| |
Clear
◆ アナタガワタシヲ ◆
「やぁ、こんにちは。いい天気だねぇ」
のんびりとした声。シキの声だ。
「よう、シキ。入ってこいよ」
それに応えるスエの声。
「スエ、これお土産。美味しそうなトマトが売ってたんでね。トマトは二人とも好物だったろう?」
扉の開く音と、がさがさと紙袋がこすれる音。
「お、ウマそうじゃん。さんきゅ」
「どういたしまして。……あれ、セトは? 出かけてるのかい?」
「ああ、いや違うよ。……ほら、そこにいる。今は取り込み中だ。プログラム書いてんだよ。聞こえてはいるだろうけど…いったん書き始めると止まらないんだ。ひと区切りつけば返事もするだろうけどな」
苦笑混じりのスエの声。
いくつもの音を耳に入れながら、俺は目の前のモニターをじっと見つめていた。
ループする数字。アルファベットの羅列から浮かび上がる単語と記号と不可思議な絵。絵を読み解いて、答えを出せばそれはコマンドとなってプログラムの一部になる。
少なくとも、俺がプログラムを書くということはこういうことだ。それ以外に俺は説明する言葉を知らない。
「へぇ…何のプログラム?」
「ああ、こないだの仕事でさ、セキュリティを解除する暗証番号を解くのにちょっとばかり時間がかかったんだ。それで、その解読プログラムを改良するって言ってたな。昨夜、どっか…どこだっけ。警備会社だかどこだか…ま、どこでもいいや。よその会社のシステムに入り込んでネタかっぱらってきたって言ってたよ」
早速トマトにかぶりついているのか、少しくぐもったスエの声。
「よそのシステムに……まぁセトなら出来るだろうね。裏じゃ名の知れたハッカーでもあるんだし。僕も今度、セトに頼もうかなぁ」
「何だよ、欲しいネタあんのかよ」
「うん、ちょっとね。“中央”の医療センターにおもしろいモノがあるらしいんだけど…あと少しってとこで防壁に阻まれるんだよねぇ」
きっと今のシキは困ったような顔で笑ってる。頬のあたりなんかをぽりぽりと人差し指で掻きながら。
「オレじゃそんな話はわかんねえからな。セトの仕事が終わったら聞いてみろよ」
「うん、そうだね。……そういえば、ジーン、だっけ? 例の花。……えっと…あ、そこか。本当だ、綺麗に咲いたねぇ」
「匂いなんてするか? やっぱオレの鼻が悪いのかな。匂いなんてしねえんだけど」
「え? ああ………いや、僕にも匂いなんて…鼻はつまってないはずなんだけど」
「だろぉ? セトが敏感なのかな」
違う違う。そうじゃない。あふれる香りが部屋中に広がってるんだ。モニターを見つめて、指はキーボードを叩き続けて。なのに意識がジーンの香りにさらわれそうになる。
集中してしまえば、隣で怒鳴るスエの声さえ聞こえなくなるはずなのに、それでもジーンの香りは俺に届く。
ランダムに変わっていく数字がモニターを埋める。ここにさっきのコマンドを打ち込めば…そんな瞬間に窓から風が吹く。ジーンの香りが鼻先をくすぐる。
…コマンドを。
「まぁ…嗅覚なんて、個人差が激しいけどね。けど…ちょっと気になるな」
「気になるって…何が?」
「いや、嗅覚異常は別の病気の症状ってこともあり得るからさ」
「病気? 鼻の病気ってことか?」
「いや、鼻以外の、だよ」
……誰だ。話してるのは誰だ。……ああ、そうだシキとスエだ。知ってる。覚えている。
目の前でモニターが揺れる。
アルファベットの羅列が描く不可思議な模様。目の端に映る単語。
『アナタガワタシヲ』
……何だって?
