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◆ 錆びた十字架 ◆
朝メシを終えて、俺たちは別れた。仕事を終えると、スエが仕事の依頼主に会いにいく。俺は眠って待っている。そして、依頼主から後金をもらったスエが帰ってきて、俺たちは同じベッドで眠る。時々は、眠る以外のことをすることもある。俺たちはお互いの肌が好きだから。それがいつもの俺たちだ。
けど、今日は違った。スエが依頼主に会うために出かけて行ったあとで、俺は胸ポケットから種を取りだした。
種なら…やっぱり土に植えて水をやらなければならないんだろうと思う。
俺とスエが暮らすこの部屋は、小さなビルの屋上にある。もともとは五階建てだったらしいビルが、いつ三階建てになったのかは知らない。多分、“大災害”の時なんだろう。貧民街はもともと、“大災害”の前にはマトモな街だったらしい。“大災害”で何もかもが壊れて、そうして、修復されなかった場所がこの街だ。そのせいで、この国は綺麗なところとそうじゃないところとが二分された。
でも、五階よりは三階のほうが、階段をのぼる手間が省けていいと思う。ビルのなかにもいくつかの部屋はあるけれど、壁が壊れていたり床が抜けていたり、暮らすには少しだけ不便だった。だから俺たちは屋上にいる。屋上にある、小屋。それが俺たちの暮らす家だ。ペントハウスだぜ、とスエが笑ったことがある。建物の一番上の階にある部屋のことをそう言うんだ、とスエが説明してくれた。一番上っていうのは、その建物の中で一番値段が高いらしいとも言う。でも、ここらの建物には値段なんかついていやしない。暮らす家を決めるのは金じゃなくて腕だ。その理屈は簡単でいい。
土を、と思って俺は部屋を出た。階段へと向かう途中で、歪んだブリキのバケツを拾う。これに土を詰めてくればいい。でも、どんな土がいいんだろう? きっと、綺麗なものを咲かせたいんだから、綺麗な土がいいに決まってる。じゃあ、このビルの裏の路地はダメだ。あそこの土はあまり綺麗じゃない。三ヶ月前に、あの路地裏で、人間が死んでた。内臓とかたくさん、血と一緒に吐き出して死んでた。その死体を見たスエが、これは汚れてるから触らないほうがいいと言った。何かで汚れているから…と……何だっただろう。あの時スエは何て言ったっけ。放………とか何とか。うまく思い出せない。でもとにかくあそこの土はダメだ。
結局、俺は反対側の路地に行った。先月、野良猫が子供を生んでいた路地だ。綺麗な毛色の子猫たちが生まれていたから、あそこの土は汚れていないと思う。銀色の毛の、綺麗な猫たちだった。半分くらいは死んで生まれてたけど、毛色は綺麗だった。足がちゃんと四本あればもっと綺麗だっただろうに。目の色がどんな色か見てみたかったけれど、子猫たちの目が開く前に、猫の一家はいなくなってしまった。本当はビルの北側にも土がある場所があったけれど、そこには錆びた鉄パイプが十字架の形になって突き刺さっているから、あまり掘り返したくない。俺の胸にかかっている、スエの物と同じ十字架は少しくらい黒ずんでいても綺麗だと思えるけれど、あそこにある錆びた十字架は綺麗じゃないから。
バケツに詰めた赤茶色い土に、水を撒く。ぱさぱさだった土は少しだけ柔らかくなった。指で軽くへこませてから、そこに種を入れる。上から少しだけ土をかけて、もう一度水を撒いた。
種を育てる時には、あまり水をやり過ぎちゃダメだ、芽が出る前に腐っちまうんだ、と。昔、誰かがそう言ってた。……誰だっただろう? すごく近くにいた人間だった。白く濁った目は元の色もわからなくなっていたし、何も映していなかったけど、その人間の髪の毛が俺と同じような色合いだったことは覚えてる。誰だっただろう。俺よりは幾つも年上の男。最近は見かけない男。何年も見かけない。見かけなくなる前は…どこにいただろう? 同じ部屋にいたような気もするし、もっと遠くにいたような気もする。
