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◆ ローストチキン ◆
「……まったく…君たちはいつでも僕を驚かせなくちゃ気が済まないのかい?」
「いいから早くどうにかしてくれよ! なぁ、どっかひどい怪我とかしてんのか?」
「いや…見たところ外傷は……左肩の打撲とこめかみの傷だけだね。こめかみのも打撲だよ。さっきの検査じゃ、どうやら心配はいらない。ただの脳震盪だと思うけど……」
……ああ…これはシキの声だ。そしてさっきから怒鳴ってるのはスエの声。シキはいつのまにパリィの店まで来たんだろう…?
そう思って、目を開けてみる。見えた天井はパリィの店じゃなかった。シキの部屋だ。
「あ。ほら、目を覚ましたよ。……セト? 僕が分かるかい? 分かるならそう言ってくれ。そうしないと僕がスエに怒られて……って、痛いよ! スエ!」
俺の顔を覗きこんでいたシキが、言葉の途中で慌てて背後を振り向く。片足を上げたままの姿勢でいるスエが俺を見た。
「セト! ああ…よかった。気ぃ失っちまったからよ、とりあえずシキんとこまで連れてきたんだけど…こんのボケ医者が、さっきから大丈夫しか言わねえんだよ」
どうやら、スエに蹴られたらしい背中をさすりながら、シキがその隣からもう一度顔を見せる。今日は縛っていないらしい、茶色い髪が襟足で揺れているのが見える。
「どこか、痛いところはあるかい? どこかが麻痺しているとか……」
「………いや…大丈夫。少し頭が痛いけど…さっきよりはマシだから。………これは、シキの服?」
寝かせられていた場所はどうやら、シキの病院の……何て言ったっけ。治療台とか…診療台とか…そういうところ。とにかく、そこから体を起こして、俺は自分の服を見た。さっきまでパリィの血で半分以上赤く染まっていたびしょ濡れの服だったのに、今はあまり見覚えのない服になっている。しかも少し大きい。
「ああ。僕のだよ。さっきの服じゃあんまりだったからねぇ。スエがあんまり騒ぐし…少し心配だったから、いろいろ検査もしてみたけど、どうやら異常はないよ。左肩も骨に異常はない。しばらくは少し痛むだろうけど…すぐに治るさ」
「セト!」
叫んでスエが抱きついてきた。まとめていない黒髪が俺の頬に当たる。少しだけ血の匂いがした。
「スエ……俺は大丈夫だから。心配するのはスエの役目じゃないだろう」
オレの役目だから、と…スエがそう言ったのは何だっただろう。覚えていない。思い出せない。でも俺がそう言うと、スエは笑って俺の目を覗きこんできた。
「それもそうだ。でもよかったぜ。セトが無事でさ」
そんなスエの後ろではシキが少し困ったようないつもの笑みを浮かべて椅子に腰をおろした。そういう座りかたは年寄りみたいだと俺とスエがいつも笑う座りかたで。
「ああ…僕も安心したよ。さっきはねぇ…本当にびっくりさせられたよ。けたたましくドアを蹴飛ばされたから、僕って誰かに恨み買ってたかなぁって本気で考えちゃったしね。そうしたら、ドアの先には血まみれのセトを抱えたスエが、ものすごい形相で立ってるんだもんなぁ。いくらこの街とは言え、そんな格好で歩いてきたら目立ってしょうがなかったろうにさ」
「ンなことねえよ。みんな、見て見ぬ振りしてくれたぜ?」
