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◆ 生物の設計図 ◆
「セト? 調子悪いのか?」
部屋の中に入ってきたシキがベッドの上の俺を覗き込む。
「……いや。そうでもない」
「薬を切らしている頃かなと思って、様子見に寄ってみたんだけどさ。買い物のついでもあったしね」
「……」
「…セト?」
シキの顔が近付いてくる。明るいブラウンの瞳が近付いてくる。
「………大丈夫だよ」
近付いてきたシキの顔から目を逸らす。シキの顔が離れていった。そして、上から降ってくるおどけたような溜め息。
「スエ。君のセトは僕に冷たいよねぇ」
それを聞いたスエが、冷蔵庫を覗きながら笑った。
「ばっか。愛想いいじゃねえか。他の奴相手にしたら、セトはひとっことも喋んねえよ。まともに話ぃすんのは、おまえとヤム爺と…あとはコンピューター売ってるあの馬鹿だけだ。…なんてったっけ、あの馬鹿」
「角の機械屋だろ? パリィじゃなかったかな?」
「ああ、そうそう。それそれ。ま、とにかくそいつらくらいのもんだ。それに、口数ってことにすりゃ、シキは一番多いほうだよ。…そうだろ、セト?」
スエの問いかけに、俺は黙ってうなずいた。シキはそんなに嫌いじゃない。他人と話すのは苦手だけれど、シキはそれでもいいと笑ってくれるから嫌いじゃない。パリィはお喋りだから嫌いだ。あいつはうるさい。俺が話をしないのに、勝手に話しかけてくる。それでもパリィの店が一番品揃えがいいから、あそこで買い物をするけれど。
冷蔵庫から取り出した缶ビールをシキに手渡しながら、スエが思い出したように言う。
「そうだ、セト。おまえ、眠くねえなら、シキに話聞いてみるか? ほら、昨夜の獲物の話。シキなら医者だから知ってんだろ」
ああ、そうだ。そういえば。遺伝子、とか何とか言っていた。それは覚えている。そして何かの機械があればそれを読みとることも出来るらしいと。それはコンピューターなんだろうか? そうだとしたら少し興味がある。
「何だい? 僕でわかることなら答えるけど。どうせ世間話でもしようと思って寄ったようなものだ」
受け取った缶ビールを開けながら、シキは手近な椅子に腰を下ろした。俺が寝転がっているベッドと、シキの座った椅子とのちょうど中間の床に、スエがぺたりと座り込む。とりあえず、シキが窓から玄関へとまわってくる間に、ジーンズははいたから、シキが『色っぽい』と表現した格好ではなくなっている。
「ああ、昨夜、オレたちがした仕事ってのがさ、とある会社の金庫から遺伝子ってやつを盗んでくる仕事だったんだよ。なんか…このっくらいのケースに入ってたけど」
このっくらい、とスエが両腕で昨夜のジュラルミンケースの大きさを示す。
「…なるほど、遺伝子、ね。そりゃ金になるだろう。どこからの依頼でどこに忍び込んだかも…想像つくねぇ」
ひょろりと長い足を組み替えながら、シキがにやりと笑う。それでももともとが、人の良さそうな顔をしているから、あまり物騒な感じにはならない。
「ま、そのへんは想像だけにしとけよ。なんでおまえがそんなこと知ってんのかは知らねえけどよ」
「僕? 僕はそりゃぁ……ほら。お医者さんだからさ」
そう言って笑うシキ。以前、訪ねたことのあるシキの部屋にもコンピューターが幾つかあった。俺のと同じのもあったし、違うのもあった。仕事を受ける時に、スエにはスエのネットワークがあるように、そして俺にも俺のネットワークがあるように。きっとシキにもシキだけのネットワークがあるんだろう。通り名しか知らないような奴と情報をやりとりしたりするようなネットワークが。
「んでさ、その遺伝子っての……何なんだ?聞いた話じゃ、人間の設計図だとか何とか言ってたように思うけどよ」
スエが尋ねる。ベッドの上に寝転がったまま、俺もそれを聞いていた。
「ああ……そうだなぁ…その表現は間違っていないね。人間なら…いや、他の動物でもそうだ。動物でも植物でも……生きているものならみんな持ってるよ。生物の設計図だね」
「なんかこう…図面みたいなモンなのか?」
「まさか」
と言ってシキが笑う。缶ビールを一口飲んで、答えを待っている俺とスエに説明を始めた。
