記憶回路


−− 3 −−


 日が経つにつれ、仕事にもだんだんと慣れてきた。それと同時に、他のことに目を向ける余裕も出てくる。店長と世間話をし、道行く人に目を向ける。そして、ふと何かを期待している自分に気付く。−−−私はいつの間にか、ルナの姿を通りの中に捜していた。
 私が、店の外の看板を掃除していたときのことである。
「ちょっと」
 聞いたことのある声が、私の背中に反射した。この声は……。
「ちょっと、聞いてるの?」
 振り向いた私の瞳に、ルナの姿が映った。瞬間、体温が上昇したような気がする。
「あ、ああ……何でしょう?」
 戸惑いながらの返事に、ルナが笑った。
「なに、敬語使ってんのよ? あんたんとこの客でさ、ホセっているでしょう? ほら、デカイ体つきで、赤ら顔の奴。今日はどこの店にいるのか知らない?」
「あ、いえ。私は開店までの間だけのバイトですから、お客さんのことは…」
 私はありのままに答えた。ルナは、少しがっかりしたように溜め息をついた。
「そっか……じゃ、他あたってみるかな?」
「常連さんのことでしたら、店長に聞いたら何か分かるかもしれませんけど?」
「いいわ、フィルの顔は見たくないのよ」
 その言葉で、私は先日の言い争いを思い出した。と、同時にルナの職業も思い出した。ホセと言うのも彼女の客の一人だろうか? それとも、他の用で彼を捜しているのだろうか? −−−いや、それよりもなぜ、私はこんなにも彼女のことが気に掛かるのだろう? 彼女を気に掛ける理由はないはずだ。
「ねえ、あんた、名前は?」
 私の思考の中に、突然、彼女の声が飛び込んできた。慌てて振り向く。
「え? ……名前? あ、ああ、カインです。カイン・エドワーズ」
「そう、カインね。あたしはルナ。このあたりで仕事してるわ。天国に行きたくなったら、声掛けてよ。あんたなら安くしとくわ。…だって、あんたの顔、わりと好みだからさ」
 それだけ言うと、彼女は背中を向けた。雑踏の中に消えてゆく彼女の後ろ姿を見ながら、私はまたしても、説明の付かない感情にとらわれていた。体温の上昇と、大きな喜び、そして微妙な緊張感。これは……何だろう?
 その答えは店長が教えてくれた。いつまでもルナの後ろ姿を目で追っていた私に、店長が背後から声を掛けたのだ。
「やっぱり、あの娘に惚れてんじゃねえか」
「−−−え? い、いえ、そんな……」
 惚れるというのは、恋愛の対象に、という意味だったはずだ。機械が人間に恋をするなどとは……。人間に近づきたいとは思っている。博士のことは、別の感情として愛している。アベルも同じだ。だが、恋愛の対象で、となると話は違う。
 だが、店長は意味ありげな笑いを見せた。
「まあ、隠すなって。誰が見たって分かることじゃねえか。顔は赤いしよ、心底幸せそうな顔してるぜ? ……それでも違うってんなら、おめえが気付いてねえだけだな」
「そう…ですか……?」
「…ったく、おめえはつくづく世間知らずだなあ。ま、だからあんな娘にイカレちまったんだろうがな。……あんまり深みにはまるなよ」
 そう言って、店長は店の中に戻っていった。
 私は、掃除の途中だった看板をもう一度磨き始めた。
 −−−私が? ルナを? 分からない。ただ、人間としての彼女には興味がある。どうすれば、あんな、あふれるほどのエネルギーを持続させていられるのだろうか? 彼女の中の何がそうさせるのか、知りたい気はする。だが…恋愛対象だって? 物語の中に出てきた状況が、自分の身に起こるなんて……しかも私は、コンピューターに過ぎないのに…。だが、もう一度ルナに会いたいというのも抑えきれない感情だった。
 その願いは叶えられた。しかも、信じられないことに、ルナの方から私に会いに来てくれたのである。
 二度目の出会いから一週間後、仕事を終えて裏口から店を出た私の目の前に、彼女が立っていた。光の射さない路地裏の、薄汚れた壁によりかかって、彼女は煙草を吸っていた。波打つ黒髪が、胸元にかかる。彼女の姿を見た途端、考える暇もなく、身体全体のエネルギーが顔に集中した。多分、私の顔は赤くなっていただろう。
