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サンクチュアリ
−− 5 −−
家の前に一台の車が止まった。そこから降りてきた人物を出迎えながら、コウが口を開く。
「わざわざすみません、リョウさん」
リョウと呼ばれたその人物が軽く手を挙げて応える。
「ああ、いいよ。どうせオフだったし。……それより、レイが倒れたって?」
「ええ…ずいぶん前から内科に行くようには言ってたんだけど……」
眉を寄せるコウに、リョウが肩をすくめた。
「医者ってのはたいてい病院嫌いさ。…レイは部屋だな? 勝手に入るから、かまわないでいてくれていいよ」
その言葉にうなずいて、コウはリビングに戻った。不安そうにしているコウに、優しく微笑みかけて、リョウはレイの部屋の扉を開けた。
「……来たな、ヤブ医者」
ベッドの中からの出迎えの言葉を聞いて、リョウが思わず苦笑する。
「その減らず口から治してやろうか?」
言いながら、レイの枕元に椅子を寄せて腰を下ろす。
「コウが心配してたぞ。……ばれたのか?」
リョウの言葉に、レイは枕に乗せた頭をかすかに横に振った。
「いや……多分、大丈夫だ。コウには…軽い肺炎だとでも言っておいてくれ」
「ああ、わかった。……それより、倒れたって言うのは、穏やかじゃないな。そろそろ…限界なんじゃないのか? いつでも入院できるようにはなってるが…」
「入院して、いったいどんな治療をする? 治療のめどがたったって言うんなら、入院でも何でもしてやるが?」
「……そうだな。もう少し待ってくれ。とりあえず、最近の症状を聞こうか」
溜め息をつきながら、リョウが言う。レイがうなずいて口を開いた。
「咳がひどくなってきた。それと…貧血、食欲減退」
「熱は?」
「ああ、これは昨日ぐらいからだ。今は…三九度前後かな」
それを聞いて、リョウが再び溜め息をついた。
「仕事を…休む気はないのか? 辞めろと言ってるわけじゃない、もちろん……」
「治ったら、復帰…か? ……自分が信じていないことは口に出さない方がいい。おまえは嘘が下手だ」
そう言って、レイが笑う。つられたように、リョウも苦笑する。
「全く…おまえにはかなわない。それでも…俺は…おまえを助けたいと思ってるから…できれば仕事は休んで欲しい。体力の消耗は命取りになる。それは、自分でもよくわかってるはずだ」
「わかってるさ。わかってるから…仕事でもしてないと気が狂いそうになる。あいつの…コウの前でそんな醜態をさらすわけにはいかないんだ」
「もう…限界に近いはずだ。先週のレントゲンを見た限りじゃあ…わかってるとは思うが……このままじゃあ…来年の夏までもつかどうか……」
絞り出すようなリョウの言葉に、レイはかすかな微笑みを浮かべたまま、言った。
「期限が切れる前に、おまえが治せ。……信じてるぜ?」
「…こんなヤブ医者を信じるなよ」
リョウが無理矢理微笑んでみせる。レイも同じような表情を浮かべるが、すぐに真顔になった。ベッドに横たわったまま、天井を見つめて囁くように口を開く。
「俺は……死ぬわけにいかないんだ」
「レイ…おまえは……」
「…なあ、リョウ? ……どっちが……いや、何でもない…」
独り言のようにつぶやくレイに、リョウが明るく話しかけた。
「さ、そんなことよりもっと現実的なことを話そう」
無理に明るく振る舞おうとしていることは、レイにも、そしてリョウ本人にも、わかりすぎるほどわかっていた。それでも、そのことを指摘できるほど、二人とも強くはない。だからこそ、レイもそれに応えた。
「そうだな…。研究はどのくらい進んだ?」
「…過去の症例が少なすぎる。おまえの…この肺石症という病気は、今までに発見された例は一桁しかない。過去の例と、こないだの組織検査の結果をあわせて、研究中だが、ウィルス…それもレトロウィルスの一種じゃないかという見方が強まってはきてる。実際、そうじゃなきゃ説明できないこともあるしな。……遺伝子レベルで変化してるんだ。しかも何故か、肺の周囲だけに限られている。肺の細胞に入り込んだ…もしくはそこから出現したものが、肺の組織そのものを石化させていく。その部分の塩基配列が決定すれば、少しは先が見えるかもしれないが…」
