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サンクチュアリ
−− 3 −−
「ただいま、ロビン。いい匂いだね?」
大学から戻ったコウが、ロビンのいるキッチンをのぞきこみながら言った。
「夕食用のスープよ。…コウ、おなかすいてるの? 着替えもしないでまっすぐキッチンにくるなんて」
ロビンが笑いながら答えた。すでにこの家に来てから十日以上が経過している。
「はは…まあね。今日、お昼食べ損なっちゃってさ」
コウの返事に、笑いながら肩をすくめて、ロビンが食卓の上を指さした。
「そこにクッキーがあるわよ。今日は土曜で仕事が休みだったでしょう? なのに、コウは大学に行っちゃうし、レイは昨日から戻って来てないし。退屈で、思わずお菓子作りなんてしちゃったわよ。甘いもの、嫌いじゃない?」
「大好きだよ。嬉しいな、手作りのお菓子なんて久しぶりだ」
「よかった。夕食までにはまだ時間があるから、ティータイムにしましょうか」
言いながら、ロビンがコーヒーを入れ始める。その背中を見ながら、手近なイスに腰を下ろして、コウがつぶやいた。
「ごめんね。ロビンにばかりいろんな事やらせちゃってるね」
「あら、気にしないで。こういう事、結構好きなのよ。それに、レイは忙しいでしょう? コウは……あのね、こないだレイに言われちゃったのよ」
思い出し笑いをしているらしい背中を見て、コウが尋ねる。
「何を?」
「コウには、キッチンのものは触らせるなって」
「……ひどいなあ。確かに僕は不器用だけどさ」
すねたような口調のコウの前に、コーヒーカップを置いて、ロビンは自分も椅子に腰を下ろしながら笑った。
「コウに手伝ってもらわないほうが身のためだとも言ってたわ」
「何のかの言っても、結構仲良くない? レイとロビンって?」
相変わらずすねた口調のまま、コウが肩をすくめた。
「あら、そんなことないわよ。数えるほどしか口きいてないしね。……あ、噂をすれば。帰ってきたみたいね、レイ」
玄関の物音を耳にして、ロビンがつぶやいた。
ややあって、レイがリビングに姿を見せる。キッチンにいる二人を見つけて、カウンターからのぞきこんだ。
「……ずいぶんと中途半端なティータイムじゃないか?」
「だって、コウがおなかすいてるって言うんですもの」
ロビンの返事に、コウがうなずいた。
「教授のせいで、お昼とり損ねたんだよ。レイは、おなかすいてない? ロビンの焼いたクッキーがあるから、一緒にコーヒーでもどう? …あ、それとも疲れてる? 眠ったほうがいいかな」
「ああ…コーヒーだけもらうか。一休みしたら、今日はもう寝る」
そう答えて、レイは着ていた上着を脱ぎ始めた。その瞬間、上着のポケットで、レイの携帯電話が音を立て始める。
ポケットを探って、かすかにうんざりしたような表情を浮かべながら、レイが電話を手に取った。
「…はい? ……ああ、部長」
電話の相手を確認して、今度はあからさまにうんざりといった顔になる。
レイの声を耳にして、コウがかすかに笑う。物問いたげな顔のロビンに小声で説明する。
「移植外科部長だよ。レイとはいつも、やり合ってるらしいよ」
コウのほうに、ちらりと何か言いたげな視線を投げて、レイは電話の相手と会話を続けた。
「何か? ……ええ、今、家に着いたところで…急患ですか? 俺の後は、ドクター・バーナードに任せてきたはずですが…手術中? それなら……え? 患者が?」
だんだんと真剣みを帯びてくるレイの声を、聞くともなしに聞いていたコウとロビンは、次の瞬間、レイの立てた物音に驚かされた。がたん、という音とともに、コウが肘を載せていたカウンターテーブルが一瞬、跳ね上がる。
