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◆ キャビアの音 ◆

 セト、と俺をかすれた声で呼ぶのはシキの声。耳のすぐ脇から聞こえてくるのはスエのすすり泣いている声。二つの声よりも、何故かひどくはっきりと俺の耳に届いたのは、ぴちゃり、と響いた水の音。
 俺の頭はスエに抱えられているけれど。スエの腕を軽く叩いて、俺は頭を上げた。透明な視界。時折、薄ぼんやりと何かの輪郭は目に映る。けれど、色は映らない。
 なのに。
「あたしを見て」
 背後にはキッチン。何度修理しても、耳障りな音で唸り続ける冷蔵庫。その後ろには、蛇口が。水道管を伝った水が流れてくる蛇口が。
「ここにいるから」
 ああ…香りだ。ジーン、君の香りだ。色が移らないはずの俺の視界に、薄紫の花弁が映る。赤錆びた水がしたたり落ちる蛇口から、奇妙で、それでいて綺麗な、大輪の花が咲きほころんでいるのが見える。
「たくさん、水が飲めたわ。ありがとう」
 そうじゃない。ジーン、そうじゃないんだ。俺は君を…。
「わかってる。それでもいいの。あたしが貴方を選んだんだから」
 透明な視界の真ん中に、それだけが鮮やかな色を保って、ジーンが咲き誇る。花心がないと思えた、その中心から、淡い黄色の触手めいたものが伸び始めた。迷わず俺へと向かってくる。
「…ジーン」
 かすかに囁いた俺の言葉に、小さく震えて、触手が俺を捉えようと動く。
「………な、なんでだよ! 捨てたじゃねえか!」
 俺の首にしがみついたまま、スエが叫ぶ。声が震えているのは、さっきまで泣いていたからか、それともジーンの触手が震えているからだろうか。
 ジーンから伸びた触手は二本。テーブルについたままだった俺の右手に、一本が触れる。奇妙に、生暖かい、湿った感触だった。もう一本は、俺の顔に辿り着く前にスエの手で叩き落とされる。
「なんだよ! なんで、ンなとこから戻ってくんだよっ! おまえが…妙な香りなんかまき散らすから、オレのセトが参っちまうんだろっ!? ひとの男にコナかけてんじゃねえよ! たかが花のくせに!」
 片手で俺の首を抱えて、もう片方の手でジーンの触手を叩き落として、スエが叫ぶ。俺は動けなかった。スエの腕も、ジーンの触手も、そんなに強い束縛なんかじゃない。ふりほどこうと思えば簡単なはずだ。なのに、ふりほどけない。
 右手首に触れているジーンの触手が、俺の腕の内側へと這い上ってくる。柔らかくて湿っていて…奇妙な体温を感じさせる。かすかに震えながら、ぬめり、と這う触手。いっそうに深くなる香り。
「シキ! このボケ医者! 手伝えよ、この気持ち悪い花をどうにかしろよ!」
「だって……それは…いや、どうしてそんなことに…?」
「オレが知るかよっ! さっき、セトはこの花を捨てたんだ! オレも見ていた。なのに、なんで今頃、蛇口から生えたりすんだよ!」
 透明になる視界。透明になる意識。そこに滑り込む、ジーンの香り。ああ…駄目だ、それ以上は…。システムの核(コア)に届いてしまえば全てが…。
「セト! 逃げろよ! おとなしくしてるこたぁねえだろ、逃げろよっ!!」
 駄目なんだ、スエ。力が入らない。
「水道管の中は錆びていたわ。中を通って、給水塔のタンクの中に辿り着いたけれど、そこもあまり綺麗じゃなかったわ。でもいいの。ほら、こうして貴方のところへ戻ってこられたもの。貴方はあたしを拒めない。あたしが貴方を選ぶより先に、貴方があたしを選んだから。感じるでしょう? あたしの匂いを。互いに選びあった証を。貴方もとてもいい匂いよ。それを…全部、あたしにちょうだい」
 ──触手が触れる手首の内側にわずかな痛み。そしてその痛みは、快感へと変わる。何か、自分の体が違うものと融合する痛みと快感。体が内側から熱せられているかのような感覚。熱も痛みも、やがて麻痺して快感だけがそこに残る。
 匂いの感覚はとっくにない。自分の体を包む空気の全てがゼラチンに変わってしまったかのような質感。ああ…あの日、デリカのショウケースに並んでいたコンソメのゼリー寄せ。あんな風に、ふるふると震える柔らかい空気が俺を取り巻いている。俺も、そして手をついていたはずのテーブルも。ゼリー寄せの中のニンジンやセロリと同じになっていく。