リョウの言葉に、レイがうなずいた。
「レトロウィルスだとしても、感染が容易なものなら、患者数は増えるはずだな。細胞分裂のスピードは?」
「むしろ癌に近い」
「……なら、体質や環境要因が大きく関わってくるのか? そうじゃなければ、全くの偶然か」
リョウが首を振る。
「全くの偶然ではないだろう。たとえ偶然だとしても、結果がある以上、原因があるはずなんだ。----細胞の塩基配列の解析が終われば、少しはわかるだろう。明日にでも終わりそうなんだ。結果が出たら、知らせに来る。……少し休め」
「…薬は?」
「あとで届けさせる。いつもの薬もな。……効いているのかどうかはわからないが、とりあえず、現在開発されている唯一の薬だ。……症状の進行を遅らせるくらいしかできないけどな。----病院の方には、俺から言っておく。二週間の安静だ」
そう言って、立ち上がったリョウを見上げて、レイが苦笑した。
「偉そうに言いやがって」
「俺はおまえの主治医だからな」
廊下へと続く扉を開けながら、リョウは片目をつぶって見せた。
リビングに戻ったリョウを、心配げなコウが迎えた。その隣にはロビンの姿もある。
「リョウさん、レイは?」
「ああ……」
コウの言葉に答えながら、リョウはロビンに目を向けた。微笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「こちらのお嬢さんは? この家に女性がいるなんて珍しいな」
「あ、遠い親戚のロビンです。しばらく前から、同居してて…」
コウが答える横で、ロビンが口を開いた。
「レイの具合は? 倒れたって聞いたんだけど…」
「そんなに心配するほどじゃない。軽い肺炎だ。入院する必要もないだろう。ただ、少し疲れがたまってるみたいだから、しばらくはベッドから出さないように見張っててくれ。……あいつは油断するとすぐ、抜けだそうとするから」
肩をすくめながら、冗談めかして言ったリョウの言葉に、コウは大きく息をついた。
「そう…ですか。わかりました。よかった、たいしたことなくて…」
「多分、風邪をこじらせたんだろう。医者の不養生の見本だ」
リョウの言葉に微笑みながら、コウはソファを手で示した。
「休んでください。今、コーヒーを持ってきます」
そのすすめに従って、ソファに腰掛けながら、同じように向かい側に腰掛けたロビンに、リョウが話しかけた。
「レイとは親しいのかい? …ああ、一緒に暮らしている人に対してこの質問の仕方は妥当じゃないな。聞き方を変えよう。…レイとはうまくやっていけてる?」
リョウの言葉に、ロビンが微笑んだ。
「多分、想像なさってる通りだわ。…リョウさんはレイとは長いおつきあいなの?」
「ああ、レイとは大学で一緒だったんだ。あいつは昔っから可愛げのないヤツでね。俺の方が年は上だし、先に大学に入ってたのに、とっとと大学院に進んで、とっととそこも出ていきやがった。ようやく追いついたのは、カーリアに勤め始めたときだった。…おっと、誤解しないでくれよ、俺が留年したわけじゃない。レイがすっ飛ばしていっただけだ」
リョウの返事にロビンが笑う。
そこへ、トレイを手にしたコウが戻ってきた。普段と変わりないように見えるロビンに安心したように、口を開く。
「……ロビン、リョウさんには気をつけた方がいいよ。まじめそうに見えるけど、この人、本命の恋人っていうのがたくさんいる人なんだから」
「おいおい、そりゃひどいな、コウ。俺は博愛主義者なだけだ。…それに、今はそんなに多くない。こないだはコウにもふられたばかりだしな?」
コウからコーヒーを受け取りながら、リョウが微笑む。
「また口説かれないうちに、僕は席を外しますよ。…レイの様子を見てきます」
ロビンの前にもコーヒーを置くと、コウはリビングを出ていった。
リョウの、穏やかな微笑みを見ていたロビンが、ふと納得したようにうなずいた。
「ああ、リョウさんは、バイなのね?」