「久しぶり、カイン」
 そう言って彼女は微笑んだ。私は声が出せなかった。音声機能が麻痺したかのように。
「そろそろ仕事が終わる頃だと思って、ここで待ってたのよ」
「また…誰かを捜してるんですか?」
 私はようやく声を絞り出した。彼女はそんな私を見て、笑いながら言う。
「………捜してたのはあんたよ」
「私を?」
 彼女はうなずいた。
「そう、あんたを。−−−別に、用事はないんだけどね、なんとなく顔が見たくなって」
「どうして…? 私を…?」
「だって…あんた、幸せそうなんだもん。なんていうか…子供みたいな顔をしてさ。あたし、最近……ちょっと疲れててさ、そんなときに、突然、あんたの顔思い出して…。ふふ……ヘンだよね、まだ二回しか会ったことないのに。それも、ちょっとしか話してないのにさ。−−−ねえ? 時間ある?」
 彼女は、吸いかけの煙草を落として、足で踏み消すと、顔を上げた。
「少し、付き合ってくれない?」
「……どこへですか?」
「どこでもいいわ。あんたの好きなところでいい。でも…そうね、出来れば少し、一緒に歩かない?」
 私には彼女の真意がつかめなかった。私に興味が? 信じられない。だが、彼女の言葉は嬉しかった。彼女の住所も、フルネームさえ知らなかった私は、自分から行動を起こすことが出来なかった。もし住所を知っていたとしても、そんな気は起こさなかっただろうが。だが、もしも偶然に彼女ともう一度出会えたら……。毎日、そんな偶然を期待していた。そして、今日。偶然ではなく、必然として、彼女の方から私に会いに来てくれた。私には、彼女の誘いが断れなかった。……断ろうという気さえ起こらなかった。 私は彼女の言葉に、無言でうなずいた。彼女は嬉しそうに笑った。その笑い方は、彼女を随分と幼く見せた。実際、私が思っているよりも彼女は若いのかも知れない。
「そう、よかった。じゃ」
 彼女は笑いながら、細い腕を私の腕に絡めてきた。
 夜の風は、随分と冷たいはずなのに、私はいっこうにその寒さを感じなかった。それどころか、額にうっすらと汗が浮かぶ始末だ。これは代謝機能の異常でも何でもなく、私がルナに何らかの特別な感情を持っていることの証明だろう。自分の中にある感情を認めたとき、私は初めてルナの美しさに気がついた。強い生の輝きだけではなく、豊かな黒髪も、大きな黒い瞳も、少し浅黒い滑らかな肌も。何もかもが美しく見えた。
 私の視線に気がついたのか、今まで前を向いていたルナが、顔を上げた。その黒い瞳で私を見つめる。目をそらせなかった。引きつけられるように、私はその黒い宝石を見つめていた。
「何見てるの?」
 紅く彩られた唇にそう言われて、私はふと我に返った。急に気恥ずかしくなって、目をそらす。
「い、いや…ごめん……」
「やだ、何で謝るのよ? 悪いことしてたわけでもないのに。−−−ねえ、おなかすかない? どっかで食事しよ」
 そう言って彼女は私の腕をひいた。
 彼女の行きつけだというレストランに着いたのは10分も歩いた頃だろうか。本当のところ、私には分からなかった。彼女の黒髪が風に揺れる度に、形のいい唇が言葉を発する度に、私は時間の感覚を失っていった。
 壁際の席について、料理を注文する。上品とはほど遠い雰囲気の店の中には、種種雑多な人間がごった返していた。労働者風の男たちや、アルバイトに疲れ果てたような学生、そして、おそらくはルナと同じ職業であろう女たち。生活することに疲れ、嫌気がさしながらも、生きることをやめない人たちだった。そこには紛れもなく〈人間〉がいた。
 運ばれてきた料理と、ビールのグラスに交互に口を付けながら、ルナは私を見つめていた。その視線に気がついて、私は思わず顔を伏せた。と、それを合図としたかのように、彼女が口を開く。
「……ねえ、迷惑だった?」
 私は黙って首を振った。迷惑なんかであるものか。彼女は安心したように言葉を続ける。
