破ったのは、コウだった。
「…リョウさんのほうでは三〇パーセント…。ロビンのほうでは…?」
「まだ…わからないわ。レイが協力してくれれば少しは…研究が後戻りしなければ…でも、後戻りして…振り出しに戻ったら……いいえ、それは考えないでおきましょう」
ロビンの言葉に、コウがうなずいた。そんなコウの手をロビンがしっかりと握った。
「コウ…お願いがあるの。このことを…あなたが知ってるということを、レイには話さないで」
「……どうして?」
「レイは…コウを悲しませないために、今まで何も話さなかったのよ? レイが言ってたわ。コウには、最後まで何も話さないって」
ロビンの潤んだ瞳を見つめ返して、コウが再び尋ねた。
「それは…どういうこと?」
ロビンが哀しげに首を振る。
「あの人は、あなたを守りたいのよ。悲しませたくないの。それでも……レイが助からないかも知れないってことがわかったら、あなたは悲しむでしょう? レイのことを思って、苦しむでしょう? レイは…あなたにそんなつらさを味わって欲しくないから…あの人は、愛しい人に置いていかれたつらさを、誰よりも知っているから…」
ロビンの言葉をさえぎるように、コウが片手を軽く上げた。ゆっくりと、ひどく優しい微笑みを浮かべる。
「だからこそ、だよ。…レイはそういうつらさを味わってきた人だから、もう二度とレイにはそんなつらさを味わって欲しくない。だから…僕は、万が一のことがあったら、なんとしても見送る立場でいようと、そう決めてたんだ。でも…それは今じゃない。レイは助かる。僕はそう信じてる。……だけど、可能性が…ああ、いやな言葉だね、可能性っていうのは…。最悪の事態を考えて、レイがそのことで僕を気遣うなら…そのために、レイが全てを飲み込んでおこうとするなら…それは、間違いだ。レイに全てを背負わせるべきじゃない。僕だって、独りで立てる。レイを支えることだってできる。そのことを…レイに教えてあげたい」
「レイに……話すのか?」
リョウが静かに尋ねた。コウが微笑んでうなずく。その様子を見て、ロビンが溜め息をついた。
「あたしだって…考えなかったわけじゃないわ。コウに全てを話そうと……でも、レイの気持ちを考えると…。だって、あの人は本当に、コウのことを想っているのよ? コウが悲しまないことが、レイの望みなら…」
「でもそれは僕が望んでいることじゃない。最後まで何も知らないことを僕が望んでいるわけないじゃないか。全てを知った上で、レイを包む強さくらい、持っているつもりだ。レイは……守られる幸せも知っていていいはずだよ」
コウのその言葉を聞いて、ロビンは黙り込んだ。そんな二人を見ながら、リョウが小さく息をついた。
「どちらが正しいのかなんて、俺にはわからない。単純な告知問題じゃないからね。お互いの気持ちを尊重しあうには、どの方法がいいのかは……答えなら誰だって出せる。ただその答えがベストかどうかは誰も知らないんだ。 コウの思うとおりにするといい。コウの望みは……レイの望みだ。あいつならきっとそう言う」
リョウの言葉に、コウがうなずいた。
「レイ…入るよ」
部屋の扉を軽くノックして、返事は待たずにコウがその扉を開いた。ベッドの上に腰掛けていたレイが驚いた顔で見上げる。
「コウ? 学会じゃなかったのか?」
「ああ、飛行機はお昼の便なんだ。もうすぐ出かけるけど…忘れ物を取りに来てね。せっかくだからレイの顔を見ておこうと思って。 朝食、あまり食べてないじゃないか。駄目だよ、ちゃんと食べないと」
コウの小言に、レイが軽く肩をすくめた。
「もともと朝はあまり食べないじゃないか。……コウ? 何かあったのか?」
「……どうして?」
「いや、そんな顔をしてたから」
その言葉に、コウは寂しげに微笑むと、レイの隣に腰掛けた。
「レイ……」
「おい? 本当に何か……」
聞きかけたレイをさえぎって、コウはレイに口づけた。優しい口づけのあと、ゆっくりと唇を離す。目を見開いたままのレイを見て、コウが微笑んだ。
「どうしたんだい? そんなにびっくりした顔をして」
問われて、とたんに照れくさそうに前髪をかき上げながら、レイが笑う。
「い、いや…コウからキスされるなんて、滅多にないからな……びっくりした。嬉しいプレゼントだな」
「レイ……もっと、僕に甘えてよ」
「 え?」
レイが聞き返す。コウは穏やかに微笑んだ。
「レイはもっと甘えていいんだ。守るだけじゃなく、守られることも覚えていいんだ。……君が全部背負う必要なんてどこにもないんだ。僕は大丈夫だから」