「そう。----でも、バイの方が自然の理にかなってるとは思わないかい? 誰かを好きだと思うのが、表面だけのことじゃないとしたら、性別なんてとるに足らないことだ。せっかく自由な世の中なんだから、自由に恋愛を楽しむべきだと、俺は思うね。実際さ、性別の好みなんて、食べ物の好みの違いみたいなもんだよ。俺は偏食しないだけさ」
そう言って手を広げて見せたリョウに、ロビンがうなずいた。
「そうね。あたしの職場の同僚にもバイの人はいるけど、彼らを見てると、自由でうらやましくなるときがあるわ。それに、彼らは誰にでも優しくできるから。そういう意味でもうらやましい」
その言葉に、リョウは嬉しそうに微笑んだ。コーヒーを口に運びながら、ロビンに尋ねる。
「君の職場って? どこに勤めてるの?」
「ウィード・バイオテックよ。……今日は、たまたま休みを取ってるけど」
「ウィード…? じゃあ人工臓器の?」
「ええ、一応研究者として働いてるわ」
ロビンの返事にうなずきながら、リョウがさらに尋ねる。
「…担当は? 肝臓とか?」
「いいえ、肺よ。人体の複雑さに翻弄されてるところ」
肺、と聞いて、リョウが一瞬真顔になった。
「肺……か」
「肺が何か?」
そう聞かれて、リョウは首を振ると、再び穏やかな微笑みを浮かべた。
「ああ、いいや。なんでもない。肺は難しいだろう? 研究のめどはたってるのかい?」
「部外者には研究のことは明かせないんですけどね。……でも、手応えはあるとだけ、言っておきます」
ロビンが、勝ち気そうな笑みを浮かべる。それを見て、リョウが安心したようにうなずいた。
「人工の肺が一日でも早く臨床で使えることを願ってるよ」
「ええ…それはあたしの目標でもありますから」
そこへ、コウが戻ってきた。
「よく眠ってるようでしたよ。まだ熱は高いけど」
コウの報告を聞いて、リョウがうなずく。
「ああ、薬を出しておこう。……どちらか一人、薬を取りに来てくれないか? 本当は俺が届けたいんだが、このあと午後からは出勤しなくちゃならなくてね」
「あ、じゃあ僕がいきますよ。レイの車を借りて。…ロビンは、家にいたほうがいいだろう?」
さりげなく、電話を目で示しながらコウが言った。ロビンがうなずく。
「ええ、そうね…」
「よし、じゃあ行こう、コウ。準備はいいかい?」
「ええ、車のキーをとってきます。----ロビン、すぐ戻るよ」
時計を見ながら立ち上がったリョウに、コウも続いた。玄関へと向かう二人の背中を見ながら、ロビンはコウに感謝していた。自分も家に残ってレイのそばにいたいだろうに、何も言わずに、電話連絡を待つロビンを優先させた、そんなコウの気遣いに。
二人の車の音が遠ざかってから、おもむろにロビンはソファから立ち上がった。待つことしかできないのなら、せめて誰かのためになることをしよう、と。
(レイは食事してないはずよね…。少しでも食べさせないと…。でも眠ってるのなら、起こさない方がいいかしら?)
様子を見ようと、ロビンはレイの部屋の扉を軽くノックした。
「レイ? 眠ってるの?」
小さく囁きながら、そっと扉を開く。ベッドに向かって歩きながら、ふとロビンはレイの部屋の中を見回した。
かなり広めの造りにはなっているが、部屋のかなりの部分が本で埋め尽くされていた。そのほとんどは医学関係のものだ。
(さすがと言うべきか、意外と言うべきか…勉強家なのね。前に入った時には、怒ってすぐに出ちゃったから、気づかなかったけど)
ロビンの視線が机の上に向けられた。きちんと整頓されてはいるものの、書類やコンピューター用のディスクが、これほど山積みされていると、さすがに雑多な印象は拭えない。その中で、目を引くものがあった。小さな写真立てだ。中には、金髪の若い女性の写真と、黒髪の中年の男性の写真とが見える。
(レイの両親かしら? ……なんだか覗き見してるみたいだわ。レイに見つかったら怒られるわね)
小さく肩をすくめて、ロビンはベッドに視線を戻した。が、また、すぐに机を振り返る。たった今、視界の片隅をよぎったものを確かめるために。
机の上に、小さな薬瓶が置かれていた。ゆっくりとその瓶に手を伸ばす。開封済みのその瓶のラベルを、指でたどる。
(…何故、これがここに…?)
