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サンクチュアリ
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自室に戻ったレイは、手早く着替えを済ませるとさっさとベッドに潜り込んだ。ざっと三〇時間ぶりの睡眠を貪るために。
毛布を肩の位置まで引き上げながら、この四日間にこなした仕事を指折り数えてみる。
----心臓移植が三例、腎臓が五例、気管支の修復が一例、あとは……ああ、そうだ急患で交通事故の奴がいたっけ…確か…胃と十二指腸か…。あとは……忘れたな…。
…こうやって、体力を減らすのはよくないことだろう。それはわかっている。だが…仕事以外に何をすればいいのか。気を紛らわす方法が、それしか…仕事しかない。
そのまま彼は眠りの世界に引き込まれていった。そうして、疲れて眠った時には必ずと言っていいほど見る、お馴染みの夢に意識をゆだねる。
それは決して楽しい夢ではなかった。彼自身、見なくてすむものなら見たくはないものだった。だが、目の前に突きつけられると、その甘い囁きに耳を傾けたくなる。柔らかな光に目を奪われる。現実では決して見ることのかなわない光景。----母の夢だった。
----彼と同じ淡い紫色の瞳が彼を見つめる。彼とは対照的な明るい金髪が風に揺れる。薔薇色の唇が声に出さずに言葉を伝える。現実の自分よりも年若く見える美しい女性が母であることを、夢の中の彼は容易に受け入れていた。同時に、これが夢であることも認めていた。
夢の中の母親が繰り返し伝える言葉。何度も何度も、彼の名前を愛おしげに呼びながら、愛している…と。彼女は自分の息子に繰り返し愛を伝えていた。アメジスト色の瞳を潤ませ、唇を震わせながら。そうして彼女はおもむろに唇を閉ざす。次に、目を閉じる。涙が一筋、頬にこぼれる。少しの間を置いて、彼女はゆっくりと目を開ける。その次に来る言葉を彼は知っていた。何度も見た夢だ。
〈…ごめんなさい〉
母のそんな言葉など聞きたくはなかった。耳をふさいでも無駄だった。言葉は口から耳に伝えられているのではない。そうささやく唇の動きを彼が読みとっているだけなのだから。そして目を閉じても無駄だということも、彼は知っていた。何よりも、誰よりも母の言葉を欲しがっているのは彼自身なのだから。愛している…ごめんなさい…と、聞くことのかなわなかった言葉を。そして見ることのかなわなかった微笑みも。記憶に残されることのなかった全てを…。
遠くで彼を呼ぶ声が聞こえた。…ああ、もう起きる時間なのか。緩やかに現実へと引き戻されていく中で、次第に母の姿は遠ざかっていく。写真でしか知らないはずの母の姿が薄れてゆく。自分が未だにそれに縛られていることを認めたくはなかった。なのに、遠ざかる母の姿を見て、もう少し…と思うのは何故なのか。夢から覚めることで救われたような気持ちと、残念な気持ちとがぶつかり合うのは……。
「レイ! もう起きないと……」
耳元で声がする。同時に肩に手がかかる。
「…コウ? わかったよ……起きるって」
ゆっくりと目を開けて、そのまま、覆い被さっていた人物を手元に引き寄せた。何か抵抗の声を上げたようだが、かまわずにキスをする。
…母の記憶に…偽りの記憶に縛られることはない。今の自分にはコウがいる。現実に愛することのできる人間が…と、そこまで考えて気がついた。引き寄せた肩の感触がいつもよりも柔らかいことに。そして背中にまわした腕にかかる長い髪は……?