心外だとでも言うようにスエが笑う。それは俺も同感だ。だから俺はシキに教えてやった。
「……スエは、死体を引きずって歩いたこともある。腰から下が無くなってる奴とか」
「ああ、そんなこともあったっけな」
笑うスエに俺も笑った。
「だから今回は……死体じゃない分だけマシだと思う」
「でも、そん時のは半分しかなかったから、重さも半分だったぜ?」
「半分になったのは、解体屋のウバだった。……あいつの半分なら、俺のほうが軽い」
どす黒くなった巨漢の死体と、そこから垂れ下がっていた意外と綺麗な色の内臓を思い出して俺は笑った。それにうなずいて、それもそうだとスエも笑った。
「……君たちって……ああ…そうだね、今更だったな。ところでさ、こめかみと肩は打撲だけど、耳のところにも傷があるね。比較的新しいけど、今ついた傷じゃないだろ? 少しだけ化膿しかけてる。消毒はしといたけど…?」
問いかけるような顔で俺とスエを見るシキに、スエが笑って答えた。
「ああ、それな。オレが噛んだとこだ」
「……噛んだ?」
「そ。オレって噛み癖があるみたいでさ。セトにいつも笑われちまう」
苦笑いするスエ。
「スエはキスの数よりも噛む数のほうが多いかもしれない。……少なくともベッドの中ではそうだ」
言い添えた俺にシキが、ああ、と言った。納得したような顔でうなずく。
ベッドの中で…そういえば、さっきパリィは何て言ってたんだっけ。スエは確かに綺麗な女だけど、俺とスエとは……。ああ…思い出せない。鈍く残っている頭痛のせいかもしれない。もう一度眠れば思い出せるんだろうか? でもどうせパリィの言ったことだからたいしたことじゃないに決まっている。ひょっとしたら、でまかせかもしれないし。
「ところで、そろそろ遅れていた夕食にしないか? さ…セト、歩けるかい? リビングのほうに行こうよ。今日は、知り合いのつてでいい鶏肉が手に入ったんだ。ローストチキンを作ってみたんだけど…食欲はある?」
シキの言葉に、俺とスエは同時にうなずいた。
「へぇ…あの花、咲いたんだ?」
ローストチキンを切り分けながらシキが言った。意外と早かったねぇと呟いたシキにスエが教える。
「ああ、青紫色の…結構でけぇ花でさ。綺麗だぜ? 葉っぱがこう…少し灰色がかっててよ、見たことない感じだったけど」
ああ…スエは大事なことを忘れている。あの花を伝えるのに、一番大事なことを忘れている。
「あ、そんでさ、何て花なのかわからなかったから、セトが名前つけたんだよ。なんだかペットみたいでいいだろ?」
「ああ、それはいいね。なんて名前を付けたんだい?」
ローストチキンの皿を差し出して、シキが尋ねてくる。
「……ジーン、って。……よくわからないけど、思いついたから」
皿を受け取って、そのついでに俺が答える。隣で、そうそう、とスエもうなずいていた。
でもやっぱりスエは忘れてる。だから俺が教えてやろう。
「花も綺麗だし…葉も変わってておもしろいけど……ジーンはすごくいい匂いがする。何て言うか…甘くて柔らかくて…ものすごくいい匂いだ。さっきパリィに嗅がされた薬も甘い匂いがしたけど…あんなに甘ったるい匂いじゃなくて。綺麗な匂いがした」
「……え? 匂いなんてしたか?」
ローストチキンの切る場所を指定しながらスエがびっくりしたように言う。スエはあんなに部屋いっぱいになっている匂いに気がついていないんだろうか?
