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◆ 卵 ◆
仕事を終えて、俺はいつものように部屋に戻ってきた。ふと、甘い香りを感じた。嗅いだことのない、甘い甘い匂い。何の匂いだろう? スエは香水なんてつけない。それに、今はここにスエはいないのに。スエは後から戻ってくるんだから。
匂いのもとを探そうと思ってやめた。部屋にあるものならいつかは気づく。それに今は、仕事があけた後で疲れている。今、何かを探そうとしても見つからないだろう。
ここに戻ってくる途中に、ヤム爺の屋台で食事を済ませたから、あとは眠るだけだ。ヤム爺は、新しいメニューだと言って、俺とスエにいつもの麺とは違うものを出してきた。小麦粉と塩と、そしてほんの少しのふくらし粉。それで作った饅頭だ。中には、ヤム爺だけが豚肉と呼ぶ肉が入っていた。麺に載っていた牛肉と同じ味だと思ったけれど、そのことはヤム爺には言わないでおいた。少し黄色みを帯びた、白っぽい饅頭は、ほかほかと湯気を立てていて、思ってたよりもおいしかったから。黄色いのは卵がたっぷり入ってるからだぜぇと、ヤム爺が言っていたように思う。実際のところ、卵がどれだけ入っているのか、それとも入っていないのか。俺にはあまり関係がないだろう。肉の正体と同じだ。食えるもので、温かくて、うまい。それなら何の文句もない。
スエが、じゃああとでな、と俺の名前を呼んでそう言ったあと、俺は一人で路地を歩いていた。そして、このビルの近くで少しだけ綺麗なものを見かけたように思う。なんだか霞がかかったような、ゴミ溜めの街の中で、少しだけ光る物。丸くて冷たそうで透明で、でも黒くて…中に何が入っているのかは、光の加減で見えなかったけれど、ああいう綺麗なものが落ちているなら、貧民街もなかなかのものだと思った。
なんだか少し…頭痛がする。ビールを飲もうかと思っていたけれど、それはやめてさっさとベッドに潜り込んだ。相変わらずうなり続けている冷蔵庫の前を通り過ぎた時に、窓際に見慣れないものを見つけた。青紫に光る何かを。……何だろう。あんなものが部屋にあっただろうか。さっき路地で見かけた、丸くて綺麗なものに少しだけ光りかたが似ている。同じ太陽の光を反射しているからだろうか。
でも、俺とスエが住んでいる部屋なんだから、俺とスエが知っている物しか部屋のなかにはないはずだ。だからきっと、あれは俺が知っているはずのものなんだ。仕事の後だから忘れているだけなんだ。眠ればきっと思い出す。
夢のなかで、俺は甘い香りを嗅いだ。甘い甘い、とろけるように甘い香りを。多分、夢なんだろうと思う。灰褐色の空白のなかで、白い靄に囲まれるだけの夢だけれど。それは現実じゃなくて、しかも俺自身は眠っているんだから、それは夢なんだろう。音も色彩も何もかもないはずの世界で、香りだけが鮮やかだった。
ベッドが、ぎしりと軋む。俺とスエの体重を支えるだけで精一杯の古いスプリング。
そうか…スエが戻ってきたんだ。なら、この甘い香りはスエの香りだろうか? 香水なんてスエはつけないけれど、ひょっとしたら、仕事先でもらってきたのかもしれない。…あれ? でも…さっき部屋に戻って来たときに、スエのいない場所で同じ香りを嗅いだような…あれは夢だったんだろうか。それとも今のこれが夢なんだろうか。
甘い…甘い甘い香り。色をなくした夢の世界に、甘い色がついていく。色がつけば、白い靄は白くなくなる。
動かした指先が、硬い物に触れる。指先に馴染んだ感覚。胸にかかっている銀の十字架だ。今触れているのは、俺の十字架だろうか、それとも、スエの十字架だろうか。わからないけれど、どっちでも同じだ。正確にたどれるほど覚えている…何故かそれは忘れない十字架の彫刻。絡みつく螺旋を指でたどって、俺はそのまま別の方向へと指を伸ばした。しっとりとやわらかいものに触れる。あたたかい…これはスエの肌だ。