手元に引き寄せた人物がいきなり身を離した。そのままレイの頬に平手が飛ぶ。
「何するのよ!?」
ベッドの脇に立って、レイをにらみつけていたのは、コウではなくロビンだった。
----女!? レイは反射的にベッドの端へ逃げていた。女嫌いとは言え、職場のナースや患者たちには職業意識を持って接している。普段の生活の中でもあまり支障はない。だが、起き抜けにいきなり目の前に立っている女性に対しては、どう対処していいのか、わからなかった。
ロビンが長い金髪をかき上げながら、口を開いた。
「コウじゃなくって悪かったわね」
光に透ける金髪には見覚えがある。つい先刻まで夢の中で見ていた。嫌悪と愛おしさの狭間(はざま)で。それに気がついた途端、苛立ちがつのってきた。…何故、目覚めてまでこの金の髪を見なくてはならないのか。それでなくとも、鏡を覗く度に紫の瞳が嫌でも目に入るというのに。
「おまえか……何故おまえがここにいる?」
「コウからさっき電話があって、教授に捕まって帰りが遅くなるから、代わりにあなたを起こしてほしいって頼まれたのよ。…ねえ?何かあたしに言うことがあるんじゃない? もちろん文句じゃなくって」
ロビンが溜め息をつきながら腕を組んだ。目の前で金色の髪が揺れる。
「何を言えって? 出てけよ、俺はシャワーを浴びたいんだ」
「…あなた、あたしにキスしたのよ!? コウと間違えて! 一言くらい謝ってもいいんじゃないの?」
怒りの表情を見せるロビンを見ながら、レイはぼんやりと考えていた。もちろん謝罪の言葉を、ではない。
----まるで夢の続きだ。いや、夢とは逆か。あんな風に謝られるくらいなら、こうやって責め立てられる方がまだ幾分マシかもしれない……。
「レイ? ひとの話聞いてる!?」
……金の髪を揺らすのだけはやめてほしいものだ。だが、これを言ったところで更に怒らせるだけだろう。
そう思ってレイは溜め息をついた。実際、ものを考えること、それを言葉にすること……全てのことに苛立ちを感じ始めていたのだ。この四日間、溜まりに溜まった疲労と、その少し前から感じていた体の不調は、三時間や四時間眠ったところで解消されるわけはない。それでなくとも考えなくてはならない問題が山積みされているというのに。
わずかな息苦しさを感じて、二、三度乾いた咳をしながら、レイは立ち上がった。額にかかる黒髪を無造作にかき上げて、そばに立つロビンを見下ろす。
「…うるさいな、もう出ていけよ。俺はシャワーを浴びるんだ。----俺の裸を見たいって言うなら話は別だが?」
「……見たいわけないじゃないの、そんなもの!!」
ロビンはそのまま、部屋を出ていった。どうやらレイから謝罪の言葉を聞くのは諦めたらしい。
勢いよく閉められた扉を見つめながら、レイはもう一度溜め息をついた。
----怒らせるつもりはなかったんだがな…。別にこっちは、本当のところ誰と暮らしてもかまわないんだ。ただコウさえいてくれるなら。そしてそのコウが、あの女がここに住むことを許したなら、俺は口を挟まない。それにしても…実際、時期も悪い。よりによって秋だ。何もこの季節を選ばなくてもいいじゃないか。あと半月もすれば、古い時代には万聖節と呼ばれた日がくる。古い宗教には興味もないが、その日が俺の誕生日となれば話は別だ。一年中で一番嫌いなその日がもうすぐ来る。もう……気にしないことにしたはずなのにな…。夢のせいなのか、それとも季節のせいなのか。…あいつの髪が金色じゃなければ、こうまでこだわらなかったろうに…。
わずかな自己嫌悪を感じながら、レイはバスルームに向かった。
その頃、ロビンはリビングのソファに腰を下ろしていた。
「まったくもう! あの男は何を考えてるのかしら!?」
思わず声に出して呟きながら、手近にあった雑誌を手に取る。雑誌のページをめくりながらも考えるのはレイのことだった。
