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◆ つがい ◆
シキの説明が終わる頃には、俺の髪もスエの髪も、とうに乾ききっていた。
インディス何とかという会社が、開発していたのは、純粋な人間の遺伝子を別のものに組み込むことらしい。それでいろんなことを調べられるとか、ついでに、純粋な人間としては次代につなげない命も、分割して他のものに運ばせることで、将来に期待することが出来るとか何とか。
……よくわからない。どういう意味なのかがわからない。
「うん…ええと…説明するとね。今生きてる人間は、純粋な人間とは違うってことは、少し前に話したよね? 覚えてる?」
「強くなるようにプログラムを書き換えたあげくに、“大災害”で環境が変わったせいで逆に弱くなって…しかも、書き換えすぎて元には戻せなくなった…とか言ってた…?」
まだうっすらと記憶には残っている。プログラムとして例える話なら、少しは理解しやすいせいなのかもしれない。
「そう、それだよ。純粋な人間の遺伝子は、残ってる。少なくともそのデータは。ただし、“大災害”前の、純粋な人間は、人間として生きてはいない。まだ、そこまで遺伝子操作された人間は生まれていないんだ。…例えば、赤い花を作りたいとする。手元にはピンクの花しかない。そんな時は…どうする?」
いきなり、関係のない問いかけをする。そんなシキに、スエが苛立ったようにソファの背を叩く。
「ンなこと知るかよ。ピンクじゃピンクしか作れねえじゃん」
「それがね…そうでもないんだ。ピンクの花とピンクの花を掛け合わせる。そうしたら、次の世代に生まれるのは殆どがピンクだ。でも、時々、濃いピンクや淡いピンクが生まれる。遺伝子のどの部分を受け継ぐか、どういう割合で受け継ぐか…その違いさ。濃いピンクが生まれれば、濃いピンクと濃いピンクを掛け合わせていく。そうやって、どんどん赤に近づける。それを人工的に操作するのが、遺伝子操作だ。受け継ぐ遺伝子を人工的に選択させる。偶然のものを必然に。花を赤くさせる働きをもつものが手元にあれば尚更確実だ。そうだろう? 今の人間たちはピンクの花だ。そして純粋な人間は赤い花。花を赤くさせる要素が、純粋な人間の遺伝子だと…そう考えればいい」
「それが…ジーンと関係あることなのか?」
俺の言葉に、シキがうなずいた。
「ああ。ジーンには…人間の……純粋な人間の遺伝子が組み込まれてる。人間に、生殖に関わるような遺伝子操作をするのは禁止されてるから、植物という形態を選択した。僕が、“中央”で免許を剥奪されたのは、人間の遺伝子を直接いじろうとしたのが原因だ。今生きている人間たちが命を落とす大きな原因のひとつは、先天的な病気が主だよ。それは、“大災害”前に書き換えられた遺伝子が殆どの原因だ。純粋な人間であればかかるはずのない病気。だから、今の人間を純粋な人間に近づけることが出来れば、病気そのものが発生しなくなる。病気も、先天的な障害も。…個人を治療することよりも、種族全体を治療したかった。だから僕は、患者の了解を得て、患者たちに遺伝子治療をした。……うまくいかなかったけどね。それでも、どうせ自分の病気は治らないなら…と、患者たちは了解してくれてたんだけど。倫理がどうとか人権がどうとか……そんなものは、クソくらえだ」
そう言い捨てて、それでも微笑んだシキの顔はやっぱり人が善さそうに見える。
「人間にはやっちゃいけないから、ジーンに…えっと、遺伝子操作とかをやった…ってのか?」
スエの言葉にうなずくシキ。
「そうだよ。花の例えと同じさ。少しずつ人間の遺伝子の割合を、花の中に増やしていくんだ。ジーンにどの程度の割合が含まれているのかは知らない。ただ、ジーンは…おそらく……半分以上は人間だ。あの形状以外はね。掛け合わせて掛け合わせて…少しずつ人間の割合を増やしていく。人間に似たものが出来上がる。そしてそこから完全な人間を生み出そうとする。生殖を行う時には、遺伝子レベルでしっかりと監視してね。……脆く、壊れやすい箱があるとする。その中に、同じように壊れやすい遺伝子を綺麗に並べなくちゃいけない。でも、人間の手でそれをやれば、入れ物か遺伝子か…どちらかが壊れてしまう。それほどに脆いものだから」