「コウ? いったい何を?」
「……僕が何も知らないでいることの方が、傷が深いことに気づかない? 僕を信じてくれるなら、僕の強さを信じて欲しい。…独りで耐えることなんてない。僕が……僕がついているから」
空色の瞳をかすかに潤ませながら、それでも微笑みを崩さないコウを見て、レイが息をのんだ。
「コウ…? おまえ……」
「さっき、聞いたよ。……ああ、でも誤解しないで。ロビンやリョウさんは悪くない。二人が話してるのを僕が立ち聞きしちゃっただけなんだから」
「……何を聞いたって?」
青ざめながら、ようやくそれだけ口にしたレイをいとおしげに抱きしめて、その耳元でコウが囁く。
「言ったろ? 背負わなくていいんだ。甘えていいんだ。守られていていいんだよ…」
「…コウ……!」
自分の肩を抱くコウの両腕をとらえて、レイはゆっくりと身体を離した。コウの目を見つめ返せずに、視線が泳ぐ。ふと、自分の手が震えているのを見つけて、そっとコウの腕から手を離す。
「レイ…僕のことなら…」
何かを言いかけたコウを手で制して、レイは大きく溜め息をついた。
「コウ…何をどこまで知ってるって?」
「全部だよ。リョウさんとロビンが知っていることは全部。…レイ? まさか、ここまできて僕に嘘をつくつもりじゃないだろう?」
「だけど、コウ……俺は……」
所在なげに、膝の上で組み合わせた手に視線を落としてレイが呟く。かすかに震えるその手を、コウがそっと包み込んだ。
「レイ…何度言わせるんだ。君は、ただでさえいろいろなものを背負ってる。これ以上…何も背負わなくていいんだ」
「…すまない……コウ…。俺は…何を言えばいいのか…ただ…俺はおまえを……」
とぎれがちなその言葉が意味をなさないと気づいて、レイはふと口を閉ざした。全身から血の気が引いたような感覚のまま、言葉を探した。何を言うべきなのか。それとも何も言わないでいるべきなのか…。
考えあぐねているレイの隣で、コウが立ち上がった。その動きに反応して、びくりと肩を震わせるレイを穏やかな微笑みで見つめて、コウはそっとレイの黒髪に手を触れた。
「レイ……ありがとう。僕のことを愛してくれて。ニューイヤーは、ロビンと三人で家で過ごそう。リムソールの父さんたちには、そう手紙を書くよ。そして、来年も一緒に過ごそう。再来年もその次も…」
「コウ…! 俺は……」
何かを言いかけようとしたレイに、無言でうなずくと、コウは扉に向かって歩き出した。ノブに手をかけて、振り向く。
「もう…出かけなきゃ。一週間後に戻るよ」
夜、キッチンで遅めの夕食をとりながら、ロビンは溜め息をついていた。
コウが出かけてから、レイは部屋の扉に鍵をかけたきり、出てこようとしない。昼食も夕食も、扉越しに短く一言、いらない、と言ったきりだ。
何度目かの溜め息をついて、ロビンは立ち上がった。中途半端な食事を切り上げて、後片付けを始める。キッチンの窓から見える前庭には、朝の雪がかすかに残っている。昼にはやんだはずの雪も、夜になって再び降り始めた。降っては溶けて、そうしてまた新たなる雪が降って。こうしていつしか、街はその色を変えてゆく。今日はその始まりの日だ。これまでは、ロビンは雪が好きだった。その冷たさとは対照的に、いや、だからこそ、家の中の暖かさを強調してくれる白い季節を、毎年待ち望んでいた。だが、今年は違った。いつもの年よりもわずかに遅い雪の到来は、自分のまわりに何が起こっていても、季節は…時間は確実に過ぎていくことを物語っている。自分の力では決して止めることのできない時の流れを実感させる。
背後で小さな物音を耳にして、ロビンは振り返った。キッチンの入口に立つ長身の影を認めて、かすかに微笑む。
「レイ…どうしたの? おなかがすいたなら、食事を……」
ロビンの言葉をさえぎるように、レイが首を振る。
「いや、食事はいらない。……コーヒーをいれてくれないか?」
ゆっくりとした動作で、手近な椅子に腰を下ろすレイを見ながら、ロビンはコーヒーポットを手に取った。
「ねえ…? あたしのこと……怒ってる?」
コーヒーを入れながら、ロビンが尋ねる。
背中を向けたままのロビンに、レイが小さく答えた。
「いや。 なぜそう思う?」
「コウに知られちゃったのは…あたしのせいだから」
「おまえが悪いわけじゃない。それに……いつかは知れることだった。ただ…」
言いよどむレイを振り返って、ロビンが言葉の続きを促した。
