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◆ 緑の芽 ◆
芽が出たのは、種を植えてから一週間目の朝だった。
「スエ、芽が出てる」
窓際のバケツを覗き込んだ俺の後ろに、スエが立った。
「あ、ホントだ。結構早かったな。ま、芽だけじゃまだどんなモンが咲くのかわかんねえけどよ」
「それを言うなら、そもそも花の咲く種なのかもわからない」
「そりゃそうだ」
オートミールと牛乳という、至極簡単な朝食を二人で食べる。冷蔵庫のモーターは相変わらずうるさいけれど、小さな緑色がバケツの上にぽつんとあるのは何だかとても綺麗だから、こういうのも悪くないと思えた。ブリキのバケツは歪んでいるし、土は赤茶けた色をしているけれど。それでも、出たばかりの芽は綺麗だったから。
「あ、そうだ。今日ちょっと出かけてくるけどよ。何か欲しいモンとかあるか? ついでに買い出ししてくるから、いるモンがありゃ言えよ。ビールやメシの材料やらは買ってくるけど」
「………冷蔵庫」
「ははっ! 同感だな。“中央”まで行きゃ、そのくらい売ってるだろうけど。でもなぁ、電気製品は買う時にIDが必要になるんだよな。めんどくせぇ。偽のIDとか作って買ってくるか。途中で車もどっかで調達すりゃ運べるんだしよ」
笑って答えたスエの声が、どんどんと真剣味を帯びてくる。それにつれて、細まった瞳の色が濃くなる。綺麗な色だと思った。
「偽のIDなんて、そんなアシのつきやすいもの、俺は作る気ない。……冷蔵庫が欲しいなんて冗談だよ。まだ十分動いてる」
「ああ、そりゃそうだけどよ。……そうだ、いや、出かける用事ってのがさ、新しい仕事の依頼の件で、依頼人と会うんだよ。だから“中央”の近くまで行くんだけどな。どうせなら、仕事の報酬は冷蔵庫がいいって言ってみるか?」
笑いを含んだスエの声が言う。
「悪くないな。でも、冷蔵庫一つでヤバイ橋を渡るのはご免だ」
「んじゃそれに洗濯機もつけてもらおうぜ」
「洗濯機を使うほど服なんかないだろう。洗濯機よりもオーディオのほうがいい」
「ンな、電波も届かねえような場所に住んでるってのにか?」
二人で冗談を言い合う。結局は、今回の報酬も現金かそれに相当する宝石でもらうことになるんだろう。じゃなきゃ、保存食料一年分だ。どうせ保管する場所はたくさんあるんだから。俺たちが住んでるビルの下の階は、全部空いてる。電子ロックくらいなら、そこらにある材料とパリィの店に売ってるもので、俺が幾らでも作れる。それに、俺とスエの持ち物だとわかって手をつける馬鹿な奴らは、ここらにはいないから。
スエが出かけてしまった後では、この部屋が広く感じられる。本当のところ、俺たちが住む部屋はそんなに広くはない。リビング兼寝室として使っている、俺が今いる部屋は、広さはあっても、ベッドやテーブル、コンピューターや本なんかが、規則性もなく置かれているから、かなり狭く感じるはずだ。それでも、目に見えるところに置いておかないと、俺は物を置いた場所を忘れてしまうから仕方がない。そして、この部屋に扉一枚でつながっている小さなキッチンと、シャワールーム。物置代わりに使っている小さな部屋。そこには、仕事道具や、着替えなんかが放り込んである。ゴミ溜めみたいなこの街と同じ、雑多な俺たちの部屋。なのに、スエがいなくなるだけで、なんだか物足りなくなってしまう。
バケツの芽に水をやりながら、俺は白い靄のことを考えていた。一人になるとどうしてもそのことを考えてしまう。
俺は、自分がたくさんの記憶を維持していられないことをわかっている。スエは、そんな俺を時々…そう、ほんの時々、いたわるような視線で見るけれど。でも、スエが思うほどには、俺はそのことをあまり気にしていないんだろうと思う。
