サンクチュアリ



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 ----数分後、着替えを済ませたレイを交えて三人は食事を始めた。
「おいしいだろ、レイ?」
 コウが尋ねる。チキンを口に運んでいたレイが顔を上げる。そのまま、ロビンに視線を移した。
「…おまえが作ったのか?」
「……そうよ。コウは思ってたよりも不器用だったしね」
 ロビンの言葉にコウが苦笑する。
「はは、いつもレイにも怒られるんだ。手伝ってるのか邪魔してるのか分からないってね。……でも、レイ、ロビンの料理食べるの初めてだよね? どう?」
「ああ……まずくはないな」
 それを聞いてコウが微笑んだ。ロビンはその横で肩をすくめている。
 ふとコウが思い出したように口を開いた。
「そう言えばレイ、リムソールから手紙が来てたよ。レイの机の上に置いておいたから」
 それを聞いてレイがうなずく。
「ああ、わかった。…元気そうだったか?」
「うん。いつも通りだよ。ニューイヤーはどうするのかって」
 コウが答える。それを聞いて、ロビンが顔を上げた。
「リムソール? 誰か住んでるの?」
 コウがうなずいた。
「ああ、両親だよ。母が少し身体が弱くて、リムソールの近くで静養してるんだ。父もそこに住んでいる」
「へえ…リムソールって言うと、南のほうよね。湖の近くだっけ?」
「うん、いいところなんだけどね、僕たちは大学や仕事の関係でこっちに住まざるを得ないんだ」
 コウの言葉に納得したようにロビンがうなずいた。
「ああ…だからこんな広い家で二人暮らしなのね」
「いや、ええとそれは……」
 コウがふとレイに視線を移した。ワインを口に運びながら、レイが少し不機嫌そうな顔で口を開く。
「こんな家で悪かったな。……この家は俺が買った家だ。コウの両親は元々こっちにあった家を売って、リムソールに家を買った。だから、二人でこの街で暮らすために、俺が買ったんだ」
 レイの言葉で、ようやくロビンは、レイの職業が意味することの一つに気がついた。
(そう言えば…かなりの高収入なのよね、きっと……)
 なるほど、と一人でうなずいたとき、ロビンは先刻のレイの台詞を思い出した。
「……ねえ? コウの両親?」
「え? うん、そうだよ。僕の両親だ。……レイの両親でもあるんだけどね」
 苦笑するコウの答えを聞きながら、ロビンはそっとレイの顔を見た。……怒っている、ようにも見える。
「----何が聞きたい?」
 レイが呟く。ロビンは慌てて首を振った。
「あ…いえ……別に……」
「俺の実の両親はもう死んでる。俺は十二歳の時に、父の友人だったコウの親父さんに引き取られた。……他に聞きたいことは?」
「いえ……ない、です…」
 妙に迫力のある視線に、ロビンはつい小さくなってしまった。もとより、他人の事情に深入りするつもりもない。自分の家の事情だって、人に誇れる内容のものではないのだから。
 険悪になりかけた雰囲気を和らげようと、コウが微笑みながら口を開いた。
「ああ…そう言えば、ロビンのお父さんは? 連絡来た?」
「え? あ、ああ、うん。来たわ。今日の夕方に。短い時間だったけど、電話で直接話せたし。とりあえずは元気みたい」
 ロビンの返事に、コウがうなずく。
「それは良かった。…でも心配だよね。まだ戦争は続いてるんだろ?」
「うん…。でもね、あの人、そういう人なのよ。前にも何度もあったわ、こういうこと。その度に、あたしと母さんは毎日心配しながら暮らしてた。あたしはそのうちに慣れちゃって…っていうか…あたしが心配しても事態が変わるわけでもないし、父さんが撮影に出かけるのをやめるわけでもないから。でも母さんは慣れるより先に我慢できなくなったのね。一年前に離婚したわ。それから父さんはしばらくはこっちでおとなしくしてたんだけど…。……まあ、心配な事に変わりはないけどね」
 苦笑するロビンを見つめて、レイがぽつりと呟いた。
「兄弟は…いないのか?」
「----え?」
 聞き返したロビンに、レイがもう一度言う。
「一緒に暮らすような兄弟はいないのか?」
 レイの言葉の意味をくみ取ったコウが、付け加えるように口を開いた。
「ロビンは一人っ子? それなら…寂しいんじゃない?」