テーブルを殴りつけた姿勢のままで、レイは電話を握っていた手に力を込めた。
「……何だって、そんなに悪くなるまで…! …オーガニスト? それで…。それにしても、そこまで悪くなってるなら…ええ、成功率は一〇パーセント以下です」
オーガニスト、という単語を聞いて、ロビンが眉をひそめた。コウが囁くように尋ねる。
「オーガニストって…人工臓器を嫌ってる人たちだったっけ?」
「ええ、そうよ。よく、あたしの会社にもその団体が抗議を寄せてくるわ。生体信奉者とでもいうのかしらね。機械に頼らなくちゃ生きていけないなんて、人間として間違ってるっていうのがその主張よ。…でも、なかには、瀬戸際の選択を迫られて、人工臓器を移植する人もいるわ。自分の信念と命との選択よ。厳しい選択肢だし、ぎりぎりまで思い悩むから、手遅れになる人も少なくない」
そう答えながら、ロビンが小さく溜め息をつく。つきながら、真剣な会話を続けるレイを見つめた。
「…わかりました、今すぐ戻り……え? 移送する!? 今から、どこに移送するって言うんですか!? カーリアですら低い確率をさらに下げようとでも? …………それは…その患者を見殺しにしろってことですか? …できませんね。たとえどんなに低い確率でも、何人のオーガニストたちが反対していても、一パーセントでも可能性がある限り、手術します。…手術しなければ、一ヶ月以内に確実に死ぬとわかってる患者を見過ごすことはできません。本人が生きることを望む限り。……一時間後には手術を始めます。準備をさせておいて下さい」
反論を許さない強い口調でそう言って、相手の返事も聞かずに、レイは電話を切った。
一度は脱いだ上着にもう一度袖を通して、車のキーを片手に、レイは玄関に向かった。リビングを出る寸前に振り返って、声をかける。
「もう一度出てくる。帰りは何時になるかわからない」
「あ…いってらっしゃい…」
反射的にそう口にしながら、コウは、レイの出ていった扉を見つめて溜め息をついた。
「やっと帰ってきたと思ったら、あれだもんなあ。あんなんじゃ、そのうち倒れちゃうよ。……ねえ、ロビン?」
声をかけられて、同じように扉を見つめていたロビンが、うなずく。
「そうね…。でも、大丈夫なのかしら? オーガニストの手術をして、もしも失敗したら、他のオーガニストたちが大騒ぎするわよ」
「でも、本人と家族の承諾があれば、手術はできるんだろう? 手術の成否は、よほどのミスがない限り問題には……」
コウの言葉に、ロビンは首を振った。
「オーガニストに限って言えば、問題になるのよ。もちろん、法的にはどうということもないわ。助ける努力が及ばなかったってだけで、罪になんかなるはずがないもの。…でもね、オーガニストはもともと、人工の臓器そのものを嫌ってるのよ。ちゃんと提供者(ドナー)がいるような生体の臓器ならいいの。死体からの移植でもね。でも、そういった臓器は、所詮は他人の物だから、適合する確率はひどく低いわ。臓器の種類にもよるけど、生着もしにくいし、術後生存年数も人工臓器より低いのよ。だから…本当に生きていたいなら…死にたくないなら、人工臓器のほうがいいはずなのよ。理性でならそう理解できるけど、機械に対する抵抗が少しでもあるなら…難しいわね。そんな気持ちが特に強いのが、オーガニストよ。その手術が成功すれば、その患者がオーガニストじゃなくなるだけの話だけど、もしも失敗したら、オーガニストたちにとっては格好の攻撃目標よ。『人工のものなんか使うからこんなことになるんだ』ってね。いくら本人が望んだことでも、本人がいなくなればそんなことはお構いなしよ。『本人の意識がもうろうとしている時に、無理矢理承諾させたんだろう』とか、そういう話になってしまうの」
「じゃあ…もし失敗したら…」