…あんな男に命を預けなきゃならない患者さんたちが可哀想だわ。そりゃ腕はいいかもしれないけど…。
怒りにまかせてページを繰っていた手がふと止まる。人工臓器に関する記事だった。仕事柄、こういった記事には敏感になる。
記事には現代の人工臓器がどれほど進んでいるか、といったことが、美辞麗句を並べ立てて説明されていた。まるで、人工臓器の開発によって人類が不死の力を得たように書かれている。この雑誌はごくふつうの週刊誌だ。こんな、誰の目にも留まるところで、公然と褒め称えられるのは本意ではない。----ウィード・バイオテック。業界最大手と言われるその会社で、彼女は単なる事務職をしているわけではない。れっきとした研究者の一員である。研究の内情を誰よりも知る一人として、彼女は、こんな風に褒められたくはなかった。
(出来ることと出来ないこととがあるわ…)
開発や研究がもっとも進んでいるのは、心臓と腎臓。最近、めざましい発達を遂げているのは、胃や腸などの消化器官。血管や皮膚、眼球などはすでに完成品の域に達している。それらのものなら、小さな病院でも移植可能だ。だが、依然として研究の遅れている臓器もある。代表的なのは肝臓だ。エネルギーの蓄積、そして変換。様々な蛋白質が様々な酵素と交わり、複雑な行程を経て、人体のエネルギーが生産されてゆく。その、奇跡としか言い様のない微妙で複雑なメカニズム。機能そのものは解明されていても、人体に埋め込み可能なほどのサイズと重量におさめなければならない、そのことが未だに研究者たちを悩ませる。それともう一つ、肺だ。ただの空気の袋ならこんなにも悩まない。肺開発の担当者として、ロビンは日夜研究を続けていた。葡萄の房状の小さな袋の集合体。そして張り巡らされた無数の毛細血管。それらは瞬時に、血液中の酸素と二酸化炭素を交換する。しかも、たった数リットルの容積のなかで。人体の神秘と呼ばれるものを、まざまざと見せつけられている気分だった。
幸い……とロビンは思った。幸い、肺はもう少しで完成する。先月から始められている動物実験さえクリアすれば、遅くともあと数ヶ月で試作品は使用可能なはずだ。臨床で使っていくにはまだ時間はかかるが、不可能なことではない。
肺と肝臓、そして一番研究の遅れている、子宮。機能の解明から始まって、材質、サイズ、重量、動力、そして耐久性。これまでの人工臓器が越えてきた道を、それらの臓器も越えてゆくのだ。それは多分、そんなに遠い未来ではないだろう。
それを考えれば、人類が不老不死の力を手に入れようとしているというのも、あながち的外れなことでもないのかも知れない。怪我や病気で損傷を受けた臓器は、人工の物に変えてゆく。その技術が進めば進むほど、人類の寿命は延びてゆく。実際、ここ十数年で、人間の平均寿命は延びる一方だ。乳幼児死亡率も、以前に比べて遙かに低い。産まれた子供はほぼ確実に成人する。だからこそ、同性愛も認められている。非生産的な結婚も、法的に認められているのだ。
絶対的な不死を夢見るのは馬鹿げたことと思うが、実際自分が研究しているのは、そのために他ならないと思うと、ロビンは複雑な気持ちだった。
(それでも…不死ではなくても、人工臓器のおかげで数十年前には死の病だったものが、治癒可能になってるわ。それは多分…喜ぶべきことなのでしょうね…)
自分が研究していたものがどこかで誰かの命を助けているのかも知れない。それは誇らしいことだ。だが、それでも助けられない命もある。例えば悪性の脳腫瘍。脳だけはどんなに研究してもスペアは出来ない。それに脊髄も難しいだろう。人体の動きのほとんど全てを司る神経の集合体。直接、脳髄とつながっているそれは、ケーブルのスペアが出来ても、プラグをつなぐ場所がわからない。それらは人間が手に触れることの出来ない領域だ。そうは思っても、割り切ることは難しかった。どんなにあがいても助けられない者もいるのに、こういった雑誌の記事はそれを無視して褒め称える。