その時、ベッドの上で、レイが身動きをする音が聞こえた。ロビンはあわてて、瓶を机に戻す。そのまま、何事もなかったかのように、長身の影が横たわるベッドに歩み寄った。
人影に気づいたのか、レイが目を開ける。
「……スタ…シア……?」
「----え? 何か言った?」
レイの呟きを、ロビンが聞き返した。その声を聞いて、レイが溜め息をつく。
「…ああ…おまえか……」
「眠ってたみたいね。起こしちゃった? 食事したほうがいいんじゃないかと思って…」
「さっきまで…コウがいなかったか?」
「いたわよ。今はリョウさんのところに薬を取りに行ってるけど。…起きてたの?」
ロビンの問いに、レイは首を振った。
「いや。何となくそんな気がしたから…」
「……さっきの…スタシアって誰? 女の人の名前ね」
問われて、レイは不機嫌そうに黙り込んだ。すっかり見慣れたその表情に、臆した風もなくロビンが続ける。
「ねえ、机の上の…写真の人ってご両親?」
もう一度溜め息をついて、レイが不承不承うなずいた。
「ああ、そうだ。…ウィルとスタシア……俺の両親だ。二人とももういないけどな」
「スタシアって…お母さんの名前だったのね。……きれいな人ね」
何も答えないレイに、ロビンは続けて口を開いた。
「もう一つ……訊いていいかしら? レイは移植外科でしょう? 薬のことなんかも勉強したりするの?」
「…知識はあるが、専門じゃない。----どうしてそんなことを訊く?」
「薬のサンプルを持ち帰ったりなんかはしないのね?」
「ああ。そんなことは……おい、何が訊きたい?」
ロビンが、机の上の薬瓶を指さした。
「じゃあ……じゃあ、何故ここにこんなものがあるの? あなたが…医者がこの薬を知らないわけがないわね。そして…さっき、リョウさんはあたしたちに、あなたは軽い肺炎だって…そう言ったのよ!?」
「おまえ……知ってるのか?」
レイが、ゆっくりとベッドから身を起こした。そばに立つロビンをにらみつける。その視線を受けて、ロビンは唇をかんだ。そして、小さくうなずく。
「知ってるのか?」
レイがもう一度訊いた。ロビンの青い瞳が潤む。
「ええ! 知ってるわ! どうして? リョウさんがあたしたちに本当のことを言わなかったってことは…あなたは知ってるんでしょう? …リデル酸コリカノール…この薬が使われる目的は今のところたった一つしかないわ。あたしがウィードで何をしてると思ってるの? 人工肺の開発よ。肺に関わることはほとんど調べ尽くしたわよ。リデル酸コリカノールが使われるのは、肺石症の症状緩和のみ。そして、この薬では、決定的な治療には…ううん、どんな薬だってどんな手術だって……! それを…どうしてあなたがその薬を持ってるの!? そして、どうしてあの薬は、飲んだ跡があるのよ!?」
「……おまえが考えてる通りだ」
レイが視線を落とした。シーツをつかむ手に力を込める。白く浮き出した指の関節が小刻みに震えた。
「じゃあ…あなたは…? どうして……?」
「どうして? 俺が訊きたいくらいだ」
「違うわ、そんなことを訊きたいんじゃないの。どうして…コウに言わないのよ? …このこと…コウには……」
「言うな!!」
レイは再び、ロビンをにらみつけた。その勢いに、一瞬ロビンがたじろぐ。
「言うな! コウには……コウには何も言うな!!」
「だって……」
「あいつには……何も言わない。あいつには最後まで何も言わない。そう…決めたんだ」
レイが、ふっと力を抜いた。ロビンが一歩近づく。
「それであなたは…苦しくないの?」
