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記憶回路
−− 2 −−
博士の許可を得てから、私たちは外界について勉強をした。いろいろな人種のこと、経済や交通についてのシステム、それらが全て、これからの生活の基礎になるのかと思うと、自然に覚えるのも早くなった。
最初の一週間は、博士が一緒にまわってくれた。書物による知識を実際のものとするまで、そう時間はかからなかった。まもなく私たちは二人だけで出かけるようになった。そして、動き始めてから3ヶ月が経った頃には、一人ずつの外出も出来るようになっていた。
「じゃあ、行って来る」
そう言い残して、アベルが出ていった。もう単独行動にもすっかり慣れた頃である。
「アベルはどこへ出かけたのかな?」
博士が訊いた。
「多分、仕事でしょう。最近、友人と一緒にアルバイトを始めたと言ってましたから」
「アルバイトだって? なぜ、そんな……? 金が不足なら私が……」
博士が困ったように呟いた。だが、私にはアベルの気持ちが分かる。
「博士、私たちはこれ以上博士に面倒を掛けたくないんです。私たちは、人間と同じように働いて、収入を得ることが出来るようになったのですから。−−−実は、私も以前から考えていたんです。何か、私の出来る範囲で収入が得られないかと。そうしたら、博士のお手伝いができますから。博士の研究は、政府から援助を受けていない。お金は、邪魔になるものではありませんよ。それに……嬉しいんです。博士の役に立てることが。どんな形であれ、自分たちが少しでも役立つことが…」 本心だった。どんな形でもいい、博士に愛を返したかった。
「そうか……まあ、止めはしない。で? おまえはどんな仕事を考えている?」
「ええ……決まったらお知らせしますよ。では私も出かけてきます。夕方までには戻りますから」
うなずく博士を残して、私は街に出た。
もう慣れたとは言え、街の雑踏は相変わらず凄まじい。油断すると、どんどん流されてしまう。一瞬でも気を抜くと、街のエネルギーに飲み込まれそうになるのが分かる。これが、人間のパワーなのだろう。限られた生命を精一杯に生きようとしている人間たちの、際限ないエネルギーなのだろう。
私は事前に張り紙をチェックしてあった書店に行ってみた。だがそこではもう、別の人間を雇っていた。仕方が無く、私は酒場へと足を向けた。そこも、アルバイトを募集していたはずだ。確か仕事の内容は、酒場の開店準備だけだから、夜は遅くはならないだろう。
酒場のアルバイトは、驚くほど簡単に決まった。身元証明も何も要らない。ただ、名前を言うだけでよかった。本当は名前も言わなくてもよかったのかも知れない。聞かれもしないのに私が勝手に喋っただけなのだから。
−−−案の定、仕事は簡単なものだった。昼頃から夕方の開店前までの、ほんの5時間ほどの仕事だった。今日からでも、ということだったので、さっそく私は働き始めた。
「おい、そこの、カインとか言ったな。こっちに来い!」
店長に呼ばれて、店の裏口に行くと、そこには山積みの木箱があった。どうやら酒瓶が入っているらしい。
「これを、向こうにある倉庫まで運ぶんだ。落とすんじゃないぞ、割れるからな」
「はい、分かりました」
答えて、私は木箱に手を掛けた。軽く持ち上げてみる。約25キログラム。これならば3箱は軽くもてるだろう。
私は3段ほど重ねて持つと、倉庫へ向けて歩き始めた。と、そこで、店の中に消えたはずの店長がいきなり顔を出した。
「おい、それ、結構重いから……」
言葉が途切れた。何を言おうとしたのだろう? 私は荷物を抱えたまま振り向いた。店長の呆然とした顔がそこにあった。
「何か? 店長?」
「い、いや…いいんだ。……持てるのか…」
首をひねりながら、裏口のドアを閉める店長の独り言が私の耳に届いた。
「あいつ…あんな生っちろい腕で……ぶっ倒れなきゃいいが……意外と鍛えてるのかもしれんな」
そうか。私のような体つきの男が、この重さを軽々と持ってはいけないらしい。だが、今更印象を変えることは、よけいな疑いを増やすだけだ。見かけによらず力持ち、そんな印象を持たれたのなら、それに合わせよう。
木箱は全部で19箱。3つずつ運べば、2時間もかからずに終わるだろう。どうやら最初の仕事に関しては何も問題を起こさずに済みそうだ。これまでの展開を見ると、私を人間だと信じて疑っていない様子だし。
倉庫と裏口の間を、何度往復した頃だろうか。いきなり、目の前に人影が現れた。
「ちょっと、フィルは? どこ?」
女だった。まだ若い。小柄で、少し浅黒い肌をしている。黒い髪と、それよりも黒い大きな瞳。大きく開いた襟から、胸の谷間が見え隠れする。
「フィル………?」
少なくとも、私の記憶の中にはない名前だった。私が首をかしげていると、女は苛立ったように細い足を踏みならした。
「フィルよ。フィリップ・ウォルシュ。ここの店長よ! あんた、頭弱いの!?」
「あ、すみません。雇われたばかりなので……。店長なら中にいますよ」
「初めっから、そう言えばいいのよ!」
つん、と鼻を上に向けて、女は中に入っていった。緩いウェーブのかかった長い髪が、風に揺れる。−−−彼女を綺麗だと思った。彼女が持っているだろう強さを羨ましく思った。眩しいほどのエネルギーを、彼女は放っている。そんな人間を見たことはなかった。
残りの木箱を運びながらも、私は彼女のことを考えていた。−−−何という名前なのだろう? 住所は? 仕事は? 想像は果てしなく続いた。私は夢うつつのまま、木箱を運び続け、ふと気づいたときにはもう運ぶものはなくなっていた。……次は何をすればいいのだろうか?
