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記憶回路
−− 5 −−
……暗闇の中に、かすかな光が見え始めた。光が次第に大きくなり、闇を完全に追い払った時、私の思考活動が再開された。体内時計を探ると、私がタクシーに乗ったときから、丸3日が経過していることが分かった。
−−−タクシー? なぜ……? そうだ、ルナ…いや、ディアナのアパートから……。
そこまで思い出した瞬間、私の頭の中にあの日の記憶が鮮烈な映像となって現れた。私の犯した罪が……。
その時、ドアが開いた。博士が顔を見せる。ふと、懐かしい、と思った。目を開けている私の姿を見て、微笑みながら近づいてくる。それを見て私は、横たえられていたベッドから身を起こそうとした。それを博士が止める。
「ああ、まだ起きられないよ。腹の傷は大体は修理したが、細かいところは私では修理できないのでね、おまえの自己修復機能に任せることにしたんだ。完全に直るまで、あと2日くらいはかかるだろう」
博士の言葉に、私はうなずいた。博士は、私の枕元に椅子を持ってくると、それに腰掛けて、言った。
「−−−さて、何があったのか、話してくれるね?」
博士が微笑んだ。その暖かさを感じた途端、私の頭の中で火花が散った。駄目だ。話せない。博士を失望させる。……言えない。
私は首を振った。初めて博士の言葉に逆らった。そのまま、博士の顔を見るのが怖くて、両手で顔を…目を覆った。私の視界を再び闇が支配した。閉じた目の裏に、あのヴィジョンが映る。
血の色、空(くう)を見つめたきり動かない瞳、かすかな痙攣を繰り返す四肢。全てが生々しいままに焼き付いている。消えることのない刻印のように…刻まれた記憶は、あの瞬間のことをまざまざと思い出させる。誰がこの記憶を消せる? どの回路を切れば、この記憶が消える? あの光景を思い出しても何も感じなくなる?どれだ? どの回路だ?
……たとえどれだけの時が経とうと、決して記憶は薄れない。そんなことは自分自身がよく知っている。なのに、私はあの記憶を忘れたい。あの感情を抱えたままでは生きてゆけない。誰か助けてくれないか? 成り行きだ、事故だ、と人は言うだろう。だが、罪を犯したことへの−−−たとえ事故だとしても−−−罪悪感はいつまでも消えないだろう。
全てのロボットに組み込まれているはずの基本プログラム…人を守ること、人を傷つけないこと、人を……殺さないこと。私は…ディアナを守った。だが、それゆえにあの男を殺してしまった。どちらを優先させるべきだったのか。あのときの私は考える前に動いてしまっていた。だが今ここで、改めて問われても、私はディアナを守ると答えるだろう。他の何を犠牲にしても、彼女を守りたいと答えるだろう。だが、それは本当に正しい答えなのか。正しいと信じたいだけなのか……。こんな時に…どうすればいいのか、私の人工知能はその答えを知らない。
−−−気がつくと私は涙を流していた。目を覆っている指の間から、熱いものがあふれ出る。初めてだった。初めて、涙を覚えた。動き始めた頃、アベルと博士と3人で話したことを思い出した。涙を覚えることが人間へ近づく道だ、と。だが……だが、こんな哀しみが、こんな苦しみが、人間への道なのか? …もっときれいな涙を覚えたかった。後悔と苦しみの涙なんか覚えたくはなかった……。
博士が立ち上がる気配を感じた。そのまま、彼は部屋を出ていった。扉の奥で博士がついた溜め息が聞こえた。
博士を悲しませたくはなかったが、あのことを話せば、博士の哀しみは今よりもいっそう深くなるだろう。
数分後、誰かがドアをノックした。私は返事をしなかった。ややあって、ドアが開く。
「カイン……」
アベルの声だった。−−−アベル…アベルの声を、存在をこんなにも愛おしく思ったのは初めてだ。私の双子の兄弟……。
私は目を開けた。私の頬にある涙の跡を見て、アベルはいささか驚いたようだった。
「カイン、どうしたんだ? 博士が困ってたぜ? それに……泣いたのか?」
「……火花が…」
「火花? スパークのことか?」
「ああ、そうだ。アベルは……スパークを感じたことはないか?」
アベルが私の目を見つめた。彼の、明るいグリーンの瞳が、窓からの光にきらめく。
「……ある。頭の奥で、小さな火花が散るんだ。思考回路に何らかの無理があるときに、起こるみたいだけどな」
−−−アベルにも……ということは、アベルに私のことを話せば、彼の思考回路も危険にさらされるかもしれない。私たちの思考回路は、人間ほど柔軟には出来ていないのだから。
「……カイン? それで、そのスパークがどうしたって言うんだ? 何があった?俺にも話せないことなのか?」
アベルにも、じゃない。アベルだから…博士だから話せないんだ。大切だから、話せないんだ……!
