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◆ ぬるい風 ◆
「私を咲かせたのはあなただから。だから私の香りはあなただけのもの。呼んで。名前を呼んで。その声に私はこたえるから」
……ジーン。どうしてだろう。色も記憶も曖昧なのに、君だけがはっきりとしていく。君の花びらは色褪せない。
「花びらもあるけれど、葉もあるけれど。でも私は花じゃないから。心配しないで。私はまだ枯れない」
聞いてくれよ。おかしいんだ。君の香りのことを話すと、スエはいつだって顔をしかめるんだ。そうして、俺の視界が透明になっていくことも、とうとうスエにバレた。青いタオルを取ってくれと言われて、黄色のタオルを渡してしまったんじゃ、仕方ないけれど。
でもとにかく、スエが騒ぎ立てて、シキが俺を検査台に乗せた。俺がよく知らない機械が俺の横でうなってた。脳内物質がどうとか、薬の副作用がどうとか。よくわからない単語が飛び交ってた。スエがますます騒いで、シキはいつもみたいに困ったように眉を下げてて。
でも俺は知ってる。
原因は君だろう? 君の香りが俺を変える。別に騒ぎ立てるほどのことじゃないんだ。色なんかわからなくてもいい。君の花びらの色さえ見えるなら。記憶なんて幾らだって消えていっていい。どうせもともと、白い靄に呑み込まれていくしかない記憶だ。それだったら君が呑み込んでくれたほうがどんなにいいだろう。
ジーン。君は何が欲しい? 俺が持っているものなら、何でも君にあげる。君のその香りが尽きないために俺は何をすればいい?
「今はまだ何も。でもそうね。私が今いる場所は狭いわ。土なんか入れなくてもいいの。水さえあれば私は生きていけるの。ねぇ、もっと広い場所に移してくれる? そして、もっともっと水をちょうだい。大きくなって、やらなくちゃいけないことがあるから」
「おい、セト?」
割り込んでくる声。少しかすれた、女にしては低い声。
閉じていた瞼をあげて、俺は振り向いた。胸元で何かが、ちゃり、と音を立てる。
「ああ………何?」
「目ぇ閉じたまんま動かねえから…どっか具合でも悪いのかと思ってさ。それと、こないだシキが、別の薬を試したほうがいいかもしれないって…ほら、検査のあとに言ってたろ?」
ああ……思い出した。スエだ。どうかしてる。スエのことが思い出せなかったなんて。
…スエのことを? 忘れていた? ……俺が?
「……スエ…?」
「ん? どうした?」
小首を傾げたスエ。流れ落ちる黒髪。
……寒気がした。
心臓がびくりと震えた。血管を流れる血の温度が、一瞬にして下がったような気がする。背中を、ひどくゆっくりと汗が伝う。温度の低い汗が。
寒気がした。何を忘れても俺はスエを忘れない。嘘じゃない。そう思っていた。なのに、甘い香りのなかで無くしていく記憶の中には、スエのことも含まれていた。スエのことさえ、ジーンに捧げようとした。
「スエ……俺を……」
昨夜も肌を合わせた。ジーンの香りの中で、スエの香りを味わった。二人の十字架が絡み合った。なのに、つい五分前の俺はスエを忘れていた。
「なんだよ、セト。変な顔して」
「俺を…撃ち殺してくれ」
互いの十字架に誓った。だから。
「………何言ってんだ?」
「銃が駄目ならナイフでもいい。首を絞めてもいい。俺を殺してくれ。………俺は、スエを忘れそうになった。スエのことが一瞬、思い出せなかった。俺は多分、もうすぐ俺じゃなくなる。だから…その前にスエが俺を殺してくれ」
スエが眉をひそめた。
「馬鹿言うな。……セトはセトだ。まだ何も変わっちゃいねえよ。だからそんな…泣きそうな顔すんな。おまえが駄目になったら、オレがおまえを殺す。それは…誓ったから。大丈夫だから。だから……そんなツラすんな」
俺の髪を撫でるスエの手は優しい。…駄目だよ。今なら…たった今なら、まだ俺はスエを覚えている。触れている指の感触も、透き通るような青い瞳も。まだ覚えていられる。だから、今だ。
「……今。今、殺してくれ」
下腹の奥に澱む焦燥がある。色なんか忘れていい。香りなんか関係ない。薬の副作用もシキの検査も何もかもどうでもいい。ただ、スエのことだけ忘れたくない。なのに、俺には時間がない。
風がそよいだ。開け放したままの窓から、ぬるい風が入ってくる。
「………ジーン」