「そう、よかった。……今日、さ…仕事で嫌なことがあってね。…ほら、何日か前にあたしがホセって男捜してたの覚えてる? あいつね、嫌な奴なのよ。ほんとなら相手にしたくないんだけど、あいつ、金払いいいからさ。つい…ね。あいつ、普段はすごく地味な奴なの。地味っていうか…すごくおどおどしてて、周りの顔色ばかりうかがってるような奴。でもね、ベッドの中じゃ違うのよ。無理矢理自分を爆発させるみたいに、わざと乱暴に振る舞うの。でもそのうち、普段のあいつが出てきてね……泣くのよ。…大の男が、声あげて泣くのよ。……ひとしきり泣いたら、黙って金置いて帰るんだけど。なんか、不気味で、近づきたくないんだよね……」
 そこで、ふと彼女は言葉を切った。小さく溜め息をついて、また話し始める。私は黙って彼女の話を聞いていた。
「今日もね……今日も、昼間、ホセが来たのよ。そして、コトの真っ最中にいきなり起きあがってさ、わめき始めたの。『どいつもこいつもバカにしやがって!』って。あたしはバカになんてしてないって、そう言ったら、あいつは頭かきむしって、叫ぶのよ。『おまえも俺をバカにしてる。おまえみたいな商売女にバカにされる筋合いはない』って。あたし、言い返せなかった。言い返したかったんだけど…。それでも、ホセがばらまいた金を拾い集めちゃうんだよ。そんな金、拾いたくないのに…拾っちゃうんだよね……。それが仕事なんだからって、言ってしまうのは簡単だけど…その瞬間、すごく自分が……何て言うか…惨めに思えて……」
 彼女がうつむいた。泣いているのかと思ったが、すぐに顔を上げた彼女の頬には涙の跡はなかった。
「ごめんね…あたし、仕事のことでグチったことないのにさ。今日、ホセが帰った後、急に……何でか知らないけど、あんたの顔思い出してさ」
「私は……僕は、ずっと君に会いたかった。会いに行こうにも名前しか知らなかったし、なんだか会いに行く理由もないような気がして……。でも、嬉しいよ。僕の顔を思い出してくれて」
「ほんとに? あたしはただグチってるだけなのに?」
 ルナが微笑んだ。私は大きくうなずいた。
「愚痴を聞くことで、君のそばにいられるならね。ルナ…僕は、君が好きだ」
 ルナが目をむいた。私自身も驚いた。こんなこと言うつもりじゃなかったのに…。だが、言わずにはいられなかった。何かに押されるように私は、その言葉を口にしていた。まるで何かの呪文のように。
「……ありがと…嘘でも嬉しいよ。あたしさ、そういうこと言われたのって、生まれて初めてなんだ。あたし…親いないのよ。…あたしが生まれる前に、あたしの親父は、あたしと母親を捨ててった。そして、あたしが3つの時に、母親はあたしを捨てた。でも…あたしはマトモな人間になりたかったんだ……」
 最後の言葉を、囁くように彼女は口にした。多分、彼女のような生い立ちを持つ人間は、この街には数え切れないほどいるだろう。そういった話は、通りを歩く人波の中に、いくらでも転がっている。だが、私の耳には彼女の言葉が、奇妙なリアリティを持って響いた。−−−それはきっと彼女の瞳のせいだろう。何かを訴えるような、何かを見透かすような、そんな黒い瞳。この瞳の前で、一体何人の人間が、平気で嘘をつけるだろうか。
「嘘じゃない」
 私はゆっくりと口を開いた。
「嘘じゃないんだ。僕は君のことが好きだ。君さえ良ければ、これからも時々会ってほしいんだけど……」
 彼女は半信半疑の表情のまま、うなずいた。
 そして、私たちはお互いにとりとめのない会話を交わしながら、食事を再開した。
 店を出て、一歩先を歩いていた彼女が、突然振り返って、言った。
「あたしね、まだ諦めてないんだ。今はまだこんなことやってっけどさ、いつかマトモな人間になるよ。あんたみたいにさ。−−−じゃあね!」
 それだけ言うと、彼女は夜の道を駆けだしていった。少し先で立ち止まって、私に向かって手を振っている。手を振り返すと、彼女は口に手を当てて、何かを叫んだ。風に乗ってかすかに響いた彼女の言葉をとらえた時にはもう、彼女の姿は見えなくなっていた。
 −−−また明日。
 彼女の残した言葉をかみしめながら、私も家路についた。


   
           
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