私は黙って首を振った。
「どうしてだよ、カイン! おまえが苦しんでいるのに、黙って見てろって言うのか!? 俺に…俺に出来ることはないのか!? …話してくれよ……」
アベルの願いなら、かなえてやりたかったが、これだけは駄目だ。
「……駄目だ、話せない」
「カイン……」
アベルの瞳から光るものがこぼれ落ちた。
「……え…?」
声を出したのはアベルの方だった。私は手を伸ばして、アベルの頬に触れた。私の指の上を、温かい涙が滑り落ちる。
「アベル…」
「カイン、俺……泣いてるのか? これが…涙なのか?」
私は大きくうなずいた。
「アベル、すまない。君にもつらい思いをさせてしまった。だけど話せないんだ。私の話を聞いたら、君だってそのままではいられなくなるかも知れない」
「どういうことだよ!」
「私の中にある記憶はとんでもないものなんだ。二度と忘れられないほどね。…話せないよ。あのヴィジョンを口にするなんて出来ない。私の意識がある限り、私という意志が生き続ける限り、口にすることは出来ない」
アベルはまだ、何か言いたげな顔をしていたが、私はかまわず目を閉じた。
アベルが出ていった後も、私は自分の指に残ったアベルの涙の感触を味わっていた。博士の溜め息も、アベルの涙も、優しさの証だ。私が言いたくないことなら、あの人たちは無理には聞かないだろう。もちろん、どんなに問いつめられても、話す気など毛頭ないが。…いつまで耐えられるだろうか? 話さないでいることに、ではない。タブーを犯して、その罪悪感に苛まれながらの生活に、この思考回路がいつまで無事でいられるのだろう?
−−−こうして、一人になると、時折物音が聞こえなくなる。今まで聞こえていたはずの様々な物音がとらえられなくなるときがある。そんな時、反対に今まで聞こえなかったものが聞こえてくる。聞こえるはずのない音が聞こえる。体内を流れる保温剤の脈動が、メカニズム同士が接触するかすかな機械音が。これは何かの前兆なのか? 博士には聞けない。博士に聞いたならば、ここに至るまでの経過として、今までの出来事を全て話さないわけにはいかなくなるだろう。誰にも話せない。私一人の胸の中におさめておくべきものだ。
…永遠に。…誰にも話さずに。…記憶回路の奥深くに沈めて……。
消えることのない刻印は、いつまでも私を責め苛むだろう。それこそが私に対する罰。……多分、私は罰を欲している。罰を受けることによって救われたがっている。しかし、その一端なりとも彼らに背負わせてはならないのだ。私の愛するものたちに。私を愛してくれる人たちに。
……たった一人で。
……いつしか私の意識は闇に包まれていた。目を開けているのか閉じているのかすらも分からない。物音も聞こえない。いや、聞こえないのではない。理解が出来ないのだ。ただ、人の声が、物音が、耳に入る。それだけだ。視覚も嗅覚も、全て同じだった。自分が今どこにいるのかも分からない。分かりたいとも思わなかった。ただ、時間だけが過ぎてゆく。さっき、アベルが出ていってから、どれだけ時間が過ぎただろうか? 30秒? 5分? それとももう何日も経ったのか? 分からなかった、…それでもかまわなかった。
全てが闇に溶けてゆく…。
ドアの開く音。人の声。
「カイン? ……カイン? おい、カイン!? こっちを見ろよ! カイン! −−博士…博士! カインが…!」
足音が遠ざかり、再び近づいてくる。今度は二つになって。
「カイン、どうしたんだ?」
先刻とは違う声。私の顔の皮膚に、人の手のひらが触れる。
電極らしきものが私の額に張り付けられる。そして、人の声。同じ言葉を繰り返している。何度も何度も。
