サンクチュアリ



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「おい、起きろよ。もう八時だぞ」
 部屋のカーテンを開けて、朝の光を招き入れながらの声。その声を受けて、ベッドの中で一人の青年が身を起こした。空色の瞳をまぶしそうに細める。
「…あれ、レイ。ずいぶんと久しぶりだね。いつ帰ってきたんだ?」
 ベッドの上の自分を見下ろす長身の人物を見上げながら、青年が口を開く。
「ああ、つい一時間ほど前だよ。そういえば三日…いや四日ぶりかな? ずっと職場のほうに泊まり込みだったからな。…会えなくて寂しかったぜ、コウ」
 言いながらレイが、ベッドの上のコウにキスをしようとする。それを慌ててかわしながら、コウがベッドから抜け出した。
「起き抜けからそういうことはやめてくれ」
「ふん、逃げられたか。……まあいい、俺も今朝は夜勤明けで追いかける体力もないしな。ダイニングに朝食作っておいたから、シャワー浴びたら食えよ」
「ああ、ありがとう。……あれ、今日って…十五日?」
 壁に掛かったカレンダーを見ながらコウが呟いた。その横でレイがうなずく。
「ああ。それがどうかしたか?」
「レイ……携帯電話にメッセージ入れといたの…聞いてないようだね。その様子じゃ」
「ん? ああ、忙しくてつい…何か急ぎの用事だったか?」
「急ぎっていうか…いや、もう決められてしまったことらしいから、事後承諾って形にはなるけど…一応耳に入れておこうと思っただけなんだけど…」
 コウがぶつぶつと呟く。聞きながらレイが眉をひそめた。
「何だよ、コウ。ずいぶんと歯切れが悪いじゃないか?」
「…アデル叔母さんが三日前に電話してきたんだ」
 レイに目を合わせないようにしながらコウが口を開く。その名前を聞いてレイがあからさまに顔をしかめた。
「…あの強欲ババァ。今更何だって…」
「叔母さんが言うには…僕たちのいとこをしばらくの間預かってほしいって」
 そこまで言ってコウはレイの顔を仰ぎ見た。レイが無言で先を促す。
「ええと…ほら、遠い親戚に当たる…アルフ叔父さんの甥っ子らしいんだけど、ほら、父さんの妹の旦那さんの…」
「家系図の説明はもういい。…で?」
 レイの眉間のしわがだんだんと深くなっていく。
「本当はアデル叔母さんが預かる予定だったそうなんだけど、叔母さんが来週から旅行に出かけるからって…」
「…それで、コウ? まさかおまえ、はい、いいですよなんて言ったわけじゃないんだろう?」
 優しげな口調ではあるが、レイの目は笑ってはいなかった。コウが口をすぼめる。
「だって、レイ…。あの叔母さんに、イヤですなんて言える? 君なら言えるだろうけど…。とにかくもう遅いよ。叔母さんが一方的に話を決めちゃって、その子がうちに来るのって、今日なんだ」
「何だって!?」
「あ、でも大丈夫。小さい子供じゃないんだ。年は聞かなかったけど。手のかかる年じゃないって言ってたし。名前はロビンだってさ」
 呆然とするレイを残して、コウは逃げるようにバスルームへと姿を消した。
「手のかかる年じゃないって言ったって…手のかからないガキなんているもんか! まったくコウのヤツ……」
 腹立ち紛れにコウのベッドを蹴飛ばして、レイは部屋を出ていった。その背中にコウが使い始めたらしいシャワーの音がこだまする。


 仏頂面のまま、レイがキッチンでコーヒーを入れていると、シャワーを終えたらしいコウが姿を見せた。
「…レイ、まだすねているのか?」
「……俺は、ガキは嫌いだ」
 むすっとしたまま、一言そう答えると、コウの目の前に湯気のたつコーヒーカップを置く。ソーサーが耳障りな音を立てた。無言のままスプーンの横に角砂糖を一つ添える。
「案外にぎやかになって楽しいかも…とは…考えられないか、やっぱり」
 半ばあきらめたようにコウが呟く。コウが溜め息をついたのを見て、自分はブラックでコーヒーをすすりながら、レイが口を開いた。