「したよ。甘い匂いが。俺は仕事から戻って来た時に、花よりも匂いに先に気がついた」
眠っていてさえ、夢の中に忍び込んでくる匂い。白い靄を甘い色に染め変えるほどの匂い。呑み込まれそうになる意識を、その甘さでつなぎ止めてくれるような。
「そう…かなぁ。気づかなかったな。鼻いいんだな、セト」
そう言って笑うスエ。俺の鼻が? でもそんな生やさしい匂いじゃないはずだけれど。
「セトの鼻がいいのか、スエの鼻が利かないのかは、今度、僕が証明してあげるよ。いいだろう? 僕にもジーンを紹介してくれよ」
シキがワイングラスに手を伸ばす。もともとの育ちのせいなのか、食事をするシキの動きは綺麗だと思う。柔らかくて、無駄がない。仕事をする時のスエと同じだ。無駄な音は立てない。
「ジーン…か。それにしても意味深な名前をつけたものだね」
安い赤ワインをグラスの中で回しながら、シキが微笑んだ。
…意味深な? どういう意味だろう。どこかで聞いたことのある名前だと思ったからそうつけただけのことだ。ジーンという言葉に意味があるかなんてことは知らない。知っていたとしても覚えてなんかいない。
「へぇ? ジーンって何か意味でもあんのか?」
スエが聞いた。知らなかったのか、と言う顔でシキがスエを見る。そして、その後に俺を見る。
「……俺も知らない」
空になったスエの皿に、再び切り分けたローストチキンを盛りながらシキが微笑む。ひょろりとした体格と、その柔らかい笑顔はシキにとても似合っている。僕はそんないい人間じゃないよと、いつだってシキは笑うけれど、それでもシキは悪い人間じゃないと思うし、こういう笑い顔が似合うなら、いい人間じゃなくたって構わないと思う。
「そうか…二人とも知らないで名付けたのか。名付け親はセトだろう? セトも知らなかったみたいだね。ジーンっていうのは…古い言葉でね、遺伝子って意味だよ。君たちは、仕事で遺伝子を盗み出した。多分、純粋な人間の遺伝子だろうと思われるものを。そして…同じ場所に保管されていた種から咲いた花をジーン…遺伝子と名付ける。……これは面白い符合だよね」
「遺伝子、か。へぇ…偶然だな。セト、知っててつけたわけじゃないんだろ?」
チキンにレモンを搾りながら、スエが笑う。
俺は知らなかった。ネットワークで調べ物をしていた時に出てきた単語だとは思うけど、それも自信がない。ただ、なんとなく響きが気に入っただけだ。
「そうだね、偶然だろう。違う綴りで女性の名前にも使われることはあるから、そっちのほうをセトは選んだのかもしれないしね。発音が似ているな、とそう思っただけさ」
チキンの足に噛みつきながらシキが言った。三本めのチキンの足。一羽分しかないはずだから、本当なら足は二本なんだろうと思う。でもここには三人いるんだから、足が三本あってよかった。分けやすいから。でも、その割りには、羽根の部分は二本しかない。羽根が三本あると、切りにくい形になるだろうから、それはそれでよかったのかもしれないけれど。
◆ 螺旋の隙間 ◆
「ん? セト、どした? 具合悪いのか?」
部屋に戻って、そのままベッドに直行した俺にスエが尋ねる。
「いや…そうでもないけど……少し頭が痛い。今日はもう休むよ」
「ああ、そうだな。そのほうがいい」
着替えを始めるスエを、ベッドの中から見つめながら、俺は聞いてみた。
「…スエ? ジーンの匂い、感じないか?」
「へ? ああ…そういえば、そんなこと言ってたよな。その甘い香りって…今もしてるのか?」
鼻をひくつかせるスエ。ああ…違う、そんなことする必要はないんだ。呼吸と同時に、空気の全部がその香りに染まってることがわかるんだから。
「してる。ずっと…部屋の外にまでは漏れてなかったけど、扉を開けたとたんに俺は感じた」
「………甘い…匂いねぇ…」
きょろきょろしながら、スエがあたりの空気の匂いを嗅いでいる。
「……駄目だ、わかんねえや」
諦めたように着替えを再開するスエの胸元で十字架が揺れる。
「そっか…わかんないか……」
