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記憶回路
−− 4 −−
それ以来、彼女と私はしばしば会うようになった。彼女は、会って何度目かに、私をベッドに誘った。私が断ると、何となく嬉しそうな顔をした。…少しだけ、その理由が分かるような気がした。
彼女と会っている間、私は幸せだった。だが、最近少し気になることがある。私の中での時間の感覚が薄れてきているように思えるのだ。回路に異常があるのかも知れない。もう少し様子を見てから、博士に相談してみよう。
ぼんやりとそんなことを考えていたとき、隣にいたルナが話しかけた。ルナの声で私は、彼女の部屋に来ていたことを思い出した。
「ねえ、カイン、何考えてるの?」
「ん? いいや、何でもないよ」
私の微笑みに安心したのか、彼女が思いきったように口を開いた。
「ねえ…あたしのこと、まだ好きだって言ってくれる? 愛想尽かしたんなら、言ってよね。あたし、あんたの前から消えるから」
そう言ってルナは私の顔を見上げた。私は首を振った。
「そんなことないよ。今でも好きだ。いや、前よりももっと、好きだ」
そう言いながら、私はある不安を覚えていた。愛想を尽かされるのはこちらの方ではないだろうか? 私は、自分の身体のことを彼女に言っていない。私が機械であることを。私が人間ではないことを……。それを口にしたら、ルナとの関係は確実に壊れるだろう。自分から口にすることは出来ない。だが、何かのきっかけでルナがそれを知る可能性もある。私の中でその不安は日に日に大きくなっていく。私の中の何かを押し潰そうとするかのように。
ふと私は気付いた。私の時間の感覚が狂っていっているのは、ルナといるせいではないだろうかと。駆け抜けるように、限られた一生を懸命に生きようとする彼女の隣で、私は立ち止まっている。永遠に生きるであろうこの身体を、持て余している。いつか、彼女は私の目の前から走り去るだろう。それは分かっている。だが、今のこの幸せを壊したくない。このまま、時が止まればいいのに……。
そう考えた時、私の頭の中に小さな火花が生まれた。一瞬のかすかなスパーク。それが何を意味するのか、分析する暇さえなかった。
ふと、私の隣でルナが口を開いた。
「カイン…前に話したホセがね、入院したんだって。昨日、仲間うちで噂になってたんだ。どっかの施設に入ったってさ。家族が連れていったらしいよ」
「へえ?」
「確かに、あいつは普通じゃなかったわ。バカにするなって叫んだときの、あいつの目の色……なんか、違った。妙にギラギラしてて、それでいて、死んだ魚みたいに無表情な目。あんなの、普通の人間の目じゃない」
「ルナ…もう忘れた方がいいよ。入院したなら、もう君に前には現れないだろう?」
私のその言葉に安心したように、彼女は微笑んだ。そのまま、顔を近づける。私が動かないでいると、彼女は私の唇にキスをした。目を見開いたままの私を見て、彼女は唇を離すと小さく笑った。
「キスするときは、目を閉じるもんよ? 初めてじゃあるまいし……」
「…初めてだよ……」
「嘘」
「嘘じゃ……」
言いかけた私の唇を、彼女の唇がふさいだ。私は目を閉じた。遮断された視覚認識の代わりに、唇の感覚が鋭くなったような気がした。彼女の温かみが、唇から伝わる。唇の微妙な動きが、彼女の、声に出さない言葉を伝える。私はルナの背中に回した手に力を込めた。彼女が唇を離す。私の手に引き寄せられて、ルナは私の胸の中に身体を沈めた。
「気持ちいい……なあにんもしないで、ただこうやって、あんたの胸によりかかってるの。こうしてたら、寂しくない。……一人でいるとさ、こんな小さな部屋でも、すごく広くて、寂しいんだ。だから…一人ではいたくない。でも、あたしと一緒にいると、当たり前だけど、男はセックスのことしか考えないしね、でも…どうしてなんだろう? 抱かれちゃうと、どんな男も同じに見える。ベッドの中ではみんな同じ。でも…あんたは違う。セックスなしで男の人と付き合ったのって初めてだけど、こんなのって…いいね。ずっとこうしていたい。このまま時間が止まればいいのに……」
彼女は、私の心を読んだかのように、そう言った。だが……それでも、時間は止まらない。流れ続ける時間は決して止まることはない。いつかは…二人が離れるときが来る。ルナを失うときが来る。一人になるときが……。
その言葉を頭に思い浮かべた瞬間、頭の中で、今までになく大きな火花が散った。痛みとして感じるほどの衝撃だった。それが過ぎ去ってからも、波紋が広がるように、小さなスパークがとぎれとぎれに続く。私は目を閉じて、頭をおさえた。何かの異常か……?