「ふう……」
思わずロビンが溜め息をついたその時、レイが居間に入ってきた。ソファにいるロビンに一瞬、目を向けるが、何も言わずにそのままキッチンへと消えた。
ややあって、キッチンからいくつかの音が聞こえ始める。食器の触れあう音や、何かを切る音、そしていい匂いが届き始めた。
音と匂いで、ふとロビンは自分が空腹なことに気がついた。今朝は十時にここに到着して、十一時にコウが出かけてからは、二階に割り当てられた自分の部屋でずっと、荷物の整理をしていた。食事をしていないことを意識して、空腹感は増した。
(でも、今キッチンに行ったら、レイがいるわね。レイが出かけてから、何かを探しましょう)
そう決めて、ロビンは雑誌に目を落とした。人工臓器の記事は飛ばして、次のページをめくる。
そんな風にして数ページめくった頃、キッチンからレイが声を掛けた。
「……おい」
「…何よ?」
つい冷たい口調になってしまったロビンの言葉に、気分を害した風もなく、レイは親指でキッチンを指した。
「腹減ってんだろ? ……来いよ」
意外な申し出を、ロビンは受けることにした。実際、かなり空腹だったのだ。
キッチンのカウンターに並べられた食事は、簡素なものではあったが、その味はロビンを驚かせた。
「美味しい! これ、あなたが作ったの?」
「……他に誰が作るっていうんだ? 言っておくがコウは食事は作れないぞ」
ぶっきらぼうに答えたレイの横顔を見つめながら、ロビンが口を開く。
「へえ……意外ね。意外と言えば……あなた、あたしのこと嫌いじゃなかったの?」
ロビンの言葉に、レイは少し困ったように呟いた。
「嫌いと言うか……まあ…これは…さっきの詫び代わりだ」
「じゃあ…あたしここにいてもいいの?」
ロビンの問いにレイは一瞬、食事の手を止めた。コーヒーを口に運びながらかすかにうなずく。
「コウがいいなら…」
それだけ呟いて、レイは食事を再開した。ロビンが軽く溜め息をつく。
「全ての基準がコウなの? コウが許せば、あなたもそれを許すわけ?」
当たり前だ、という顔をして、レイがうなずく。
「そうだ。コウがどう思うか、どう感じるか。それが俺の基準だ」
「じゃあ、あなたの考えは、レイ? あなたはどう思うの?……つまり、あたしのことだけじゃなくって。自分自身の基準は存在しないの?」
ロビンの言葉にレイは首をかしげた。
「…おかしなことを言う。さっきも言ったろう。俺の基準はコウだ。それ以外にどんな答えがある?」
「だから……あなた自身がどうしたいか、とか…仕事のことに関してもそうよ。あなたが毎日手術をしているのは、別にコウのためじゃないでしょう?」
ロビンは言葉を探しながらも、同時に自分自身に問いかけていた。今の仕事を本当に自分が納得してやっているのかを。いくら研究を続けてもやがては限界が訪れる。人間の越えられない壁に当たる時が必ず来る。しかもそれは、そう遠い未来の話ではない。救える命と救えない命。多分、それは自分よりもレイの方が感じているだろう。日々、それを目(ま)の当たりにしているはずだ。コウを愛するとか、大事にするとか、そういった基準では判断出来ないものを、現実に見ているはずだ。
そんなロビンを見つめながら、レイは食事を終えた皿を押しやって、コーヒーを手に取った。一口飲んで、息を吐き出す。
「結局……コウのためということになるのかもしれない。俺が今の仕事を続けているのは、直接的には自分のためだ。とりあえず、俺は誰かの命を救っている。それが確認出来れば、俺は満足する。俺が満足すれば、そんな俺を見て、コウも満足してくれる」
「……よく…わからないわ」