私は裏口から店の中に入っていった。
「すいませ……」
「何よ! 金がないくせに、あんな事したわけ!? こっちは貧乏人相手にしてるほどヒマじゃないのよ!!」
私がドアを開けた瞬間、罵声が飛び出してきた。すぐに先刻の女性のものだと分かった。
店長がそれに怒鳴り返す。
「何だと!? 金ならあの晩払ったじゃねえか、今更言いがかりつけんのはよしてくれ!」
「だから、あんなハシタ金じゃあ足りないって言ってんだよ! あんた、足りない分は店に取りに来いって言ったじゃないか!」
どうやら二人は言い争いをしているらしい。だが原因は何なのだろうか。どちらにしろ、私がこの現場を見てしまった以上、割って入るのが筋というものなのだろう。
「あ…あの…お二人とも、落ち着いてください。口論の原因は何でしょうか?」
が、二人の耳には届かなかったようだ。
「偉そうな口叩くんじゃねえ! このズベ公が! 出るとこ出たっていいんだぜ、困るのはてめえじゃねえのか?」
店長の言葉に、女は黙ってしまった。唇を噛んで店長をにらみつける。
「分かったよ! その代わり、もう二度とあたしに声かけんじゃないよ! あんたみたいな貧乏人、誰が相手にするもんか!! 売春婦に払う金が惜しけりゃ、死ぬまでマスかいてやがれ!」
そう言い捨てると、女はツカツカと私の方へ歩いてきた。そのまま、私には目もくれずに横をすり抜けて裏口から姿を消した。安物の香水の匂いに混じって、女の汗の匂いがした。生き物の匂いだった。今の言い争いの最中といい、肩で風を切って歩き去る姿といい、全てが強い生気を放っていた。荒削りではあるが、情熱的な……ルビーの原石のような女だった。
「なんだい、もう終わったのかい?」
消えてしまった女の残像を見ていた私に、店長が声を掛けた。慌てて我に返る。
「あ、はい。全部運び終わりましたが、次は何をしましょうか?」
「ああ、じゃあ、そこのテーブルを端に寄せて、床にモップを掛けてくれ」
「はい」
店長は、テーブルを運ぶ私の背中を見ながら、椅子に腰を下ろして、煙草に火をつけた。
「おまえさん、学生か?」
「いえ、違います」
じゃあ、何だと訊かれたら何と答えたらいいんだろう? その答えは考えていなかった。
が、ありがたいことに店長はそれ以上訊かなかった。そこで、私は話の矛先をそらそうと、さっきの娘のことを訊いてみた。
「あの、店長? さっきの女の子は?」
「ああ、ルナか。−−−なんだ、おめえ、ああいうのが好みか?」
「ち、違いますよ! …ただ、どんな子なのかなって……」
何だろう、今の感情は? さっきの女の子のことを言われたとき、体温が上昇したような……。彼女が脇をすり抜けたときの、残り香がまだ漂っているようだ。
「悪いことは言わねえ。あの女はやめとけ。あいつはここらを根城にしてる娼婦だよ。まあ、一晩の相手くらいにはなるがな。どうせマトモな女じゃねえよ」
「彼女は…〈マトモ〉じゃないんですか?」
「売春婦にマトモな女はいねえよ」
売春婦……その単語は聞いたことがある。確か、体を売って金を稼ぐ女たち。だが、それのどこがいけない? 社会のモラルに反するのか? それでも、彼女たちの商売は成立している。と、いうことは、需要があるせいだ。ここの店長を初めとする、世の中の男たちに求められている。
−−−それにしても人間というものは時折、理解に苦しむ反応を示すものだ。自分たちが必要として作り出したものを、後になってから、モラルだの人間の尊厳だの、言い訳をつけて非難する。非難される側も、それを承知しているはずなのに、あえてそちら側にいる。中途半端なプライドしかないのなら、やっていられないだろうに……。ルナも、その一人なのか…。