「シキ! 手伝えったら!」
「でもスエ、それは…ジーンの中には、必要な遺伝子が…」
「関係ねえって言ったろ! …ちっ! 埒が明かねぇ!」
 走り去る気配。首にかかっていた重みが消える。もう一本の触手が俺の首筋に届いた。ざわり、と鳥肌が立ったのは、背筋を駆け上る快感のせいか。膝から力が抜ける。
 頭の中で、小さな音が響く。ぷちぷちと、キャビアを噛み潰すような音。きっと、何かが俺の脳細胞を踏み潰す音だ。そこを巡る電気信号の網が、記憶だと言った。誰かがそう言った。何もかも忘れて、信号が通らなくなった回路なら、それはただのタンパク質だ。役になんか立たない。脳細胞はいつだって、新しく生まれ変わって、古いものが新しいものに置き換わると言っていたけれど。いくら生まれ変わっても、そこを通るものが何もないなら、それはただ立ち枯れていくだけなんだろう。意味なんかない。だってほら、ぷちぷちと潰されたって、痛みなんか感じない。
 ざわざわと、皮膚の内側を何かが這い回る。無数の砂粒のような、それでいて生きている温かさを持った何かが。叫びだしたいような嫌悪感。なのにそれと紙一重の快感。紛れもなく異物感なのに、それがあることで満たされていると感じるような。
 自分の吐く息が熱い。胸に澱む息が体の温度を上げる。熱を持った快感が、内臓の全てを支配していく。融けていく。肺が、胃が、脳が。
「手放してもいいのよ」
 快感に全てを委ねて、自分の手元から全てを解き放ってしまえば楽になれるんだろう。今以上の快楽がそこにあるんだろう。
 何も考えなくていい。自分からは動かなくてもいい。全てを委ねることは、忘れるよりも簡単なこと。知らない振りをするよりも簡単なこと。
「だから…あの時………殺してくれと…」
 喉から漏れた息が言葉を形作る。意識と無意識の狭間で、震える声が言葉になる。口を開いた時には、その言葉の意味は分かっていた。少なくとも、分かっているつもりで口を開いた。なのに、言葉が形になる頃には意味がわからなくなっていた。融けていく。何もかもが。言葉の意味も。それを考えていたはずの脳細胞も。
 温かで柔らかいものが、俺の瞼を上から覆った。…いいよ、どうせ見えてなんかいないんだから。見えてるのは、外じゃなくて、自分の脳の中なんだから。
「セト! よけろっ!」
 誰かが叫ぶ声が聞こえる。奇妙にくぐもって聞こえる声。水の底に俺がいて、たくさんの水がある頭の上から響いてくる声を無理矢理に聞き取っているような、そんな音。
「スエ、無茶だ! セトに当たってしまうじゃないか!」
「ざけんな! オレがそんなヘマ……邪魔するな、シキ!」
 ああ…そうか。俺を包む空気がコンソメのゼリーに変わってしまったんだから、こんな風に音が聞こえてきても不思議じゃないんだ。白身魚のフレークのような声とか、みじん切りにしたズッキーニの声とか。
「ねえ、そんな声なんか聞かなくてもいいわ。貴方にはあたしがいるもの。お互いがいればそれで十分。そうでしょう?」
 ああ…そうだね、ジーン。それ以外にはもう何も要らない。音も色も手触りも。君の香りだけがあればそれでいい。
「ち…くしょうっ! まだだ、セト! オレは、もうごめんだぞ、置いてかれるのは!」
「スエ…っ! だからって何を!」
「離せよ、馬鹿野郎! オレはな、決めたんだよ。あの腐れ親父を土の下に埋めた時に…セトと二人っきりになっちまった時に! オレは……オレはセトに殺されるって。…なぁ? そうすりゃ、寂しくねえじゃん? セトなら、オレのことを忘れられる。知ってても忘れられる。オレが傍にいたことも、オレが死んだことも、セトなら忘れられる!」
「君は…?」
「…うるせえよ。そうだよ、勝手だよ。全部、オレの身勝手だよ!けど、オレなら忘れられないから…だから、セトに頼るしかねえだろ! こんな風に…薄汚ぇ花なんぞにセトをとられてたまるかよ!セトはオレより先に死んじまったら駄目なんだよ。まだ、オレはセトに殺されてないから、だから、セトはまだ死んじゃいけねえんだよっ!!」