「ただ…何?」
「…ただ、コウの反応が…意外だったんだ。 もう少し取り乱すと思ってた。なぜ隠してたのかと、詰め寄られると…。そうじゃなければ、自分を置いていくなと…どちらにしろ、泣かれると思ってたんだ。それが…微笑んでみせるとはな…」
テーブルに肘をついて、苦笑するレイに、ロビンが言った。
「勘違いしないで。それはあなたを愛してないからじゃなくて……」
「わかってる。わかってるんだ。あいつの瞳(め)を見たら、そんなことはすぐにわかる。俺が望む意味ではないにしろ、あいつは俺のことを愛してくれている。それは…十分すぎるほど伝わってきた…」
そう呟くレイの目の前にカップを置きながら、ロビンは、レイの正面の椅子に腰を下ろした。自分も熱いカップを、手で包みながら、静かに口を開く。
「じゃあ…何がそんなに悔しいの?」
「悔しい? 俺が?」
「ええ。悔しがってるように見えるけど?」
ロビンの言葉を聞いて、レイは溜め息をついた。コーヒーに口を付けて、うなずく。
「……そうかもしれないな。確かに俺は悔しがってるのかもしれない。コウが独りで立てることに。俺の守りを必要としないことに…な」
「そうじゃないわ。…コウはあなたの守りを必要としないんじゃなくて…上手く言えないけど、必要だとかそうじゃないとか、そういう次元とは別のところで、あなたを守ろうと思ったのよ。コウは言ってたわ。あなたに全てを背負わせるべきじゃないって。あなたは…いつでも、コウを守ってる。あなたがいるっていうそれだけで、コウは守られてるんだわ。だから…あなたも、コウに守られていいのよ」
「おまえは…以前、言ったな。俺が何をしても許すと…」
レイの呟きに、ロビンがうなずいた。
「ええ。言ったわ」
「じゃあ…今から俺が愚痴をこぼすのを……黙って聞いててくれるか?」
レイは、迷うような視線をロビンに向けた。その紫色の瞳を見つめ返して、ロビンが無言でうなずく。それを見て、レイはかすかにうなずきながら、テーブルに視線を落とした。
「俺は、今朝までずっと、コウの存在を言い訳にしてきた。コウがいるから…コウを悲しませないために…そんな理由をつけて今まで…。ただの言い訳だ」
囁くように言うレイに、ロビンが首を振った。
「言い訳だなんて…」
「いや、言い訳なんだ。そんな口実でもなければ、気が狂いそうだった。コウの前でみっともない姿をさらすわけにはいかないって、ただそれだけのために強がってきた。…おまえが、前に言っただろう。死ぬのが怖いんだろうと。ああ。怖いに決まってる。そのことを考えただけで、夜も眠れない! 手が震える! 恐怖で頭が真っ白になる! 確かに……今までは強がってただけだ。強くありたいと…コウのために強くありたいと思って、強いふりをしてきたんだ! そうでもしなければ、押しつぶされそうだったから! わかるか!? 何をしても、何を考えていても、死への恐怖が頭から離れないんだ! 夜を過ごす度に、朝を迎える度に! 残りの日数を数えずにいられない、そんな気持ちが!?」
「…レイ……」
ロビンの囁きも、レイの耳には届かず、レイは重い息を吐き出した。
「いつでもだ。カーリアで手術をしている最中でも、この家で、コウの微笑みを見ているときでも。いつでもそのことが頭にある。今だってそうだ。何をしゃべっていても、意識の底には死への恐怖がある。……本当に…無意識に手が震えるんだ。体の表面が冷たく泡立つような……胃のあたりだけが奇妙に熱くて……冷たくなった指先が小刻みに震えるのを、まるで他人の指でも見るように、見つめてしまう。意識と身体が切り離されて、震えを止めることなんて出来やしない。まわりの景色がやけにくっきりと見えてきたりして…音や匂い……自分のまわりの状況がやたらとクリアになってくる。そして、おびえてる自分に気づくんだ……。それでも、コウのことを考えれば、それを無理矢理押さえつけることができた。コウに心配をかけないために、微笑んでみせた! コウを悲しませないために、手の震えもおさえつけた! その口実がなくなった今……俺はどうすればいい…? 死にたくない…コウを残して…。俺が死ねばコウが悲しむ…。おまえが……おまえの研究が……」
そこまで言って、レイはふと口を閉ざした。何度か頭を振って、顔を上げる。
「いや…なんでもない……」
「レイ、わかってる。心配しないで。あたしがあなたを助けてあげるから。あなたを死なせやしないから」