「ああ。あいつが…コウがこのことを知ったら……コウが苦しむ。何も知らないでいれば…俺が死んだあとの悲しみだけに耐えればいい。でも、今、このことを知ったら、俺が死ぬまでの間も、あいつは苦しむだろう? 自分の力ではどうにもならないことに…俺のために…そんな気持ちは味あわなくていいんだ。本当なら…本当なら、俺はあいつよりもあとに死にたかった。残されるつらさをあいつには味わって欲しくなかった。残していくほうは、死ねば苦しみは終わる。でも…残されるほうは……? どうなる? ……おまえに、この気持ちが分からないとは言わせない。残していく者よりも残される者のほうがつらいはずだ! 残されたあとに…続く気持ちのほうがつらいはずだ。おまえが…昨日の夜、それを考えなかったとは言わせない」
そう言われて、今度はロビンが黙り込んだ。確かに、父のことを知らせる電話のあと、考えるのはそのことばかりだった。
----置いていかれることでこんな気持ちを味わうなら、いっそ自分が置いていくほうでありたかった、と。そして、直後にはまた思い直す。誰か愛しい人にこの気持ちを味あわせるくらいなら、自分は見送る立場でいようと。置いていくほうだって、つらくないわけがない。そのつらさを少しでもやわらげるために、見送ってあげようと。
そうして考えるのだ。残していくのと、見送るのとでは、はたしてどちらが自己犠牲なのか、どちらがエゴイズムなのか。答えは……出なかった。
「本当に…コウには知らせなくていいの?」
囁くように言った言葉に、レイがゆっくりとうなずく。
「ああ。コウが幸せでいてくれるなら、俺はそれだけでいい。…こうなった以上、俺にできるのは、あいつが悲しむ時間を少しでも短くしてやることだけだ。俺には……慰めることはできないだろうから…。それに…どうせいつかは知れることだ」
「……そう…ね」
ロビンには、うなずくことしかできなかった。そんな彼女を見て、レイがふと表情をやわらげる。
「すまない。さっきのは………」
言い過ぎた、と言おうとして、息が詰まる。そのまま咳き込み始めた。
「レイ? …大丈夫?」
ロビンの言葉に、うなずきつつも咳き込み続けるレイの背中をさすりながら、ロビンが囁いた。
「…気にしないで。あたしだって…その通りだと思ったのよ。あなたが言うのを聞いて、確かにその通りだと思ったの。----レイ、少しでもいいから食事したほうがいいわ。もうすぐ、コウが薬を持って戻ってくるはずだし。食欲はないでしょうけど…昨日の夜だって、本当は食べてきてなんかいなかったんでしょう? …スープくらいなら食べられるわよね? 待ってて、今持ってくるから」
咳がおさまりかけたレイを見て、ロビンが背中から手を離す。レイは自分の胸を押さえたまま、かすかにうなずいた。
「よかった。……ねえ、あたし、あきらめないわよ。あたしがここに来た日に、あなたが言ったこと…今のあたしの気持ちだわ、それが。自分ができることをしなかったっていう後悔はしたくないの。あたしはあたしにできることをする。そして、それは今のところ、あたしにしかできないことかもしれないから。----コウが戻ってきたら、あたし、会社に行くわ。仕事をするの。ひょっとしたら、あなたを助けることになるかもしれない仕事をね」
そう言って、ロビンは朗らかに微笑んでみせた。そのまま、長い金の髪を揺らして扉の向こうへ消える。
光がきらめく金色の残像を、瞼の裏に感じながら、レイは溜め息を一つつくと、そのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。ゆっくりと息を吐き出す。
閉じた瞼の裏に、再び金色の残像が見える。ロビンのものではない。ロビンが来る直前まで見ていた…母の夢のものだ。