確かに、白い靄みたいなものは俺の奥にあって、それがきっと俺の記憶を飲み込んでいってしまうんだろうけれど。そして、俺はいくつものことをすでに忘れてしまっているんだろうけれど。たとえば、今も俺の首から下がっている銀の十字架が、いつからここにあるのか、ということとか。でも、その理由を忘れてしまってもこの十字架がなくなるわけじゃないし、これはスエのものと同じだという事実も消えてなくなるわけじゃない。
覚えていられないことが不安じゃないのか、と。スエの瞳はそう語りかけてくる。いたわるような視線を向ける時には。でも、俺はその視線に応えることはしない。応えることは認めることだから。認めるのは自分が嫌だから。それは多分、不安というよりも、怯えに近いものだろう。俺の周りにある幾つかの出来事も、本当なら、それぞれの過去があるはずだ。けど、俺はそれを覚えていられない。その時だけはわかっていても、何日かすると忘れてしまう。それは正直言うと怖い。けれど…大事なものはなくさないから。俺とスエが別々に出かけた時に待ち合わせる場所は覚えていられるし。その路地にあるカフェの名前はいつだって覚えられないけれど、そんなものは大事じゃないから。全てをなくしても、スエのことを覚えていられるならそれでいい。スエのことが一番大事なことだ。
時々、白い靄のことがひどく怖くなることがある。いつだって、俺の奥にあって、大きくなることはあっても、決して小さくならずに、消えもしないその靄。それは色々なものを飲み込んでしまう。いつか、自分自身も飲み込まれてしまいそうで、怖くなる。泣きたくなるほど怖いそんな時は、スエのことを考える。スエの笑顔を思い出す。そうすれば、怖くなくなる。何をなくしても、何を忘れても、俺はスエを忘れない。自分のことさえ忘れても、スエを忘れない。そう信じれば怖くなくなる。俺の瞳が猫みたいだと言って笑うスエがいるなら、俺は耐えられる。仕事の後だと、記憶はいくつも曖昧になっていくけれど。自分の父親の墓さえもわからなくなるけれど。そんな時でさえ、俺はスエを信じてる。
シャツの隙間に埋もれている銀の十字架を指で探る。慣れた手触りが指先に触れる。見た目よりも重いそれは、触っていると何故か奇妙に安心する。スエとつながっているということを思い出すからだろうか。
俺の目の前で、赤茶けた土に水が染み込んでいく。少しだけ土の色が濃くなっていく。ぴくん、と芽がかすかに動いたように見えたのはきっと気のせいだ。
手元から鳴り響くエラー音で俺は意識を取り戻した。いや、取り戻したというのは正確じゃないかもしれない。どちらかというと、目が覚めたっていうほうが正しいのかもしれない。
仕事の時に使う、セキュリティ撹乱用のプログラムの新しいものを書いていたはずだ。とりあえず、俺が覚えている限りは。朝食のあと、スエが出かけて、俺は部屋でバケツの中の芽に水をやって。そうして、昼前からコンピューターの前に座っていた。昼を少し過ぎた頃に、昼食を食べなきゃと思ったのは覚えている。……けど、食べた記憶はない。
「………え……と……」
なんとなく頭が重い。こめかみを指先で揉みながら、思い出してみる。…そうか、昼食をと思って立とうとして…立てなかったんだ。手や足の力が入らなくなって…ちくしょう、脱力の発作だと思ったんだった。しばらくすれば動けるようになるからと…そう思ってるうちに眠り込んだのかもしれない。今日はそんなに疲れていなかったはずなのに。
とりあえず、手元のコンピューターがエラーを訴え続けている。うるさい。…しかも、眠っている間にどこか余計なキーを叩いたらしい。このエラーは…致命的だ。また最初からやり直しか。今日はもう諦めよう。だって、窓から射し込む陽はいつの間にかオレンジ色になっているから。きっともう夕方なんだ。
腕の時計を見る。午後六時過ぎ。結局、昼食は食べ損ねた。でも、珍しいことじゃない。そろそろ夕食の支度をしてもいいのかもしれない。
俺は立ち上がって、キッチンに向かった。多分そろそろスエが戻ってくる。戻ってくる前に夕食の支度をしてしまおう。