「セト? どうした?」
スエの声。ああ…そうか、知らないうちに声を出していたのか。違うよ、何でもないよ。偶然にそんな単語が出来ただけだから。言葉として意味をなすものなんてほとんど出来ないはずなのに。
『咲カセテクレタノハアナタ?』
……偶然に。
「セトの独り言じゃないか? 手元も変わってないし」
『アリガトウ。キレイニ咲ケタ』
耳をかすめる、柔らかい低音の声。鼻先を埋めるかのようなジーンの香り。モニターの中にある文字は俺に向けられてるんだろうか。今はどの回線にも潜ってないはずだ。なのに、あるはずのない文字があるはずのない単語を作る。
「なぁ、シキ。それよりさ…さっき言ってた病気って…」
「ああ、あせるんじゃないよ。スエ。検査しなきゃわかるわけないじゃないか」
「あ…そう…だよな。けど…ちょっと気になることもあって…」
「どうした? 口ごもるなんて君らしくないね」
「セトが…色がわかりにくいって言ってるんだ」
「色? ……色覚に異常が?」
「わかんねえよ。覚えてる色と違うって。……覚えてるものが違うのか、見えてるのが違うのか、セトもわかんねえみたいだし」
柔らかい男の声と、ハスキーな女の声と。
『キミハダレ?』
俺の指が質問を作る。答えるはずなんてない。モニターの中の偶然がこんなにも続くはずなんてない。
『ワタシノナマエハ、アナタガツケテクレタワ』
嘘だ嘘だそんなはずはない。
『ジーン?』
『ソウヨ』
そんなはずない。
俺は電源を切って立ち上がった。いきなり電源を切ってしまえば、今まで書いていたプログラムは無駄になる。それでも、俺は反射的に電源スイッチに指を伸ばした。
「セト? 終わったのか? ちょうどよかった。ほら、昨日なんだか色の記憶がどうこうって言ってたろ。目の病気かもしんねえから、シキに診てもらったらどうかと……セト?」
ハスキーな声が。
「……セト? 顔色が…」
柔らかな声が。
ふわり。
風が揺らぐ。匂いとともに。
「あ。………ああ。うん……いや、何でもないから」
思い出した。スエとシキだ。さっき、シキが俺たちの部屋にやってきて、トマトをお土産に持ってきて…。
ああ…どうして、この花の香りはいつでもこの部屋にあふれてるんだろう。
電源を切って、ただの黒くて四角いものに戻ってしまったモニターが気になる。つないでいないはずの通信ケーブルの先が気になる。質問を返したキーボード。それに答えたモニターの文字。
今になって思い出す。黒い画面を埋めていた文字は、あの路地にあるネオンと同じ色じゃなかっただろうか。そうだ、思い出した。ホテルのネオンはグリーンの文字だ。品のないグリーン。鮮やか過ぎるグリーン。目を射抜くモニターの文字と同じだ。
……アナタガワタシヲ。
そう。俺が君を。
「セト?」
え?
鋭く囁かれたような気がして、思わずびくりと顔を上げる。スエの瞳が目に入った。
◆ コンソメのゼリー寄せ ◆
今日は、いつもよりも少し早い時間にスエと待ち合わせだ。場所はいつもの路地。依頼主と会って話を聞いてくるスエと、路地で待ち合わせて、そのまま俺とスエは下見に出かける。今回の仕事は普段あまり行ったことのない街区だから実際のルートの確認が少し大変かもしれない。
いつも持ち歩く、データ解析用のコンピューターに近辺の街路も入力しておいた。人が少ない通りを選んで抜けたとしても、幾つかのセンサーや監視ロボットの目はある。それらのデータと実際の地理を比べて確認しなくてはならない。
出かける用意をして、俺は今まで使っていたコンピューターの電源を切った。開け放したままの窓から風が吹き込む。そして、それに乗って流れてくるジーンの香り。
俺の視線がジーンに吸い寄せられた。