 それを聞いてロビンが微笑む。
「昔は寂しかったけどね…兄弟がいればいいのにと思ったこともあったわ。でも、もう慣れたし…それに、父さんには好きなことをやっていてもらいたいのよ。母さんも同じ気持ちだったと思うわ。ただ…母さんは父さんの事が好きだったから、心配で心配でたまらなくって…それでも、母さんも言えなかったのよ。行かないで、とはね。だからあたしも言えない。だから…いいのよ、それで」
 半ば諦めたようにロビンが微笑んだ。それを見ながら、レイがフォークを置く。それを見たコウが不満そうな声を上げた。
「もう、終わりかい、レイ? まだ半分しか食べてないよ」
「ああ。食事は済ませて来たと言ったろう?……別にまずいわけじゃない」
 最後の言葉はロビンに向けて言った。言いながら、二、三度、乾いた咳をする。それを耳にして、コウが眉をひそめる。
「レイ…一度診てもらったほうがいいんじゃないのか? 内科に友達の一人くらい、いるだろう?」
「おおげさだな。風邪ぎみなだけだって」
「それにしては、結構長いよ? ここ一ヶ月くらいずっとじゃないか。……レイ? ひょっとして熱もあるんじゃないのか?」
 言いながら、コウがレイの額に手を伸ばす。触れる寸前、レイがそれを優しく払いのけた。
「大丈夫だよ。……心配性だな。じゃあ、明日は午後からだから、少し早めに行って、内科に行ってくる。それでいいだろう?」
 観念したようにレイが呟く。少しすねたようなその物言いに、ロビンが微笑んだ。
「ふふ……子供みたいね。レイ、ひょっとして自分が患者になるのって嫌いなの?」
 その言葉に、レイが答えるよりも先に、コウがうなずいた。
「そうなんだよ。自分だって医者のくせに、病院は嫌いだとか言って」
「……うるさいな。嫌いなものは嫌いなんだ。特にうちの内科のリョウ、あいつなんかもっとも信用ならない」
 開き直って、両手を広げながら言うレイにコウが微笑み掛けた。
「リョウさんなら学生の時からの友達じゃないか。若いのに腕がいいって評判だろ?」
 そう言いながら、コウが立ち上がる。キッチンに立って、コーヒーポットを手に取った。それを見て、レイが慌てて後を追う。
「コウ、コーヒーなら俺が……」
「ああ、いいよ。たまには僕が入れる」
「熱湯に気をつけろよ。ポットはもう少し奥に……」 
 それを聞いてロビンが笑った。
「心配性なのはレイのほうみたいね。コウだって子供じゃないんだから……」
「馬鹿、こいつの不器用さは天下一品なんだぞ。何かやらかすに決まってる!」
「……ひどいなあ、レイ」
 かまわず、コウはコーヒーの準備を始めた。
 そこへ突然、電話のベルが鳴り響いた。
「あ、あたしが出るわ」
 キッチンで押し問答をしている二人に笑い掛けながら、ロビンはリビングの電話に駆け寄った。受話器を手に取る。
「はい、もしもし」
 受話器の向こうの声は聞き覚えのない声だった。いぶかしみながらもそれに耳を傾けるロビンの表情が、一瞬、凍り付いた。
「……はい? ……ええ、グラスフォードは私の父ですが……?」
 キッチンに届いたその真剣な声に、レイとコウの動きも止まった。
「はい……はい……わ…かりました…」
 耳に痛いほどの静寂が支配した部屋の中に、ロビンの声が響きわたる。
 とうに切れている電話の受話器を持ったまま、ロビンはそこに立ちつくしていた。たった今、耳に入ってきた情報の整理ができないでいた。
「…………ロビン?」
 コウがそっと声をかける。その声で、ロビンは、ふと我に返った。右手に持ったままの受話器に気づき、それをゆっくりと戻す。
「…何か…あったの?」
 遠慮がちに尋ねるコウと、そのそばで腰掛けたまま視線だけを向けているレイに向き直りながら、ロビンは小さくうなずいた。
「……父さんが向かってるはずの、軍隊の宿舎で…爆破事故があったって……細かいことはまだ全然わからないんだけど……」
 つい今しがた、電話で聞いたとおりの内容を口にしながら、ロビンは自分の言葉を信じられないでいた。ゆっくりと、泳ぐような足取りでダイニングの椅子にたどり着く。すとんと腰を下ろした椅子の感触にも、ひじをついたテーブルの堅さにも、漂うコーヒーの香りにさえ、現実感がなかった。まるで夢を見ているような、視界全体に、いや自分自身の体の全てに薄い膜が掛かったような、そんな感覚にとらわれていた。
