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◆ 種は二つ ◆
ハッキングの途中だった。目的のものは随分と奥深くに保管されている。俺を阻む幾つもの防壁。壁を破ることにだけ集中していれば、罠が足元に口を開ける。対侵入者用の撃退ウィルス。それを無効化させながら、目の前の扉を開ける『鍵』を見つける。その作業は間違いなく危険ではあるけれども、俺はそのスリルを楽しんでいるのかもしれない。
セトはそんな時だけ人が変わるよな、と。以前スエが言った。そうかもしれない。ただ、最近は少し違うように思う。
ついさっき、買い物に行くと言ってスエが出かけた。一人で部屋にいると、いろいろなものが曖昧になっていく。境界線を無くして溶け合っていく。鍋に入れたバターよりも簡単に溶けていく。未完成のコンピューターグラフィックのように、色の指定が忘れられたかのような俺の視界。いくつかの目立つ色合いの他は、何もかもが同じ色に見える。
色は…ひょっとしたら減っていってるのではなくて増えていってるのかもしれない。俺の視界に映る色の数は、どんどん減っていってるけれど。でもそれは、俺の目の奥で、色が増えていってるからかもしれない。色が重なれば重なるほど…それは透明になっていくんだから。
モニターの横にある、古ぼけたクローゼットにぶら下がってる服。一番端にあるコートは多分、スエのだ。あまり着ないけれど、スエにはよく似合っている、真紅のコート。そう…真紅だったはずだ。今の俺には淡いピンクにしか見えないけれど。俺の中で、青とか緑とか…赤以外の色が増えれば、赤は弱くなる。だからきっと、俺の中の色が増えてるんだ。
『色ってのは混ざれば濃くなるじゃねえか』と、スエが言ったことがある。何の時だったかは記憶にないけれど。でも、そこで俺は反論した。色が混ざれば混ざるほど、透明になっていくだろう、と。
俺たちの言葉を聞いてたシキが、何だか面白そうに笑っていた。
『スエは色のことを言っている。でもセトは光のことを言ってるんだね』と。俺にとって、色も文字も、モニターに映るものでしかない。そうじゃなきゃ、看板に使われてるネオンだ。ネオンの黄色は、赤と緑を両方ともたくさん混ぜた色だと俺が言ったのを聞いて、スエが、そんなのを混ぜたって薄汚い色にしかならないと…そうだ、そんな話をしていたんだった。
色の三原色と光の三原色の違いだと、シキが説明したと思う。よくは覚えていない。俺にとっての色は、混ぜれば混ぜるほど…重なれば重なるほど透明になっていくものでしかないから。
透明に。…少しずつ透明になっていく俺の視界。それは光が増えていくことだから、怖いとは思わないけれど。
色が曖昧になって、記憶が曖昧になって、時間が曖昧になって。輪郭を失ったもののなかに漂ってるのは、正直言って不安だ。それでも、スエがいるならそれでいいと思っていた。スエの瞳の色は見えるから。
でもスエは出かけた。だから、俺は俺がわかる範囲のものにすがる。それがハッキングだった。コンピューターを操ることは覚えている。コマンドを叩くキーボードの配列も覚えている。色のない世界でもそれは、色よりもよほど確かだ。
『私は貴方を選んだ。なのに貴方は私を選んではくれないの?』
唐突に、画面に現れる文字。俺はその文字を読んで、思わず振り向いた。気配とでも呼べる何かを背後に感じたから。……そこにあったのは、ジーンを植えたバケツだけだったけれど。
別の情報が入り込む余地はない。随分と高いセキュリティを何度もくぐり抜けた末にたどりついた場所だ。
『私が貴方を選んだのは、仕方のないことだったのかもしれない。でも、そうだとしたら、一番最初に選んだのは貴方だわ。そうじゃない?』
問いかける言葉。甘い香りが俺に届いた。
「……選ぶ? 何のことだ?」