キッチンへと向かう時に、窓際を通り掛かった。ふと下ろした視線の先に、歪んだブリキのバケツ。……大きくなっている。朝に見た時よりも。植物というのは、こんなにも成長が早いものだっただろうか。俺は植物にはあまり詳しくない。もちろん、植物だけに限ったことではないけれど。こんな時は親父がいてくれたら良かったのに。あの男が話すことはいつだって植物のことや土のことばかりで、自分のことも俺のことも話したりはしなかったけれど。でも、植物のことはやけに詳しかった。朝から晩まで、ずっと虚ろな目で植物のことばかりを話し続けていた。ほんの時々、セト、と俺のことを呼ぶけれど、その後に続く言葉はやっぱり植物のことばかりで。視力をなくしていた、あの男の目は何も映していなかったけれど、もしも視力が残っていたとしても、きっとあの男の瞳には何も映っていなかったと思う。あの男が呟いていたことの大半は、俺はもう覚えていない。最初の頃はそれでも、意味のわかることを呟いていたはずなのに。
「………最初?」
自分の頭の中に浮かんだ言葉の意味がわからなくて、思わず口に出して呟いてしまう。スエのいない部屋で響く俺の声は、思った以上に大きくて、一人きりなのがわかっていても、辺りを見回してしまった。
……最初? 最初って…いつだ? 俺はいつからあの男とここで住んでいた? そして、スエとはいつからここで住んでいた? スエとは随分長く暮らしてるはずだ。それはわかってる。正確にいつからかとはわからないけれど、スエと一緒に生きてもう随分になる。スエと暮らした最初から、俺の親父だった男はここにいただろうか。……わからない。ただ、何年か前までは、スエは時々違うところで寝泊まりをしていたように思う。ビルの下の階だったり、向かいのビルのサキ婆さんの所だったり、俺の知らない男の所だったり。
……いやだ。こんなのはいやだ。親父のことなんて忘れていい。もう死んだ人間が、生きている間に何を口走っていたかなんて、どうだっていい。どうせあの男は狂っていた。視力と一緒に奴は正気までなくしてしまっていた。けれど、スエのことだけは忘れたくない。
寒気がした。半分だけ開けてあった窓から、夕方の風が吹き込んでくる。もう春だから暖かい、と窓を開けていたけれど、夕方になれば風は冷える。きっと…そのせいだ。背中が寒いように感じたのは、きっと吹き込んできた風のせいだ。
窓を閉じた。しっかりと閉じて、鍵もかける。指先が少し震えた。きっちりと閉めた窓の前で…それでも俺は震えていた。背筋を伝う汗が冷たい。鍵をかけた指先の震えが止まらない。
大丈夫だ。大丈夫…大丈夫だ、何でもない。俺はスエのことは忘れてない。黒くつややかな長い髪、吸い込まれそうな青い瞳。柔らかな白い肌。それよりも柔らかな赤い唇。少し低い、俺を呼ぶ声。
オマエノカミ、ヤワラカイヨナ。
そう言って笑ったスエ。そうだ、俺は覚えてる。だから怖がる必要なんてない。震えなくてもいい。まだ、白い靄は俺とスエを飲み込んでなんかいない。
右手は窓の鍵にかけたまま、左手で胸元を探った。スエと同じペンダント。そこにあるはずの安心は十字架の形をしている。人差し指の先が銀細工に触れる。そして次の瞬間には、十字架は俺の指をすり抜けて落ちてしまった。
ちゃり、と音を立てた先にはブリキのバケツ。汚れて歪んだバケツ。赤茶けた土の上に銀の十字架が落ちる。拾わなきゃ、と思った俺の視界に緑色が刺さった。種から出た芽。朝よりも格段に成長している緑。………どうしてだ? 本当に、半日しか経っていないのか? まさか…もう何日も経ったんじゃ…。
「…ち…がうっ!」
違う。違う違う。まだ半日しか経ってない。だってスエがいない。ちょっと出かけてくるから、と…そう言って出ていったスエが戻ってきていない。だから、そんなのは嘘だ。もう何日も経ったなんてことはない。ああ…白い靄は俺の時間の感覚を飲み込んでしまったのか。俺が眠り込んで…意識を手放したのはほんの半日だと……どうして俺は信じられない。自分の時間なのに。コンピューターがエラー音を出し続けていたのは、たった数時間だと…どうして信じられないんだ。