「…ロビン?」
「…え?」
 コウに呼びかけられて、ふと顔を上げる。
「大丈夫? …しっかりしないと。----情報の確認なんかはまだできてないんだろう?じゃあ、きっと大丈夫。無事だよ」
「…ええ……そうね…きっと…」
 答えながら、ロビンはようやく事態を飲み込んだ。と同時に、全身の血が引いていくような気がした。自分が何をどうしたらいいのか全くわからない。
「どうしよう……あたし…どうしたら…」
「ロビン、落ち着いて」
 コウの言葉が耳に届く。落ち着くって…どうやって? どうしたら……。
「あたし…父さんのところに……ううん、まず大使館に連絡取って…」
 自分はいったい何を言ってるのだろう? 心のどこかでそんなことを考えながらも、何か行動を起こさなくてはと思う気持ちは抑えられなかった。
 ロビンがいきなり椅子から立ち上がった。駆け出そうとするロビンの腕を、レイがとらえる。
「おい、どこへ行く?」
「どこって…父さんのところよ! 大使館に行けば連絡してもらえるかもしれないし…! 離して!」
 レイはその腕を離さずに、引き寄せた。もう一方の手で、ロビンの頬を打つ。ロビンの動きが一瞬止まった。その隙に彼女の両手を捕まえて、体を自分の方に向けさせた。
「…少し落ち着け。今の電話の相手は何を言ってたんだ? もう一度正確に繰り返してみろ」
「……え? あ、爆破事故の細かい現状はまだよくわかってないって…通信手段の回復と、確認作業が進み次第、詳しい連絡を入れてくれるって…」
 レイに両手を捕まえられたまま、ロビンがつぶやいた。それを聞いて、レイが小さな溜め息とともにその手を離す。
「じゃあ連絡がくるまでじっとしてろ。おまえが現地に向かっても何の解決にもならない。第一、この時間に西の大陸に向かう飛行機はない。大使館に行っても意味はないだろう。どちらにしろ、連絡はここにくるんだ。パニックを起こして、馬鹿みたいにうろつきまわっても連絡を受け取るのが遅くなるだけだ。…違うか?」
 レイの言葉に、ロビンは黙り込んだ。コウが、優しく言い添える。
「もし、連絡があったときに、ロビンがここにいないと困るだろう? …大丈夫。無事だよ。そう信じよう」
 ロビンがゆっくりとうなずいた。
「そうね……そうだわ。二人の…言うとおりね…」
 そう呟きながら、ロビンが再び椅子に腰を下ろしたとき、レイのシャツのポケットで電話が音を立てた。電話の音を聞いて、一瞬ロビンが緊張しかける。だが、音の出所がレイの携帯電話だとわかると、ほっとしたように息をついた。反対に、レイが緊張の表情を見せる。この時間に携帯電話にかかってくるということは病院からの緊急連絡しかないからだ。
 ポケットの電話を手にとって話し始めたレイの表情に、緊張の色が濃くなる。 
「……血圧と脈拍は? …いや、それは少し待て。代わりに免疫抑制剤を。…わかった」
 電話での会話を続けながら、レイは自分の部屋に向かった。コートを手に、すぐに戻ってくる。電話での会話は続けたままだ。
「…そのまま続けろ。すぐに行く」
 それだけ言って電話を切ると、キッチンにいる二人に声をかけた。
「出かけてくる。帰りは多分朝になる」
「いってらっしゃい、気をつけて」
 コウの言葉に、手を振って応えながらレイは玄関に向かった。ほどなく、玄関の扉が開く音とそれに続いて車のエンジン音が聞こえてきた。
 遠ざかるエンジン音を聞きながら、コウはロビンの前に湯気の立つカップを差し出した。
「ありがとう……あら、コーヒーじゃなかったの?」
 カップの中を覗いて、ロビンが言う。コウが微笑んだ。
「ミルクの方が落ち着くと思って」
 うなずいて、ロビンはカップに口を付けた。一口飲んで囁くように言った。
「……少し甘いわ」
 震える指先でカップを強く握りしめながら、それでも微笑んで見せた。


 レイが戻ったのは、翌朝の九時を少しまわった頃だった。リビングの扉を開けて、コウの姿を見つけると、かすかに微笑んだ。
「あ、レイ、おかえり」
 コウが、読んでいた本から目を上げる。レイは、うなずいてリビングを見渡した。
「……あいつは?」
「ロビンなら、二階だよ。…結局、ゆうべはあれきり連絡がなくって。今日は仕事を休むらしいよ」