……仕事のあとはいつもこうだ。もともとものを覚えたりするのは苦手だ。特に、言葉に関することは何度聞かされても覚えられない。あの路地のカフェの名前のように。けれど、仕事のあとだとそれがもっとひどくなる。覚えているはずのことを忘れたり、喋りたい言葉が出てこなくなったり。そのうち考えることも難しくなったりする。
疲れてるんだから休め、といつもスエは言ってくれる。そうかもしれない。仕事をすると疲れてしまうのかもしれない。だから俺はスエが後金と獲物の交換に行っている間に眠ることにしていた。眠って起きれば、少しはマシになっていることが多いから。
なんだか、頭の奥がぼんやりとしてきた。種を入れたバケツを目の前にして、しゃがみ込んでるはずなのに、バケツがものすごく遠いところにあるように思えてくる。まずいな、とぼんやり思った。随分と前に、仕事を少しだけ失敗して、逃げられなくなったことを思い出した。あの時はスエが一緒にいてくれたからなんとか逃げ出した。でも、逃げ出すのがあと少しでも遅かったら、俺はきっと死んでいたかもしれない。動けなくなった人間をスエが引きずっていってくれるかどうかは疑問だから。……ああ。いや、違う。スエならきっと俺を引きずっていく。でも、そんな俺は嫌いだ。スエに今以上の迷惑をかけるくらいなら死んだほうがマシだ。
バケツが、遠い。
眠ろう。スエが帰ってくるまで、少しでも眠ろう。眠っていれば、スエが帰ってくる。眠って起きれば、いろいろと思い出すかもしれない。俺と似た髪の色をした男の顔とか。そいつの名前とか。種の育てかたに詳しかったその男が今どこにいるかとか。俺は知ってるような気がする。多分、今は忘れてるだけなんだ。眠ればきっと思い出す。他のこともきっと。路地で死んでた誰かの死体が何で汚れてるんだったか、とか。北側の空き地に刺さってる、錆びた鉄パイプの十字架の下には何があるのか、とか。そういったようなこと。
それに…そうだ。スエが帰ってきたら、髪を切ってくれるんだった。
ぐらぐらと揺れてるような頭を自分の両手で支えて、俺はベッドに倒れ込んだ。そこに転がったまま、着ていた服と下着を脱いで、ベッドの中に潜り込む。裸になってベッドに入ると、古い毛布やシーツの感触が気持ちいい。それは、スエの肌の感触には到底かなわないけれど。
毛布のなかで動かした手が、裸の胸にぶら下がったペンダントに触れる。銀の十字架。……俺はどうしてこんなものをつけているんだろう? 邪魔でしょうがないのに。でも外すのも面倒だ。それに……ああ、そうだ。それにこのペンダントはスエと同じだ。スエと同じ物を身につけていると思えば邪魔でも何でもなくなる。
早く、スエが帰ってくるといい。
「おまえみたいに、忘れちまえるんならいいのにな…」
スエの呟きを聞いた気がした。耳に届く声よりも、はっきりとわかるのは裸の肩先に触れるスエの髪の感触。冷たくて、柔らかくて、なめらかで。
そうか、スエが帰ってきたんだ。起きなくちゃ。
ああ…目が開かない。瞼がひどく重たい。昇りきった陽の光が瞼の裏から感じられる。黒いはずの瞼の裏が、かすかに赤味を帯びている。きっと今日は天気がいいんだ。珍しい。ゴミ溜めみたいなこの街に、明るい陽射しが降り注ぐなんて似合わない。
なら…夢なのかもしれない。スエの呟きが聞こえた気がしたのも。
冷たい指が、俺の胸をそっと撫でる。スエの指だ。指とか髪とか…スエが触れる場所にいる。息がかかるほどそばにいる。多分、この感触は夢じゃない。それならいい。