「…コウはそれでいいのか?」
「え? 僕? …僕は、まあね。子供は嫌いじゃないし」
 そう言って微笑むコウの、明るい栗色の髪を見ながら、レイがもう一度溜め息をついた。
「それなら…いいか」
「え?」
「コウがいいならいい。……それにあのババァがこっちに押しつけてきたなら、断れないことは先刻承知だ」
 言いながらレイが微笑んだ。淡い紫の瞳が光に透ける。
「…よかった。十時前にはこっちに着く予定だって言ってたから、そろそろ着くかな? ロビンか…どんな男の子だろうね?」
「あまり元気なガキじゃなけりゃいいんだがな」
 レイの言葉にコウが微笑んだ。
「ロビンの年くらい聞いておけばよかったね。…ま、お兄さんになったつもりでさ。実際、レイはお兄さんだろ」
「コウのような弟なら話は別だけどな。……そろそろ着くんなら起きて待ってるか。本当はもう寝ようと思ってたんだが」
 あくびをしているレイを見ながらコウがうなずく。
「ああ、そうしてくれるとありがたいよ。夜勤明けで大変だろうけど……」
 コウがそう言いかけた時、玄関の呼び鈴が鳴った。二人が目を見合わせる。
「いいタイミングだな」
 そう呟いたレイに微笑んで、コウは玄関へと向かった。扉を開けながら、外に向かってにこやかに微笑みかける。
「いらっしゃい、君がロビン……………?」
 扉の向こうに立っている人物に向けられた言葉は、最初は勢いよく、途中からは声が小さく、そして最後は疑問形で締めくくられた。
 ----小春日和と呼ぶにふさわしい秋の陽の光を浴びてそこに立っていたのは、ストレートの長い金髪を風になびかせた女の子であった。いや、女の子という表現は似つかわしくない。大きめのスーツケースを玄関の脇において、たった今まで見ていたらしい地図を片手に、コウの目を見つめ返した深い青の瞳はれっきとした大人の女性の持ち物である。
「あなたは…この家の方?」
 よく通るその声を耳にして、コウはようやく我に返った。
「あ、ああ……そうだけど…えーと、君がロビンかな? そんなわけ…」
 …ないよね、と言いかけたコウの言葉は、彼女の返事でさえぎられた。
「ええ、そうよ」
 あまりにもあっさりとした肯定の言葉に、コウが思わず無言になる。そんなコウに、今度はロビンの方が尋ねてきた。
「あなたがコウさん? 思ってたより若いのね。あたし、もっとおじさんだとばかり…」
「え? 僕が? どうし……」
 聞きかけたコウの言葉はまたしてもさえぎられた。ただし、今度はロビンではない。さえぎったのはレイである。
「おい、コウ! おまえ、いつまで立ち話してるつもりだ」
 玄関先まで様子を見に来たレイの動きが止まる。ロビンをゆっくりと指さして、口を開いた。
「………誰だ、その女?」
 困惑の表情はレイだけではなかった。ロビンもその場に立ちつくしたまま、眉をひそめていた。そして二人の間に立っているコウも、である。


「一体どういうことなのか、説明してもらおうか?」
 一応の礼儀として、ロビンの前にもコーヒーカップを置きながらレイが口を開いた。行動はともかくとして、その瞳と口調は、あからさまに苛立ちに満ちていた。
 レイと同じ気持ちでいるらしいロビンとレイの両方を見ながら、コウが口を開く。
「えーと…レイ、こちらがロビンで…僕たちの遠い親戚にあたるんだけど…いや、僕も悪かったよ。年も聞かなかったけど、実は性別も聞かなかったんだ。アデル叔母さんも、女の子が来るなんて一言も……」
 しどろもどろになっているコウの横でロビンが溜め息をついた。
「それはこちらも同じね。アデル叔母さんは例によって、説明の足りない人だから…あたしは、あなた達をもっと年のいった夫婦だと思ってたのよ。名前から想像するに、コウさんが旦那さんでレイさんって方が奥さんだとばかり。そうしたら迎えてくれたコウさんは、あたしとそんなに変わらないくらいの年に見えるし、レイさんも男の方だし」