なめらかなスエの肌。……卵のように…卵…ああ、そうだ、ヤム爺の饅頭には卵なんかきっと入っていないけれど、ゆうべ、パリィの店からの帰りに綺麗な卵を見た。ねじくれた鉄筋が中におさまった、黒くてでも透明な卵。硝子とアスファルトの融合。そうだ、さっきも見たじゃないか、同じ物を。卵にはなっているけれど、あれは硝子だ。あれはアスファルトだ。硝子は硝子でしかないし、アスファルトは溶けていてもアスファルトだ。硝子は、どこまでいって何をすれば、硝子じゃなくなるんだろう。アスファルトがアスファルトでいられるためには、どうすればいいんだろう。割れても溶けても、硝子が硝子でしかないなら、硝子はどこまで変われば硝子じゃなくなるんだろう。
……俺は何を忘れたら俺じゃなくなるんだろう。スエのことを覚えていれば…そうすれば俺は俺でいられるんだろうと思いたいけれど。
昼になってから俺は目を覚ました。俺がシャワーを浴びて服を着ても、スエはまだベッドで寝息を立てている。
俺は窓際に歩いていった。起きる少し前まで、夢の中で嗅いでいた香りの源がそこにあるから。
ゆうべまで固かった蕾は、今朝、花を開いていた。青紫の大輪の花を。灰色がかった濃い緑色の、肉厚の葉。そして、立っている俺のちょうど膝のあたりで、葉と茎の緑色は終わっている。そこには、ひどく突然に花があった。まだ開ききっていない花びらは、硝子のような光沢で光を反射する。でも、鮮やかな青紫のそれは、硝子みたいに硬くはない。ひらひらと風にそよぐ花びらは、揺れるたびにかすかな音を立てる。その音は、なんだかすごく綺麗な音だった。
見たことのない花からは、ひどく甘い香りがしていた。花の前で深呼吸をする。体の中に甘い香りが沁みていくような気がした。甘い甘い……路地の角で名前を聞いたことのない女の子が売っているビスケットよりも甘い香り。その路地の角を通ると、時々、甘ったるい香りが流れてきて、少し吐き気がするくらいだけれど、この花の香りは違う。いつまでも嗅いでいたいような香りだ。まだ開ききっていないはずの花から、こんなにも強い香りが流れてきてる。完全に開いたら、どんなにいい香りがするんだろう。
見たことのない葉と見たことのない花。もともと、俺は植物になんか詳しくないし、それを言うなら、俺は機械のこと以外、何も知らないも同然だけれど。それでも、この花は見たことがない。この花がなんて呼ばれる花なのか、俺は知らない。親父だったらわかったのかもしれない。この花の名前も。
親父は三年前に死んだとスエが教えてくれた。あの男は、植物のことに関しては奇妙なほど詳しかった。ちょうど、俺が機械のことだけならわかるように。何もかもをなくして、あの男は何もかもを忘れた。多分、親父は俺と同じ病気だったんだろうと思う。あの男が、視力と正気をなくしてしまったのは、別の理由なんだろうけれど。だって、俺は別に目は悪くないから。それに、あまり自信はないけれど、正気を保っているはずだ。スエがそばにいてくれるってことはそういうことだと思う。
光を映さない瞳をぼんやりと開けたまま、親父は呟き続けていた。自分に残されたたった一つの記憶を。何もかもを、自分のなかの白い靄に飲み込まれて、そんな中で、たった一つだけ残されたものを。残されるものが、植物に関する記憶だけだなんて、可哀想だと思う。俺にはスエがいる。俺のなかでたった一つ残るとしたらスエのことだろう。プログラムの書き方とか、機械の組み立て方なんて忘れても構わない。親父みたいになるのは嫌だ。
…あの親父が生きていれば、今、ここで甘い香りを放っている植物の名前がわかっただろうか? 育てかたとか、そういうことも。
「お、花咲いたのか。よかったな、花が咲かなかったらヤム爺に食われちまうとこだ」