『貴方は私を咲かせたもの。種を選んで私を持ち帰ったもの。だから貴方は私を選んだ。だから私は貴方を選んだ。だってもう貴方しかいない』
「選ぶと……どうなる?」
『ああ…わからない? ねぇ、もう一つの種はどうしたの? 貴方がわからないなら、私を選んでくれないのなら、どうして種は一つだけなの?』
ジーンの種を盗んできた時のことを思い出した。並んでいた種は二つ。透明なアクリルのケース。そこに敷き詰められた柔らかな真綿。その上には……茶色い種が二つ。ジーンと、あと一つ。そう…あれは………あそこへ置き去りのまま。
「一つだけなら駄目なのか?」
『駄目に決まっているわ。だって私たちは一つのつがいだった。私と彼とで一つだった。私たちは並んで育つはずだった。だってそうでしょう? 男と女がいなければ、子供なんか作れないわ』
俺は気が違ってしまっているんだろうか。モニターのなかに並ぶ文字。ああ…駄目だ。くぐり抜けてきたセキュリティの壁は五つ。その中にはどうしても解除できなくて、時限装置のようなプログラムを置いてきて、ようやく抜けてきたものもある。ぐずぐずしていると…それが作動してしまう。解除できないものなら、いっそ追われた時に利用しようと、追っ手を封じ込めるためのプログラム。時間がない。もうここから出ないと、そのプログラムが作動する。追っ手と同じ場所に俺は閉じこめられる。
回線を切りたい。物理的にケーブルを引き抜いてしまいたい。いや…駄目だ。そんなことをしても、形跡は残る。俺がいた証拠は残る。そんな無様で危ない真似はできない。
なのに俺はモニターの中に映る文字に答えている。意味のわからない問いかけに、のんびりと答えている。
「君はどこにいるんだ? ここに? それとも俺の部屋に?」
『貴方の後ろよ。さっき振り向いたじゃない』
そこにあるのはジーン。
俺は無意識にコマンドを叩いていた。もう、何をハッキングしに来たのかすら定かじゃない。ただ、足跡を消しながら帰り道を辿る。いくつかのセキュリティをくぐり抜けたところで、警告音が短く鳴り響いた。一瞬だけ指が止まる。でも大丈夫だ。ここからなら十分に間に合う。俺を追いかけてはこられない。
『ねぇ、何をやってるの? 私を見るよりも大切なこと?』
モニターの文字。
最後の防御壁をくぐり抜けて、俺は改めて返事をした。
「何でもないよ。もう終わった。君は…ジーンだろう? 俺が君を選ぶとどうなる? 君が俺を選ぶとどうなる?」
『貴方が私の伴侶になる。ただそれだけ』
「色をなくしていく視界のなかで……みんな曖昧になっていくのに、どうして君だけははっきりしている? 君の花びらの色合いも、風に揺れるその音も……どうして、君だけは今でも…いや、前よりも一層、はっきりしている?」
『それはきっと、貴方が私を選んだから』
選ぶとか選ばないとか、そういうことはわからない。そもそも、そんな選択肢があったかどうかもわからない。覚えていないのか、最初からなかったのか。ああ…でもひょっとしたら、あの種をポケットに入れたあの瞬間…あれが選択だったのかもしれない。
『そうよ、あれが最初の選択だった』
俺の心を読んだかのようにジーンが応える。
『貴方が私を一人にしてしまった。だから私は彼の代わりを探さなくてはならないの。私を咲かせたのは貴方。それなら、彼の代わりは貴方だわ。ねえ、考えて。人は一人では生きられないわ。男と女と…どちらか片方しかいないのなら、子供が作れないじゃないの。だから私には彼が必要だった』
でも……でも君は花だ。
『私は……人間よ』
俺はモニターの電源を切った。
電源を切る寸前に、画面に並んだ文字の幾つかが残像として残る。少しだけ無様な最後だったけれど、とりあえずは証拠を残さずに拾ってきたファイルのタイトルとか回線状況を示す数字とか画面の隅に居座ってる現在時刻とかジーンの言葉とか。