「何? ジーンがどうしたって? …おい、セト?」
「ジーンだ。ジーンがいるからいけない。あの香りがあふれるから、いけないんだ」
体のなかに入り込んだジーンの香りは、俺の中身をどんどんと侵していく。ああ、コンピューターウィルスのようだ。…なんだっけ、大昔の何かが名前についた、何とかの木馬。思い出せない。でもとにかく、ジーンはそれなんだ。無害な振りをしてシステムに入り込む。じわじわと、システムを壊さない範囲で、気づかれないようにじっくりと根を張る。十分に根を張ったら、その瞬間に破壊は始まる。誰にも止められない破壊が。システムそのものの息の根を止めるための破壊が。
俺のシステムなんか、最初から欠陥だらけだ。最初から破壊が始まっていたとしても気づかない。どうせ、いつだってどこかで破壊は起こっている。最後に守る核(コア)さえ無事ならどこが壊れたって構わない。けれど、ジーンがそこまで手を伸ばすなら…。
眉をひそめるスエの手から逃れて、俺は窓辺に行った。ジーンを植えたバケツに手を伸ばす。
「あたしを……どうするの? 植え替えてくれるんじゃないの?」
風にそよぐ葉が、しゃりしゃりと透き通った音を立てる。…駄目だ。音を立てるのは、胸元にある十字架。それだけでいい。そうじゃなきゃ、耳元でスエが囁く少しかすれた声。それだけでいい。
「おい、セト? どうしたんだよ、いきなり。ジーンをどうするつもりなんだよ」
少し慌てたように、スエが俺の肩に手をかける。それに答えることはせずに、俺はジーンを植えたバケツを持ち上げた。少し歪んだ、古いブリキのバケツ。底のほうには小さな穴が空いている。水も汲めないバケツだけれど、赤茶けた土を入れるには役に立った。でも、それももう要らない。
「あたしは貴方の味方なのに」
香りが強くなった。バケツを持ち上げた俺の腕が止まる。ジーンの香りを全身で感じる。鼻だけじゃない。胸で、腹で、足で。ブリキに触れているはずの指先で。
入り込んだ香りは俺を変える。俺のシステムはきっともうジーンに乗っ取られている。
こんな……ただの花じゃないか。少し変わってるけれど、でも花じゃないか。ヤム爺の言った通りだ。花なんか食えない、役に立たない。
なのに…どうして俺の腕は動かない?
ジーンの花びらが風にそよぐ。俺の全身をジーンの香りが染め上げる。俺の中の何もかもが、甘い香りに染まってる。俺の記憶を飲み込んでいくはずの白い靄さえ、今では白くなんかない。甘い香りに彩られている。この香りが無くなれば…きっと、俺の中身は何もかも無くなってしまう。捨てられない。捨てちゃいけない。自分のシステムを構成する大半のものを捨ててしまってはシステムは機能しないから。
それでも、核を守るためには必要なことだ。最初から穴だらけのシステムなんか要らない。だから核だけはせめて守らないと。だからジーンを捨てないと。このまま香りが全てを呑み込む前に。
捨てろ。いや、捨てられない。捨てる。ジーンを? この甘い香りを? 指先から入り込んで、そして俺自身と融合しきっているはずの香りを捨てる? 捨てたら俺はどうなる? 俺は…俺じゃなくなる。
「……セト?」
腕に触れる冷たい指先。訝しげなかすれた声。
呪縛が、途切れる。
開いたままの窓から、俺はバケツを放り投げた。がこん、と、鈍い音を立てて、バケツが屋上のコンクリートの上を転がる。俺たちの“ペントハウス”が建っているだけで、後は、ビルの中に続く階段室への入り口と、鳩も寄りつかない給水塔があるだけの、寂れた屋上。コンクリートのあちこちにヒビが入って、ヒビの隙間から、くすんだ色をした草とか、ねじれた枝を持った細くて若い木がひょろひょろと立っている。ろくに土もないのに、もともとコンクリートをつないでいたアスファルトの防水剤の中に根を張って、彼らは育っている。
バケツが、ごろごろと転がっていくのを見るまで、屋上に他の植物が生えていることなんか知らなかった。気づかなかった。ひょっとしたら、毎日見かけて毎日忘れていただけなのかも知れないけれど。転がりながら、バケツは、赤茶けた土をまき散らす。俺が育てた、俺が咲かせたジーンがそこから転がり出る。声は聞こえない。投げ捨てられた衝撃で折れた葉も、土とコンクリートの破片にまみれて汚れてしまった花びらも。もう風にそよがないから。だから声は聞こえない。