スエの声が背中にかかる。裸にシーツを巻き付けたままの格好で俺の肩ごしに花の咲いたバケツを覗き込んでいた。
「どした? 何考えてた?」
「…この花の名前がわからないと思って」
「ああ、名前な。調べるってのもめんどくせぇし…シキにこないだ聞いたけど、あいつも知らなかったしな。んじゃ、適当につけちまえばいいんじゃねえ?」
絡まった黒髪をほどきながら、スエが笑う。甘い香りのなかで笑うスエが綺麗だと思った。
「……適当に?」
「ああ、そうさ。ペットみたいによ、名前つけちまえよ。昔…ほら、あの男が言ってたぜ? サボテンとか、名前つけて可愛がると成長が良くなるとか何とかさ」
あの男、と言うのは、親父のことだろう。俺の記憶にはその言葉は残っていないけれど、スエが聞いたと言うなら、きっと本当なんだ。あの男は植物に関しては嘘はつかなかったから。
「名前……何か、いい名前があるか?」
「ばっか。セトの花なんだから、セトが名前つけてやれよ」
そう言って、スエは俺の髪に手を伸ばした。シャワーのあとで、まだ乾いていない髪をくしゃくしゃとかきまわす。その指が、俺の耳に触れた。
「………っ…!」
「……ん? どした? 何か痛かったか?」
「いや……耳が…」
さっきまで忘れていたのに、触れられたことで痛みがよみがえる。そして、その傷を作った経緯も思い出す。
「耳? ………あ、ひょっとして、朝方にオレが噛んだとこか?」
スエが苦笑しながら、手を離す。その白い指に小さな赤い染みが出来ていた。
「あ、やっべぇ…血ぃ出てるのか? ちょっと見せてみろよ」
白い指先と、真っ赤な血のコントラストがなんだか綺麗だなと思って見ていた俺の頭をスエはむりやり自分の目の前に持ってくる。半乾きの髪をかきあげて、触れないように俺の耳を見ようとするスエの指先。息づかいが耳に届く。
「いいよ…たいしたことないし。スエは噛み癖があるのかもしれない」
苦笑する俺にスエも笑う。
「そうかもな。おまえの指噛んだこともあるし。……痛いか? 結構、思い切り噛んだみたいで、血ぃ出てっけど」
「いや…痛いけど痛くない」
「なんだ、そりゃ」
わかんねえよ、とスエは笑うけれど。小さな傷はその大きさの割には痛みを感じる。でも、スエが作った傷ならそれでもいいと思える。見せてみろ、とスエが覗きこんで、スエの息が届くなら、それでもいいと。セト、と、たとえばスエがそう呼ぶ声は、いつまでもとどまっていたりはしない。でも、スエがつけた傷なら痛みはずっとそこにある。確認できるものがそこにある。何日かすれば痛みなんてなくなってしまうんだろうけれど、それでもその何日かの間は痛みと傷跡がそこに残るから。
「……名前。何がいいかな」
この部屋にありもしない消毒薬を探しているスエから目を離して、青紫の花を見つめる。傷口が化膿しようがどうしようが…スエのつけた傷ならそれでいいから。
「花につける名前なんだから、やっぱ女の名前とかのほうがいいんじゃねえの?」
消毒薬探しをあきらめて、スエがそう答える。
「でも、俺は女の名前なんかあまり知らない」
「何かあんだろ。本で見た名前とかさ」
本はあまり読まないけれど…コンピューターのネットワークの中をいろいろと調べることはある。
「…………ジーン」
「へぇ? いい名前じゃん、それにすんのか?」
ふと思いついた名前だった。何かを調べている時に、ネットワークの資料の中に出てきたと思うけれど、それが何のことを意味するのかはわからない。それでも、その言葉の響きは、この奇妙で綺麗な花には似合ってるんじゃないかと思う。ジーン。……悪くない。
◆ 銃声は聞こえなかったけれど ◆
「あ、そういやさ、さっき帰ってくる途中でシキに会ったんだ。晩メシ一緒に食おうって言ってたぜ? まだ夕方前だけどよ…ちっと早いけどシキんとこ行くか?」