コウがつぶやく。ロビンが溜め息をついた。
「ええ。レイ本人はもちろんのこと、カーリア記念病院そのものも、攻撃されるでしょうね。もともと、人工臓器移植の盛んなカーリアに、オーガニストたちは悪感情を抱いてるわ。だから、移送の話が出るのも不思議じゃない。実際、オーガニストへの移植手術を嫌う病院も多いのよ。……もちろん、人工臓器が絶対的に正しいわけじゃないし、オーガニストに絶対の正義があるわけでもない。考え方の違いがちょっとばかり大きいだけ。どっちが正しくて、どっちが悪いのかなんて、誰にも言えないし、わからないわ。…わからないけど、でも…ひょっとしたら、正しいのはオーガニストのほうかもしれないのよ? 人工皮膚、人工血管、人工骨に人工関節。そして人工臓器。さすがに、脳だけは人工にはできないけど、身体のどこまで人工物に変えたら、人間は人間じゃなくなるのか…。考えたら怖くなることもあるわ。……ウィードに…人工臓器を作る会社に勤めてる人間の言うことじゃないけどね」
「それは難しい問題だけど、でも…確実に助けることを考えるなら、人工臓器を選ばざるを得ないんだろう? 本人が生きたいなら…死にたくないなら、その意志は尊重されるべきだとは思うよ。そして、多分レイもそう考えたはずなんだ。だから、病院に戻った。…前にさ、レイが言ってたんだ。手術の成功率っていうのは、本当ならいつでも五〇パーセントだって。患者にとっては、生きられる確率がゼロじゃないなら、それは成功するかしないか、二つに一つ、つまり可能性はいつだって五分五分だって」
そう言いながらコウが微笑んだ。それを聞いてロビンもかすかに微笑む。
「…いいわね、その考え方。好きだわ、そういうの」
それから一週間が過ぎた。夕刻、食事の支度をしながらロビンが口を開く。
「レイは、今日も遅いのかしらね?」
その隣でロビンを手伝いながら、コウが首を傾げた。
「うーん…どうかな? 今朝は何も言ってなかったけど」
「相変わらず忙しいのね。臓器移植する人ってそんなに多いのかしら?」
「って言うよりも、移植外科医が足りないんだよ。特に、優秀な医者がね…」
「うん…確かにそうね。臓器移植はかなりデリケートだし…相当の技術と経験が必要になるわよね。でも、レイってまだ二十八歳でしょう? 噂に聞く限りじゃかなりの腕だって言うけど…」
「そうらしいね。僕はレイの仕事には口をはさまないから、よくわからないけど。…あ、でもこないだの件で、移植外科部長と喧嘩したって言ってたから、そのせいで仕事を増やされてるんじゃないかな」
「こないだの…って、あのオーガニストの手術? あの手術は結局、成功したんでしょう? じゃあどうして喧嘩なんか?」
「レイが強引に手術に踏み切ったって、怒ってるらしいよ。でもまあ、レイと部長が喧嘩するのは珍しいことじゃないから」
微笑むコウの手元を見ながらロビンが苦笑した。
「それにしても……コウって…ほんとに不器用よね。レイが言ってた意味がよくわかったわ。----今までは全部レイが食事を作ってたの?」
自分の手の中で、皮をむいているうちに半分の大きさになってしまった芋を見て、コウが照れたように笑った。
「もともとこういう事って苦手でね…。ほとんどはレイが作ってたな。レイがいない時は、冷凍してあるのを温めたり、外で食べたり…。でも…レイは何も言わないけど、多分君には感謝してると思うよ? だって君がいてくれるおかげで、僕の食事に関する心配がなくなるんだから。多分、少しは彼も楽になったんだろうと思うけどね」
「そうかしら?」
「そうだよ。レイって結構まめな人だからさ、時間があるときには僕の分の食事を作って冷凍しておくんだ。僕がいつでもそれを食べられるようにね。……そんなことしなくてもいいって言ってるんだけど…」