「だから…? だから、入れやすい入れ物に、入れやすい遺伝子だけを入れて、後は人間の手じゃなくて、その入れ物同士に任せりゃいい…ってことなのか?」
眉をひそめてスエが言う。
「そう。その通りだよ。入れ物同士が融合する時に、少しだけ人間が手を貸してやる。そうすれば、必要な遺伝子が、融合した時のショックで弾き出されることは少なくなる。その繰り返しだ。繰り返して、必要な遺伝子の割合を高めていく。……気の遠くなる作業だ。だから僕は、そんな作業が待てなかった。直接、人間にそれをやろうとした。…取り上げられたけどね。それでも、あと少しのところまでいってたんだよ。今の人間の遺伝子と、純粋な人間の遺伝子と…違うところを比較して、今の人間を弱めてる遺伝子を取り替えられるように…その遺伝子を特定するところまでは辿り着いていた。…僕が所属していたのは、インディス・プラントだ。…多分、君たちが盗み出したのは、僕が特定した遺伝子を別の形に変えてデータにしたものだと思う。そして、それを植物という形の実験体に埋め込んだものがジーンだ。…僕がインディス・プラントに所属していた時も、すでにジーンの原型は出来ていたよ。今のような形じゃなかった。もっと…サボテンのようなものだった。花すら咲かないものだった。掛け合わせて繰り返して…僕があそこを出て五年以上だ。形が随分と変わっていても不思議じゃない」
……匂いが…する。甘い匂いだ。これはジーンの香り。ジーンは捨てた。屋上から転がして、そうして地面に叩きつけられたはずだ。折れた葉も潰れた花も想像できる。なのに、どうして今、ジーンの香りが空気に混ざっている?
…手が震える。指先から血の気が引いていく。下腹の奥に何かが湧き上がる。シャワーを浴びたばかりの背中に汗が伝う。その汗は…何故かひどく冷たい。
キッチンのテーブルに半分寄りかかるように、半分だけ尻をのせていたはずだ。片足は床に片足は空中に。なのに、床についているはずの足に、その感覚がない。
「わかるようなわかんねえような…なんで、おまえはジーンを探してんだ? まどろっこしい方法だと思ったんだろ? なのにどうしてそんなに慌てて探してる?」
スエがそう尋ねる声がなんだか遠くに聞こえる。胸に広がる、かすかな嘔吐感。
「セトにハッキングしてもらったデータは…もともとはリーマシーのデータだ。共同研究の名目で、医療機関に提供されたデータだよ。インディス・プラントのデータは僕が昔のパスワードを使って盗んできた。その二つを分析して…そして僕が今、研究してる…セトのような症状の原因になる遺伝子が、既に“中央”では特定されてることがわかった。そして、その遺伝子は…ジーンに組み込まれている」
「なら、ジーンをどうにかすりゃ、セトの病気が治るってのか!?」
「……違うんだ、スエ。落ち着いてくれ。…ジーンだけじゃ駄目なんだ。ジーンともう一つ…対になってる種がなかったかい?」
「対に……ああ…あった。種は二つ…並んでた」
「それだよ。ジーンとそのひとつは…つがいだ。二つとも、RNAの状態でしか、それを持っていない。DNAの状態にするには、二つが結ばれないと…そう、生殖して子供が生まれないと駄目なんだ。その子供には、それがDNAとして残る。別のRNAと一緒にね。そうして、少しずつ少しずつ掛け合わせていくんだから」
二つで一つだったから、だから一緒に育つはずだった。だから、彼がいないと子供が作れない…ああ、そうか。ジーン、君が言っていた意味がわかった。
甘い香りが、ジーンの言葉を蘇らせる。捨てたはずなのに、甘い香りが部屋に満ちる。いや、満ちているのは部屋の中にじゃない。俺の…俺の体の中に。
「RNAってのは何だよ。それにDNAってのも。……難しい言葉使うな」
「遺伝情報のことだよ。DNAの中に遺伝情報が組み込まれている。通常のDNAは、二重螺旋の形をしている。RNAっていうのは、螺旋は一つだ。もう一つを組み合わせて二重になる。DNAになれる」
ちゃり、と音がした。胸元のペンダントの音だ。…音? 俺は目を開けている。キッチンの近くのテーブルに腰をかけて、スエとシキを見ていたはずなのに。目は閉じてないのに。どうして、音だけ? スエはきっとペンダントを持ち上げたはずなのに。どうしてそれが俺の視界に映らない?