「カイン! 返事をしなさい、カイン!」
「カイン!? どうしたんだよ!」
何度も繰り返す言葉。カインカインカインカインカイン……。アクセス拒否…認識不能……。
「…駄目だ、聞こえてはいるだろうが、反応がない。回路の異常かもしれんが…」
「そんな……博士、何とかならないんですか!?」
「何とかしたいとは思う。だが、どうやら原因はカイン自身にあるらしい。視覚も聴覚も、五感全てに異常はない。だが、カイン自身が何も感じようとはしてないんだ。分析や判断を全く拒否しているらしい。多分…無意識にだろう」
「そんな……」
何かが手に触れた。生暖かい液体が、その上に流れた。
闇の中で時が流れる。止まることのない時間が……。カチカチと身体の奥で音がする。複雑な機械が、ミクロ単位の電導体が、時を刻むかのように音を立てる。その合間に、ゆるやかなリズムで液体の流れる音がする。波音のように、何かのメロディのように。至上の音楽だ。それだけが私の世界だ。時折聞こえる物音も、波の彼方のものでしかない。私を目覚めさせる力は持ってはいない。正確に時を刻む機械音が私をまどろませる。流れる液体が奏でる音楽が、刻んだ時の長さを忘れさせる。時は過ぎる、確実に。だが、過ぎた時は積み重ならない。それはただ、瞬間の存在でしかない…。
何度も何度も、同じ声が同じ言葉を告げる。
「カイン……目を覚ませよ…俺が聞いてやるから。何を聞いても驚いたりしないから……カイン…お願いだ……」
同じ声、同じ言葉。その繰り返しは、もはや私の内部の音楽の一部でしかない。
ドアの開く音。年老いた声。
「アベル、お客さんだ。−−−カインに」
「カインに? 誰?」
「はじめまして。ルナ…いえ、ディアナと言います。カインの……友人…です。−−−カイン!? カイン、どうしたの!?」
若い女の声。足音が近づく。
「カイン! あたしよ?」
「お嬢さん、無駄ですよ。何も聞こえていないんだ。いや……聞こえてはいるんだが…ちょっと説明が難しい状況でね。−−−そっちにいるのは、カインの弟のアベルです」
「どういうことなの? …こないだのけがが原因で?」
「ああ…いや、違う。原因は分からないんだが、とりあえず、けがのことは関係ないんだ。−−−彼のけがのことを知ってるのかい?」
「はい。−−−彼…話してないの? …分かりました……話します」
若い女の声が何かを話し始めた。時折、年老いた声と若い男の声が、質問を挟み、女がそれに答えながら、話は進んでゆく。
−−−あのときカインが……。
−−−ホセは銃を持ってて……。
−−−でも! 正当防衛だって……。
ホセが、カインが…聞いたことのあるような名前が幾度となく繰り返された。
若い男が聞く。
「じゃあ、その時カインは…?」
女が答える。
「そうよ。でも…カインは悪くない。あたしの…あたしのせいだ。あたしが彼の背中に逃げちゃったから…事故だったのよ、偶然だった…。今更、何を言っても遅いことは分かってる。でもあたしは言ってやりたいのよ。あんたは悪くないって。あんたは間違ってないって。そして、ありがとうって……」
女の声がそこで途切れた。女の最後の言葉に、一瞬、何かを感じたような気がしたが、その感覚は長くは続かなかった。聞き覚えのある女の声。最後の言葉は柔らかな響きで私の聴覚をくすぐった。だが、それきりだ。意味は分からない。聞こえない。……誰だ? 話しているのは誰だ? それを聞いているのは誰だ? そこで……泣いているのは誰だ? 何も見えない、何も聞こえない。そばにいてくれているのは誰だ?