きっと枯れる。くすんだ草とかねじれた木と同じように、もう少し経てば、ジーンも枯れる。
バケツは予想外に転がっていく。屋上の、壊れた手すりの隙間に向けて転がっていく。
……落ちてしまってもいい。いっそ、落ちてくれるならそれでいい。
ジーンは、俺の願いを聞き入れた。
「……あれで、良かったのか?」
耳元で、少しかすれた声がする。
ああ、と頷く俺の胸にかかった十字架にスエがそっと手を伸ばす。
「おまえがいいなら…それでいい」
鼻の奥にまとわりつくジーンの匂いも、きっともうすぐ消える。もう、モニターの電源を入れても、ジーンの言葉は現れない。もう、シャワーの水音がジーンの声に聞こえることもない。それなら、俺はスエをまだ覚えていられるから。
俺の十字架に伸ばされた手を握って、そのまま、スエの体を引き寄せた。
「だって…一緒にいたいんだ。…スエと」
スエが微笑む。俺たちは、一緒に毛布の中に潜り込んだ。毛布の端が、風に少しだけ揺れた。
◆ ソファのスプリング ◆
スエの肌を味わいながら…ふと考えた。ジーンの香りがなくなれば、その分、俺の頭のなかには隙間が出来るんだろうか。花が咲くまでは、俺がなくした記憶は、どんどん白い靄に呑み込まれていくだけで、隙間なんて意識したことがなかった。記憶があるか、靄があるかのどちらかの状態でしかなかったんだから。
でも、ジーンの香りはその靄を変えた。ジーンの色に染めてしまった。俺が忘れたものは、ジーンが呑み込んでいった。俺の持ってる記憶も、脳細胞と一緒にジーンが何か別のものに変えていった。何に変わってしまったのかは知らない。色も記憶も、全てジーンが持っていった。
じゃあ…ジーンがいなくなったら?
ああ…いつだったかな。シキが、脳細胞の話をしてくれた。全部は覚えていない。でも、なんだか半分くらいはまだ記憶に残ってる…。
陽が傾き始めた頃。シキが開いたままの窓から顔を覗かせた。
「いるかい、二人とも?」
俺とスエは、二人ともまだ毛布の中にいた。シャワーを浴びに行こうか、でも面倒だ、と、裸のままで毛布にくるまっていた。
「あ………ごめん」
ふと、あらためて俺たちの状況に気づいたように、シキが背中を向ける。後でまた来ると言いかけたのを、スエが止めた。
「いいよ、入ってこいよ。シャワー浴びてくっから。……なんだ、今更照れてんじゃねえよ」
にやにやと、冷やかすようにスエが笑う。
丸まったシーツを引っ張って、体に巻き付けると、そのままバスルームへと向かう。
毛布の中に今まであったスエの体が抜け出ると、なんとなく肌寒くなったような気がして、俺は毛布をしっかりと引き寄せた。
玄関からまわってきたシキが、そっと首だけを覗かせる。
「ええと……もう、いいのかな?」
「スエはあっちだ」
俺がバスルームを指さすのとほぼ同時に、シャワーを使う水音が聞こえてきた。相変わらず、少し勢いが足りない。ボイラーも直したはずなのに、昨夜あたりからまたぬるくなってきている。
「ああ…そうか。いや、ごめんごめん、タイミングが悪かったみたいで」
「そうでもない。…もう終わってたから」
謝るシキがなんとなく居心地悪そうだった。だから、謝る必要はない、とそう言ってやった。
「君もスエも……まぁ…いいか、確かに今更だ」
ああ…ちょうどいい。少し前に思い出したことを聞いておこう。忘れないうちに。
「……なぁ、シキ」
「なんだい?」
「前に…言ってたよな。脳細胞は死滅していくものだって。毎日……毎日繰り返し、脳細胞は死んでいく。そして毎日、新しい脳細胞が作られる。そうやって、古いものが新しいものに置き換わっていくって」
「ああ、言ったよ。…どうかしたのかい?」
「………毎日死んでいくなら、どうして、記憶を維持できるんだ? きっと、俺がプログラムを組んだり、どこかのシステムに潜り込んだりしてる間にも、脳細胞は生まれ変わるんだろう? それなら、どうして、記憶は死んでいかないんだ? 俺が……俺が記憶を維持できないのは、脳細胞が死んでいくからなのか?」
そして、死んだ脳細胞の代わりにジーンの香りがそこを埋めていく。それなら脳細胞は新しいものに置き換わることはない。ただ、隙間は埋まる。脳細胞ではないもので。なら今は? 隙間を埋めるものがなくなって。それなら隙間は隙間のままなのか?