----自分が心の中で何を求めて、そんな夢を見続けるのか、自分でもわからなかった。一度も抱かれることのなかったその腕に抱かれたいとでもいうのか。愛の言葉も謝罪の言葉も、聞き飽きた。写真の中の彼女が、夢の中では涙を見せる。愛していると…ごめんなさいと言いながら、涙を流す。一度も笑い顔を見せない彼女を不思議に思いつつも、心の奥底では納得していた。つまりは自分は母に許されていないのだ。だが、ひょっとすると許していないのは自分のほうかもしれない。責めてはいないと言いながら、彼女の涙に、謝罪の言葉に、心を痛めながらも、許してはいないのかもしれない。…それでも、あまりに早くこの世を去った母親を思うと、許されないのはやはり自分のほうではないかと思えて仕方がない。許して欲しいと…許したいと願い、おそらくは贖罪のためにこの職業を選んだのだ。人の命を救うことで、人の命を奪った償いをするために。
そう考えて、レイはもう一度息を吐き出した。まだ熱は高いのだろう。吐き出す息が熱い。深呼吸をする度に胸の奥に感じる重苦しい痛みは、症状が確実に進んでいっていることを確認させられるようで、不快だった。
薬を持って戻ってきたコウは、キッチンからのロビンの声に迎えられた。
「ああ、コウ。お帰りなさい。ちょうどよかった。お薬と一緒にこのスープをレイに運んでくれる? さっき様子を見に行った時に、食事するって約束させたから。…それと、あたし会社に行くわ」
「ロビン? 急にどうしたの? 連絡は…」
コートを脱ぎながらコウが口を開く。その言葉をさえぎって、ロビンが微笑みかけた。
「連絡が入ったら、悪いけど会社のほうに電話してくれる? あたし……待つのはやめたの。今の自分にできることをするのよ。多分、誰かのためになることを……」
微笑みを保つのは、案外難しかったが、ロビンは表情を変えなかった。コウには何も知らせない、それがレイの意志なら、それを尊重しようと思ったのだ。実際、自分でも答えの出ていないことに関して、レイに意見できるはずもない。知らせることと知らせないことと、どちらがお互いのためになるかはわからない。多分、それは誰にもわからないことなのだから。
「大丈夫? ……無理してるのなら…」
気遣いを見せるコウに、ロビンは再び微笑んだ。
「ええ、大丈夫」
「…わかった」
きっぱりとうなずくロビンを見て、コウが安心したようにうなずく。うなずきながらも、ふと思い出したようにロビンに尋ねた。
「ねえ…レイ、機嫌悪くなかった?」
「いいえ、別に。どうして?」
「うん…。毎年なんだけど、今年は特に…具合が悪いのと重なって、ロビンに八つ当たりとかしたんじゃないかと思って。----明日はレイの誕生日なんだ」
コウの言葉を聞いて、ロビンが首をかしげた。
「別に不機嫌ではなかったけど…誕生日なら、ケーキでも焼きましょうか?」
「あ、やめた方がいいと思うよ。レイに殺されるよ?」
「誕生日が、嫌いなの?」
「うん…。仕方がないとは思うけど……レイのお母さんは、レイが生まれたときに亡くなったから…」
「……え?」
トレイの上に用意したスープを置いて、ロビンが顔を上げた。コウが寂しげに微笑む。
「心臓に疾患があってね、レイを身籠もるまで、わからなかったらしい。命の危険があるから、中絶した方がいいって言われてたんだけど、彼女はそうしなかった。自分の命よりも、まだ見ぬ我が子の命を優先させたんだ。そして、ウィルおじさん…レイのお父さんもそれを許した。そして、レイを産み落とした瞬間には、もう彼女の息は止まってた。…人工心臓が開発される少し前でね、心臓の手術をするには、妊娠した身体では危険すぎたし……。だから…レイは……ずっとそのことで罪悪感を感じてるんだよ。自分がいなければお母さんは助かったってね。誰も責めてなんか…ウィルおじさんでさえ、責めてなんかいなかったのに」
「それで…」
「うん、そのせいで、誕生日は、レイにとっては罪悪感の象徴の日なんだよ。そんな風に考えることを誰も望んでなんかいないのに…。スタシアさんも…ウィルおじさんもね」