どうしてだろう。こんなにすごい匂いなのに。ああ…目を閉じたら、全身がこの甘い香りに浸っているのがわかる。鼻とか口とか…体中の毛穴とか、少し痛む耳の傷口とか、そういうところからじわじわと俺の中に入ってきて、俺の息と血と肉とをその香りに染めていくみたいだ。あまりいいスペックとは言えない俺の脳味噌も、この香りに染められるなら、そんなに悪くないかもしれない。きっとそこから出てくるんだろう白い靄も、そのうち白くなくなるのかもしれない。そうだったらいい。白い靄が白くなくなるなら…靄じゃなくなるなら俺は俺のことを覚えていられるから。
「セト? 眠ったのか?」
少し低い、問いかける声。目は閉じているけれど、俺は眠っていない。でも、眠りに引き込まれるのはもうすぐだろう。いろんな穴から入り込んでくるジーンの香りに…夢さえも染め変えるほどの香りに浸かって眠るんだ。そうすればきっと嫌な夢は見ない。
香りで弛緩した喉は、スエへの返事を拒否した。パリィに絞められた喉は、奥のほうでまだ痛むし、血の味もするけれど、傷ついた粘膜からジーンの香りが沁みこんでいくのなら、それはそれでいい。
「着替えもしねえで…しょうがねえな。ま、いっか。どうせシキの服だ。……ほら、毛布くらいかけろよ」
スエの低い声は、こうやって囁くと少しかすれた感じになる。古ぼけた毛布と同じ、かすかにざらついたイメージ。でも、毛布と同じで心地いい。
俺の体にゆっくりとかぶさってくる毛布は、なんだかひどく優しかった。スエの声と同じだと思った。
毛布の下で、ちゃり、と音がした。胸の十字架の音だ。銀の鎖、十字架の真ん中にある小さな空洞。絡みつく荊のような彫刻。緻密で精細な螺旋模様。
俺の中から抜け落ちた記憶はきっと十字架に溜まっていく。銀の螺旋の隙間に、ねじ込まれていくんだ。
……頭が痛い。どくんどくんと…俺の、役に立たない脳味噌が何かを言おうとしてるみたいだ。俺のなかの一部なら、俺に分かる言葉で言えばいいのに。俺はいつだって、俺の脳味噌ががなり立ててる何かをつかめない。何を言ってるんだろう、何をしたいんだろうって…そう思ってるうちに、脳味噌はそのうち、何も言わなくなる。そして俺は……また忘れるんだ。
どくん。どくん…。ジーンの香りだ。震える頭蓋骨のどこからか、甘い香りが忍び込んでくる。“どくん”と“どくん”の隙間を埋めようとして沁みこんでくる。ああ…いいよ、こんなに気持ちいい匂いなら、隙間を埋めてくれていいよ。どうせ、俺の頭の中なら隙間だらけだ。ひからびたフランスパンよりも多い隙間に、ジーンが入り込むなら…それでいい。
きっと、俺の頭の中はジーンを植えてあるあの歪んだバケツみたいなものなんだろう。記憶とか知識とか…そういうものを詰め込もうとしても、ある一定の量以上は入らない。それでも詰め込もうとすれば、溢れる。溢れるのは、入れようとしたものかもしれないし、それまで入っていたものが押し出されるかもしれない。新しいものが覚えられない時もあれば、古い記憶がなくなっていく時もあるから、きっとそれはランダムに零れていくんだろう。
他の人間は…もっと大きなバケツなんだろうか。いくら大きくても所詮はバケツでしかないなら、きっといつかは限界が来るんだろう。本来なら、人間の脳はコンピューターもかなわないほどのスペックを持っていると聞いたことがある。いつどこで、誰に聞いたのかはもう覚えてはいないけれど、その言葉だけは奇妙に記憶に残った。
どんなにいいスペックでも…最高速度のコンピューターだって、処理できるものには限度があるし、記録する容量にも限度がある。俺のなかのハードディスクは、他の人間よりも容量が少ないのかもしれないけれど、単純にそれだけの問題なのだとしたら、別に構わないと思う。バケツなのかハードディスクなのかはわからない。でも、それはどっちでも同じことだと思う。とにかく、それが小さくて余計なものが入らないのなら、大事なものだけとっておけばいいと思うから。