「レイは……あの人は、あなたがとても大事なのね」
心の奥に何かがくすぶっているのに気づきながらロビンが言った。そしてその“何か”が嫉妬であることに気付いて、自分自身、意外だった。またそれよりも意外なのは、それが嫉妬であることを認めている自分の存在だった。
「ああ。そうだね……。僕も…レイが大事だし、レイのことは好きなんだけど…。僕にとって、レイは家族で…親友で……結局、彼の求める意味合いでは、応えてあげられないんだ。僕がしていることは残酷なのかも知れないな。応えてあげられないくせに、彼のそばにいたい、なんてね」
少し寂しげにコウが微笑んだ。ロビンも同じように微笑んだ。
「レイは多分……それで十分だと思ってるんじゃないかしら? コウがそばにいてくれるだけで、ね」
「そうかな?」
「そうよ。……多分レイはあなたがいるだけで…幸せになれるんだわ」
それを聞いたコウが嬉しそうに微笑む。その微笑みを見てロビンは不思議に納得していた。…柔らかな笑顔と、自分を取り巻く人たちに向けられる確かな優しさ。コウが無意識にやっているそれらのことが、無意識であればあるほど、コウの優しさを強調する。レイが、この笑顔を守りたいと思うのは…兄弟として育ったのなら尚更に、納得のいくことだった。
「まあ…あたしは、レイに嫌われてるみたいだけどね」
冗談めかしてロビンが呟く。それを聞いてコウが微笑んだ。
「そう思う?」
「誰だって思うわよ。いつだって不機嫌そうな顔してるし、あたしの前じゃあまともに笑いもしないわ」
ロビンが肩をすくめる。そんなロビンを見ながら、コウがゆっくりと口を開いた。
「多分…レイは君のことをそんなには嫌ってないよ。不機嫌そうな顔は…まあ、いつものことだし。実際、かなり体調が悪いはずなんだ。最近、忙しいしね。そんな状態にしては口数も多いほうだし、彼にしてはまともな受け答えをしてると思うよ。特に、女性に対して、ということを考えれば尚更ね」
「…そうなの?」
「そうだよ。レイは嫌いな人間に対してはかなり徹底した態度を取るから」
「徹底したっていうと……?」
ロビンの疑問にコウが苦笑する。
「つまり…無視するんだよ。相手の存在そのものを。たいていの人間はそこで引き下がるけど……たまにそれでも食い下がってくる人もいてさ。そんな人は、彼の容赦ない毒舌を浴びることになる。思い切り否定した上で突き放す。はたで見てて相手が気の毒になるくらいにね」
「……想像できるから怖いわね…」
ロビンがそっと呟いた。
出来上がった料理をテーブルに並べて、コウとロビンが食事を始めたとき、玄関の扉が開いた。その音を耳にしてコウが顔を上げる。
「レイかな?」
その言葉にロビンがうなずいたと同時に、リビングの扉が開く。レイが姿を見せた。
「お帰り、レイ。今日は早かったね。……あれ? 外、雨降ってた?」
レイのコートに水滴を見つけてコウが言う。レイがうなずいた。
「ああ、降ってきた。雪に変わるかもな。……今、晩メシか?」
「あ、うん。レイは? …待ってて、今レイの分を…」
「ああ、いらない。済ませてきたから」
そのまま自分の部屋に行こうとするレイをコウが引き留めた。
「そんなこと言わないでさ、どうせレイのことだから、まともな食事じゃなかったんだろう? 駄目だよ、ちゃんと栄養摂らなくちゃ。だから、そんなに顔色悪いんだ。…ロビンの焼いたチキンは最高だよ?」
そう言ってコウが微笑む。それにつられたようにレイも微笑んだ。
「そうだな…じゃあ、もらうか。----とりあえず、着替えてくる」
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