◆ 人間 ◆
花だよ。君は花だ。俺とスエが盗んで来て、そして、バケツで育てた花だ。少し変わった葉と花びらと、嗅いだことのない匂いがする花だ。
雄しべもない雌しべもない…だけど不思議と匂いだけは漂う。俺にしか届かない匂い。俺にしか聞こえない声。
「セト、よくこのファイルをハックできたね。さすがだなぁ」
隣で、柔らかい声がする。一瞬、誰の声だかわからなかった。自分の座ってる場所、やっていたこと。全てが、ほんの一瞬だけ、白い靄に包まれて…そして再び姿を現す。
ああ、そうだ。隣に居るのはシキだ。俺はシキに頼まれて、データを盗みに行った。そしてそれを、今、シキに確認してもらっているところだ。
「……壁がたくさんあった」
そう、防壁は五つ。最後の壁を越えて、目的のデータを探している途中に、モニターにジーンの言葉が現れた。
今、俺の隣でシキが操っているのは俺のコンピューターだ。つい数時間前、ジーンが俺には分からない言葉を並べたモニターだ。
「おまえが、セトに頼んだものって、何のデータなんだ? そんな難しいモンなのか?」
熱いコーヒーを満たしたマグカップを三つ持って、スエが俺たちの後ろに座った。もともと、床に直接、コンピューターを置いてある。モニターやキーボードが載っているのは、少し低い台だ。コンピューターを使う時には、床に直接座り込むことになる。俺やスエは慣れているけれど、シキは少しぎこちない仕草でキーボードを叩く。
「“中央”の医療機関が所有してるものだよ。他のところなら幾つか、ツテはあるんだけどね。ここはちょっと厳重で…それでセトに頼んだんだ」
モニターの前で、あぐらをかいて、シキがキーボードを操る。それに応えて、俺が盗んできたデータが画面でスクロールする。モニターは、忠実に、データを表示する。何も、不思議なことはない。本来なら、モニターはただそれだけの役目のはずだ。指示されたものを表示する、ただそれだけなのに。
『貴方が私を選んだから』
コーヒーを口に運ぼうとした、その手が止まる。息が止まる。心臓の鼓動さえ、止まりそうになる。
「セト? どした?」
シキの肩に手を置いて、モニターを覗きこんでいたスエが振り返る。
いや、と答えて、俺はコーヒーを飲んだ。熱い液体が喉をおりていく。大丈夫、心臓は動いてる。
もう一度、モニターを見た。指令に忠実でしかあり得ないモニターを。文字は……どこにもなかった。
「コーヒーが熱かっただけだ」
スエにそう答えて微笑む。それならいいけど、とスエが笑った。
片膝を立てたままの姿勢で、シキの後ろに座り込んだスエは、シキの背中に覆い被さるようにして身を乗り出す。モニターを見つめながら呟く。
「なんか…何のデータなんだかよくわかんねえな、これ。“中央”の医療機関って言ってたけどよ、そこに何か面白いモンでもあんのか?」
「ああ、あるよ。面白い…興味深いものがね。僕じゃ、ちょっと…あそこに入り込むのは無理だから、セトに頼んだんだけど。これは…うん、家に戻ったら分析してみないと」
嬉しそうな、面白がるような、そんな顔でシキが笑う。
俺は、自分が何を持ってきたのかはよく知らない。シキに言われたデータの名前に合致するものを選んで、根こそぎコピーしてきただけだから。
「なんだよ、盗んできたデータの何を分析すんだよ?」
「いやだなぁ、人聞きの悪い。盗んできたんじゃないよ。返してもらっただけさ」
「だって、他人のとこに行って、黙って持ってきたんなら、盗んだってことじゃん」
スクロールする数字。記号。意味の分からない単語の羅列。シキにはそれが分かるんだろう。時々頷いてる。
分からない。答えの出ない方程式にしか思えない数字も記号も。未知の言語を綴っているとしか見えないアルファベットも。そして、何故ジーンが何も言わないのかも。