「ううん…なんて言うか…確かに、脳細胞は新しいものに置き換わる。けどね、記憶っていうのは、脳細胞そのものに蓄積されてるわけじゃないんだよ。脳細胞っていうのは、言ってみればただのタンパク質だ。記憶が作られるのは、そこに張り巡らされた神経網…というか、そこを通る…なんて言ったらわかりやすいかな。脳の中に電気が流れていてね、その電気の流れが…回路を作る。その回路の中に記憶は存在する。……というのが、定説だよ」
電気信号が作り出す、記憶の網。それは…ひょっとしたら、ジーンの花の形に似ているのかもしれない。
ふと、そう思って…そうして気づいた。ジーンをバケツごと投げ捨てて、そうしてスエの匂いにすがったのに。……なのに、どうしてジーンの匂いは消えないんだろう。部屋の中に残っているんだろうか。どんな匂いよりも強く、どんな匂いよりも甘く。
タオルで髪を拭きながら、ジーンズと白いシャツを身にまとった姿で、スエが出てきた。
「セトもシャワー浴びちまえよ。…ああ、そういや、シキ。おまえ、何しにきたんだ?」
低いうなり声を上げ続ける冷蔵庫から、缶ビールを取り出しながら、スエが言う。
うなずいて、バスルームへ向かおうとした俺に、シキが聞いてきた。
「ちょっと確認したくて……ねえ、セト。ジーンはどこかな。ちょっと見せてもらいたいんだけど」
「…捨てた」
足は止めずに、それだけ答えた。
「え? 捨てた? いつ…っていうか、どこに!?」
なんだか、らしくもなく慌てた様子のシキがおかしかった。もともと俺が盗んできて、俺が育ててた花なんだから、俺が捨てたって不思議はないはずなのに。
「さっき。向こうの手すりから落ちてった」
聞かれたことにはとりあえず答えて、バスルームのドアを開ける。
「方向から言やぁ、北側の空き地だな。ほら、クソぼろい十字架が立ってる場所。……なんだ、慌ててどこに行くんだ?」
バスルームに入って、ドアを閉める寸前に、からかうようなスエの声と、慌てて立ち上がって玄関に走る足音が聞こえてきた。
シキが何を慌てているのかは知らない。北側の空き地っていう言葉には聞き覚えがあるような気がする。そこに古い十字架が立っていることも、知っているような気がする。でも、その十字架の意味は知らない。ちらっと…ほんの一瞬だけ、まだ錆びてない鉄パイプで組んだ十字架と、ぼろぼろになって赤錆の浮いた同じ十字架が、頭のなかに浮かんだ。そして、すぐに消えていった。
シキが息を切らして戻ってきたのは、俺がシャワーを浴びて、缶ビールを半分空けた頃だった。スエの手にはすでに二本目がある。
「だから…おまえは一体、何しに来たんだって聞いてんだろ? 慌てて飛び出して…ジーンを探しに行ったのか? この高さから落ちたんなら、ぐちゃぐちゃんなってたろうによ」
スエが笑う。息を整えながら、シキが首を振った。
「……なかっ……はぁ…なかった」
「…そんなはずない」
俺の言葉にうなずいてスエが言う。
「ああ、そんなはずない。落ちてったのをオレもセトもちゃんと見てた。おまえ、場所とか間違えたんじゃねえの? じゃなきゃ、瓦礫にぶち当たって、どっか遠くに飛んでったかな」
ようやくまともになった息で、シキが答えた。
「違う。…いや、僕もね、場所を間違えたかと思って、このビルの外周をぐるりと回ってみたんだけどさ。見つけたのは、ジーンが植えられてた…ほら、あのブリキのバケツ。凹んでたやつ。あれが、落ちてるだけだった」
「バケツがあったんなら、すぐ傍にジーンもあっただろ。バケツごと放り捨てたんだからよ」
手にしていた缶ビールを飲み干して、スエが笑う。あたりまえだ、と言うように。