「コウは今のところ、俺の望む形で俺を愛してるわけじゃない。だが、それがどんな形にせよ、俺を愛してくれている。自分の愛する者が幸せになることは、自分の幸せにつながるんじゃないか? 俺は…自分が出来ることをしなかった、と言うだけで後悔はしたくないから……」
「あなたにだって……」
ロビンは口を開きながら、心の中で考えていた。何故、自分はこの男に…レイにこんなことを言うのだろうか。
「…あなたにだって救えない命はあるでしょう? どんなに手を尽くしても救えないことはあるでしょう? それでもあなたは満足なの!? 救った命の数よりも…救えない命の数がのしかかってくることだってあるでしょう!? それでもあなたは……」
言ったあとで、ロビンは後悔していた。
(こんなこと……他人に言うことじゃないわ。今日出会ったばかりの人間に…あたしは何をわかってほしくて…)
ロビンの気持ちを知ってか知らずか、レイはさっさとコーヒーを飲み終えて立ち上がっていた。
「……おまえが何を言いたいのか、わからん。俺は自分の仕事をするだけだ。…そのかん高い声でわめき散らすのはやめろ。ただでさえ、最近体調が悪いんだ」
まだ何かを言おうとするロビンを無視して、レイは自分の部屋に向かった。
ジャケットを羽織って、コートを片手にレイが部屋を出てきたとき、廊下にロビンが立っていた。
「……あたし…その……」
軽く咳き込みながら、レイはその前を通り過ぎた。そのまま、振り向かずに言う。
「…コウに伝えてくれ。十時には戻る」
ロビンが顔を上げる。先刻の八つ当たりめいた言葉を謝ろうと思っていたのだが、今のレイの言葉に許されたような…救われたような気がした。とりあえずはここにいていいらしい。
「あたし…まだここのスペアキー、もらってないわよ」
「コウに言え」
相変わらず、乾いた咳を続けながら、短くレイが告げた。
「……風邪でもひいてるの?」
何とはなしに、レイの後ろについて玄関まで歩きながら、ロビンが尋ねる。
「まあな……」
「今日、仕事休んだら? ほら、顔色も悪いし」
玄関の扉を開けながら、レイが振り向いた。腰に手を当てて、溜め息をつく。
「…おまえ、一体何をしたいんだ? 俺の邪魔をしたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「俺が出かけたら、何か不都合でもあるって言うのか?」
「別に……」
言い淀むロビンに、レイは再び溜め息をついた。
「……ついてくるか?」
「……え?」
「俺の許可があれば手術の見学は出来る。ちょうど今日は、ウィード製の人工心臓を移植する手術だ。おまえがウィードで何をしているのかは知らないが、自分の会社の製品が最終的にどうなるのかを知るにはいい機会だろう」
車のキーを片手に、レイは親指で玄関の扉を指さした。
「でも…あたし……」
「おまえ、移植手術を実際に見たことは無いんだろう? …だからさっきあんなことを言い出したんだろう? ----見たくなければそれでもいい。別におまえを連れていきたいわけじゃない」
そう言うと、レイは一度は閉めた玄関の扉をもう一度開けた。それを見てロビンが慌てて首を振る。
「あ……行くわ! ついてく! ……でもどうして…」
「おまえがくだらないことを言い出すからだ。これから先、あんなくだらないことを何度も訊かれたんじゃこっちがたまらないからな。----現実を見れば、あんなつまらないことは考える暇もなくなる。手術の途中でぶっ倒れるなよ。言っておくが、かなり気持ち悪いものだからな」
レイの言葉にロビンは力強くうなずいた。
「……へえ、それでレイの手術、見てきたんだ」
少し遅めの夕食をとりながら、コウが微笑んだ。その向かいで、レイは平然と夕食を口に運んでいた。ロビンはフォークを持つ気にすらならずに、それでもうなずいた。
「…あんなもの…人間の見るものじゃないわよ」