 俺の瞼を覆っていた触手がずるりと動く。俺の頭を抱え込むように回り込んで、俺の耳を塞ごうと動く。
「セトには…オレを殺してもらわなくちゃならねえんだよっ! セト、目ぇ開けろっ!」
 開けたって、どうせ透明な視界には何ひとつ映らない。何もかもジーンに捧げたんだから、何ひとつ、残ってなんかいない。
 ぼんやりと霞む視界の中に、途切れがちな輪郭線だけが、ひどく頼りなく浮かんだ。色のない視界の中に、わずかに滲む何かの輪郭。たったそれだけの視界。必要のないものなら存在などしなくていいと、ゼリーの空気に溶け込んでいく。
「セト!」
 声を辿ってあげた視線の先に、それだけが輝く、青。
 ……色はないはずなのに。全ての色は融けていったはずなのに。透明になった視界のなかに、まるで何かを射抜くかのように、突き抜ける青。
「…………ス…エ?」
 浮かんできた名前を、ただ囁く。意味なんかわからないのに、無性にそれにすがりたくなって囁く。
 同時に、幾つもの銃声が鳴り響いた。


◆ カフェの名前 ◆

 ばさり、と俺の背後で何かが音を立てた。ゆっくりと、俺の視界に色が戻ってくる。振り返ると、鮮やかな黄色だったジーンの触手が、色を朽ちさせながら痙攣していた。
 急速に縮んでいく触手が、ひくひくと蠢くたびに、残り香を含んだ空気が俺の頬を打つ。
 靄が、晴れていった。コンソメのゼリーがどこかに消えていった。
 そして、残ったのは、俺の人差し指くらいの大きさしかない、何だか茶色いもの。小さくしぼんで枯れてしまった、ジーンの残骸だ。くすんでいるのにみずみずしい不思議な葉も、柔らかくて、でも何故か風に揺れると透明な音を立てた綺麗な花びらも、全部枯れてしまった。いなくなってしまった。もう、残り香すら消えてしまった。
 台所の床に座りこんだまま、俺はジーンの残骸を見つめていた。
「……セト。大丈夫か?」
 少しかすれた声が上から降り注ぐ。…スエの声だ。
「……たったこれだけになってしまった」
 顔を上げずに、そう答える。人差し指と同じ大きさの、触手の先端。腐って干涸らびた唐辛子みたいだ。ジーンを種から育てて…どのくらい経っただろう。一週間、二週間、三週間……もう覚えていない。
「ごめん…でも、オレ…」
 迷うように、スエが何かを呟きかける。途切れた言葉の先を聞こうと顔を上げた俺の視界に、スエの瞳の色が飛び込んできた。スエは瞳を伏せているのに。それでも、びっしりと生えたその黒い睫毛の向こうに、瞳が見える。深い青の…深いのに輝く青の瞳が。
「セト…怪我は? さっきの弾は…」
 俺とスエと干涸らびたジーンを順番に見ながら、シキが言う。
「ああ…あれか。あれは、俺には当たってない。だから大丈夫」
 当たり前だとでも言うような顔で、スエが一瞬、シキを睨んだ。
「だいたい、てめえが邪魔しなきゃもっと早く…」
「いや、そう言われても、あの角度じゃ危ないと思うじゃないか。セトだって動かないでいたわけじゃないんだし…」
 不機嫌なスエと、ひょろ長い背を丸めるシキが、何だかひどく普段通りに見えて。それが何だかひどく場違いな気分がしたけれど。でも、ここは俺とスエの部屋で、ここにシキが訪ねてくるのは珍しいことじゃないし、シキがスエに怒られるのも、珍しいことなんかじゃないから…だから、きっと場違いなんかじゃないんだと思い直した。きっと、ジーンと会う前の生活に戻っただけなんだ。
 そう思ったら、何だか急に可笑しくなった。抑えようともしなかったから、自然に笑い声が漏れる。
「……んだよ、セト」
 不機嫌なスエの声。
「セト? 何か…」
 妙に心配げなシキの声。
「ああ……いや、大丈夫。何だか可笑しくて…。あ、どこかが変だっていう意味じゃない。なんか…二人とも、いつも通りだなと思っただけだから」
「オレは…ジーンを殺しちまったけど。……ごめんな、セト。オレはおまえを引き留めた。おまえはジーンと一緒に行っちまいたかったんじゃねえのか?」