ジーン。君が話したかのように思えたのはあれきりだった。もう一週間も前の話。でもどうして君は枯れないんだろう。一層色鮮やかになっていくだけで、枯れる気配なんか少しもない。確かに、季節はすっかり春になってしまっていて、花が咲くにはふさわしい季節なんだろうとは思うけれど。
あの時、モニターに映った文字は…。
…それよりも今は仕事だ。
陽が落ちてからもう随分と経つ。スエとの待ち合わせは、あと少し。
でもどうして。
どうして、俺はあの路地を見つけられない? 近くまで来ているはずだ。ほら、あの路地は見覚えがあるじゃないか。そう、きっとあの路地を右に曲がれば、いつものネオンが見えるはず。文字の足りないホテルのネオンと、華やかなカフェのネオン。
……どうして。
ああ、今、何時だろう。待ち合わせの時間は二十一時ちょうど。腕に巻いた時計が示す時間は……ああ……あと十分もない。
落ち着け。
焦って、疲れてしまっては、俺の記憶はもっと混乱してしまう。落ち着くんだ。きっと間に合う。それに今日は本番なわけじゃない。だから、少しくらい遅れてもスエは許してくれる。少しばかり心配させてしまうかもしれないけれど、そのことはあとで謝ればいいんだ。だから、今はあの路地を見つけることだ。
路地……そう、ネオンのある路地。ほら、足元がいつも濡れていて、ぼこぼこになったアスファルトに水が澱んでる路地。ネオン……そうだ、ネオンだ。……ネオン? ホテルの? あのネオンは……何色だった? ああ…違う。ホテルのネオンは文字が欠けていて、そして、下品な色合いで。隣のカフェのネオンのほうが華やかで。カフェの名前が思い出せない。カフェは何て名前だった? ホテルのネオンはどの文字が欠けていた? ああ、違う違う。そうじゃなくて。そんな細かいことはどうでもよくて。ホテルのネオンの色がわからなければ、あの路地にはたどり着けないのに。
早く行かなきゃ。スエが待ってる。スエが心配してるはずだ。きっとスエはもう来ている。時間には正確だから。
香りが。花の香りがした。
嘘だ。花なんか咲いてない。ここは見たこともない路地。気の早い酔っぱらいが倒れていて、なんだか嫌な匂いがしている路地。こんな場所に花の匂いなんかするわけがない。ジーンの匂いなんか。
足が止まった。ブーツの先が水たまりに突っ込む。水たまりに歪んで映るホテルのネオン。HOTEL。………なんだ。文字は欠けていないじゃないか。俺の記憶違いだ。そうじゃなければ、きっとホテルの支配人が、ネオンの文字を直したんだ。確かにあのままじゃ少しみっともないと思うから。そう。きっとそうに決まってる。だから、水たまりに映る赤いネオンはちゃんと文字が揃ってる。
暗い。路地はとても暗い。その中に赤く光るネオンだけが、明るい。あのネオンしか、色のあるものはない。そういえば、ここに来るまでにも、随分と道は暗かった。“中央”の、わりと明るい街区を抜けてきたはずなのに。まるで貧民街みたいに暗かった。
………スエがいない。どうしてだろう。もう待ち合わせの時間は過ぎている。なのにスエがいない。どうしてスエは来ないんだ? 危ないところに行ったわけでもないのに。例え危ないところに行ってたとしても、スエは強いから、いつだって時間通りに待ち合わせ場所にちゃんと来ていたのに。
まさか、スエに何か……? いや…ひょっとして、ここは待ち合わせの路地とは違うのか? 違う…? ああ…違うのかもしれない。ホテルのネオンは新しくなったけれど、それでもここは違うのかもしれない。ネオンは……赤だったか?
ぴぴ。と、俺のポケットで小さな音がした。通信機の電子音。
スエ?
『セト? どうした? 今どこだ?』
ああ、スエの声だ。無事だったんだ。無事ならどうしてスエはここにいない?
『セト……セト? 聞こえてんだろ?』
聞こえてるよ。どうした、スエ?