俺が一人でモニターを見ていると、ジーンは言葉を綴り始める。なのに、今はどうして沈黙しているんだろう。俺が君を選んだとすると、俺はどうなるんだろう。伴侶になるってことはどういうことだろう。その疑問には答えてもらってない。なのに、ジーンは今…何も言わない。
「ああ…確かに、手段はそうだけどね。もともとこのデータは、僕が“中央”にいた頃に研究していた材料だよ。僕自身が幾つか、プロテクトもしたんだけど……ああ、すっかり書き換えられてるな。どうりで使われ放題だったわけだ。それにしては成果が出てないみたいだけど」
全く、“中央”もだらしがない…と、シキが笑みを漏らす。そんな時でさえ、シキの笑顔は何だか人が善さそうで。
「ああ…そういや、おまえ、“中央”にいたんだっけな。その頃の仕事がこれだったのか?」
スエが尋ねる。シキが、“中央”出身なのは俺も知ってる。俺とスエも、産まれたのは“中央”だ…と、スエが言っていた。俺は覚えていない。よほど小さい時にそこを出たのか、それとも俺が忘れただけなのか。それはよく分からない。
「そう。“中央”で医者をやってたよ。…いや、医者を…って言うのは正しくないかもしれない。一応、医師免許はあったし、何人かの患者もいたけどね。治療することよりも研究するほうが専門だった。まぁ、よくあることさ。病気の研究をするには、病気がわかってなくちゃいけない。目の前に、その病気がなくちゃ研究ができない。だから、人間の体をどういう状況に置けば、その病気が発生するのか、どんな薬や治療法を使えばその病気はどんな反応をするのか。細胞で試して、動物で試して……最後にはやっぱり人間で試さないとね」
相変わらず、人の善さそうな顔で微笑みながらシキが言う。それを聞いたスエが首を傾げる。
「ええと……人体実験とかいうやつ?」
「そう。僕自身は、人体実験とは思ってなかったんだけどね。他の実験を何度も何度も繰り返して、あとは人間でやってみるしか、確かめる方法はなかった。だからやった。実験じゃなくて、確認のつもりだったんだ。僕は、患者を殺すつもりもなかったし。ただまぁ、結局うまくいかなくて、患者が死んじゃって、僕が所属してた機関の上のほうが、安全性がどうの、倫理的な問題がどうのって…文句つけてきてねぇ。医師免許剥奪とかはどうでもよかったんだけど、いろいろと面倒になったから、出てきちゃった」
はは、と笑ってシキが言う。シキに、殺すつもりがなかったのなら、本当にそうなんだろう。人間の病気を治すのに、人間で確認したり実験したりするのは特に不思議なことだとは思わなかった。
どうやら、スエも同じ考えだったらしく、それもそうだな、と笑っただけだった。
「で、まぁ…出てきて、貧民街に来てからも、いろいろ研究は続けてたんだけどね。昔、提出したデータの中に、今やってることに役立ちそうなのがあったのを思い出してさ。向こうを出てくる時に、いろいろ取り上げられたものを、セトに取り返してもらっただけ。…ほら、盗んだわけじゃないだろう?」
ふと、ジーンの言葉を思い出した。
『私は人間よ』
ならば、ジーンで実験しても人体実験になるんだろうか。………違う、そうじゃない。ジーンは花だ。ただの花だ。…ほら、今だって、窓辺で風に揺れてるだけの、ただの花だ。甘い甘い匂いは、いつだって部屋の中に満ちあふれてるけれど。スエとシキはいつだってそれに気づかない。俺にだけ届く匂い。
ああ…だから、なのだろうか。俺がジーンを選んだから…ジーンが俺を選んだから、だから俺はジーンの匂いを感じるんだろうか。だからジーンは俺だけに話しかけてくるんだろうか。
シキの指が、コンピューターからディスクを取り出す。もう画面はスクロールしない。何も映さない黒い画面。次の指示を待つだけのもの。ジーン、君の言葉も映らない。
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