「−−−どうしたの? カイン?」
ルナの心配そうな声が聞こえる。さっきの衝撃で思わず声を上げてしまったらしい。だが、彼女の声が聞こえるとすれば、音声識別の回路には異常がなさそうだ。
「……ああ、大丈夫…何でもない」
答えて、目を開けた。発声装置も視覚認識の回路も異常がないことを確認する。
「でも……具合でも悪いの?」
「いや…ちょっと頭痛がしただけだから。大丈夫。…ああ、そろそろ仕事に行かなきゃ」
私は、時計を見上げて立ち上がった。それをルナが引き留める。
「何言ってんのよ。今日は休みじゃない」
休み……? 一瞬、言葉の意味が分からなかった。断続的に寄せてくるスパークの波の間を縫うように、記憶をたぐる。しばらくして思い出した。今日は、店の定休日だった。
「あ…ああ……そうか……」
「カイン、なんだか変よ? 顔色もあんまり良くない」
顔色が…? そんなはずは……。だがその時、ふと私は、自分の手の冷たさに気がついた。指先が震えている。止められない。力が入らない。その震えを止めようと、私は指先を見つめた。力をこめようとすればするほど、更に震えはひどくなる。止まらない。…何故だ? 何故……止まれ…止まれ……。
「……イン? カイン!?」
ルナの声が耳に入った。気がつくと彼女はすぐ隣にいて、私の腕をつかんでいる。
「−−−え…?」
「どうしたのよ? 何度も呼んでたのに。こんなところに突っ立ったままで…」「いや、何でもない。大丈夫。−−−帰るよ。やっぱり、少し体調が悪いみたいだから…」
心配げな顔をしている彼女を残して、ドアを開けようとした瞬間、ドアが外から開いた。その向こうに一人の男が立っていた。青ざめた顔に、汗が浮いている。どこから走って来たのか、肩で息をしていた。
立ったままの私を押しのけて、男は中に入り込んだ。事態を把握できずに振り向くと、ルナが目を見開いていた。
「…ホセ……!」
ルナの言葉に応えるように、男が笑った。
「そうとも! 俺だよ。だがな、今日の俺はいつもとは違うぜ?」
ホセの下卑たような笑いは、だがどこかうつろだった。かすかにルナが後ずさる。そこへ、ホセが一歩踏み出した。
「へへ…ルナ、今日こそはおめえに目にもの見せてくれる。−−−いつもいつも、俺をバカにしやがって。おめえだけじゃねえ、みんなだ。みんな、俺をバカにする! 支配しようとする! 見下した目つきで、俺を見やがって。許せねえよ…。みんなぶっ殺してやる。手始めはおめえだ、ルナ」
様子が違う。男の目には、何か、普通ではないような輝きが感じられた。このままではルナが危険だ。そう判断した次の瞬間には、私はルナとホセの間に立ちはだかっていた。
「−−−カイン、駄目、危ない!」
私の後ろでルナが声を上げる。危ないならなおのこと、ルナを放ってはおけない。
「ルナ、逃げろ」
「何だ、てめえ? 邪魔すんなよ……てめえにゃ関係ねえことだろおっ!? すっこんでろよ!!」
ホセが怒鳴った。私はその場所を動かず、ただ、ホセの目をにらみ返した。ホセは床に唾を吐くと、一歩近づいてきた。血走った目を私に向けて、くぐもった声を出す。
「……てめえもかあ? てめえも俺をバカにしてんのか。…気に入らねえなあ…その目……気に入らねえよ。…いいだろう、まずてめえからってワケだな?」
そう言って、ホセは私をにらみつけた。ルナが私のシャツの袖をつかむ。ホセはうつろな笑いを崩そうとはせずに、上着のポケットに手をやった。その手が再び現れたとき、そこには銃が握られていた。光る銃口を私とルナに向けながら、もう一度口を開いた。口の端からは、唾液がしたたり落ちている。