こんなことは慣れているはずだ。手足に力が入らなくなる発作は、そんなに珍しいことじゃない。疲れている時には時々あることだ。四肢の筋肉が弛緩したなかで、もともとあやふやなところが多い俺の意識は容易く眠りに落ちていく。そんな時は夢すら見ないで眠り込む。そうして起きた時には、自分が何時間眠っていたのかなんてことは、覚えていない。眠りに落ちる前にやっていたことを思い出すだけで精一杯だ。だから…時間の感覚を失うことなんか珍しくない。なのに…なのに、どうしてそれがこんなに……。
そうか…スエがいないからだ。俺が眠っていた間のことを、スエはいつだって教えてくれる。俺が聞けばスエは答えてくれる。なのに、今…目の前にスエはいない。
スエのいない世界で目覚めることが、こんなに怖いことだと初めて知った。スエのいない世界に意味なんか何一つないと、思い知らされた。
願わくば、俺が眠り込んでいたのは半日だけであるように。バケツの中で緑色の占める割合が大きくなってはいても。それでも、それはたった数時間の出来事であるように。
落ちた十字架を拾うことも出来ずに、俺はただ祈っていた。祈ることしか出来なかった。
「ただいま。遅くなってわりいな。……セト? いないのか?」
…………スエ。
「なんだ、いるじゃねえか。返事くらいしろよ。ンな窓際に突っ立って何やってんだ」
スエ。スエ。…………スエ。
「どした? 明かりくらいつけたらどうだ?そろそろ薄暗くなってきてるしよ。あ、そうだ。さっき、ヤム爺が店の残りモンだって言って安く売ってくれた羊の肉があるからよ。晩メシはそれにしようぜ」
…………。まだ…大丈夫だ。
◆ 機械屋の宝物 ◆
肥料もやっていないのに、何なのかわからない植物はどんどんと成長していく。種を植えてから一週間で芽が出て、それから十日で蕾らしきものをつけた。水と陽射ししか与えられるものはなくても、葉は伸びる。思ったよりも肉厚な葉が、陽射しを受けて緑色を濃くしていく。
「ずいぶんでかくなったな。その先についてんのって、蕾か?」
水を遣る俺の手元をのぞき込みながら、俺の背中側でスエが言う。
「ああ、そうみたいだ」
「葉っぱとか、やっぱ少し変わってるよな。厚みがあって、灰色がかってて…でも緑色で。なんか、その葉っぱとかって食えそうじゃねえか?」
着替えを始めつつスエが笑う。葉を食べるほど俺たちは飢えていないし、そうだったとしても、この葉程度じゃ飢えを満たすことなんかできやしないだろう。葉としては肉厚な部類に入るのかもしれないけれど、所詮はただの植物だ。どんな花が咲くのかはわからないけれど、今はまだ固いこの蕾が開くまで、この植物が枯れなければいい。
「サラダ代わりに、とか言って食べるなよ? こんな葉っぱじゃ腹はきつくならないだろうし」
言いながら振り向いた俺の視線の先には、スエがいる。着替えている途中で、下着姿のスエが。胸元にかかる銀の十字架は、慣れすぎていて、その存在すら忘れているようでスエは無造作に髪の毛を後ろへ流す。黒髪の先が十字架に少しかかる。
「……いてっ。ちっきしょう、またやっちまった」
鎖にからんだ髪をほどいて、スエは黒のレザーを手に取った。ライダースーツのような、その黒いツナギは俺たちの仕事着だ。
胸元のジッパーをあげながら、スエが俺の方を向く。
「セト、おまえの準備はできてるか? いつも通り、オレは先にいくけど…待ち合わせはいつもの路地のネオンの前だ。覚えてるよな?」
路地。いつも濡れてるような路地。足もとで歪んだアスファルトには、いつからあるのかわからないような水たまりがあって、そこには文字の欠けた下品なグリーンのネオン。隣には、カフェの名前。……大丈夫。覚えてる。
「大丈夫だよ。……カフェの名前は覚えてないけど」
「ンなモンは仕事に関係ねえよ。そっちはそっちでまだ準備あるだろ。もし何かあったら、連絡くれ」