「…そうか。……コウは? 大学に行かないのか?」
 尋ねながら、レイがコウの隣に腰を下ろした。いつになく動作が重い様子のレイを心配げに見ながら、コウがうなずく。
「うん、昨日行った時に、教授から翻訳するように頼まれた論文があってね。それが終わるまでは、大学に行かなくても済むんだ。…ロビンのこともあるしね。----レイ、おなかすいてない? ちょっと待ってて、今、朝食を…」
 そう言って、ソファから立ち上がろうとしたコウの腕をレイがつかんだ。
「……レイ?」
 振り向いた空色の瞳を見つめて、レイがゆっくりと口を開く。
「…メシはいらない。……コウ…キスしていいか?」
 ソファから、半分腰を浮かせかけたままの姿勢で、コウがレイを見下ろした。真剣に見つめるレイに微笑みかけると、ソファに座り直した。
「どうしたんだ? 珍しいじゃないか、わざわざ許可を取るなんて」
 それには答えず、レイはコウの肩に手をかけた。目を閉じたコウに、優しく口づけると、その肩を引き寄せて、強く抱きしめた。
「……レイ…?」
「…間に合わなかったんだ。俺が病院に着いたときにはもう……」
 コウの肩を抱いたまま、レイがつぶやく。レイの背中をなだめるように叩きながら、コウが囁いた。
「昨日の患者さん?」
「ああ…。腎臓を一つ移植するだけの手術だったのに…。手術はうまくいったんだ…。なのに……誰も…本人すら知らなかった。心臓の冠状動脈が細すぎた…未発達だったんだ。あれじゃあ…手術には耐えられない……心不全が起こるまで気づかなかった…せめてもう少し…あと半日早くわかっていれば助けられたのに……」
「レイのせいじゃないよ…」
 背中を優しく叩きながら、コウが囁いた。
「わかってる…わかってるけど……悔しいんだ」
「…レイ……」
 呟きながら、心の中でコウはいぶかしんでいた。今までにも何度か、受け持ちの患者が亡くなったことはある。重症患者を扱うことが多いレイには仕方がないことだ。だが、ここまでナーバスになっているレイを見るのは初めてだった。その時、コウの目に、ふとカレンダーが映った。レイの肩越しに見えるその数字を目にして、コウは納得した。
(…ああ、明日はレイの誕生日か……)
「レイ、少し休んだ方が……」
 コウの言葉に、レイがうなずいた。ゆっくりとコウから離れると、ソファから立ち上がった。
「もし…あいつの親父さんのことで連絡があったら教えてくれ」
 コウがうなずいたのを確認して、レイは歩き出した。が、二、三歩進んで足を止める。そのまま動かないレイを見て、コウが声をかけた。
「レイ? どうかしたの?」
「ああ…いや、何でもない」
 答えて、もう一度歩き出そうとしたレイの体が、突然、バランスを失った。そばにあったテーブルに手をついて、体を支えようとするが、崩れた膝には力が入らない。
「レイ!?」
 駆け寄ったコウに、レイは手を振って応えた。
「…大丈夫だ。ちょっと…立ちくらみがしただけだから…」
「そんな…! 全然、大丈夫じゃないじゃないか! ……今、救急車呼ぶから…!」
 そう言って立ち上がろうとしたコウを、レイが押しとどめた。
「馬鹿…! ここで救急車なんて呼んだら、カーリアに連れて行かれるじゃないか。医者が自分の勤め先に、救急車で運ばれるなんて…みっともないだろう」
 それを聞いたコウは、眉間にしわを寄せながら渋々うなずいた。 
「わかったよ、妥協する。内科の先生を呼ぶよ。…誰がいい?」
「…おい、コウ……」
「それも駄目だなんて言わせないよ。…じゃあ、僕が勝手に決めるからね」
「コウ、そんな……」
 言いかけて、レイが咳き込んだ。
「ほら、おとなしくしないと……レイ?」
 いつもなら、数回でおさまるはずの咳がおさまらない。胸を押さえて咳き込み続けるレイの背中を支えながら、コウはレイの額に手をやった。
「レイ…熱が……」
「…大…丈夫だって……」
 ようやくおさまりかけた咳の合間を縫って、呼吸をしながら、レイが言った。額に汗を浮かべながらも、かすかに微笑む。
「……救急車なんて…呼ぶなよ…」
「…わかったよ! とりあえず、ベッドに……立てる?」   


   
           
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