 まだかすかに硝煙の匂いが漂っている銃を握りしめたまま、スエが聞く。なんだか、いつものスエらしくなく、妙に自信のなさそうな顔で。
「でも…見えたから。だから、いいんだ、これで」
 何もかもが透明になっていくなら、そこにジーンが入り込んでもいいと思った。俺の持っているもの全てが透明になっていくなら、それをジーンに捧げてもいいと思った。でも、あの一瞬、声を辿って上げた視線の先に、スエの瞳が見えたから。あの青に俺は引き留められた。あの青がある限り、俺はスエを忘れないと、あの一瞬に気が付いたから。最後の最後で、ジーンよりも俺はスエを選んだ。選ばせてくれたのは、青い瞳だ。
「見えた? ……何が?」
「……いいんだよ、俺が知ってるから。俺はきっとそれだけは忘れない。他の何を忘れてもそれだけは忘れないから…だから、スエはまだ俺を殺さなくてもいい。だから、俺はまだスエを殺さなくてもいい」
 俺は笑った。多分、しばらくはジーンのことも忘れない。けれどもし、最後にジーンとスエとどちらか選ぶなら、俺は間違いなくスエを選ぶと分かったから。
「セト、スエ…僕は……僕は正直言ってしまえば、ジーンを殺して欲しくはなかった。今のところ、それが唯一の希望だったんだから。…確かに、スエにしてみれば、セト本人が何よりも大切だったのはわかるし、僕だってそうだ。ジーンとセトを比べるなんて…そんなの、比べるまでもない。…なのに、一瞬、目の前のセトよりもジーンが持つ可能性を選びそうになった自分がいた。人類の未来への可能性を……」
 キッチンの壁に、力無くよりかかってシキが呟く。そこまで言いかけて、ふと口を閉じた。そして、俺とスエを見たあとに、何だか困ったような、いつもと同じ笑い方で笑った。
「……ごめん、違った。人類の未来だとか偉そうなことを言っても、結局、僕は自分の好奇心を抑えられなかっただけだ。どうやら僕は、やっぱり根っからの科学者なんだ。人類がどうこうなんて、そんな大義名分を掲げても、所詮は子供と同じなんだよ。子供の頃からちっとも変わってない。自分の好奇心を満足させるために…僕は目の前の命を犠牲にしようとした。ジーンの持つ可能性を自分が調べたかった。今までの研究を形にしたかった。…それだけだったのかもしれない。……ごめん」
 シキの言うことは何となくわかったけれど、シキを責める気持ちはなかった。俺は自分で選んだあの瞬間まで、シキのこともスエのことも忘れていたんだから。何もかもどうでもよかったんだから。
「ばぁか。何、謝ってんだよ」
 呆れたような声を出したのはスエだ。俺の隣で、俺の左腕を抱えて、もう片方の手で俺の胸にかかった十字架をもてあそびながら、スエが笑う。
「オレはセトが一番大事だ。けど、おまえが同じ事を思う必要なんかねえさ。オレはセトのためなら、おまえだって殺すかもしれねえよ。それと同じだろ。おまえが何か別のもののために、セトを殺そうとしたって、構いやしねえさ。……でもよ。良かったな、シキ。おまえがもう少し頑張って邪魔してたら、今頃、おまえは死体になってた」
 にっこりと笑って、物騒なことを言う。それを聞いたシキが、少しだけ驚いた顔をして、すぐ後に笑い出した。
「ああ…そっか…はは、そうだね。うん、殺されなくて済んでよかった。銃で死ぬのは痛そうだしねぇ」
 いつもと同じ笑い方のシキを見て、ふと思い出した。
「…ひょっとしたら、シキの欲しかった可能性っていうのが残っているかもしれない」
 笑いを引っ込めたシキが俺の顔を見る。
「え? ……どういうことだい?」
 スエに抱えられていないほうの腕を、俺はシキに差し出した。ジーンの触手が絡んだ右手首の内側を見せる。小さな傷痕。かすかに滲んでいたはずの血も、ジーンの触手に拭い取られて、もうかすかに赤い点しか残ってはいないけれど。
「これ…ジーンがここから……なんて言うか…入ってきた。あの触手みたいなものは、ジーンの中心から出てたろ? 本当ならそこに花心があるはずだった場所から。花心は花の生殖器官だ。多分、俺とジーンは……なんて言うのが一番近いかな…融合っていうか…そう、ここでセックスしたって言うのが近いかもしれない。何かが残ってるような…そんな感じがしてるよ、さっきから」