「…で? あんたまさかこのままここに住むつもりか?」
 ソファの背にもたれかかりながらレイが言った。かなりトゲのある言い方だ。コウが慌ててフォローを試みる。
「い…いや、レイ、そんな言い方……」
 だが、少々遅かったようだ。ロビンが眉を逆立てた。レイと向き合ったソファの上で足を組み替えると、冷たく微笑んでみせた。
「あら、こちらに住まわせていただいちゃいけないのかしら? 確か、アデル叔母さんの話じゃ、こちらにお世話になるってことで話がついているはずだけど?」
「あ、あの…ロビ……」
 ロビンの態度に、レイも同じ態度で答える。すでにコウの言葉も耳に入っていない。
「ふうん、いい度胸だな、女。若い男二人と一つ屋根で暮らすってのに? しかもここは郊外の住宅地、その上広い庭付きの一軒家。何かあっても知らないぜ?」
「いや…だから…レイ……」
「へえ? 何かするつもりなのかしら? とにかくあたしには、ここにいなくちゃならないわけがあるのよ」
「ロビンも…その…」
「わけ? ふん、どんなご大層な理由か知らないが、俺は女なんぞと一緒に暮らすのはごめんだな」
「二人とも! 少しは僕の話も聞いてよ!」
 無視され続けていたコウが、いきなり立ち上がって声を上げた。その勢いに押されて、二人が口をつぐむ。
「いいかい、二人とも! お互いにまず事情をよく理解しあうこと! ケンカ腰になったって仕方がないだろう!」
 コウの勢いに気がそがれたのか、ロビンが軽く溜め息をついた。小さく肩をすくめて、話し始めた。
「…わかったわ。あなたの言う通りね。改めて自己紹介するわ。ロビン・グラスフォード、あなた達のいとこにあたるわ。いとこといってもほとんど血のつながりはないんでしょうけどね。あたしの父はウォルトと言って、少しは名の知れたカメラマンなんだけど、実は父が先日、取材旅行にでかけたのよ。西の大陸の中の小さな半島なんだけど、今は戦地になっていて、こちらからは連絡がとれない状態なの。いつ帰るかもわからないわ。そこで父はあたしをいつでも連絡のとれるところにおいておきたがったのよ。で、アデル叔母さんに相談したら、勧めてくれたのがこちらだってわけ」
「じゃあ…連絡がとれないと困るんだね?」
 コウの言葉にロビンがうなずいた。
「そうなの。アデル叔母さんももう出かけてしまっただろうし。父から何かの連絡があったときに、少しでも早くその連絡を受けたいのよ。----あたし、ここにいたら邪魔かしら?」
「ううん、そんなことないよ。ね、レイ?」
 にこやかに振り向いたコウは、紫色の瞳に冷たくにらみつけられた。
「そんなことぐらいで、この俺が引き下がるとでも思ったか? コウ? 誰が何と言おうと、俺は女なんぞと暮らすのはまっぴらだ。だいたい、ひとが眠いのを我慢して起きててやれば、来たのはこんな女だ。ぺらぺらと耳障りな声でしゃべりまくりやがって…! 誰であろうと、俺とコウとの暮らしを邪魔するヤツは許さん!!」
 怒鳴りつけるレイを冷ややかに見つめてロビンが口を開いた。
「何、あなた…ゲイ?」
「ああ。それがどうかしたか? 今更驚くことじゃないだろう? 今じゃ、同性同士の結婚も法的に認められてる。ひと昔前の制度や性別にこだわってるんじゃ、今の世の中生きていけないぜ?」
「別にこだわってるわけじゃないわ。あたしとしても二人がゲイだって言うんなら、これ以上はないってくらい、安全だし?」
 ロビンの言葉に、コウが慌てて首を振った。
「いや、違うよ! ロビン、誤解だ! それはレイだけで、僕は違う!」
「あら、隠さなくてもいいのよ? 最近じゃどちらかというと同性愛の方が数が多いっていうし。今時そんなこと気にする人なんていやしないわ」
「それはわかってるけど! でも違うんだ」
 コウの思い切りの否定の言葉に、レイが肩をすくめた。
「そこまで駄目押ししなくてもいいだろう?……とにかく俺が言いたいのは、俺は女が嫌いだ。よっておまえがここに住むことは許さん」