再び女が話し出した。
「あたし……カインが好き…彼があたしにくれた言葉を…あたしは彼に返していなかった。今…今、ここで彼に言っても、きっと彼は聞いていないんでしょう? でも…」
女が近づく気配。耳元で女の声がした。
「カイン…好きよ……ありがとう、守ってくれて。−−−ねえ、どうして、最後にあたしの名前を呼んだの? 目を開けて。そして、あんたの瞳を見せて。あたし…あんたの瞳が好きだったの。明るい…きれいな、きれいなブルー。ねえ……? 覚えてる? あたしの名前……あのとき、あたしが言ったこと、覚えてる? ディアナよ。あんたにはその名前で呼んで欲しかったの。……ディアナって……」
ディアナ……ディア…ディアナ!? 不意に視界が明るくなった。そして、今まで、私の周囲で繰り広げられていた会話の数々も回路に飛び込んできた。…私は一切を理解した。
再び明るさを取り戻した視界の真ん中に、ディアナの顔があった。皮膚感覚の戻った肌に、ディアナの黒髪が触れる。ディアナの柔らかな吐息が耳をくすぐる。
「ディアナ……」
いつしか私は言葉を発していた。私のささやきに一番最初に反応したのはアベルだった。
「カイン…? 意識が戻ったのか!?」
私は目を見開いたままのディアナの肩に手を置くと、アベルと博士に目を向けた。
「ああ、思い出したよ。今まで自分が何をしていたのか。……博士、心配掛けて済みませんでした」
私の言葉に博士はただ、うなずくばかりだった。だが、その瞳は涙で潤んでいた。
私はディアナに目を戻した。
「ディアナ…ありがとう。君が僕を連れ戻してくれた。それに…あの言葉…僕を好きだって言うのは本当…?」
ディアナがうなずいた。何度も何度もうなずいた。潤んだ瞳で私を見つめる。だが、私は自分の身体のことを彼女に話していない。話さなければ。全てを。−−−多分、彼女は驚くだろう。困惑、狼狽、そして、嫌悪。彼女は黙ってこの部屋を出ていくだろう。言い訳くらいはするかも知れない。だが、そんなことはどうでもいい。彼女には真実を知る権利があるはずだ。……私は哀しみを覚えるだろうか…?