「だって、ロビンだって臓器の研究してるんだろう? そういうのは目にしないの?」
コウの質問にロビンは首を振った。
「言ってみれば、あたしは技術者よ。人工臓器そのものはかなり機械的な要素が大きいし……とにかく人間の皮膚を切り裂いて、中で動いてる血管やら筋肉やら……ああ…思い出しただけで吐き気がするわ」
言いながらロビンは、隣でレイが飲んでいる赤ワインを信じられない気持ちで見つめていた。
「…今日の夕食が肉料理なのはあたしに対する嫌がらせ?」
ロビンの問いかけに、レイは軽く肩をすくめた。
「いいや、コウの趣味にあわせただけだ。言ったろう? 俺の基準の全てはコウだと」
「……そうだったわね」
半ば諦めたように溜め息をつくロビンに、ワイングラスを持ったまま、レイが言った。
「確かに、慣れないと気持ち悪いかもしれんが、そんなに嫌悪することもないだろう。自分の体の中にもあるものだ」
「…だって、生きて動いてたわよ?」
「当たり前だ。死なせないための手術だからな」
その言葉に納得しながらも、ロビンの食欲はいっこうに戻る気配を見せない。だが、それでも……と思った。
…それでも確かにレイに救われたような気はする。人工心臓の耐久年数は軽く六〇年を越える。今日手術した三歳の女の子は、残りの一生をあの心臓と共に生きてゆく。特殊な免疫抑制剤が必要にはなるけれど、それでも、これからは、今まで彼女を苦しめてきた発作に悩まされることは無くなる。そして、死に怯えることも。…助けられない命を思うよりは、助かるはずの命を確実に助けていくことの方が大事なのかもしれない。少なくとも、自分にそれが出来るなら。
「ありがとう…レイ」
ぽつりと呟いたロビンに、レイは無表情な視線を返しただけだった。
「礼を言われる覚えはない。俺は何もしていない」
そう言って、顔を背けながらまた軽く咳き込む。そんなレイをコウが心配そうに見つめた。
「レイ、薬飲んでおいた方がいいんじゃないのか? 最近ずっと咳してるだろう?」
「ああ…わかった」
レイが微笑んだ。そんなレイの微笑みを見て、ロビンは一抹の悔しさを感じていた。今日、ここに着いてから、レイは一度もロビンに微笑み掛けてはいない。ふとそれを思い出したのだ。
「あなたもまともに笑えるのね、レイ?」
「…それが何か不満か?」
途端に無表情に戻って切り返すレイの言葉に、ロビンは肩をすくめた。
「いいえ、別に…」
「……一つ、言っておこう」
食事を終えて、コーヒーを入れる準備をしながら、レイが切り出した。ふとロビンが顔を上げる。
「俺は確かにおまえのことを嫌いとは言わない。だが、好きなわけでもない。…言ってしまえば、関心が無い。今日のことで、何か誤解したかも知れないが、それはあくまでも誤解だ」
「……ええ、よーくわかったわ。少しでも、いい人かもしれないなんて思ったのはあたしの誤解だったのね」
「わかればいいんだ」
そんなレイとロビンを交互に見つめて、コウは溜め息ををついた。
「二人とも…今日一緒に出かけたっていうから、少しは仲良くなったのかと思えば……」
「争いを起こすつもりは無いが、仲良くする気はもっと無い。……わかってるだろう、コウ? こいつは女だ」
コウの目の前にコーヒーを置いてレイが言った。それを聞いて再び溜め息をつくコウのカップに、角砂糖を一つ入れながら。
「あなたの言い分を聞いてると、まるで女であることが罪悪みたいね。過去に女でひどい目にあったことでもあるみたい」
肩をすくめて言うロビンに、レイはただ冷たい視線を返しただけだった。それでも一応、ロビンにもコーヒーを手渡す。
(好かれてはいないにしろ、ここにいていいことは確からしいわね……)
ロビンはとりあえず、それで納得することにした。
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