シャワーを浴びたあと、シャツに腕を通しながらスエが言い出す。確かに、ここにいても別に仕事をしているわけじゃないから、シキのところへ行くなら、いつ行っても同じだ。
「ああ…でも、その前にパリィの店に寄りたい。昨日、仕事前に行ったら、頼んであったものが一つ不足してた。今日の夕方にもう一度来いって言ってたから」
「なんだ、急ぎか?」
「いや、そうでもないけど。シキのところに行くなら通り道だろう。……スエはパリィが嫌いだからな」
嫌そうな顔をしているスエを見て、俺が笑う。そんな俺を見て、スエは眉間のしわをさらに深めた。
「あの男の目つきがイヤなんだよ。なんてぇか…ゲスな感じがしてよ」
「それはそうだろう。実際、パリィはそういう男だ。上等な奴なんかじゃない」
「ははっ! 上等とか下等なんてぇなら、オレたちだって上等とは言えねえけどな。でも、そうだな。セトの言うとおりだ。パリィは上等な奴なんかじゃない。……でもまぁ、ここらじゃパリィの他に、ああいうモンを扱ってる人間はいねぇからな。しかたねえか」
甘い香りのなかで、スエが肩をすくめる。スエは気がついていないんだろうか? 花が咲いたな、とは言ったけれど、いい匂いだなとは言わなかった。でも、気がついていないはずはない。これほどに強い香りなら、眠っていてもわかる。言わないだけで、スエも気がついてるに違いない。ビスケットよりも甘いこの香りに。
「んじゃ、オレはルッツのとこで酒買ってるからさ、おまえはパリィんとこ行ってこいよ」
遅い午後の光が、薄汚い路地に差し込んでいた。今日の天気は悪くないから、薄いシャツ一枚でいても寒くはない。太陽の光も十分に届いているはずだ。それでも、この街はいつでも薄汚い。埃が舞っているせいもあるのかもしれないけれど、それよりも、街全体に染みついた何かの臭いが、そんな風に思わせるのかもしれない。
「わかった。部品を受け取るだけだから、あとで俺がルッツの店に迎えに行く」
「ああ、んじゃまた後でな」
白い手のひらを軽くひらひらと振って、スエは路地の角を曲がっていった。もう一ブロック先に、酒を専門に扱っている男が住んでいる。店を出したりはしていないけれど、ここらの住人はその男の部屋を、ルッツの店と呼ぶ。主人のルッツは、気さくな男で、俺も嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、あまり喋りたいとも思わない。俺が喋る相手はあまり多くないほうがいい。どちらにしろ、覚えてなんかいられないんだから。
分厚い埃がたまって、まるで曇り硝子のようになっているパリィの店の外側から、中を覗きこむ。奥で人間が動くのが見えた。パリィは店にいるらしい。
「……」
がたがたと、音を立てる店の玄関を開けて、俺は中に入っていった。さっきまで動いていた人間はやっぱりパリィだった。振り向いていきなり笑いかけてくる。
「よぉ! セトぉ! 来てくれたんだぁ? 昨日言ってた部品だろ? 奥に用意してあるからよぉ、ちょっと一緒に取りにきてくれねえかなぁ?」
「……取ってこい。俺はここで待ってる」
「んなぁつれねぇこと言うもんじゃねえぜぇ? 用意はしてあったんだけどよぉ、さっき見たら見つからなかったんだ。……っと、んな怖い顔すんなよぉ。わかってるって。ちゃんとあるんだよ、部品はよ。メモリーチップだろ? きっと、別の部品に紛れただけだと思うからよぉ、一緒に探してくれよぉ?」
にやにやと、いつもの笑いをその顔にへばりつかせているパリィ。無精ひげが、浅黒い肌をよけいに黒く見せている。部品の山に埋もれた、パリィの大きな体はひどく窮屈そうだ。奥の部屋はこの店よりは広いとは言え、この鈍重そうな男なら、一度見失ったものを探すのはひどく手間だろう。スエをあまり待たせたくもない。
「……わかった。奥だな」