そう言って、コウは言葉を切った。それを聞いて、ロビンは先刻のレイの態度を納得した。写真の女性をきれいだと言った時のレイの沈黙の意味を。と同時に、コウには何も知らせないと言った時のレイの気持ちがほんの少しわかったような気がした。レイは両親に…あまりにも早く置いて行かれたのだ。残されるつらさを誰よりも知っているのはレイだったのだろう。だからこそ、その気持ちを愛する者に味あわせたくはない、そう考えたのなら…コウには言えない。レイの気持ちを踏みにじることはできない。
何かを決心したような表情のロビンに、コウが首をかしげた。
「ロビン……?」
どうしたのか、と聞きかけたとき、リビングの扉が開いた。そこに立つ長身の影を認めて、コウが声を上げる。
「レイ! 寝てなきゃ駄目じゃないか!」
「…大丈夫だよ、少しくらい。それより……まだ出かけてなかったな」
リビングの扉に身体を預けながら、レイが安心したように息をついた。視線の先にはロビンがいる。
「……あたし? 何か…?」
それには答えず、レイはガウンのポケットから携帯電話を取り出した。それをロビンのほうに差し出す。
「取りに来い。…そこまで歩かせる気か?」
それを聞いて、ロビンがあわててレイに駆け寄る。その手から携帯電話を受け取った。
「これって…どうして?」
「職場で、いちいち電話を取り次いでもらうよりも早いだろう。----大使館から連絡があったらそっちにまわす。どうせ、俺はしばらく使わないからな」
レイの言葉を聞きながら、ロビンは受け取った電話を見おろして、首を振った。
「でも…駄目だわ。あたしの職場は医療機器ばかり並んでるのよ。そんなところで使ったら、周りに悪影響が…」
そう言いかけたロビンの言葉を、レイがさえぎった。
「馬鹿。俺が自分の職場で使える電話だぞ。他のとは周波数も電磁波のレベルも違う。…俺の職場からの…カーリアからの連絡は入らないようになってる。この家からの電話じゃないと呼び出し音は鳴らない」
その説明を聞いて、安心したようにロビンがうなずいた。
「……ありがとう。それじゃあ使わせてもらうわ」
そんなロビンを見下ろしながら、レイが口を開く。
「----いいか、俺はおまえを信じてるわけじゃない。俺に期待されてると思ってるのなら、それは間違いだ」
「わかってるわよ。あたしはあたしのために仕事をするだけ。期待は…あなたがするんじゃない、あたしがするのよ。自分で自分に期待しているだけ」
「それならいい」
「じゃあ…出かけるわ」
そう言って微笑むと、ロビンはレイの横をすり抜けて、支度をするために自室へと向かった。
リビングに残されたコウが、レイに近づく。
「レイ…? 今のはどういう意味? ロビンと何か?」
「ああ…ちょっとした賭けをしてる。結果がでたら教えるよ」
微笑んだレイにうなずきながら、コウはレイの腕をとった。
「さ、気が済んだらさっさとベッドに戻って。また熱があがるよ。今、食事と薬を持っていくから」
「コウ……」
自分の腕をとったコウを見下ろして、レイが呟いた。コウがふと顔を上げる。
「え?」
「…………」
何も言わずに、自由なほうの手をコウの肩にまわして、そのまま抱き寄せた。
「レイ?」
頬に触れるレイの黒髪を見ながら、コウが囁く。そんなコウの耳元で、レイが呟いた。
「……愛してる…コウ……」
「レイ、僕は…」
「何も言うな。----わかってる。いいんだ、それで。おまえは…そのままでいてくれれば……俺はそれだけで…」
「ごめん……レイ…僕は…僕だって……」
そう呟くコウを、ゆっくりと引き離すと、レイは優しく微笑んだ。
「いいんだ。----ベッドに戻るよ。大丈夫、一人で戻れる」
そう言って、レイは背中を向けた。
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