「何か…って?」
「……わからないけど。随分と奥深くにジーンは入り込んできてたから。だから…もちろん、すぐにまた忘れてしまうだろうけど、俺はジーンが残したその何かのおかげで、いくつかのことを思い出したような気がする。忘れていたことも、忘れた振りをしていたことも」
 靄が消え去った後に残った、記憶の残骸。それは何故かいつもよりもはっきりしていた。今にも消えそうにぼんやりとしているんじゃなくて、きちんと形になっている。いつまで続くかはわからないけれど。
「ああ…ああ、そうか。考えられることではあるよね。ジーンと対になっていたはずの種とそういう形で結びつくことが前提になってるとしたら…ああ、血液の中を通って脳まで…いや、ひょっとしたら直接、末梢神経からさかのぼって電気信号として…? いや、DNAかRNAの形だとしたら……」
 ぶつぶつと呟き続けるシキに、スエがくすくすと笑う。
「何、ぶつぶつ言ってやがるんだよ。どうでもいいじゃねえか、そんなもん」
「どうでもよくなんかないよ。ああ、セト、早速検査したいんだけど、いいかな」
 俺が出した右手首を掴まえて、シキが早口で聞いてくる。子供の頃の記憶はもうないし、その記憶は戻ってきたわけではないけれど、新しい玩具をもらった子供は、ひょっとしたらこういう顔をするのかもしれないと思えた。
「いいよ。……いいけど、ちょっと待って」
 シキから右手首を取り返して、俺はスエに向き直った。ほとんど変わらない身長。すぐ目の前にスエの唇があって、瞳があって。胸元に手を伸ばして、スエのペンダントを手に取る。それにそっと唇をつけた。
「スエ…引き留めてくれてありがとう。最後に選ばせてくれて…ありがとう」
 スエが微笑んで、俺の十字架に唇をつける。
「……オレも。おまえがオレを選んでくれて嬉しい」
「いくつか思い出したのは本当だよ。…母さんのことも思い出した。この十字架をくれたのは母さんだってことも。母さんは…スエによく似てた」
「ああ、そうだな。でも知ってたか? オレよりもおまえのほうが母さんには似ていたんだぜ?」
 くすくすとスエが笑う。ああ…そうだったかもしれない。でも、鏡を見るよりスエを見ている時間のほうが長かったから、スエに似ていると思っていたのかもしれない。
「じゃあ、俺とスエが似てるってことかもしれないな。仕方がないか、姉弟なんだから」
「ああ、仕方ねえよ。姉弟なんだから」
 言ったあとに、二人で同時に笑う。いつかはお互いに離れるのかもしれない。俺の病気が進めば、どちらにしろ離れることになるのかもしれない。でも、今は同じ場所で同じことで笑えるならそれでいいと思った。
俺たちの笑い声に、ぶん…と低い音が重なった。冷蔵庫のモーター音だ。まだ動いてる。だから、あれもまだ、殺さなくていい。
 スエが顔を寄せてくる。それに応えて、俺はスエの唇に自分のを重ねた。お互いの舌を味わいながら、ふともう一つ思い出した。
「……スエ。それじゃあ、これからシキに付き合って検査しに行くけど。帰ってきたら聞いて欲しいことがある」
「なんだ、もったいぶりやがって。今じゃ駄目なのかよ」
「うん、帰ってくるまでに覚えていられたら、答えるよ。スエが答え合わせをしてくれるなら」
「答え合わせ?」
 首を傾げるスエの目元にもう一度唇を触れて、俺は笑った。
「…さ、シキ。行こうか。好きなだけ検査していい。ただし、俺が思い出したことを忘れないうちに検査が終わればいいけど」
「保証は出来ないなぁ。手のひらに書いておけばいいのに」
「駄目だよ、それは反則だ」
 シキに答えて、部屋を出ようとする俺に、スエが声を掛けた。
「なんだよ。何を思い出したんだよ」
 綺麗に笑うスエに笑い返して、俺は答えた。
「待ち合わせをする路地の…あのカフェの名前さ」





── 了 ──


   
           
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