サンクチュアリ



−− 6 −−



    外を見ていた。半分だけカーテンを閉めた窓から、霙(みぞれ)の降る庭先を、レイは黙って見つめていた。何をというわけでもなく、ただ、窓の向こうに視線を投げていた。
 かすかな溜め息をついて、立っている位置は変えずに、レイは振り向いた。窓枠に預けた背中からわずかに、夜になって冷え込んできた外の気温が伝わってくる。窓の外から室内へと転じた視界にはいろいろな物が入ってくる。机の脇には、先月提出した論文の資料が整理されないまま積み重ねられている。棚の上にはリョウに借りたディスクが何枚か。机の上には、さっきまでいたコウが忘れていったコーヒーカップ。そして、その横には…小さな写真立て。
 もう一度、レイは溜め息をついた。
 じわじわと体温が上がっていくのが感じられる。全身を包む悪寒に、息苦しさは増してゆく。体は休息を求めている。だが、眠れば、感覚を満たすものはあの夢だ。
    眠りたくない。目を閉じると、金の髪が揺らめく。薄紫の瞳が自分を見つめる。
 自分の心を占める物が、罪悪感なのか、憎しみなのか、愛おしさなのか。夢を見ることに、うんざりしているのか、心惹かれているのか。自分では出せない答えを、それでもレイは求めていた。
 さっきまではそばにいたコウも、もう休むように言い残して部屋を出ていった。昨日から降り続いている雨は、いつの間にか霙に変わっている。
 ベッドサイドの時計の数字が、十二時に変わる。そのことに気づきながら、レイは写真立ての中の笑顔を見つめていた。


 真夜中、帰宅したロビンは、レイの部屋の扉から明かりが漏れているのを見つけた。
「レイ? 起きてるの?」
 軽くノックして、扉を開く。ベッドに腰掛けたままの姿勢で、レイが顔を上げた。
「…おまえか」
「通りかかったら、明かりが見えたものだから……コウはもう寝たんでしょう?」
「ああ。   今、帰りか?」
「ええ。……もう日付が変わってるわね。レイ…お誕生日、おめでとう」
 その言葉に、レイが顔を背けた。
   誰に聞いた?」
「コウよ。あなたが、誕生日を嫌ってることも…その理由も聞いたわ。それでも……お誕生日おめでとう」
 ロビンが優しく微笑む。だが、レイはロビンの顔を見ようとはしなかった。
「……めでたい? そうだな、俺が初めて人を殺した記念日だ。……俺は今でも、人殺しを続けてるようなものだ。生まれたときに人を殺して…今でさえ……医者になってさえ、それは変わらない」
「どうして? あなたは何人もの人を助けてるじゃない。助かる可能性のほとんどない人でも、あなたの腕なら助けられるでしょう? そのことを…誇りには思わないの?」
「助ける一方で、助けられない人間もいる。おまえが最初にここに来た日に言った。どんなに手を尽くしても助けられない人間もいる、と。救えない命の数は、確かにのしかかってくるさ。…どうせ、俺は、この世に生まれ出たその瞬間に、もう人を殺してるんだ。それでも……そんなことをもう気に病む必要もなくなるな」
 嘲るような笑みを浮かべながら、レイが言った。ロビンが眉を寄せる。
「…どういうこと?」
「次の誕生日は俺にはこないってことだ。リョウが言った。よく保(も)って来年の夏だとな」
 吐き捨てるように言ったその言葉に、ロビンが首を振った。
「違うわ。あなたはあたしが助けるもの。どうしてそんなことを言うの? あなたがあたしを信じてないことはわかってる。だけど……あなただって、死にたいわけじゃないでしょう!? もう少し……あがいて見せてよ…。こんなに早くあきらめるなんて…あなたらしくないじゃない。あなたは…病院で……もう間に合わないって言われてる命だって助けてきたでしょう? それとも……死にたいとでも思ってるって言うの!?」
 それを聞いて、レイがうつむく。
「……そんなこと思ってやしない…。あきらめたわけでもない…。それでも…確実に期限は近づいてくる。そのことを、誰よりもわかってるのは、多分…俺だ」
 溜め息を一つついて、ロビンはレイの隣に腰掛けた。
「本当は…あきらめたくなんかないんでしょう? 死ぬのが……怖いんでしょう?」
 レイはうつむいたまま、無言で首を振った。ロビンがレイの肩に手をかける。
「そんなはずないわ。強がらないで。人間ってそんなに強くないわよ? 自分がそうありたいと思ってるほどにはね」