「ええと…どう言えばわかりやすいかなぁ。生き物にはね、染色体っていうものがあるんだよ。その染色体のなかに、遺伝子は入っている。記号の羅列みたいな感じでね。たとえば…人間の体は、皮膚とか内臓とか筋肉とか…いろいろなもので出来てるだろう? そのそれぞれは、細胞っていう単位で作られてるのは知ってるよね? いろんな細胞が集まって皮膚とか筋肉が作られる。その細胞ひとつひとつのなかにたくさんの染色体があるんだ。そしてその染色体のなかにたくさんの遺伝子がある。……で、どうしてそれが設計図になるのかっていうと、羅列されてる記号が、それぞれ、こういう細胞を作るべしっていうプログラムになっているんだよ。セトならこういう例えのほうがわかりやすいかな? 人間の体はいくつもの情報があつまったコンピューターソフトだ。それはコンピューターにわかる言語を使ってプログラムを書いて、作るだろう? そのソフトを使って何ができるのか、何がしたいのか…そういったことをプログラムとして書いていく。遺伝子はそのプログラム言語だよ。ただし、違いがひとつ。コンピューターのプログラムは、ソフトだけを書くけれど、人間のプログラムはその外側も情報として内包している。骨とか肉とか皮膚とか…そういったものだね」
時々、俺とスエの反応を見ながら、シキがゆっくりと説明する。わかった…ような気がした。プログラムを書くのは、時間がかかる。時々はエラーを出しながら、細かい数字とアルファベットを組み立てていく。大きなソフトを作るためには、たくさんのキーを打つ。きっと遺伝子っていうものにも、たくさんのキーが必要なんだろう。ひょっとしたら時々エラーが出たり、プログラムができあがってからじゃないと見つけられないバグみたいなものもあるのかもしれない。
「なんとなくわかったけどよ…それがどうして金になるんだ?」
スエが聞く。シキが苦笑した。
「それは…“大災害”のせい、と言ってしまってもいいのかもしれないねぇ。……ねぇ、スエもセトも…自分は人間だと思っているだろう? そして僕のことも人間だと思ってるだろう?」
「そりゃあたりまえじゃねえか。人間以外の何だってんだよ。失礼な奴だな、おまえ」
スエが少し不機嫌な声を出す。俺は不機嫌というよりも、不思議な気持ちだった。俺たちはみんな人間だろう。それをわざわざ問いかけてくるシキがわからない。
「それがね。厳密に科学的に言うならそうじゃないんだ。僕たちのプログラムには人間じゃないものが混ざっている」
「……はぁ?」
とぼけた声を出したスエに笑って見せながら、シキが説明を続けた。
「つまりさ。純粋に、これが人間だっていう遺伝子の集合体ってのは、もう絶滅してしまったんだよ。昔、“大災害”が起きる前、人間たちは競って遺伝子を読みとっていた。その頃は、遺伝子の組み合わせを…プログラムを読み解くのに、ひどく時間とお金がかかった。どういう仕組みで人間が出来ているのかがわかれば、人間の病気を治したりするのにとても役に立つ。だからみんな遺伝子の情報を知りたがった。需要があれば供給がある。それは真理だろう? みんなが遺伝子情報を必要としているけれども、遺伝子を読み解くのにはお金と時間がかかる。それなら…商売が成り立つと思わないかい?」
「そりゃそうだな。だれか金と時間のある奴が、遺伝子を読んで、答えがわかったらそれを売りつけてやりゃいいんだ。たくさんの奴らに売りつけりゃ、最初に遺伝子を読むのにかかった金は回収できる。そうすりゃ、次の商売の元手にもなるもんな」
確かに。スエの言うことは筋が通っている。もともと、商売っていうのはそういうものだろう。需要と供給だ。今の俺たちと同じ。盗んできたいのは山々だけれど、そのための技術も時間もない奴らに代わって、俺とスエが盗んでくる。そして俺たちはその代わりに金をもらう。
「そう、その通りだよ、スエ。セトも納得しているようだね。…で、その頃に読みとって、さらにサンプルもストックしてあるものが今もまだ残っている。つまり、“大災害”以前の遺伝子が幾つかの会社や研究所には保管されてるんだ」
「それは、今のオレたちが持ってる遺伝子とやらとは別なのか?」
「ああ、違う。こぞって遺伝子を読み合って…人間たちは自分たちを形作る遺伝子の全てを読み終えた。つまり、プログラムが全部読めた。その意味するところもわかった。…次に目指すのは何だと思う? セトならわかるかな?」
唐突にシキがこちらを向いた。同じタイミングでスエも振り向く。スエの胸元でペンダントが揺れた。