『どうした、じゃねえよ。待ち合わせの時間はもう十五分も過ぎてるぜ? 何かあったのか? 今どこにいる?』
どこって……どこ…ここは……どこだ? 俺は…今どこにいる? スエ、ここはいつもの路地じゃ……。
『…………………セト?』
違う…違うんだ、スエ。ホテルのネオンが新しくなっていて…だから、色も前とは違っていて……隣にはカフェ? そうだ、カフェのネオンがないんだ、スエ。
『セト。いいから、落ち着け。………わかった。迎えにいくよ。きっと近くだ。動くなよ?』
わからない。でもここがどこなのか、俺にはわからない。さっきまで、ここが待ち合わせの路地だと思っていた。だから俺はここに……。
『いいさ、わかってる。少し疲れちまっただけだろう? セト。落ち着け。周りに何が見える? 見えた順に言ってみろ』
周りには……ネオンだ。赤いネオン。ホテルの赤いネオン。それが水たまりに映ってる。ああ……ホテルの上には、ルヴァン…って、ルヴァン・ホテルって書いてある。
『OK。ルヴァン・ホテルの近くだな。その向かいには、デリカの店がないか? 食い物を売ってる店だ』
ああ……あるよ。そうだ。ソーセージや、パテが硝子のケースに並んでる。きっとその横にあるのはベーグルだ。
『ああ、そうだな。待ってろよ。動くなよ?あと十分もすればオレがそこにいくから。大丈夫。おまえはちゃんと待ち合わせの場所の近くまで来ていたさ』
うん。………うん、ありがとう。スエ。
『大丈夫だ。今日は下見だけだしな。おまえのいる場所からのほうが仕事の場所には近いから、便利なんだぜ? ああ、来週、本番の時には、待ち合わせしないで、貧民街から一緒に行こうな。少し時間は多めにかかっちまうけど、二人で一緒のほうがいいだろ?』
そう……だな。そのほうが安全だ。俺はどうも良くないみたいだから。このままじゃスエに迷惑ばかりかけてしまう。
『ンなことねえさ。大丈夫だよ。そうだ、下見に行く前に、そこのデリカでメシ買っていこうか。ヤム爺のとこのより、きっと美味いぜ』
大丈夫、大丈夫。スエは何度も繰り返した。通信機から聞こえてくるその声を聞いて、俺は何度もうなずいた。大丈夫と言われるたびに、馬鹿みたいにうなずいていた。うなずくしかできなかった。
通信機を持つ手が震えていた。ひょっとすると声も震えていたのかもしれない。だからスエはああやって何度も何度も大丈夫だと言ったのかもしれない。
デリカの店に入って、サンドウィッチを選ぶスエの後ろ姿を見ながら、俺はそんなことを考えていた。
スエが俺のところに来るまで、スエはずっと通信機から声をかけ続けてくれた。そうしなければ俺がどこかに行ってしまうかのように、ずっと話しかけていた。
どこかへ……行ってしまっていたかもしれない。スエの声がなければ。
「セト、スモークサーモンのサンドと、ローストターキーのサンドと、どっちがいい?」
振り向いた黒髪。
「どっちでもいいよ。……でも、そうだな。サーモンよりは、ターキーのほうが好きだ」
「OK。んじゃ、ターキーのと…あとは、サラダとソーセージかな」
「……スエ、そっちの……そう、右の。ゼリー寄せだろう? 色が綺麗だ」
「ああ、綺麗だな。んじゃこれも」
ピクルスを忘れちゃいけないよな、とスエがにやりと笑って注文をする。ピクルスが好きなのはスエだけだ。俺は嫌いだ。そして、俺よりも、シキのほうが、ピクルスは大嫌いだ。だから時々、スエは嫌がらせだと称してピクルスを沢山買う。
ピクルスの瓶を眺めるスエがとても楽しそうだから…言わないでおいたほうがいいのかもしれない。キュウリのピクルスも、セロリのピクルスも……そして、ベーグルに挟まっていたスモークサーモンも、俺には同じ色に見えるとは。
ゼリー寄せがどんな色なのか、俺にはわからなかった。ただ、透明で、四角い小さなものがいくつか浮いていて、下には白っぽいパテが敷かれていて。隣の札には、コンソメの何とかって書いてあったから、多分、透明な部分は金色をしているんだろう。だったら綺麗だろうと思った。
デリカの店の窓から、ホテルのネオンが見えた。赤い。ネオンの色だけはわかる。それならいい。
赤いネオンを見ているうちに、少し落ち着いてきた。スエと会えたからかもしれない。いつもの待ち合わせの路地からは、随分と西側に来ていることに、今になって気がついた。そして、もう一つ思い出す。背中のディパックの中には、コンピューターが入ってる。小さなものだけれど、データを幾つもいれてある。その中には、このあたりの街路図も入力されていたはずだ。迷った時に、それを開いていれば良かったのに。地図を呼び出すコマンドを叩くだけで良かったのに。
店の中に漂っているのは、焼いている途中のローストチキンの匂いだろうか。シキの所で食べたのと同じ匂いがする。スパイスと油と、少しだけ焦げた匂い。でも……もう一つの匂いがある。甘い……甘い香り。ああ…ジーン、君の香りだね。
|
|