「−−−俺はいつもみんなにバカにされてきた。みんなで俺を支配してきた。俺はいつか誰かを支配したかった。…ルナ、俺はベッドの中でならおまえを支配できると思った。俺が…この俺が、おまえを支配できると思ったんだ。だが違った。家にいるときも、そしておまえみたいな商売女のベッドの中でさえも、俺はいつも誰かに支配される。そんなの我慢できねえ! そして、考えたんだ。……これならおまえを支配できる。俺が支配できるんだ。そうさ……殺してやる…。おまえが動かなくなったら…しゃべれなくなったら、おまえは俺に逆らえない。俺の思うままだ…。おまえの大事なその男が最初だ。そして、次に…ルナ、おまえだ。おまえらが終わったら、俺は街に出る。そして、俺を支配してきた奴らを片っ端からぶっ殺してやるんだ。そうさ、そうしなきゃいけないんだ。俺が支配しなきゃなあっ!」
ホセの声を聞きながら、私は彼の手元を見つめていた。引き金に掛けた指を。飛びかかるタイミングをはかっていた。
ホセが銃を構え直す。私に狙いを付けた。右手の指に力がこもる。私との距離は2メートルほどだろうか。ほぼ真正面だ。この角度なら、頭に当たることはないだろう。胸の、エネルギー炉がある場所にも当たらないはずだ。ならば、一発撃ち終わって、あいつが安心したときがチャンスだ。
−−−ホセはゆっくりと、まるでその儀式を楽しんでいるかのように、徐々に力を込めた。その指に最後の力がこもる。轟音とともに銃口が火を噴いた。右腹に、熱と衝撃を感じた。それは、かなりの衝撃で、私は思わず膝を折った。ルナが悲鳴を上げた。血のように赤い液体が、私の腹部を染めてはいるが、痛みは感じない。衝撃が立ち去るのを待たずに、私はホセに飛びかかった。まだ硝煙をあげている銃を掴むと、ホセの右手ごとひねり上げた。
「てめえ! しぶとい野郎だ!」
ホセが、声を上げる。腕をひねられて、さすがに苦しそうな顔をしているが、銃を離す気はないらしい。ホセが身体をひねった。私が掴んでいた右手を振り切る。すかさず、私に銃を向け直そうとした。そこへ私がもう一度飛びかかった。銃を掴む。だが、ホセも離そうとはしないまま、二人で床に倒れ込んだ。揉み合っているうちに、胸元でカチリと、小さな金属音がした。同時に銃声。二人の身体の間から硝煙があがった。−−−ルナの叫び声が響いた。
奇妙に金属的に響くルナの悲鳴が私の耳を刺す。実際、二度目に銃を掴んでから、3秒かそこらしか経っていなかったろう。だが、それは今まででもっとも長い3秒間だった。ひどく曖昧な時間の長さを感じながら、私はゆっくりと体を起こした。ホセは目を見開いたまま、動こうとはしなかった。銃を握ったままの彼の右手は、胸の上に置かれていた。左胸に、赤い染み。上着の下のシャツを、ゆっくりと鮮血が染めていく。私は視線を自分の胸へ動かした。そこにも赤い染みがあった。これは…人工の液体ではない。紛れもなく生きている人間の血液だ。いや、生きていた、と言うべきなのか。…ホセの血だ。
そこまで考えたとき、またしても頭の中にスパークが起こった。だが、今度のスパークは分析するまでもなく、理由が分かった。私はタブーを犯したのだ。人の生命機能を停止させる行為を……殺人? 私が? 私は、スパークの連続でぼやけそうになる頭を軽く振って、私のすぐ下にあるホセの身体にもう一度、目を落とした。堰を切ったようにあふれ出す血液は今や、胸から腹にまで広がっていた。心臓を撃ち抜かれた人間に、人工呼吸と心臓マッサージは有効だろうか? …馬鹿げた問いだ。それよりも止血を…いや、間に合うはずがない…。
かすかに残った思考力で、私はそんなことを思いめぐらせていた。そんな私の頭の中を見透かしたようにホセの手足が、二、三度ぴくんと動いた。−−−生きている? が、ホセの身体はそれきり、もう二度と動かなかった。黄色く濁った目は、天井を見つめたきり動かない。もう、その目には何も映らない。かすかに開いた口元は、もう二度と息を吐き出さない。放心したまま、私はホセの身体を見下ろしていた。
「−−−カイン!!」
背中に、軽い衝撃があった。ルナだった。彼女は私の背中にすがって泣いている。
「良かっ…た…。カイン……あんたが無事で…けがは? −−−そうだ! カイン、さっき撃たれたでしょう!? けがは!?」
ルナが顔を上げた、けが? ……私の?