「だったら…だったら何だって言うんだ? 死にたくないと……泣きわめけとでも? 誰か助けてくれと、泣いてすがれとでも言うのか? そんなことをしても、何にもならないだろう、違うか? それに、たとえそうだとしても、おまえにそのことを話す義務はない。言ったはずだ、俺はおまえを信じてるわけじゃない。おまえの仕事に…期待してなんかいない。もし、誰かにすがりたくなったとしても、その相手はおまえじゃない。おまえは…俺を救ってくれるわけじゃないだろう?」
 肩に掛かった手を払いのけて、レイが言った。ロビンが微笑む。
「そうね。でもあなたがすがるべき相手が他にいるの? コウにすがる? それともリョウさんに?」
「……そんなことは…どうだっていいだろう。だいたい、おまえは何をしに来たんだ。もう出ていけ、俺は寝る」
 そう言ってにらみつけるレイに、ロビンは柔らかな笑みで視線を返すと、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
「あなたに伝えたいことがあってきたのよ」
「だったら、さっさと言え」
「……ええ。あたしね、あなたのことが…レイのことが好き。もちろん、あなたが女性に興味ないってことは知ってるわ。それでも、伝えたかったの」
 レイの瞳をまっすぐに見つめたまま、ロビンが言った。その、深い青の瞳を見ながら、レイが黙り込む。
「驚いた? あたしがこのことを伝えたかったのは、自分のためじゃないわ。……あなたのためよ」
「どういう……」
「あなたはコウを愛してる。それにあなたは女性を愛せない。知ってるわ、そんなこと。でもね、あなたがコウに対して抱(いだ)いてるような気持ちが、自分自身にも向けられていることを、あなたに教えてあげたかったの。……たとえば、コウが何をしても、あなたは許すでしょう? コウの幸せのために、全力を尽くそうとするでしょう? コウが存在している、ただそれだけで、あなたは幸せになる。そんな気持ちが、自分自身にも向けられていることを…そして、あなたが存在している、それだけで誰かが幸せになれるってことを、あなたに伝えたかったの。だから…あたしは、あなたが幸せになれるなら、そのために、自分ができることを全てやるのよ」
 それだけ言うと、ロビンは戸口に向かって歩き出した。扉を開けようと、ドアノブに手をかけたロビンの背中に、レイが声をかける。
「おい。……俺は…」
 その声に、ロビンが振り向いた。
「答えなんていらないわ。何も言わなくていいのよ。ただ…これだけは知ってて欲しい。あたしは、あなたが何をしても……許すから。だから…だから、お誕生日、おめでとう…。じゃあね、お休みなさい」
 金の髪を揺らして、ロビンは部屋を出ていった。閉じられた扉を見つめて、レイが溜め息をつく。
   何も言わなくていい、か……。それは、今朝、俺がコウに言った台詞だな…)


 リョウが訪ねてきたのは、その三日後のことだった。
「レイ、入るぞ」
 ノックと同時に、レイの部屋の扉を開ける。ベッドの中で上半身だけを起こして、医学雑誌を読んでいたレイが顔を上げた。
「何だ、おまえか」
「何だとはご挨拶だな。   熱は下がったのか?」
 抱えていた大きな封筒の中から、数枚の書類を出しながらリョウが訊く。雑誌を閉じて、レイがうなずいた。
「ああ。解熱剤が効いたらしい。…何か、わかったとでもいうのか? いきなり来るなんて」
「その前に、おまえに確認したいことがある。電話で訊こうかとも思ったんだが、おまえの様子を見るついでもあったしな。   おまえ、カーリアの骨髄バンクに登録していないな、どうしてだ? 職員は義務だったはずだが?」
 その質問に、レイが肩をすくめた。
「登録する意志はあったんだがな。不適格だと言われたよ。   昔、骨髄移植を受けてるんだ。確か…六歳ぐらいだったから…二十二年前になるか」
「骨髄移植? 初耳だな」
「ああ。再生不良性貧血だった。身内や、バンク登録者に適合する型がなくて、人工骨髄を移植した」
 それを聞いて、納得したようにリョウがうなずく。
「なるほどな……。それで、後遺症は?」
「ない。   おい、まさか肺石症が骨髄移植の後遺症だなんて言うつもりじゃないだろうな? 二十二年だぞ?」
 苦笑しながらのその言葉を受けても、リョウは真顔だった。持ってきた書類をレイに渡す。
「…厳密には後遺症じゃない。副作用と言うべきかな。そこに書いてあるものが何か、わかるか?」
 眉を寄せながら、レイが手元に目を落とす。そこには、A、T、G、Cの四種類のアルファベットがびっしりと並んでいた。