さっきまでいた部屋には、甘い香りがしていた。花の……ジーンの香りが。だけど、ここにはその香りはない。埃の臭いと、貧民街の臭いと、パリィの臭い。それだけしかない。
「へへっ。ありがとよぉ。こっちだ」
奥の部屋に続く扉をパリィが開ける。そして、自分は中には入らないで、俺を先に通そうとしていた。女子供にするような真似を、パリィは時々俺にする。あまりいい気分ではないけれど、それをこの男に抗議しても、多分変わらないんだろう。それなら、抗議なんかするだけ無駄だろうし、俺が何かを言うと、パリィはいつだってその何倍も言葉を返してくるから、疲れるだけだ。それならいっそ、こんな扱いも無視していたほうがいい。
扉を押さえるパリィの腕を見るともなしに見ながら、俺は奥の部屋に入っていった。パリィの宝物の部屋に。
俺が入ったすぐあとに、パリィも続く。そして扉が閉まる。それと同時に小さな機械音がした。
「……?」
何の音だろう? ……聞いたことがある音のように思う。ああ…そうだ、思い出した。俺が、ビルの倉庫に使っている電子ロックと同じ音だ。
それを思い出したのと同時に、パリィが動いた。鈍重そうに見えていた男だけれど、意外と動きは素早いのかもしれない、と、そんなことをふと思った。そして、次の瞬間には、俺の口元に薄汚れた布が当てられていた。
「……っ!」
甘い…花の香りに似た香りがした。
「へっ…おめえが悪いんだぜぇ、セト? いっつも、俺がおめぇを誘ってるってのによぉ、おめぇはいっつも俺を無視すんじゃねえか。茶でも飲もうぜって、言った俺にうなずいてくれねえじゃねえか」
俺の頭と口元を押さえつけるパリィの目はどんよりと濁っていて、それでも、奇妙にぎらぎらと光っていて。ここからすぐ近くにある、硝子とアスファルトの卵に少し似ていた。
「おめぇはスエとしか一緒にいねぇけどよぉ、俺にだって笑ってくれたっていいじゃねえか。俺が何したってんだよぉ? 俺ぁいつだっておめぇのことを心配してたんだぜぇ? スエはそりゃ綺麗な女だけどよぉ。所詮は、姉貴じゃねえか。てめえの姉貴と寝る男なんて、ろくなもんじゃねぇってみんな言ってるぜぇ? だからよぉ」
ぎらつく光。酒臭い息。スエが? ……スエがなんだって? 甘い香りが鼻から入ってくる。ジーンの香りに少し似ているけれど、それよりも、濃い香り。甘ったるい、鼻の奥に…粘膜にまとわりつく匂い。
押さえつけてくるパリィの腕を無理矢理に振り払った。危ない。この男は危ない。下等な男だと思ってはいたけれど、ここまでヤバイとは思っていなかった。熱に浮かされたように喋り続けるパリィの口の端に小さな泡がついていた。俺が腕を振り払ったことで、パリィは怒ったらしい。
「……なんでだよぉ? なぁ、なんでだよぉ。セトぉ!」
「うるさい。……帰らせてもらう」
ジーンの香りじゃない匂いが、鼻の奥にまとわりついている。頭の中に染みついている。膝から力が抜けそうになる。
「帰らせねえよぉっ!」
向かってくるパリィの鳩尾を狙って、蹴りを放った。……少なくともそのつもりだった。手足に力が入ってさえいれば、それは成功していたんだろうと思う。……まさか、脱力の発作? いや…違う。さっきの…甘い匂いのせいだ。
反対に、蹴ろうとした足をパリィに捕まれてしまった。振り解こうとするより先に、パリィが俺の足を高く上げる。
「……う…わっ!」
バランスを崩したと思った次の瞬間には、左肩と頭に衝撃がきた。
意識が揺らぐ。暗転しかける視界をつなぎとめようと努力することは、今、必要なことなんだろう。でも一番難しいことでもあるのかもしれない。
天井から吊されている裸電球が、視界の隅に映った。そこにパリィの影が入り込んでくる。
そして、唐突に銃声がした。続けて二発。
「セト! ここか?」