「ディアナ…君に話さなければいけないことがある。さっきの君の言葉…嬉しかった。だけど、僕が今から話すことを聞いて、君がこの部屋から逃げ出しても僕は君を責めたりはしない。それは君の自由だ」
私の言葉にディアナは首を振った。何かを言いかけようとしたが、私はそれを手で制した。
「聞いてくれ。僕は……人間じゃないんだ」
私の言葉の意味をとらえかねているディアナの後ろで、アベルが声を上げた。
「カイン! 何を……!?」
「いいんだ、アベル。彼女には…真実を伝えたい。−−−ディアナ、僕の言ってる意味が分かる? 僕は人間じゃないんだよ。宇宙人とかそういった類のものでもない。僕は…僕のこの身体は、生きていないんだ。機械なんだよ」
そう言って、私はディアナの表情を窺った。だが、彼女は無表情のままだ。きっと、信じられないんだろう。それでも……それが真実だ。私はかまわず、話を続けた。
「僕は、機械だ。この身体は…骨格は合金で、表面は人工細胞だ。そして、ここはコンピューター」
私は自分の頭を指さしてみせた。彼女は驚くだろう。泣き出すかも知れない。−−−だが、彼女は信じられないことをした。私に向かって微笑んでみせたのだ。
「−−−驚かないのかい?」
私の言葉に彼女はうなずいた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「知ってたわ」
微笑みと共に告げられたその言葉を、私は理解できなかった。
「…え? 知って…? だって、僕は……」
自分でも何を言うつもりか分からなかったが、とにかく何かを言いかけた私の口に彼女が指を当てた。そして、もう一度、さっきの言葉を繰り返す。
「知ってたのよ。…もちろん、最初からじゃなかったけど。あんたの目を見てね、ああ、どこかで見たことがある目だなって……。しばらくしてから思い出したんだ。いつだったか、お客さんに連れられて、どこかの研究所で、アンドロイドの試作品を見せてもらったのよ。人間そっくりで…そう、ちょうどあんたみたいに、何から何まで人間そっくりで。そのアンドロイドはあんたみたいには笑わなかったけど、目が同じだった。汚れてない、まっさらなきれいな瞳。−−−カインが笑ったり、あたしの肩を抱いてくれたりする度に、カインはやっぱり人間なんだって、そう思おうとしたけど、目を見ると分かっちゃうんだ。当たり前の人間が持ってる目じゃない。天使みたいな目。…それでも、たまに忘れそうになったわ。あんたがあんまり人間そっくりだから…ううん、人間以上に優しいから。だから、カインが話さなかったら、あたしはずっと忘れた振りをしていようと思ってたんだけど……」
ディアナが微笑んだ。−−−天使みたいな目、と彼女は言った。だが、私が天使なら、彼女は女神だ。その名の通り、私を闇から呼び戻してくれた救いの女神。
「ディアナ……君にそんなことを言われたら…決心が鈍るよ」
「決心? 何の?」
「それでも…やめるわけにわいかないんだ」
「だから、何の決心なの?」
私はディアナの問いには答えなかった。博士のほうを振り返って、言った。
「博士。私をただのコンピューターに戻してください。…回路を切って、音声識別の装置も、発声装置も取り外して、ただの機械に戻してください」
私は微笑んでいた。心からの願いだった。ディアナと会えなくなることは分かる。世の中の全てを自分の身体で感じることもなくなる。今こうして、考えている、私の意識。私という感情。せっかく芽生えたこの感情が消え去ることも分かる。それは、私にとって死に近いものだろう。……私はそれを望んでいた。
博士が驚いて声を上げた。
「何だと!? カイン、何を言ってるのか分かってるのか!? そんなことをしたら…回路を切るなど…どうなるか分かってるのか…?」
私はうなずいた。もとより、全てを分かった上での願いだった。
アベルは少し困惑したように、だが黙って聞いていた。
−−−私には他の道が見つからない。あのヴィジョンを持ったまま生きていくなど、人間のふりをしてディアナと共に生きようなど、そんな考えは持てない。何よりも、自分が耐えられない。そう、弱いのかもしれない。だが、誰かの屍を…そう、文字通り屍を、乗り越えて生きていくなんて、それが強さだというのなら、私はそんな強さを覚えたくはない。