「見せて!」
ルナは、私のシャツを脱がせようとした。シャツを…? そう、シャツを…いや、駄目だ! 見せるわけには…! 私は彼女の手を抑えつけた。
「駄目だ!」
つい、大声になってしまった。彼女が一瞬、怯えたように手を離す。
「……どうして? …だって、けがは?」
「あ……いや、ごめん、大声出して…大丈夫なんだ。…さっきのはかすっただけで……」
私は笑顔を作った。嘘だった。ホセの撃った弾は、私の右腹にめり込んでいた。貫通する寸前で止まっているのが感じられる。大きなチューブでも切れたのか、エネルギーと共に保温剤が流れ出してゆくのが分かる。が、ここでルナに知られるわけにはいかない。
「大丈夫って…血がそんなに出てるじゃない。駄目、ちゃんと医者に診せなきゃ」
…大丈夫。流れているのは血じゃないから。血液のように見えるものは、血液なんかじゃないから…。だから大丈夫。……そんなこと、言えるわけもない。
「いや、本当に大丈夫だから。−−−それよりも、どうする? これから」
私はそう言って、ホセの身体を目で示した。ルナが青ざめた顔で、ゆっくりとうなずいた。
「どうって…警察に知らせるしかないよね? でも、大丈夫よ。弾はホセの握ってた拳銃から出たんだし、その前に、あたしを撃とうとしたんだしさ。ほら…何て言ったっけ…あの、正当……?」
「正当防衛?」
「そうそう、それになるんじゃない? 警察に話せば、きっと分かってくれるわよ。ね、カイン? あんたは何も心配しないで。あんたのことを言うと、話がこんがらがるからさ、あたしが一人だったことにするよ。−−−それよりカイン、あんたのけがのほうは……」
ルナが私の傷に目を向けた。が、私はその傷を手で隠した。ルナの言うとおり、私の傷口からは、まだ〈血〉が流れ続けている。このままだと、あまり時間も経たない内に思考が一時停止するだろう。エネルギー消費を避けるための安全装置が働くはずだ。そうならないうちに、博士の元に戻らなくては……。
「いや、大丈夫だ。……ほら、前に言っただろう? 僕の父が医者みたいなこともできるって。あとで、診てもらうからいいんだ」
ルナに説明しながらも、私は自分が冷静でいられることが怖くなっていた。タブーを犯したというのに…。いや、私は本当に冷静なのか? 私はルナの言葉にちゃんと答えているのか? ……自分の声が遠くに聞こえる。スパークも、さっきからずっと続いている。思考停止の前触れか? だとしたら、一刻も早く戻らなくてはならない。
「カイン…分かったわ。あんたは、早く家に戻って。後はあたしがやるから」
ルナが決意したように言った。だが、ルナを一人にしていくわけにはいかない。
私がそう言うと、ルナは首を振った。
「ううん、あたし一人の方がいいのよ。仕事仲間ではよく聞く話だし。客とのいざこざで、売春婦が殺されかかるってのはさ。警察も慣れてるわ。この街では日常茶飯事だもの。カインがここにいると、あたしとの関係も説明しなくちゃならないし、よけいな詮索もされる。幸い、ホセのことはみんなが知ってるから、大丈夫。あんたは何も心配しないで」
早口で一気に言い切ると、ルナは微笑んだ。少し青ざめてはいるが、声はしっかりしている。ルナの言うとおりにした方がいいんだろうか?
何も言わないでいる私を、納得したと見たのか、ルナは私の肩に上着を掛けた。
「そのままだと、血の染みが見えちゃうからさ、これ、着てってよ」
血の染み……ホセの血が私の胸を染めている。乾き掛けて固くなり始めた血液は、シャツの上で褐色へと色を変え始めていた。
私はルナに言われるがままに、ドアへと向かった。私にはもう考える力は残っていなかった。ホセのことも、ルナのことさえも。
通りに出て、ルナがタクシーをつかまえた。ルナに背中を押されて、私は車に乗り込んだ。思考停止は間近だった。薄れてゆく意識の中でも、スパークはやまない。強く弱く、波が押し寄せる。何かにすがりつきたくなる。何かに…自分を救ってくれるものに……。私は無意識のうちに囁いていた。
「…ルナ……」
彼女の手が私の頬に触れた。
「−−−カイン、あんたにはあたしの本当の名前を呼んで欲しい…。ルナは通り名よ。あたしの名前は…ディアナ」
「…ディアナ?」
「そうよ、忘れないで。…ディアナよ」
そんな私たちにいらついたように、タクシーの運転手が声を上げた。
「お客さん、どこまでだい?」
「あ…ああ……」
今のルナ……ディアナとの会話で、残りの思考力のほとんどを使い果たしてしまったらしく、運転手の言葉を理解するのに、少し時間がかかった。住所…私の住所は…?
「オリエンタル通り…南36の……105番地……エドワーズ博士の家まで……」
とぎれかかった意識を必死に呼び戻しながら、私が答えた。ディアナが車のドアを閉めた。それを合図に、車が走り出す。窓の外の彼女に、私はもう一度呼びかけた。
(ディアナ……)
だが、もう声は出なかった。一瞬、彼女と目が合う。どちらも、目をそらさなかった。…小さくなっていくディアナの姿を視界の隅にとらえながら、私はゆっくりと目を閉じた。ディアナ……ああ、女神の名前だ……。
それきり、意識は闇に溶けていった。
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