スエの声だ。返事をしようと思ったのに、うまく喉が動かない。パリィの手が俺の喉を押さえつけているからだと、今ようやく気がついた。息が、詰まる。
「……て…めぇっ! 何してやがるっ!」
スエの声が響く。
スエの叫びの後には多分、銃声が鳴り響いたんだろう。それも何発も。だって、スエが持っていた銃の弾倉は空になっていたから。でもそれが立てたはずの音は俺の記憶には残っていない。
自由になった喉を無理矢理に空気が通っていく。刺激を受けて咳き込む口の中に、血の味が広がった。口の中を切ったのかもしれないし、喉の粘膜が傷ついたのかもしれない。でも一番あり得そうなのは、盛大に飛び散っている血の何滴かが俺の口に入った可能性なんだろうと、うっすらと思った。
ついさっきまでパリィの手で絞められていた喉に、埃の混じった空気が沁みる。空気がひりひりすることなんて初めて知った。視界が滲んでいるのは、涙のせいなんだろう。そんな歪んだ視界のなかに、さらに歪んだパリィの顔が映った。もう呼吸なんて必要としなくなったパリィの顔。濁った瞳は確かに俺を見つめているけれど、さっきまでのぎらついた奇妙な輝きは無くなっている。
腰のあたりに、奇妙に生暖かくて湿った感触がある。さっき、パリィに転がされた時には床は濡れてなんかいなかったのにと、視線を動かしてみると、まだ涙で歪んだままだった視界が真っ赤に染まった。ああ…パリィの血か。これが全部。人間の中には随分とたくさん、生臭い液体が詰まっているものなんだ。知らなかった。もちろん、血が生暖かいこととか、口の中では錆び付いた味がすることとか、中途半端に生臭くて時間が経つと腐ったような臭いに変わって、でも更に時間が経つと茶色く変色してしまって、生きていたことなんか嘘みたいになることは知っている。血を流す人間を何度も見たから。死体だって何度も見た。でも、こんなにたくさんの血を体から流してる人間を見たのは初めてかもしれない。
のしかかるパリィの体重が重くて、それから逃れようと、仰向けになっていた姿勢から肘を立てた。視界を歪ませていた涙は拭ったし、何度か咳き込んで、まだ喉は痛いけれど、さっきよりは呼吸もマシになっている。
左肩と、左のこめかみに痛みを感じた。ああ、さっき床に打ち付けたところだ。
「セトっ! 無事かっ!」
スエの声。見ると、スエは苦労してパリィの体を横に転がしたところだった。体を押さえつけていた体重がなくなったことで、一気に楽になる。
「……っ…ス……エ…」
少し咳き込んだけれど、とりあえず声は出た。中途半端な姿勢のまま見上げた俺に微笑んで見せてスエが言う。
「セト、怪我ねえか?」
ああ…やっぱり綺麗だ。ジーンの香りに似た甘ったるい匂いがまだ頭の奥に残っていて、頭痛に似た中途半端な疼きを残しているけれど、そんな中で見てもスエは綺麗だと思った。
「ああ……少し…ぶつけただけだから…大丈夫…」
「……立てるか? ほら、手ぇ貸すよ」
スエの手を借りて立ち上がる。パリィの血でずぶ濡れの俺を見て、スエが大きく息をついた。
「ズボンおろされる前でよかったよな。ンな真似してたら、このゲス野郎…楽に死なせるだけじゃ済まねえとこだったぜ」
「スエは…少し過激だと思う。……パリィの体を抜けて俺に弾が当たったら…」
「ばぁか、ンなへましねえよ。だから、起きあがってるパリィの上半身だけを狙ってんじゃねえか」
片目をつぶって見せるスエの肩を借りたまま、俺も笑った。笑うとこめかみが痛む。どくんどくん、と脈打っていて、なんだかそこに心臓があるみたいだった。
「……セト? どっか痛てぇのか?」
その声に返事をする前に、視界が黒くなった。目を閉じた覚えはないのにおかしいなと…最後にそう思ったことを覚えている。
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