「…何の塩基配列だ?」
「おまえの、肺組織からとった標本だよ。……そのデータの二ページ目、三行目から五行目にかけての配列が、何を示しているかわかるか?」
 リョウがレイの手元を指さす。小さなアルファベットを読みとって、レイがうなずいた。
「…造血細胞だな。   ちょっと待て、肺組織からだろう? 何でこんな……?」
「そう。おかしいんだ。多すぎる。それに…普通の造血細胞とも違う。構造配列としては意味のない…読みとれない部分、つまりイントロンの部分が多すぎる」
「イントロンはもともと多いものだろう、普通なら九〇パーセント以上は……」
 レイの反論に、リョウは首を振った。
「その配列の場合、九十八パーセント以上がイントロンだ。他の肺石症患者のDNAも調べたが…幾つか似たものがある。ただ、患者の絶対数が少ないんだ。すでに死亡している患者のものは、わずかな標本しかない。そこで、駄目でもともとだと思って、他の患者の病歴の再チェックをしてたら、骨髄移植の文字を見つけたんだ。それで、おまえに聞きに来た」
 リョウの言葉をさえぎるように、レイが口を開いた。
「ちょっと待て。おまえの話はつながっていないぞ。骨髄移植とDNAの塩基配列がどうして…」
「わからないか? おまえらしくない。   造血細胞は、もともと骨髄にそのほとんどが集まっている。それが、なぜ肺にそんなに集まっているのか。そして、本来の造血細胞と比べて、塩基配列が微妙に違っている」
「違っていたとしてもイントロンの部分だろう? 本来、無意味な部分だ」
 レイの言葉に、リョウが首を振る。
「無意味なんじゃない。読みとれないだけだ。…もしもそれが、読みとれないだけで、意味のあるものだとしたら? それが肺に集まっている、その結果は?」
「……細胞の石化か?」
「多分そうだと思う。本来、造血細胞に含まれていた、もしくはおまえが移植を受けた人工骨髄に含まれていた何らかの因子が活動した結果が、細胞の石化につながっているんだと思う。レトロウイルスなんかじゃない、細胞分裂のスピードと同じ考え方をすればよかったんだ。それは…癌の一種だったんだ。…だって、そうじゃないか、本来は自己の細胞の一部だったんだ。少なくとも、この二十年間はそうだった。移植されたものも、おまえの細胞の一部として働いていたはずだ。だが、時間の経過や、何らかの刺激が元で、その細胞が異常な活動を始める。癌と同じだよ。造血細胞そのものも、俺たちがイントロンだと思っている、その部分に誘導されるようにして、肺に集まったんだろう」
 言いながら、リョウが身を乗り出す。レイがうなずいた。
「そうだとしたら、その因子の目的は何だ?血液か? それとも……」
「多分、酸素だ。血液が目的なら、肺じゃなく、心臓か脳にいくはずだろう。何故か肺に集中していることを考えれば、目的は多分酸素だ。それも、肺の中で、酸素交換が行われている場所を狙っている。おそらくは、その形でしか、酸素を取り入れることができないんだ。血中に溶けた状態では、その細胞にとっては意味がないはずだ。そうやって、酸素を取り入れると、活動が活発になる。そうして、最終的には石化していく。石というよりも骨に近いだろうな。酸素と一緒に血中のカルシウムも取り込むんだ。俺も迂闊(うかつ)だったよ。貧血症状がでるのは、リデル酸コリカノールの副作用だけが原因じゃない。造血細胞の不活性化が大きく関わっていたんだ。それに加えて、肺の有効活動量も少なくなっている。血液そのものが慢性的な酸欠状態に陥っているんだ。……これから、もう一度DNAの解読作業に入ろうと思う。謎の因子の塩基配列を決定するために必要なんだ。血液と、あと骨髄のサンプルを少しくれないか?」
 そう言って、リョウは持ってきた小さな鞄を開いた。レイがうなずいて、ベッドに横たわる。うつぶせになりながら、口を開いた。
「それはかまわないが……最近は採取が手軽になったとはいえ、痛いことは痛いんだ。ちゃんと麻酔しろよ」
「わかってるさ。ああ、それと、おまえが移植を受けた骨髄の製造元と、シリアルナンバーはわかるか?」
「製造元は確か、セルヴィッツ製薬だ。シリアルナンバーの控えは、そこのディスクに入ってるから、あとで出す。   おい、痛いぞ、下手くそ」
 リョウの手際に、レイが悪態をついた。それを聞いたリョウが苦笑する。
「多分、おまえのほうが上手いんだろうがな。その姿勢ではどうしようもないだろう」
「確かにな。…今度コツを教えてやる」