「どうして…カイン……?」
ディアナは泣いていた。…私の決心は変わらなかった。
「−−−博士、分かったんです。私は所詮は機械だということが。人間とは決定的に違うことがある。……博士は気付きませんか? 脳の構造ですよ。どれだけプログラムを重ねても、どれだけの感情を覚えても、私の頭の中にあるのはただのコンピューターです。人間の脳ではありません。基礎が違うんです。……私は、人間になりたかった。でも、それは叶わぬ願いです。どんなに精巧な機械でもそれは生きていない。−−−歪みがでるんです。少しでも不合理を感じたら、そこから歪みが始まります。時を重ねるごとにその重みに耐えられなくなるんです。その重さに耐えるべき柔軟性がないんですよ。それはきっと人間の脳にしかない特殊なもので、私はいくらあがいてもそれを手に入れることが出来ないんです。−−−さっき、彼女から聞いたでしょう? 私は罪を犯しました。人を……殺しました。彼が死んだときのヴィジョンが私の記憶回路にインプットされています。深く刻み込まれていて、忘れたふりさえ出来ないんです。それを思い出す度に、大きなスパークが生まれるんです…。スパークを繰り返して、いつしか私は全ての感覚を遮断します。さっきまで、私がその状況にいたことは、博士もアベルもよく知っているでしょう」
博士がうろたえたように、口を開いた。
「カイン…カイン、事故だろう? おまえは自ら進んで罪を犯したわけじゃない。事故だよ…だから……だからそんなことを言うな…言わないでくれ。カイン…おまえが大切だ。おまえとアベルだけが今の私の生き甲斐なんだ……」
博士の目から涙がこぼれた。ここ数日の間に、急に老け込んでしまったようで、博士の目の周りには深い皺が刻まれていた。博士の哀しみは痛いほど分かる。だが、ここで博士の願いを聞き入れても、遠からず私の脳は内部から破壊されるだろう。意識と感情を機械の下に押し隠して、全てを遮断するだろう。そうなったら、ただのコンピューターに戻るよりもまだ悪い。
確かに…私は罰を受けたかった。相手がどんな人間であれ、その人間の命を…未来を奪ってしまった罰を受けたかった。だが、私の脳は……あるべき柔軟性を持たない機械たちは、私にそれを許してはくれない。感覚の遮断と思考の停止。止まった時間の中では、罰は罰として機能しない。そして徒(いたずら)に…無意味に周囲の人々を巻き込んでしまう。…罪を……重ねてしまう。ここにこうしている、ただそれだけで。
「博士…最初の頃……動き始めた頃、博士はこう言ってましたね。−−−自由と不自由は隣り合っていると。確かに今の私は自由です。ただの機械に戻れば不自由なのでしょう。それでも、それは外側だけの話です。このままでいたら私は、感情の自由を失うでしょう。あのヴィジョンを持ったまま生きてゆかねばならないとしたら、感情など邪魔になるだけです。痛みや苦しみ、そして哀しみ。人間のふりをしての生活の中で、ようやくそれを手に入れたというのに、今度はそれに縛られてゆくのです。そうなってからでは遅すぎます。今のうちに…まだ私の心が自由であるうちに……お願いします。私が狂う前に……」
私以外の全ての人たちはみんな、押し黙ってしまった。私の言葉に最初にうなずいてくれたのはアベルだった。
「博士。…俺も賛成です」
その言葉に博士が愕然として振り向いた。アベルの目を見つめて、声を出す。
「何…だって…!? アベル、おまえは平気なのか? おまえたちは…兄弟だろう!?その片方が死ぬと言ってるんだぞ? それを…どうしてだ!?」
「兄弟だから分かるんです。幸いにして、というか、俺はまだカインほどのスパークは感じていません。でも…それでも分かるんです。いつか自分が危なくなる瞬間が来るだろうと言うことは」
アベルの答えに博士は力無く首を振った。
「アベル……おまえは分かっていない…」
アベルが、耐えきれなくなったように声を上げる。