「わかった。一時間後には、最後の情報が手に入るはずだから…変更があれば連絡いれる。受信機の電源入れるのを忘れないでいてくれ」
「わかってるよ、ンなうっかりさんじゃねえぜ?」
笑いながらスエは身支度を終える。スエは頭がいい。でも、時々…なんていうか、失敗をする。受信機の電源を入れ忘れるなんていうのはよくあることだ。多分、いろんなセンサーをやり過ごすのに、電源を入れたり切ったりするのが面倒で、切りっぱなしにしてしまうんだろう。
そのことを指摘しても、多分スエは変わらない。だから俺はそれを口には出さない。その代わり、身支度を終えて出ていこうとするスエに近づいた。
「また、あとで」
言いながら、スエの胸にかかっている十字架を手に取る。にやりと微笑んで、スエも俺の胸にかかってる十字架を手にした。
「ああ、またあとで」
そして、二人で同時に互いの十字架に口づけをする。仕事がうまくいきますように。二人が無事でいられますように。
スエが何を願っているのか、本当のところは知らない。でも、俺たちは仕事の前には、時々こういうことをする。そして、俺は十字架から指を離す寸前にもう一つ、心の中でつぶやく。……いつまでもスエのそばにいられるように。
「スエ…言っておきたいことがある」
「なんだよ、あらたまって」
「もしも…俺が何もかも忘れたら、冷蔵庫よりも先に俺を撃ち殺してくれないか?」
少し前に、スエのいない部屋で目覚めて思った。何を忘れてもいいからスエのことだけは忘れたくない。そんなのは嫌だ。そんな風になるのなら生きてなんかいたくない。
「……なんだよ、今から仕事に出かけるってのに、縁起でもねえこと言い出すんじゃねえよ」
少し困ったようにスエが笑う。
「でも、覚えているときに言っておかないと言い忘れたら困るだろ? だから…頼む」
「……わかったよ。もしそうなったら…オレが責任持っておまえを殺してやる」
「俺はスエのことは忘れないと誓った。何を忘れても、俺はスエを忘れない。だから…俺がスエを忘れた時は……スエの手で撃ち殺してくれ」
俺とスエの胸で、十字架が小さな音を立てた。
「ああ、わかった。……オレもセトを裏切らないと決めてる。だから、もしもオレがおまえを裏切ったら…セト、おまえがオレを撃ち殺せ」
うなずいた後に、スエが微笑む。仕事をする時の不敵な笑い方も綺麗だけれど、こうやってなんだか嬉しそうに微笑むのがやっぱり一番綺麗だと思った。そして、今のこの綺麗な笑みは、スエの言った言葉にとても合っていると思った。
スエが出かけたあとで、俺も自分の支度をし始めながら、コンピューターの画面を覗き込む。待っている連絡はまだ入らない。けど、その代わりに機械屋のパリィから連絡がきていた。以前に頼んであったものが手に入ったから店まで来て欲しい、と。
スエとの待ち合わせまでにはまだ時間がある。それに、どうせ連絡待ちの間は動けない。ならば、パリィの店に顔を出してもいいのかもしれない。ただ、パリィはお喋りだからあまり好きじゃないけれど。もうとっくに日は暮れている。でも、パリィなら店にいるだろう。
「よぉ、いらっしゃい。メール見て来てくれたんだな。待ってたよぉ、セト。しばらく顔見なかったけど元気だったか? おめぇ細っこいからなぁ。いつもなんだか顔色わりぃしよぉ。俺ぁ心配なんだよ、おめぇがよ」
パリィがにやにやと、俺を出迎える。この男はいつだってこうだ。へらへらと笑いながら、俺にしてみれば意味のないことを喋り続けるんだ。年は…聞いてはいないけれど、多分三〇を越えたあたりだろうと思う。貧民街へと移り住む前に何をやっていたのかとか、いつも仕入れてくる機械たちはどこから手に入れてるのかとか、そう言ったことは聞いたことがない。でもひょっとしたら、いつもの調子でパリィが勝手に喋っていて、俺がそれを聞いていないだけなのかもしれない。
少し浅黒い肌は、いつもなんだか表面がかさかさとしている。顔色が悪いと言うなら、パリィのほうがよほど不健康に見える。それでもパリィは俺を見るたびに顔色が悪いと言う。