「………俺なら…プログラムの書き直しをする。もっと自分に使いやすいように」
ぼそぼそと答えた俺に、シキが微笑んだ。
「そうだね。僕でもそうすると思うよ。そして、“大災害”前の人間たちもそう思った。もっと病気に強い体に、もっと寿命の長い体に、もっと賢い頭脳に…。そうして手を加えていってできあがったのが、今の僕たちの体だ。だから、純粋な人間じゃない。改良を加えられた人間なんだよ。ただ……」
言い淀んで、シキが少し困った顔で微笑む。この、苦笑と泣き笑いを足して二で割ったような顔は、何故だかシキにとてもよく似合うと思う。
「ただ、何だよ? 妙なとこで話を切るんじゃねえよ」
「ああ、ごめんごめん。ただ…、さ。“大災害”があっただろう? もう、かれこれ一〇〇年とか経つらしいけれど。“大災害”は、この国どころか、世界全体の危機だったんだよ。何と言っても、改良された人間の体がそれに対応できなかったんだから」
「……ってぇことは? つまりどういうことなんだ?」
スエが問いかける。シキは、相変わらず、シキに一番よく似合う表情のまま答えた。
「だからさ。プログラムを書き換えることができるのは、人間だけじゃないってことだよ。外の環境や放射能、薬品…まぁいろいろあるけど。そういったものでもプログラムは書き換えられる。言ってみれば、改良された人間の遺伝子は、書き込みガードの甘いディスクみたいなものでね」
「……書き換えられたのか?」
そう思って、聞いてみた。シキがうなずいいてくる。
「そうだよ。書き換えられたんだ。“大災害”が書き換えた、と言っても間違いじゃない。正確には“大災害”に付随する、いろんな汚染が書き換えたんだけどね。だから、今生きている人間たちは、改良型プログラムにウィルスがとりついたようなものだ。意図していないプログラムソースが混ざってる。だから人間の寿命は六〇年も保たないし、新しく生まれてくる子供にも障害が多い。“大災害”で減ってしまった人口を維持するだけで精一杯だ。だから、僕たちが今いる貧民街のような場所がいろんな国で出来ている。全てを補修する人間がいないからだね。そして、“中央”だけでも十分に人間たちは暮らしていけるんだ。“大災害”前は、どこの国でも人間たちが暮らす場所を探すために精一杯だったらしいのにね」
「んじゃ、オレたちが盗んできた遺伝子ってのは?」
スエが最初の疑問を思い出す。
「……推測だけど、ほとんど当たっていると思うよ。多分、純粋な人間の遺伝子だ。“大災害”前から保管されていた遺伝子。もちろん、全部じゃないだろう。でも、幾つかでも、もとのコードがわかれば、その法則に従って、もう一度人間の遺伝子を書き直すのも可能になる。昔の人間たちが、改良する前の、純粋な人間を蘇らせることができるかもしれないんだ。それは多分、今の僕たちよりも強い人間だろう。プログラムの改良が失敗に終わったなら、改良する前の状態に復元してやり直せばいいってことだからね」
「ああ…なるほどなぁ。そういうわけかよ。わかった。てめえのクソくだらねえ回りくどい説明が、ようやく飲み込めたぜ」
悪気もなく言って、スエが笑う。手厳しいなぁと言いながら、それでも機嫌を損ねた様子もなくシキも笑う。
スエの言う『クソくだらねえ回りくどい説明』で、俺もなんとなくわかったような気がする。でも、どうして、そんな遺伝子と同じ場所に小さなみすぼらしい種があったのかはわからないけれど。
◆ 覚えているのが役目だから ◆
「セトは…寝たのか?」
遠くのほうからシキの声がする。俺はベッドに潜って目を閉じているから声だけしかわからないけれど。
「ああ、少し疲れてんだ。寝かせといてやってくれ。ところで、今日はどうした? 何か他に用があったんじゃなかったのか?」
「いや、こないだ裏ルートで、とある薬が手に入ってね。先月開発されたばかりの新しい薬だ。セトの症状には効くんじゃないかと思って持ってきてみたんだけど……」
「キッチンのほうに移ろうぜ。そこのドア閉めりゃいいし」
スエの声。
足音がして、少しするとさっきまで聞こえていた冷蔵庫のモーター音が少し低くなった。キッチンへの扉が閉められたからだろう。
俺は別に、人の声がしていても構わないんだけれど…。