視界…透明に近づく俺の視界。それでもついさっきまでは見えていたのに。艶やかなスエの黒髪も。少し頼りない、シキのブラウンの瞳も。
「螺旋って…こんなのか?」
「このペンダントは…ああ、そうだね、十字架に刻まれてる模様は二重螺旋だ。DNAの形だよ。……ただ、ジーンの持つRNAをもう一つの種が持つRNAと組み合わせて…融合させたとしても、それが治療に使えるかどうかはわからないんだ。セトに直接その遺伝子を今から組み込むことが可能なのかどうかはわからない。ただ、確実なのは、セトに効果がなくても、セトの子供には効果があるはずだ。例えば、僕やスエのように、そういう障害が現れてない人間には、遺伝子を組み込むことは難しい。遺伝子に傷が付いてるから、セトのような症状が現れる。そして、その傷そのものを目印にして正しい遺伝子を…純粋な遺伝子を導入する。だから、セト本人にそれを導入して…セトに直接効果が現れるか、それともその子供に…」
「……ガキに? …ふざけんなよ。ガキなんざいらねえんだよ。セトだ! セトが必要なんだよ! ガキのことなんか知るか!」
ああ…そうだ。考えたこともない。なのに、ジーンは言っていた。男と女がいなければ子供を作ることは出来ない。だから、選んだのだ、と。選んだのはジーンか。それとも俺か。
吐き気がする。寒気がする。目を開けているのに、視界に何も映らない。匂いだけが鼻の奥をくすぐる。粘膜にまとわりついて、凝(こご)っていく。
「だって、今のままじゃ君がセトの子を産むことになるじゃないか。それならそれで、早いうちに処置をすれば、少なくとも障害が受け継がれることは…」
「うるせえ! ふざけんなって言ったろ? ガキなんざ…出来ねえよ。セトがオレの中に何度ぶちまけようと、ガキなんざ出来ねえんだよ。そうじゃなきゃ、弟となんか出来るかよ!」
「スエっ!? それは、セトに…」
「……知ってるよ。セトは。オレが姉で自分が弟だってことも忘れてるけど知ってるよ。だから今更だ。一番最初は、忘れてなくて…知っててオレを抱いたんだ。だからオレも受け入れたんだ。そのうち、姉弟(きょうだい)だってことは忘れたけど…そんならそれでいいと思った。姉弟じゃなけりゃいいと思ってたから、セトがそう思えるならいいと思ってた。……今更だ。…そうだろ? だってオレはてめえの親父とだって寝たんだぜ?」
そうだ…知ってる。いや、知っていた。忘れてはいたけれど、それでもスエの言葉にどこかがうなずく。それは俺が知っているという証拠だ。吐き気も寒気も頭痛も…スエの言葉のせいなんかじゃない。だからスエ、そんな風に、ヤケになったように笑わなくてもいいんだ。スエがスエのままでいられるなら…俺が忘れることでスエのどこかが救われるなら、俺は何だって忘れるから。今すぐに忘れるから。
「だからって、スエ…」
「てめえの親父と寝て…ああ、そうさ、北側の空き地に…あそこにあるクソぼろい十字架の下で腐ってる親父と寝て! …ガキが出来たさ。それでも…産むわけにゃいかねえだろ。親父がオレにサカってきた時に、親父がてめえの娘だってことを忘れてたとしても…産むわけにゃいかねえじゃねえか…。だから…向かいのビルに住んでるババァに言って、堕ろしたよ。無理矢理な。親父が死ぬ少し前だから、四年くらい前だ。おまえがいつ貧民街に来たのかは知らねえが、おまえと知り合う前だ。オレはまだ十五かそこらだった。…おまえ、医者なら分かんだろ。オレの腹なんざ、もう女の役割は半分も果たしちゃいねえんだよ!」
スエ…忘れるから。全部、忘れるから。だからそんな風に泣かなくていいんだ。震えながら怒鳴らなくたっていいんだ。
入り込んでくる甘い香りが消えない。濃くなっていく。透明になった俺の視界が甘く染まっていく。