「どうだい、仕事のほうはぁ? スエも元気かい? おめぇらはここらじゃ一番の腕っこきだからなぁ、そんなおめぇと付き合いがあるってんで、俺も鼻がたけぇんだよぉ。……お? どうした? 妙な顔しちまってよ。あ? ああ、そうそう、部品な。わかってるよぉ、おめぇがそれを取りにきたってことっくらいはよぉ。ただ、久しぶりに会ったんだ。挨拶くらいしたっていいじゃんよぉ」
久しぶり、といつだってパリィは言う。けれど、俺が以前にここに来たのは一週間前だ。何度も久しぶりと言うほど、時間は経っていない。俺が覚えているくらいだから、そんなに長い時間じゃない。
「RTECのメモリーチップ。GA規格のを三枚。支払いは現金で」
ごちゃごちゃと、古い部品や機械が山になっているのを、見るともなしに見ながら俺がそう言う。俺とスエの部屋のシャワールームほどの広さしかないパリィの“店”は、そんなもので埋め尽くされている。体格のよいパリィは、そんな部品に埋まっている。
でも、俺は知ってる。この“店”は表向きだ。この貧民街で、全てが裏の流通なのに、それでもそのなかで裏と表はある。ごちゃごちゃと汚くて狭いこの店の奥に、倉庫と称したもっと広いスペースがある。そこでは、部品たちはきちんと整頓されていて、ところどころ割れたガラスケースに収まっている。それは、まるでパリィの宝物の部屋みたいだ。お気に入りの部品を磨いて、ガラスケースに並べて。少し歪んだスチールのラックにも大きな機械たちが並んでいる。それは新品のモニターだったり、地中を走る通信ケーブルに違法接続するための道具だったり。気に入ったものや新しいものは、一度、パリィの宝物の部屋に入る。そして、パリィが売ってもいいと思ったものだけが表の“店”に出るんだ。違法だからとか、盗品だからとか、そんなことを気にするくらいなら、貧民街で店なんか開けない。この街に、正規のルートで入ってくるものなんか何一つないんだから。
「へいへい、わかってるよぉ。ちゃぁんとご要望の品はそろえたぜぇ? なぁ、セト。時間あるなら、茶でも飲んでいかねえかぁ?」
顎に生えた無精ひげをさすりながら、パリィが笑う。いつだってパリィはそうやって俺を誘うけれど、俺はこんな男と茶を飲むほど暇じゃない。いつものそれは嘘だ。でも、今日は本当に暇じゃない。この後には仕事が控えている。
かさついた浅黒い肌、伸びっぱなしの黒髪、どんよりと濁った黒い瞳。そして、絶えず無駄なことを喋り続ける口。
「………品物を」
こんな男に関わっている暇はない。
「ちぇっ。いつも冷てぇなぁ、セトは。なんだ、急ぎの用事でもあるのかよ。ひょっとして仕事かぁ?」
言いながらも、俺が急いでいることは伝わったらしく、パリィは店の奥に消えた。
しばらくしてから、小さな箱を抱えて戻ってくる。だが、二つしかない。頼んだのは三つだ。
「わるいなぁ。二つっきゃねえんだ。あと一つが明日の夕方には手に入るからよぉ。また明日来てくれや」
にやにやと笑いながらパリィが言う。揃ったと言うから来たっていうのに、とんだ無駄足だ。それでもパリィの前に一人でいるのは、なんだか嫌な感じがするから、そのことに対する文句は言わないでおこう。
「二つなら…五〇〇だな」
丸めた紙幣を、ズボンのポケットから取り出して、俺はパリィに差し出した。それを受け取ったパリィが、ついでに、差し出した俺の手首を握る。
「ありがとよぉ。なぁ、セト。おめぇはいつまでその仕事続けんだい? おめぇほどの腕がありゃ、ネットワークだけでも食ってけんだろうがよぉ? そんなにスエのやつが好きかい?」
手首を握って、部品の山ごしに俺を引き寄せながらパリィが言う。わかりきったことを言う。今更なことを言う。
「……離せ」
かすかに汗ばんだパリィの手から、自分の手首を振りほどいて、俺はパリィが逆の手に持っていた小さな二つの箱をむしり取った。
「いつだって、スエといちゃいちゃべたべたしてよぉ。みんな言ってるぜぇ? スエとセトは腕はいいが、ちょっとおかしぃんじゃねえかぁってなぁ」