目を閉じて、毛布にくるまっていると、自分の呼吸と鼓動が聞こえ始める。普段も聞こえているはずのものが、より一層意識させられる。だんだんと深くなっていく呼吸の音と、一定のリズムを崩さない鼓動と。自分が眠っているのか起きているのか、境界が曖昧になっていく。意識がどこかに置き忘れられているような、それでいてどこかに流れ落ちてゆくような。そんな感覚が俺は好きだった。
「セトは…相変わらずか?」
「ああ、相変わらずだな。それでも、普段の生活には別に困んねえし、仕事もできるし。オレは別にそれで……かまわねえよ」
遠くからシキとスエの声が聞こえてくる。穏やかなシキの声と、張りのあるスエの声。
「だけど…セトが忘れていくことを、君は覚えているんだろう? それは辛くはないのか?」
「……それがオレの役目だからな。いいんだよ、セトがいてくれりゃそれで。……で? おまえが持ってきた新しい薬ってのは?」
「……君は…」
「いいって言ってんだろ。それよかその新しい薬の話聞かせろよ。くだらねえことほざくためにその口があるんじゃねえだろ」
話し声は聞こえる。耳に届いてはいる。けれど、そこから先には届かない。シキの声とスエの声だということだけしかわからない。俺はもう眠っているのかもしれない。だとしたら夢の中で二人の声を聞いているのだろうと思う。そうだったらいい。シキとスエの夢なら見てもいい。他の夢は嫌なものが多いけれど、あの二人の夢なら安心できるから。
俺は頭があまり良くないから、いろんなものを覚えていることはできないはずなのに、嫌な夢のことだけは覚えている。……いや、でもそれも全部は覚えていないのかもしれない。ただ、嫌な…なんていうか、ひどく気持ちの悪い感触だけがはっきりとしている。だから余計に、靄のかかった記憶は、その嫌なものに埋め尽くされる。もともと不確かだったものが、確かなものに引きずられていく。眠りに落ちる感覚は好きだけれど、夢に引きずられていく自分は好きじゃなかった。
「僕は…君たちの生き方には口をはさまないよ。そう…決めた。そうじゃなきゃ、君たちとは一緒にいられないしね。せっかく、君とセトのような友人を得たんだから、その関係を壊したくはないし。それに……セトのことを考えるなら、君の言うことは…そんなに間違ってはいないかもしれないし」
「間違ってようが間違ってなかろうが、ンなこたぁどうでもいいんだよ。オレがセトのそばにいたいんだ。そしてセトもそれを望んでる。……なら、それでいいじゃねえか。……おまえだって頼りんなるぜ?」
笑いを含んだスエの声が聞こえる。そうだ、スエがそうやって笑っていられるなら、俺は安心できる。スエがそばにいて、笑ってくれるなら、嫌な夢には引きずられない。俺の奥にある、白い靄のようなもの…多分、俺が覚えていられないものたち。色も形も温度も匂いも、何もかもが不確かなそれに、スエが色を添えてくれるなら、そんな白い靄があることも俺は我慢できる。
「…頼りに、ね。してもらおう。新しい薬だが…効き目は以前のものよりも格段にあると思う。けど、実は…副作用もあるらしいんだ。ただ、まだ開発されて間もないんでね、副作用がどこまであるのかはわからない。だから…実を言えば“中央”ではまだ認可が下りてない薬なんだ」
「でも…効くのか?」
「ああ。それは確認されてる。セトのような症状は、“中央”でも少なくはないよ。クリアな意識を保ち続けるのが難しくて…いくつかの記憶が欠落していって…。脳内物質のアンバランスさが原因だと思われてるけどね。まだ特効薬なんかは見つかってない。外科的手術で成功したという話も聞かないし。原因は…特定されてはいないけど、ひょっとしたら“大災害”の影響かもしれないと言われてる。“大災害”が残した幾つかのものは、人間の遺伝子を変えた…っていうのは、さっき話したよね? ホルモンとか脳内物質の分泌異常なんてのは、“大災害”が影響してるなら、いくらでも考えられる。そして、新しい患者が増えていくのは、ひょっとしたら汚染地域のせいかもしれないという意見も出てるらしい」
「……汚染地域ってのは、“中央”の奴らが切り捨てた地域だろう。“大災害”の復興もしねえで、ろくに後処理すらしねえでほったらかしの場所。………貧民街じゃねえか」
「……そうやって、笑いたくなる気持ちもわかるよ。貧民街のような場所が原因になるっていうなら、この辺りに住んでいる人間の多数にそういう症状が出ていなきゃおかしい。でも実際は、“中央”も貧民街も、同じくらいの割合でしかない」