◆ 十字架の空洞 ◆
瞼の裏に光が射した。朝…というよりも、昼近い時間の光が。
「セト、調子どうだ?」
覗きこんでくる声。
「ああ………昨夜よりまし…」
答えて目を開ける。スエの青い瞳が間近にあった。そして、スエの肩越しに入り込んでくる強烈な光。…天気なんか良くなくたっていいのに。
射し込んできた、きつすぎる光に思わず目を閉じる。眼球の奥に鈍く残る痛み。瞼の裏で動く何かの残像よりも、スエの青い瞳のほうが痛かった。多分、まぶしすぎたんだ。
「あ、わりい、まぶしかったか」
そう言ってスエが振り返る。開けたばかりらしいカーテンを。
「曇ってんだけどな…」
それでもスエは窓際に立っていって、半分だけカーテンを引いた。射し込む光の量が半分になる。瞼の裏でそれを感じとって、俺はゆっくりと目を開けた。
「……起きたばかりだったからだよ」
ゆっくりと……目を開けた時よりもさらにゆっくりとあたりを見回す。光の量がさほどでもないことに気がつく。……じゃあ、なんでさっきはあんなにまぶしかったんだろう。迷惑なくらいに天気がいいのだと勘違いするほどに。
ああ、でも当たり前かもしれない。見ると、腕の時計はやっぱり昼近い時間を示している。昨夜、シキのところから帰ってきたのはそんなに遅い時間じゃなかったはずだから、随分とたくさん眠ったことになる。
「少し眠りすぎたみたいだ」
苦笑する俺にスエも笑った。メシでも食おうぜ、と言ってキッチンへと向かっていく。
キッチンから、いくつかの物音が聞こえ始めた。そして、それに混じって、何かが鳴っている。……何の音だろう。考えようとしてすぐに気がついた。ジーンの音だ。肉厚の葉は、風に揺れるほど軽くはない。風に揺れて音を立てるのは、薄い花びらだ。触った感じはそんなに硬くないのに、ジーンは風に揺れるたびに音を立てる。そして、光を受けるたびにきらりとそれを跳ね返す。
柔らかい布のようでいて、硝子のように輝く花びら。灰色がかった緑色の葉と茎は、綺麗と言えるものじゃないけれど、その上にぽっかりと咲いている青紫の花は綺麗だった。
昨日、出かける前に見た花はまだ開ききってはいなかった。でも、今俺の目の前にある花は、あでやかに咲きほころんでいる。見た目と触感と奏でる音に、調和と不調和とを同じだけ散りばめて、甘い香りを零している。
ジーンのすぐそばに腰を下ろして、俺はジーンの花びらに指を伸ばした。そっとその先端に触れる。俺の指の重さでわずかに揺らいだ花びらは、俺が指を離すのと同時に、鈴が鳴るような音を立てて戻っていった。
触れた先端は淡い青だ。半透明の…スエの瞳の色をゼラチンで溶かしたような色。そして、中心にいくにつれて、紫が色濃く混じり始める。真ん中は、青というより紫だ。
仕事の帰りに、時々見る空の色に似ていた。あまり雲の多くない空が、夜から朝へと変わっていくあの一瞬の色に。
ジーンは…少し変わってると思う。甘い匂いとか風に揺れて音を立てることとかもそうだけれど、ジーンには花心がない。雄しべとか雌しべとか…そういったものが、普通の花にはあったと思う。でも、ジーンにはない。花心というのは、花の生殖器官だと聞いたことがある。誰に聞いたことだったのかは忘れてしまったけれど。
有性生殖とか無性生殖とか…聞いたことのある単語ばかりが頭の中をぐるぐると回るけれど、俺には答えは出せない。花を咲かせるというのは、有性生殖の証だとも聞いたはずだけれど。でも、俺の知識なんかあてにはならないし、少し変わった場所に保管されていた種なんだから、少しぐらい変わっていても不思議はないと思う。
風にそよいで、眠気を誘う音。その風に乗って俺を包もうとする甘い香り。ジーンはスエに似ているのかもしれない。そばにいるとむやみに安心したくなるようなところとかが。
「セト? メシできたぜ。食欲ないなら無理にとは言わねえけどよ。少し食ったほうがいいだろ。調子悪いんなら、食ってからまた……セト? おい?」
……声がする。スエの声。
「……ああ、聞いてるよ」