 レイが溜め息混じりに呟いた。
 採取の終わった標本を、鞄の中にしまいながら、リョウがふと口を開いた。
「そう言えば……彼女…ロビンだっけ? こないだ、コウから聞いたんだが…お父さんが事故に遭ったって? 連絡は来たのか?」
 ベッドの中で姿勢を整えて、レイが首を振る。
「いいや、まだだ」
「それで? 彼女は?」
「……仕事にいってるよ。緊急連絡用には、俺の携帯電話を持たせてある」
 溜め息をつきながらレイが答えた。それを聞いたリョウがかすかに微笑んだ。
「ずいぶんと仕事熱心なんだな。…もっとも、おまえにとってはそのほうがありがたいんじゃないか? 彼女が研究してるのが人工肺だってことは知ってるんだろう?」
「ああ。知ってるも何も、あいつは……」
 そこまで言いかけて、レイがふと口をつぐんだ。リョウが先を促す。
「何だよ、レイ。言いかけて……」
「話題を変えろ。   コウがきた」
 扉をあごで示して、レイが言う。リョウがうなずいた。手元にあった書類を片づけながら、当たり障りのない会話を始めたとき、扉がノックされた。返事を待たずにその扉が開く。コウが顔を見せた。
「リョウさん、よかった、まだ帰ってなくって」
 安心したように微笑むコウを見て、リョウが尋ねた。
「どうした? 俺に用?」
「ええ、リョウさん、これから……」
「ああ。一度病院に戻って、その後は大学の研究室のほうに顔を出そうと思ってるけど」
 リョウの返事を聞いて、少し考えるような仕草を見せたコウに、リョウが再び尋ねた。
「それがどうか?」
「ええ…夜は予定はありませんか?」
「ああ。……デートの誘いかい? コウのためなら喜んで……」
「あ、あの…違うんですけど。もし、今夜何も予定がないなら、うちにもう一度来て欲しいんです」
 その言葉に反応したのは、リョウよりもレイのほうが先だった。
「おい、コウ、まさか……」
「だって、レイ……」
「おいおい二人とも、話が見えないぞ?」
 リョウが言う。コウが慌てて、話し始めた。
「あ、すみません。実は…僕、教授の付き添いで、シュルツで開かれる学会に行かなきゃならないんです。飛行機は明日の朝なんですけど、教授が今になって、発表の準備が整ってないなんて言い出して…。で、今晩は大学に泊まり込んで、明日の朝、出発することになったんです」
 リョウがうなずく。
「シュルツなら移動だけで、片道六時間はかかるな」
「ええ、学会の開催期間も含めると、一週間近くはかかるかと……。それで、レイのことが心配になって…。ロビンも最近は帰りが遅いし」
 それを聞いてレイがうんざりしたような声を上げた。
「コウ…俺だって子供じゃないんだから…」
「そんなこと言ったって、レイ、夜になると熱出したり、咳き込んだりするじゃないか。それに、僕がいないと、すぐにベッドから抜け出してうろうろするつもりだろう?」
「人聞きの悪いことを言うな。雑誌や飲み物を取りにリビングに行くだけだろう」 
「それでも…」
 延々と続きそうな二人の会話に、リョウが割って入った。
「わかったよ、コウ。確かに、こいつを一人にしたら、心配だな。昼間は無理だが、夜なら少しは自由になる。コウが帰ってくるまで、俺がここに泊まり込むことにしよう。それでいいかな、コウ?」
「おい! リョウ!?」
「はい! 助かります。すみません、面倒かけて」
 レイの不平の声は二人には届かなかったようだ。
「じゃあ、いったん俺は病院に行くけど……そうだな、七時か八時にはまた、この家に戻ってくるよ。コウは何時頃出かけるんだ?」
「ええ、もう少ししたら…三時頃には出かけます」
「そのあいだ、レイには、一人でおとなしくしててもらおう」
 微笑んで、片目をつぶってみせると、リョウは鞄を抱えて立ち上がった。
「じゃあ、お願いします。あ、レイ、リョウさんにスペアキーを……」
 振り向いて、微笑んだコウに肩をすくめてみせると、レイは渋々、机の上を指さした。
「そこに俺の鍵が置いてある。それを渡せ。   全く、俺も信用がないな」
「倒れるまで働いてた人間に、そんなこと言う資格はないよ、レイ」
 リョウにスペアキーを渡しながら、コウが微笑んだ。


 その日の夜、再び訪れたリョウは、リビングのソファにいるレイを見つけて、溜め息をついてみせた。
「全く、これだからな。コウが心配する気持ちが分かる」
「自分の家の中だ。どこにいようと俺の勝手だ」
 すねたように言うレイの横に腰を下ろして、リョウが微笑んだ。