「ルナというのは、本名ですか?」
私は店長に尋ねた。何となく彼女のイメージとそぐわないような気がしたからだ。
「さあ、知らんな。ただ、ここらじゃルナで通ってるよ」
「そう…ですか……」
私は、自分の中に落胆の感情が現れたことに驚いていた。何を期待していたというのだろうか? 最近、自分でも気付かないうちに感情が現れる。コントロールなどということを考える余裕もないうちに、表に出てしまっている。それにつれて、自然に表情も変わっていた。そう、まるで人間のように。
夜になる前に私は帰宅した。アベルの方が先に帰っていたようで、夕食を済ませたらしい博士と、お茶を飲んでいた。心なしか興奮した様子で、博士と話している。
「ああ、お帰り」
私がドアを開けたのに気がついて、博士が振り向いた。 「ただいま。アベルの方が早かったみたいですね」
私の言葉にアベルが答えた。
「ああ、でも、早いといってもほんの30分くらいの差だけどね。−−−仕事、決まったの?」
「まあね。あまり自慢できる仕事じゃないけど。酒場の開店準備なんだ。でも、店長はとてもいい人みたいだ」
その言葉に安心したように、博士が微笑んだ。アベルもうなずきながら、私のためのお茶を入れている。私は、博士の隣に腰掛けた。
「そうかそうか、それは良かった。アベルもどうやらいい仕事を見つけたらしいし。自分の子供が成長していく様を見るのが、こんなに楽しいものだとは思わなかったよ」
アベルが私の前にお茶を置いた。機械とはいえ、私とアベルは水分の補給が必要だ。水分がなくても、動くことは出来るのだが、汗や涙が出なくなる。人工皮膚の湿度を保つためにも、水分はあった方がいい。
私はお茶を飲みながら、アベルの仕事のことを聞いてみた。
「アベルは? 新しい仕事はどうだった?」
アベルは、テーブルに身を乗り出して話し始めた。早く話したくて仕方がなかったのだろう。
「それがさ、聞いてくれよ。俺、働くのがあんなに楽しいものだとは思わなかったんだ」
一人ずつ、外出するようになってから、私たちの性格の違いは一段とはっきりしてきた。それは言葉遣いにも現れていた。多分、接する人間たちの影響だろう。
アベルは、幾分興奮した様子で続けた。
「俺、ビルの窓拭きを始めたんだけど、おもしろいんだよ。ビルの中で働いてる人たちがたくさん見えるし、その中で、俺に笑い掛けてくれる人もいたんだ! ご苦労様って! それに、終わって下に降りると、監督が、初めてにしちゃきれいに拭けたなって、褒めてくれたんだ。……俺さ、何ていうか…すごく……嬉しかったんだよ。俺でも働けるって分かって。人間のために、働けたって。それに、俺のした仕事を評価してくれるなんて……」
その気持ちは、私にも痛いほど分かった。私も同じだったからだ。今日、一日の仕事の終わりに、店長は私の肩を叩いて、こう言った。『この調子で明日も頑張ってくれ』と。自分に対する評価が、これ程嬉しいものだとは知らなかった。博士の評価ももちろん、嬉しいが、他人の評価はまた違う。個人が個人に対し、先入観や愛情とは無関係のところで与えられる評価だからだ。自分が個人として認められた、そんな嬉しさ。
私たちの嬉しさが伝わったのか、博士もとても幸せそうだった。口元に優しい微笑みを浮かべ、何度も何度もうなずいていた。とても満ち足りた表情をしている。アベルもそうだった。多分、私も同じなのだろう。二人を見ていて、私は気がついた。喜びを分かち合う相手がいることは、その喜びを何倍にも大きくするものなのだという事に……。
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