「分かっちゃいないのは博士のほうだ! 自分たちのことは他でもない、俺たちが一番よく分かっている! 俺だっていつどうなるか分からないんだ。…分かりますか? カインの姿は明日の俺かも知れない。……見えるはずのない火花が見えるんだ……時々、自分が危ないと思う。俺の回線の中で何かがショートしかける。その火花が目の裏に焼き付く。人工網膜の裏側から俺の目を射抜く。−−−そうやって…いつだってそうやって生きてきたんだ…。確かに、俺たちの生きてきた時間はまだ短い。…それでも、そういう瞬間は数え切れないほどあったんです。……そしてカインがこれまで以上のスパークを感じていて、しかもそれを乗り越えるすべを見つけられないとしたら…これ以上生き続けることは出来ないはずです。何よりも、俺たちの覚えた〈感情〉がそれに耐えられない!」
アベルの言葉はそのまま私の言葉だった。博士にはショックだろうと思いつつも、私もアベルの感情のたかぶりにつられたのか、自分の感情を抑えることが出来なくなっていた。
「博士…すみません……でも、そうなんです。アベルの言ったことは私の気持ちでもあります。もし、私がこのままでいたら、いつか回路は耐えきれなくなってショートするでしょう。…自分の回路がいつ切れるのか分からない。そんななかで生きてゆかなければいけないことが、どんな気持ちか分かりますか!? それでも……生きてゆけるのならそれでもいい。ですが、私にはそれすらもままならないんです。私が意識しなくても…無意識のうちに私の思考は停止するんです。感覚を遮断してしまうんです! 目覚めなければ……いっそ、眠ったままでいられたら…どんなに楽か…。そう、思います。目覚めを知らぬまま、ただの機械でいられたら……博士……私は…私は機械のままで…いたかった。感情を持たず、痛みを知らず……自分の歪みに怯えることを知らない機械でいたかったんです!」
「目覚めたくはなかったと……そう、言うのか?」
博士の声に私は首を振った。
「感情を覚えたことは…素晴らしかったと思います。それでも…人を殺しても…罪を犯しても、私にはその罰が与えられないんです。これ以上の罪を重ねるよりも……わがままなのは分かっています。確かに私は傲慢です。それでも…せめて私自身を白紙に戻すことを……。私に罰を……。−−−博士が悪いわけじゃない…それは分かっています。いつだって、私もアベルも、博士のためにデータをサーチして、会話を覚えて…博士に応えたかった…。だから…博士を責めることなんて出来ません。お願いします。……私を眠らせてください」
「私は……寂しかった…妻に先立たれ、子供もなく…たった一人で生きてゆくのがたとえようもなく寂しかったんだ。私の独り言に、おまえたちが答えてくれたときから、私はおまえたちが自分の子供のように思えて、もっといろいろなことを教えてやりたくて……。今…おまえは…おまえたちは、耐えられないと言う。人間の死を…覚えた哀しみや罪悪感を乗り越えられないと。私は、おまえたちを自分の子供のように思っている。子供を…自分の子供を喪う哀しみを…私に、耐えろと…そう、言うのか……?」
博士の涙が床にこぼれ落ちた。驚いたことに私の瞳からも涙がこぼれた。命を断とうという今になって、私は一番人間に近づけたような気がする。
「すみません……博士…すみません……許してください。博士を悲しませることを……そして、謝ることしかできなくて……すみません」
「……間違いだったのか? 全てが…最初から?」
博士が声を震わせた。私は首を振った。
「博士…後悔してますか? 私は後悔なんてしてません。結果だけが大事なんじゃない。私が、カインという名前を持った意志が生きていた、その事実があれば…。このボディをもらってから、8ヶ月。その間、私は幸せでした。それだけは確かです。多分、博士が感じてくれていた幸せと、私が感じていた幸せは、この8ヶ月…いえ、もっと以前から…私たちの間にありました。それは間違いなんかじゃありません。−−−博士、私は確かに幸せだったんです」
博士の後ろでアベルが微笑んだ。
「博士、まだ俺がいますよ。俺はまだ生きてゆけます。…俺がいます」
私は唇をかみしめたまま、ただ涙を流していたディアナを振り返った。