「まあ、確かにコウは過保護かもしれないけどな。……今のおまえにはそれくらいでちょうどいいんじゃないか?」
「……冗談。一日中、ベッドにいろって?    それより、大学に行ってきたのか?」
「ああ。今日のおまえのデータをいれてきたよ。コンピューターにかけてきたが、全部のデータを読みとって、解析が終わるまでは二日くらいはかかるだろうな。   酒、もらっていいか?」
 ソファから立ち上がりながらリョウが言う。レイがうなずいた。
「ああ。そこのサイドボードに入ってる。俺にも頼む」
「主治医としては、患者には……まあいいか。一杯だけだぞ」
 キッチンで水割りを作るリョウの後ろ姿に、レイが話しかけた。
「なあ、謎の因子を発見できたら……それからは?」
「それから? ……それからは…」
 二つのグラスを持って振り向いたリョウが一瞬、真顔になった。レイが見つめる。
「見通しはたってるのか?」
 それには答えず、リョウはレイの目の前にグラスを置いて、向かいのソファに腰掛けた。自分の分のグラスを手にとって、口を付ける。
「おまえが言えないなら、俺が言ってやろうか?」
 答えないままのリョウに向かって、レイが言った。リョウが顔を上げる。もう一度グラスに口を付けると、微笑みを浮かべた。
「言えないことはないさ。大丈夫だよ。原因さえ分かれば、あとは原因を取り除く治療法を……」
 それを聞いて、レイが苦笑した。
「何度言わせるんだ。自分が信じてないことは口にするな。特に俺の前ではな。……おまえは嘘が下手だ」
 微笑みを消して、リョウがグラスを置いた。テーブルが無機質な音を立てる。
「嘘じゃないさ。原因さえ……」
「もういい」
「レイ! そうじゃ……!」
「いいんだ。俺にだってわかってる。確かにそれがセオリーだよな。まず原因を突き止める。そうして次には、その治療法を見つける。だが…肺石症の場合の治療法は何だ? 石化…いや、骨化か…とにかく、変化していく細胞を止めるか? 細胞の変化がこれ以上進まないように? じゃあ……すでに変化してしまった細胞は? 原因が何であれ、変質してしまった細胞は…この変化は不可逆的なものだろう? 二度と元の細胞には戻らないんだろう? ならどうする? 機能しなくなった部分は切除するか? それもいいだろう。だが…これから変化する細胞をくい止めるだけの力しかないなら、それは決定的な治療とは言えない。どちらにしろ、変化をくい止める何かを見つけるのと、俺の肺が限界を越えるのとはどっちが早いかな? 原因が分かったとしても、これから治療法を開発していくんじゃ、数ヶ月…下手をすれば数年単位で先の話だよな」
 口元をゆがめて、レイが言った。リョウが立ち上がる。
「レイ! だからって…」
 レイも立ち上がった。テーブルの上に身を乗り出しているリョウの襟元をつかむ。
「リョウ……答えろよ。俺は…おまえに期待していいのか? 俺にはおまえの嘘は通用しない。誰に期待すればいいのか……それとも…期待なんか…」
「レイ……」
 自分の襟元をつかむ手がかすかに震えているのを見て、リョウが囁くように言った。レイの手首をつかむと、ゆっくりと引き剥がす。自分の手の中の意外な細さを感じとって、寂しげに微笑んだ。ゆっくりと、ソファに腰を下ろして、立ったままのレイを見上げた。
「少し…痩せたな。   はっきり言おう。どうやらおまえには隠し事は通用しないようだ。…間に合う可能性は…ゼロじゃない。だが……五分五分まではいかない。よくて三〇パーセント」
「そうか……すまない。本人にはなかなか言いにくいことだよな…」
「レイ…こんな時に、俺にまで気を遣うなよ。おまえが気遣うべき相手は……一人だけだろう?」
 それを聞いたレイの口元がゆるむ。ひどく優しげな微笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
「そうだな……」
「もう…休んだほうがいい。手が少し熱っぽかったぞ。これ以上俺の仕事を増やす前に、さっさと寝てくれ」
 リョウの言葉にうなずきながら、レイは目の前のグラスを手に取った。その中の琥珀色の液体を一息に飲み下すと、溜め息をついて立ち上がった。
「主治医には逆らわないでおこう。   寝るときは、二階の客間を使ってくれ。階段をあがってすぐ右だ」
「わかった。……おやすみ、レイ」

   
           
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