 レイがそう言うのを聞いて、それでもロビンはにっこりと微笑んだ。
「あらそう。でもあたしが言いたいのは、それでもここに住むってことよ。これからよろしくね。大丈夫、誰も一生住むなんて言ってやしないわ。長くても半年よ」
 レイがまた何かを言い返そうとするのをさえぎって、コウが言った。
「ほら、レイ。いいじゃないか。かわいそうだろう? どうせ君は仕事が忙しくてあまり顔を合わせないんだからさ。じゃあ、ロビン。改めて僕たちも自己紹介するよ。僕はコウ・ルーファン。二十三歳だ。今はギルランド大学の大学院に通ってる。で、こっちはレイフェル・カイトリー。五つ年上の僕の兄だ」
「え? 兄弟なの?」
 ロビンが驚く。コウがうなずいた。
「ああ。といっても、血のつながりはないんだけどね。だから、ラスト・ネームも違う。僕たちのことは呼び捨てでかまわないから」
「ありがとう、改めてよろしく、コウ。ああ、そういえばあたしたち同い年ね。あたしも二十三なの。今は、ウィード・バイオテックにつとめてるわ」
「へえ、ウィードならエリートじゃないか。人工臓器の会社だろう? 今日は休暇?」
「ええ、来週から仕事に出るの。コウは大学院って言ったわよね? 専攻は何?」
「ああ、言語学だよ。教授が偏屈な人でね、いろんな使い走りもやらされてる」
 すっかり和やかな雰囲気を漂わせている二人を見て、レイは不機嫌さを全面に出して立ち上がった。
「…悪いが、コウ。俺はもう寝るぞ。…頭痛がしてきた」
「あ、うん。ごめんね、引き留めて」
 そう言って微笑むコウの隣でロビンが壁の時計を見上げた。
「あら…まだ十一時前よ。しかも午前の」
 居間を出ていきかけたレイが振り向いてロビンをにらみつける。
「いいか、俺は今朝の七時に家に帰って来たんだ。夜勤明けというより、徹夜明けでな。俺の、この四日間の睡眠時間を教えてやろうか? ……たったの八時間だぞ? 四日で八時間だ。ついでに言うなら食事もまともに摂ってないんだ。そんな状態で家に帰ってみりゃあ、寝耳に水の話を聞かされた上に、てめえのかん高い声まで聞かされて、いい加減頭痛もしてくる! わかったら少しは静かにしてろ! ----コウ、今日は何時に帰る? できたら、三時に起こしてくれ。四時にはまた出かけなきゃならないんだ」
「ああ、うん。わかった」
 コウの返事にうなずくと、レイはそのまま居間を出ていった。
 ロビンが小さく溜め息をつく。
「レイのお仕事って何なの? ずいぶん大変そうね?」
「ああ、医者だよ。ウィードに勤めてるなら、レイの名前聞いたことない? カーリア記念病院の移植外科にいる」
 コウの言葉を聞いて、一瞬ロビンが考え込んだ。すぐに顔を上げる。
「じゃあ、レイって……あの有名なドクター・カイトリーなの!? …信じられない、あんなに若いなんて…だってドクター・カイトリーといえば、この国でも有数の外科医でしょう? それにしては……ちょっと……」
 性格が、と言いかけて、ロビンは口をつぐんだ。自分の正直な感想ではあるが、何と言っても、彼はここの家主であり、コウはその身内なのだ。初対面で、そんなことを口にするのは失礼だろう。
 だがコウは、ロビンの言葉の行間を読みとったようだ。苦笑しながら、応じてきた。
「まあ、彼の性格に関しては、そのうちわかってくると思うよ? ……ああ、もうこんな時間だ。出かける前に君の部屋に案内しておかないとね」
「…出かけるの?」
「うん。悪いけど、大学に行かなきゃ。……あ、できればレイの部屋の近くではあまり音を立てないでやってくれないか? 最近、ずっと忙しくてね。疲れてるみたいだから」
「うん、そうする。----彼のことも、長い目で見ることにするわ。いろいろと腹も立つけど」
 それを聞いて、コウがうれしそうに微笑んだ。
「ありがとう、ロビン」

   
           
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