「…ディアナ……もう一度、キスしていいかい?」
ディアナがうなずく。手を伸ばす私に、一歩近づいて、彼女は両手で優しく私の頭を抱いた。
「カイン…これだけは忘れないで。あたしは、あなたが好き。…そして、あなたもあたしのことを好きでいてくれた。あの時、あたしを守ってくれたのはあなたの意志でしょう? それは…機械の…人工のものなんかじゃない。あなたの気持ちはあなただけのもの。それは、あたしが一番よく知ってる。…もう一度、あなたの瞳を見せて。…あたし、一生忘れないわ、この…きれいなブルーを…」
震える彼女の声に、私はゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
そうささやいて、私はゆっくりとディアナに口づけた。
−− エピローグ −−
「博士! 郵便、きてましたよ」
ディアナが研究所のドアを開けた。それをエドワーズが笑顔で迎える。
「ああ、ディアナ、ありがとう。今、コーヒーを入れていたんだが、一杯いかがかね?」
「ええ、いただきます」
ディアナは郵便物をテーブルの上に置きながら、ソファに腰を下ろした。エドワーズがコーヒーを運びながら口を開く。
「どうかね。美容師学校のほうは?」
「ええ、そろそろ3ヶ月になりますから、もうだいぶん慣れたけど。でもやっぱり大変」
「そうだろうな。昼間働きながらだろう? それにアパートで一人暮らしじゃ、経済的にも大変じゃないか?」
ディアナがうなずきながらも微笑んだ。
「でも、自分で決めたことですから」
その笑顔を見ながら、エドワーズはためらいがちに口を開いた。
「…どうかな……君さえ嫌じゃなかったら、ここで一緒に暮らさないか? 私も君のことは娘みたいに思っているし。−−−ここは…一人で暮らすには広すぎてね」
少し寂しそうに、エドワーズが呟いた。その言葉にディアナが驚きの声を上げた。
「いいんですか!? あたしも博士のことはお父さんみたいに思ってたんです。あたし…自分の父親って知らないから…もし、父親がいたらこんな感じかなって…こんな娘でもいいんですか?」
エドワーズはにっこりと微笑んで、何度もうなずいた。
「嬉しいよ、ディアナ。今度の休みにでも引っ越してくるといい。−−−やっぱりね、寂しいんだよ。カインが眠ってから半年後に、アベルも眠ってしまっただろう? もう、あれから一年も経つというのに、未だに寂しさには慣れないんだ。カインたちが目覚める前は一人でいたというのが信じられないよ…」
最後の言葉をエドワーズは悲しげに口にした。ディアナも同じ表情でうなずく。
エドワーズが軽く溜め息をついて、首を振る。そうして、思い切ったように顔を上げて微笑んでみせた。
「駄目だな。こんなんじゃ、カインとアベルに怒られてしまう。−−−そうだ、ディアナ、カインとアベルに挨拶するかい?」
「はい!」
ディアナも微笑んでうなずく。二人は研究室のドアを開けた。
研究室の片隅のデスクの上、二台のコンピューターが置かれている。
「カイン、ディアナガ、キテクレタヨ」
エドワーズがキーボードに打ち込んだ。かすかな機械音とともに、それに答えるメッセージが表示される。
「ディアナ、ヒサシブリデスネ。ゴキゲンイカガデスカ?」
「すごいわ! 会話が成り立つんですね?」
ディアナは無邪気にはしゃいで、カインとアベルのキーボードに触れては拙い会話を楽しんでいた。それをエドワーズが微笑みで見守る。
ふと、ディアナが思いついたように、キーボードを叩いた。
「カイン、アイシテル」
ディスプレイがそれに答える。
「−−−ニンシキフノウ。イミヲ、オシエテクダサイ」
ディアナは悲しげに微笑んだ。が、大きく息を吸うと、すぐににっこりと笑顔を見せた。
「ソレハ、コンドオシエテアゲル。ライゲツカラ、アタシモココデ、クラスカラ」
「ソレハイイ。マイニチ、アエマスネ」
ディアナの目にはその文字が、嬉しそうに微笑んでいるように見えた。
−−−ディスプレイの文字は明るいブルーだった。
── 了 ──
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