聞きたくない。みんなというのが、どのみんななのかは見当がつくし、奴らがいろいろと、俺にはよくわからないことを口走ってるのも知ってる。でもそれは、スエが気にするなと言ったことだから。おまえは知らなくていいことだと言ったことだから。だから俺は聞きたくない。パリィの口からそんなものは聞きたくない。
「明日には揃うんだな」
確認の意味を込めて、そう言う。そして俺はそのまま、パリィの店を出た。
「セトぉ? 俺ぁおめぇのことが心配で言ってるんだぜぇ?」
パリィの声が追いかけてくるけれど、それはゴミ溜めの街のゴミが一つ増えるだけで、俺の記憶には残らなかった。
パリィの店を出る頃には、瓦礫の街に月の光が届いていた。途中からぽきりと折れた形の高層ビルの向こうに、白い月が見える。貧民街を照らす明かりは、ここに住んでいる人間が、それぞれの周りを照らすだけの分しかないから、夜の空にはよけいな光は届かない。月も星もよく見える。時々は、“中央”の明かりが届くことがあって、そんな時は星もかすんでしまうけれど。
ゴミ溜めの街を、“ペントハウス”のあるビルへと歩く。パリィが喋る、意味のない言葉たちは、俺のなかにほとんど残らないけれど、それでもいくつかは消えずにいる。あいつはたくさん喋るから、全部を忘れてしまえない。たとえば、明日また来いと言ってたこととか。たとえば、俺とスエはおかしいんじゃないかとみんなが言ってるってこととか。
……今更だ、と思う。あまり喋ったこともなくて、顔も名前ももう覚えていない奴らが、俺とスエについて何を言おうと、俺には関係ない。スエの言葉だけを信じると決めた俺には何も関係ない。パリィの言葉だって信じられないし、ヤム爺の看板だって時々嘘が書いてある。嘘をつかないのは、シキとスエだけだ。
ねじくれた鉄筋と砕けたコンクリートの街には、たくさんの人間が住んでいる。でも、その中で、俺の記憶に残っているのはほんの一握りだ。それすら、いつまで覚えていられるのかわからない。でも、それはお互い様なのかもしれないとも思う。どうせ奴らだって、俺のことなんか覚えていない。俺がスエとシキを覚えているように、スエとシキが俺のことを忘れていなければ、それでいい。
目の前にある瓦礫が、きらり、と光った。月の光が反射する瓦礫は珍しくない。貧民街でも、とくにこのあたりには硝子が多いから。
その瓦礫は不思議な形をしていた。高温で溶けた硝子と、同じように溶けたアスファルト。冷えて固まる前に、その二つは混じり合ったのだろう。時々透明で、でも時々黒くて。一度溶けて固まったそれは、割れた硝子みたいな角はない。生き物めいた丸みに沿って、月の光が移動する。透明な部分から別の何かが見えた。……ああ、硝子とアスファルトで出来た卵のなかには、鉄筋で出来た雛がいるのか。“大災害”はこんな風に、思いもかけない不思議な物を残していったらしい。俺の記憶どころか、もう誰の記憶からも薄れてしまっている“大災害”。熱と衝撃が作った、この綺麗な卵は、何百年経っても孵化することなんてないんだろう。
卵の中で、溶けてねじれているその鉄筋の形は、俺の胸にかかっている十字架の模様に少し似ていた。
いつもは指先で触れるだけのそれを、月の光の下で目の前にかざす。十字が重なる中央の部分には、遠い昔には石が嵌っていたのかもしれない。ひょっとしたら、俺が手にしていた時に、石は外れてしまったのかもしれないけれど、それは俺の記憶にはない。スエなら覚えているかもしれない。とにかく、中央には、小指の爪よりも小さい空洞があるきりだ。そこから伸びる四本の足には、なんだかわからないものがぐるりと彫刻されている。絡みつく荊なのか、それとももっと別の何かを模しているのか、十字架には細い螺旋模様が刻まれていた。そして、それは歪んでねじくれた鉄筋によく似ていた。
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