そう。あたりまえだ。ここは、もともと五階建てだったビルだけれど、今は三階建てになっている。潰れた非常階段の階数表示は、一の次に二、そしてその上は五。三階と四階は瓦礫の塊になっている。五の上が、俺たちが住んでいる屋上だ。バケツは、そこから転がった勢いのまま、壊れた手すりをくぐり抜けただけだ。放物線を描いていたとも思えない。そんなに遠くに行くはずもないんだ。バケツを見つけたなら、その近くに必ずジーンも…ジーンの残骸もあるはず。
赤茶けた土に汚れた葉。衝撃で折れた花びら。路地裏の、饐えた臭いに混ざるあの香り。折れた葉や花びらからは、何が滲み出るのだろう。粘りけのない透明な液体だろうか。それとも……血だろうか。
くすんだ葉からにじみ出る真紅の液体を想像して、少し寒気が走る。人間だというジーンの言葉。そこから想像した血の色。それが奇妙にリアルだった。
「けど…なかったんだからしょうがない。ああ…僕が気づくのが遅かったよ。君たちがそれを盗んで来た時に…ほら、盗みに行った先は想像がつくから、聞かないでおくって言ったろう? 問いただすべきだった。……うかつだったよ」
疲れたように溜息をついて、シキはぼろいソファに腰を下ろした。寿命が近いスプリングが耳障りな甲高い音を立てる。
「……何言ってんだ? ジーンが欲しかったのか?」
シキに缶ビールを渡しながら、スエが尋ねる。受け取っただけで、口をつけずに、シキが頷いた。
「欲しかった…というか…。あれは多分、鍵だ。“中央”が開発してた“鍵”。鍵としての役割を果たすのは、あれだけじゃないだろうけど…でも、今、ここで手に入る鍵はあれひとつだけだった。……ねぇ、スエ。君とセトが忍び込んだ先は……」
「何だよ。想像はついてるって言ったろ?」
「ああ、想像はね。幾つか…ほら、君たちが言った遺伝子。それを扱ってる会社の名前は頭に浮かんだよ。かなりギリギリのラインを扱ってる会社の名前がね。そのどれかの会社に、どれかの会社の依頼で忍び込んだんだろうと思ってた。……特定すべきだった。さっき、わかったよ。君たちが盗みに行ったのは、リーマシーの保管庫か…そうじゃなきゃ、インディス・プラントだ。……そうだろう?」
疲れたように微笑んで、シキが尋ねる。俺とスエを交互に見ながら。でも、俺は覚えていない。ジーンの種が、二つ。透明なアクリルケースに並んでいた光景はまだ覚えている。でも、それがどこの倉庫だったのか、何の会社だったのかは覚えてない。どうせ覚えられないからと聞かなかったのかもしれないし、聞いてはいても、忘れてしまったのかもしれない。どちらにしろ、俺の記憶にはない。
「ああ。当たりだよ。リーマシーの依頼で、インディス・プラントの金庫に忍び込んだ。ただ、リーマシーの依頼そのものは、試験管に入ってる別のモンだぜ? ジュラルミンケースごとかっぱらったんだ。そして、ジーンの種は同じ場所にあったから、なんとなく持ってきただけだ。言ってみりゃ、ついでだよ。セトが目に留めなきゃ、ポケットになんか入れなかった」
スエが肩をすくめる。スエの説明を聞いても、やっぱり俺にはよくわからなかった。ただ、あの時、何故かあの茶色い小さな種から目を離せなかったことだけ覚えている。
「ああ…そうだろうね。あんな形で開発されていることを、リーマシーも知らなかったんだ」
「……なんだよ、もたもた呟いてばっかりで。何が何だかわかんねえじゃねえか。ちゃんと説明しろ、説明!」
シキの隣に、スエが腰を下ろす。その衝撃で、ソファのスプリングは更に耳障りな悲鳴を上げる。そんなものは聞こえなかったかのように綺麗に無視して、スエはシキの肩を叩いた。
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