起きたばかりだというのに、音と香りに誘われてまた眠り込むところだった。
「ジーンのそばがいいなら、そっちでメシ食おうか?」
笑いを含んだスエの声が問いかけてくる。
「いや、いいよ。キッチンですませよう。……少し考え事してただけだから」
「考え事? なんだ?」
「いや…ジーンには、雄しべとか雌しべとか…そういうものがないと思って。植物にはそういうのがあるのとないのとがあるって聞いたことあるような気がするんだけど…」
「ああ…そういうことはオレじゃわかんねえなぁ」
低くうなり続ける冷蔵庫から、オレンジジュースを出しながらスエが笑った。俺もうなずく。
キッチンには、小さなテーブルと椅子が置いてある。その椅子に二人で腰を下ろしながら、ふとスエが言った。
「ま、ジーンのことに限らねえけどよ。そういうことは、あの男に聞けばわかったんだろうな。こういう時だけはあの男が…」
「あの男? ……誰?」
シキのことじゃないはずだ。シキは植物には詳しくない。俺やスエよりは詳しいと思うけれど。
でも、俺が聞き返したとたんに、スエは不思議な顔をして黙り込んでしまった。あの男が…って、何かを言いかけてたはずなのに。オレンジジュースと一緒に呑み込んでしまったみたいだ。
少し焦げたウィンナーにフォークを突き刺しながら、スエの顔を見る。長くて黒い睫毛に縁取られた青い瞳が、俺のフォークの動きを追っていた。でもきっと、追っているだけで見てはいない。
「……どうしたんだ? 俺、何かまずいこと言ったか?」
「いや…なんでもねえよ。そのウィンナー…やっぱりちょっと焦げちまったなと思ってただけだから」
スエが笑った。それならいいと俺も笑った。俺の胸で銀の十字架が音を立てたように思ったけれど…それはきっと気のせいだ。
「でもさ。不思議だよな」
手元のサラダにドレッシングを大量にふりかけながらスエが言う。
「なにが?」
「ジーンだよ。雄しべやら雌しべやらがないんだろ? んで…オレは感じないけど、匂いがするんだよな? 普通、匂いって花の芯からするもんじゃねえのか?」
言われてみればそうかもしれない。でも、確実に匂いはする。そして、それは花が咲く前はしていなかった。と言うことは、やっぱりあの甘い香りは花そのものから零れているんだろうと思う。
「……見えないだけで、ひょっとしたらすごく奥の方に、小さい花心があるのかもしれない」
きっとそうに違いない。そうじゃなかったとしても別に構わないんだし。
「ああ、そうだな。……セト、十字架がサラダに首突っ込んでるぞ」
スエにそう言われて、テーブルの上を見る。本当だ。サラダのなかから、十字架を引っ張り出して、まとわりついたドレッシングを拭き取った。螺旋の隙間に入り込んだオリーブオイル。この隙間には違うものが入ってるから、オイルが入る余地なんかないはずなのに。ジーンの匂いとか、俺の記憶とかそういったものが入ってるはずだから。オリーブオイルに押し出されて…そういうものもどこかに行ってしまうんだろうか。
「……スエ? この十字架さ、真ん中に小さな空洞があるだろ? 何か…石でも嵌ってたのかな? 覚えてるか?」
「ああ、そこか? 石が嵌ってたぜ。えっと…二年くらい前かな? オレが仕事帰りに、どっかで石落としてきてさ。そうしたら、それを見たおまえが…」
「…スエのと同じにするって言って、嵌ってた石を自分で外した…んだったっけ?」
「そうそう。覚えてるじゃん」
嬉しそうにスエが笑う。言われて思い出しただけで、覚えていたわけじゃない。でも、スエが嬉しそうならいい。
食事を終えて、皿を洗うスエの後ろ姿を見ながらふと考えた。
今日は、天気がいいんだろうか、それともスエが言ったようにやっぱり曇ってるんだろうか。その判別すらつかない俺はどうかしてしまったんだろうか。
部屋の中はまぶしい。カーテンを半分だけ引いて、それでさっきよりはマシになったけれど、それでもカーテンの隙間から射し込んでくる光は、部屋のなかのいろんなものを光らせる。反射する光が時折、目に飛び込んできて、目の奥が痛む。