「それに、オレたちはここに住んでるけどよ。生まれたのは“中央”だぜ? セトも…そして、親父も“中央”にいた頃にはもう…」
「だから原因は……今はまだわからない。ここに住むこととか…こういう地域の存在とかが原因じゃないと僕は思ってるから。……スエ? どうした? なにか…」
「ああ…いや、なんでもねえよ。親父のこと思い出したら…なんていうか、笑えてきちまっただけだ。……セトは…昔のことから順に忘れていくみたいだ。今のあいつは親父の瞳の色さえ覚えてない。……ああ、昔のこととは限らねえのかもな。オレに向かって、自分の親父を覚えているか?なんて聞いてきたんだぜ?」
「スエ……辛いなら無理に笑うことはないよ」
「辛いなんてこたぁねえさ。……そうだろ?セトはオレを忘れたわけじゃねえ。それなら十分だ。……オレが、セトとは血がつながってることを…セトの親父はオレの親父でもあるんだってことを…セトが忘れても、オレには関係ねえさ」
「君たちは…」
「ああ、そうさ。オレとセトは姉弟だ。それでも、セトがそれを覚えていないなら、オレたちは姉弟じゃなくなる。セトの髪の色が…病気んなる前は、もっと濃いブラウンだったこととか、セトの…猫みたいな金色の瞳が昔はオレと同じ色だったこととか。そういうことを全部忘れて、たった今、目の前にいるオレのことしかわかってないなら…オレたちは姉弟じゃない」
記憶…記憶。スエとシキは何の話をしているんだろう? おかしいな。俺の夢のはずなのに、俺がわからないなんて。
ケツラクシテイクキオク。
その言葉は聞いたことがある。でも俺には関係ない。カフェの名前も覚えられないけれど、知りたければそれはスエが教えてくれるから。俺の中の、ずっとずっと奥のほうに溜まっている白い靄はいろんなものを飲み込もうとしているけれど、その靄は、時々スエの瞳の色に光るから。だから…その白い靄は嫌いだけど、我慢できる。
「……薬、使ってみるかい?」
「いや…どんな副作用があるかわからねえんだろ? その薬を飲むことで、記憶をつなぎとめることとか、意識を保つことができたとしても…セトを危険にさらしたくねえよ」
「脱力の発作も予防できるとは思うけど…そうだな、やめておいたほうが無難かもしれない。……期待させるような話をして悪かったね」
「謝るこたぁねえさ。おまえがセトのことを思ってくれてるってことだろ? なら、悪くねえよ」
「君は…そうやって笑っていられるんだな」
「……何、言ってんだ、今更」
「ほら、また笑う」
「じゃあどうしろって? 笑う以外にどうしろって言うんだよ。オレが笑うとさ、セトも笑うんだ。考えてもみろよ。多分、一番キツイのはセトだぜ? 自分の記憶がどんどん自分から離れていくのを…セトは多分わかってるんだ。あいつは、てめえでてめえのことを馬鹿だって言うけどよ。…あいつは馬鹿なんかじゃねえよ。いろんなことわかってんだ。誰だって、昔のこととか…忘れたいこともあるだろうけどよ。逆に、覚えておきたいこととか、覚えておかなきゃいけないこともあるだろ。……セトにはそれができねえんだ。自分の足元がしっかりしてねえのは…イヤな気分だと思うぜ? それでも、セトはオレの顔見りゃ笑ってくれっからよ。…だからオレは笑うことにしてんだ」
ちゃり、と音が聞こえた。キッチンのドアの奥からなのか、自分の胸元からなのかはわからない。わからないけれど、それはペンダントの音だと思った。銀の十字架が鎖と絡み合う音。
スエとシキの話し声は、俺をすり抜けていく。ひょっとしたら、俺をすり抜けていったものは、この十字架に溜まっていくのかもしれない。覚えているのが役目だから、と。だって十字架がそう言ったから。
白い靄が、一瞬赤錆びた色に染まる。そしてまた白に戻っていく。ゆるやかな蠢きだけを残して。
それで終わるはずだった。そこから、何もない眠りの底に落ちていって、目覚めるまで何も感じないで…それで終わるはずだった。なのに、俺はもう一つの音を聞いた。別の音を。……何の音だったのだろう? ペンダントの音に紛れて響いたのは、それよりも柔らかい音。明らかに金属の音じゃないもの。もっと柔らかい…たとえば、土の音のような。
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