『姉弟(きょうだい)で仲良くね』
…唐突に思い出した。あれは…確か、母さんだ。俺とスエの。まだ随分と小さな頃に、俺とスエの首に十字架のペンダントをかけて、そう言って微笑んだ。そのすぐ後に母さんは死んだ。その頃には親父はもう、いくつかの記憶が欠落していて。自分の妻だった女のことも忘れていた。貧民街に来て、死ぬ時までずっと…そのことを思い出すことはなかった。だから…俺は怖かった。愛した人間すら忘れてしまうのかと怖かった。
冷たく震える指先で、十字架を触ろうと手を動かす。テーブルに置いてあったビールの缶にぶつかった。ああ…仕方ない。見えてないんだから。
「……セト。オレにだって…おまえしかいなかった。おまえが、オレを忘れることを怖がってたのと同じだ。オレだって、おまえに忘れられるのが怖かった。……だから、ずっと傍にいた。少しでも離れたら忘れちまうんじゃねえかって…だから……傍にいた」
十字架を握りしめた指が痛い。…良かった。血の気がひいても、まだ感覚は残ってる。
スエの声が近づく。俺は顔を上げなかった。目を開けているのに、握りしめているはずの十字架は見えない。自分の指もあやふやだ。目の前が真っ白になっている。…いや、白いんじゃない。透明なんだ。顔を上げて、スエの瞳すら見えなくなってたら怖いから…だから、顔を上げなかった。
顔を伏せたまま、十字架を握りしめていた俺の頭をスエが抱えこんだ。指に、肩に、スエの黒髪が触れる。冷たくて柔らかい髪が。
「思い出せ、と…言わなかったのは、おまえのためじゃなくて、オレのためだったんだ。おまえが思い出せないのを知ってて…オレはそのことに安心してたのかもしれない。……セト。オレは多分…ずっとおまえを裏切っていた。おまえが忘れていくことが辛くて、それでもそれが嬉しかった。思っちゃいけねえと…そうわかってたけど…それでも、忘れることでおまえが傍にいてくれるならそれが……」
俺の頭を抱えこんだスエの声が震える。俺の首筋に、温かい雫が落ちる。
「……スエ。泣かなくてもいい。俺は裏切られてなんかいない。記憶よりもスエを選んでいたのは俺なんだから。……けど、俺があの時…ジーンに全てを…スエのことも、捧げてしまおうとしていたのは事実だ。だから、スエ。俺を…殺してくれ」
スエの瞳はきっともう見えないから。透明になった視界にはそれすら映らないだろうから。…だから、殺して欲しかった。
「違う…逆だよ。おまえがオレを殺すんだ、セト。約束したろ? オレがおまえを裏切ったら、殺していいと…殺してくれと」
顔を上げるのが怖かった。スエの涙が見えないなら、それは紛れもなく救いでもあるのだけれど。でも、スエの瞳が見えないことを確認したくはなかったから。…ほら、今だって。十字架は見えない。それを握りしめてる自分の指が見えない。
「あたしは裏切らない」
唐突に。それは耳に届いた声じゃない。隙間だらけの俺の頭の中に直接。…ああ……君か、ジーン。
「あたしは貴方を裏切らない。あたしが貴方を選んだから。貴方があたしを選んだから。つがいになった相手を裏切ったりしない」
ジーン…捨てたはずだ。シキが探しに行って見つからなかったけれど、君が屋上から落ちていったのは俺もスエも見ている。
ああ…なのに…なのに、何故だ。君の香りが漂っている。空気の中に、確かに君の香りは満ちている。何よりも、俺の脳がそれを感じている。悪寒と頭痛と吐き気と、そしてそれよりも確かな、甘い香り。
「大丈夫、ちゃんと戻ってきたから。だから、貴方の遺伝子をあたしにちょうだい? 貴方の何もかもを」
……戻って? ジーン、君はどこにいる?
「貴方の後ろ」
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