けど、その一方で、部屋のなかの色合いは少しだけ…そう、ほんの少しだけぼんやりとしている。映りの悪いテレビのように、本来の色から少しだけずれた色を俺の目に送り込んでくる。雲が厚い昼間のように、明るいけれど薄暗い、そんな気分にさせられる。
スエの髪、スエの瞳、そしてジーン。その色合いだけは変わらないけれど。
半分だけ開けてある窓から、風が入ってくる。ジーンの花びらを揺らして、ジーンの匂いを乗せて。
「どした? ぼんやりして」
皿洗いを終えたスエが俺の瞳を覗きこんでくる。
「いや…何でもないよ」
そう。何でもない。たとえば、放り投げてあるセーターはブルーだったような気がするけれど、今は黒っぽく見えることとか。そういうのも、俺が感じる色合いが間違ってるとかじゃなくって、もともとブルーなんかじゃなかったのかもしれないから。記憶に残ってる色と目に見えている色が違うからといって、見えているものがおかしいとは限らない。残っている記憶そのものがあやふやなんだから。それに、どちらにしろ、それはセーターだという事実は変わらないから。
「ただ…そう、ちょっと思い出してたんだ。ほら、待ち合わせをする路地。ホテルとカフェのネオンがあるところ」
「ああ、昨夜……いや、一昨日か。そん時もあそこで待ち合わせたよな。おまえがいっつもカフェの名前を覚えられないところだ」
笑いを含んだスエの瞳の色は変わらない。
「そう、そこ。ホテルのネオンのLがいつ消えたのかは覚えてないけど…どうせ次に消えるならEの字が消えるといいと思ってたんだ。それなら単語として成立するじゃないか」
「それもそうだな。でもEは残ってたろ」
「うん。Eは消えずに、Oが消えた。単語になってないし、何よりも、途中に隙間があいてるのが不格好だ」
そんなこと考えてたのか、とスエが笑う。そうだ、俺はそんなことを考えていた。息苦しい音を立ててネオンは一文字ずつ息を引き取っていく。もう看板としての役割なんか半分も果たしていないかもしれない。でも、もともとあのホテルを利用する客がいたかどうかも怪しいから、それはそれで構わないのだろう。どちらにしろ、俺の知ったことじゃない。ただ、少し気になる。書いてある文字は覚えているし、どの文字が消えていたのかも覚えている。でも……あのネオンは何色だっただろう。
「カフェの名前はやっぱり覚えられないのか?」
「ああ、覚えてない。街の名前だとかスエが言ってたのは覚えてるけど。…でもいいよ。名前がわからなくても、あの路地は忘れてないから」
カフェのネオンは青と…黄色だったように思う。名前は覚えてない。Bで始まる名前だったようにも思う。でもそれも関係ない。
俺があそこで待っていて、そのうちスエがそこにやってきて。それから二人で仕事に出かける。そのことさえ変わらないなら、他の何があやふやになっていっても、ホテルのネオンが全部消えてしまってもかまわない。
「コーヒーでも淹れるか?」
「ああ、そうだね。ミルクがあるなら、カフェオレのほうがいいな」
「あ、わりぃ。ミルクは切らしてんだ。さっきオムレツ作るのに全部使っちまった」
「なら、普通のコーヒーでいいよ」
コーヒーメーカーは随分前に動かなくなった。だからお湯を沸かすところから始めなくちゃならない。
キッチンに立つスエの後ろ姿を見て、ふと思い出した。
「ああ…スエ? そういえば……俺たちの胸にかかってるこの十字架、真ん中に穴が空いてるだろ? ここって、何か石みたいなものでも嵌ってたのかな。覚えてるか?」
一瞬だけ。そう、本当に一瞬だけ、コーヒー豆の缶を開けるスエの指が止まったように見えた。
「………さぁな。オレも忘れたよ」
背中を向けたままのスエからの返事。コーヒー豆の匂いが俺の鼻に届いてきた。そしてそれよりも濃密なジーンの香り。
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