きっぱりと、そう告げたロビンの瞳を見て、レイは柔らかな微笑みを浮かべた。
「…強いな」
「え?」
「おまえは女のはずなのにな。……女っていうのは、もっと弱い生き物だと思っていた。少なくとも、俺の知ってた女は…」
それを聞いて、ロビンが首を振る。
「それは…あなたのお母さんのことを言ってるの? だとしたら…彼女は弱くなんかないわ。あなたをこの世に生み出すために、精一杯の力を振り絞った、そんな女性が弱いはずないじゃない。ねえ、彼女は多分、死ぬつもりなんかなかったわ。あなたを生んで、そして育てていこうとしてたはずよ。その希望は…かなわなかったけど、それは弱さなんかじゃない。…強いわよ。あなたはそのことを誇りに思っていいわ。ぎりぎりの選択を強いられて、それでも彼女はあなたを守ろうとしたのよ? そして、最後まで守り抜くためには死んじゃいけなかったことも知ってたはず。それでも…力が及ばなかったことを、責めないであげて」
ロビンの囁きに、レイは力無く首を振った。
「責めるつもりなんかない……俺は……俺の方こそ…」
そこまで言って、レイは息を吐き出した。もう一度首を振って、言葉をつなぐ。
「 もう、よそう。こんな話をしにきたんじゃない」
それを聞いて、ロビンが一瞬、口をつぐむ。が、わずかな沈黙の後、そっと囁くように言った。
「でも…もしも、あたしが彼女の立場なら、自分の子供に……ありがとうって、そう言うわ。赤ちゃんが…あなたがいてくれたことで、紛れもなく幸せになれたから…だから、ありがとうって」
そう言って微笑んだロビンの、金の髪が揺れる。それをまぶしげに見ながら、レイが呟いた。
「……感謝、か……記憶にないな。……いや、すまない。ただの泣き言だ」
それを聞いて、ロビンが首を振る。
「いいのよ。言ったでしょう? 何でも許すわ。それに…いいものも見せてもらったし」
言いながら、ロビンが悪戯っぽく笑う。レイが首をかしげた。
「いいもの?」
「ええ、さっき微笑んだでしょう? あなたがあたしにまともに笑いかけるなんて、初めてだわ」
その言葉に苦笑しながら、レイが口を開く。
「じゃあ、もう一つ……。いや、これはおまえにとってのいいものじゃないな。どちらかというと、俺にとってだ。 今朝、言ったこと…ウィードの仕事、手伝わせてくれ」
それを聞いたロビンが、目を見開く。
「え? ……いいの?」
「ああ……今朝、コウが出かけてからずっと…考えてた。俺の今の気持ちは…さっき言ったとおりだ。死ぬことは確かに怖い。 実際、今までコウに対する演技だけが支えだったようなものだ。それがなくなって…自分のもろさを見せつけられた。頭の中が…こう、焼き付いたフィルムみたいに真っ白になって、何も考えられなくなる。それでも、ぎりぎりのところで踏みとどまる。俺が死んだらコウが悲しむってことを思い出してな。俺は…死ぬわけにはいかない」
「……それで…」
「ああ。自分に出来ることをするんだ。俺が動くことで、少しでも可能性があがるなら…。本当は、もっと早くこうするべきだったんだ。ただ…怖かった。自分が、そのことに関して動くことは、自分の命の期限が迫ってることを認めることになるからな。死なないために何かをするっていうのは、死ぬことを前提にしてる。……認めたくなかった。自分がそのことを怖がってるってことも。見ないふりをするのが…気づかないふりをするのが、一番…楽だったから」
ロビンの瞳を見て、そう呟くレイに、ロビンがうなずいた。
「 引き受けてくれてありがとう。…報酬のことだけど……」
「いや、それはいらない。俺がやりたくてやることだ」
「そういうわけにはいかないわ。それに…どっちみちあなたは受け取らざるを得ないはずよ」
「……どういうことだ?」
そう尋ねるレイに、ロビンが微笑む。
「報酬は、あなたの手術に必要な人工臓器。もしも、製品として登録される前に必要になったとしても、私的研究のためと称して、臓器は提供される。もちろん、用途は問わない。あとは、あなたの働きに応じて正規の現金報酬が支払われるはずよ。……カーリアよりは安いかもしれないけどね」
最後の言葉を、くだけた口調で付け足して、ロビンがレイを見つめた。
「……わかった。受け取らせてもらう」
レイがうなずいた。それを見て、ロビンがもう一度、囁くように言った。
「ありがとう、レイ…」
「礼を言うのはこっちだ。 勘違いするな、おまえのためじゃない。自分のためだ」
そう言って、レイが微笑んだ。
|
|