何故だかひどく心地よくて、俺は瞼の裏の赤い色を忘れた。
「大丈夫だよ…。覚えているから。覚えているのはオレの役目だからさ……」
◆ ぬるいシャワー ◆
俺の目が覚めたのは、昼近くだった。ベッドの横に置いてある時計は、カチコチという音をさせなくなってかなり経つ。だから俺は自分の腕に巻いたきりだった時計に目をやる。仕事をする時には、正確な時間が必要になるから、時計はいつでも正確でなくてはならない。
正午まであと数分という時間。ぼろ布同然のカーテン越しに、明るい陽射しが入ってくる。夢かと思っていたのは、本当のことだったらしい。曇り空が多い最近には珍しいほど、晴れている。でもやっぱり、ゴミ溜めの街には似合わない。春の初めというこの季節になら、その天気は似合っているのかもしれないけれど。
自分が寝ているベッドの反対側を見ると、スエが毛布にくるまってかすかな寝息を立てていた。女にしては高いその背を、今はくるりと丸めている。毛布と一緒に膝を抱え込むかのようなその姿勢は、スエが熟睡している証拠だ。何かの繭のような毛布の塊から、少し乱れた黒髪がはみ出ている。
スエを起こさないように、そっとベッドから出て、俺はシャワーを浴びようと部屋を出た。スエが、冗談交じりにペントハウスと呼ぶこの小屋には、大概のものが揃っている。俺たちが今までいた寝室。そしてキッチン、トイレ、シャワールーム。このビルの水道はまだ生きているし、電気も、地下を通っている送電線から盗んできている。貧民街と呼ばれるこの街のなかでは、かなり上の暮らしぶりと言えるだろう。当たり前だ。俺とスエは働いている。暮らす場所こそ貧民街だけれども、依頼を受けて仕事をしている。仕事がヤバければヤバいほど、報酬も多くなる。表に出せない仕事、と言うなら尚更だ。危ない橋を渡っているんだろうという自覚は…多分、俺たち二人とも持っている。俺よりもスエのほうが実感しているだろう。…それでも。それでもだ。俺たちは他に生きる方法を知らない。
あまり勢いのないシャワーを浴びながら、ふと思い出した。眠る前に、種を植えたバケツ。俺がシャワーを浴びるように、あの種にも水をやったほうがいいんだろうか。
…そこまで考えた時に、もう一つ思い出した。やっぱり、眠って起きると記憶がはっきりしていく。知ってるはずのことをちゃんと思い出せる。
『種にはあまり水をやりすぎるなよ。芽が出る前に腐っちまうからな。わかったか、セト?』
そう言ったのは、俺の親父だ。俺と同じ琥珀色の髪をした男。視力を無くした瞳は、色も無くしてしまったから、もとがどんな色なのかは知らないけれど。
そうだ。親父はずっと前に…そう、もう何年も前に死んでしまった。だから俺とスエが裏の空き地に埋めてやったんだ。貧民街の市場には墓標なんて売っていなかったから、そこらにあった鉄パイプであり合わせの十字架を作って、親父を埋めた場所に突き刺した。ビルと瓦礫の谷間で、鉄パイプが夕陽を浴びてぴかぴかと光っていたのを覚えてる。そうだ、まだあの時は錆びていなかった。
親父がいてくれたらよかったのに。親父ならきっと種の育てかたをよく知ってるはずだったんだ。あの種が…どんな花が咲くのかも、親父なら知っていたのかもしれない。何故なのかはわからないけれど、植物に詳しい男だった。言い方を変えるなら、植物のこと以外には何も知らない男だった。役立たずだ。あまりにも。それは…俺と似ているのかも知れないけれど。
でも、とりあえず……あまり水をやり過ぎてはいけないんだろう。植える時に水を撒いて、まだ数時間しか過ぎていない。今日はもう、夕方まで必要ないのだろう。日当たりのいい場所にバケツを移しておいたほうがいいのかもしれない。
「おはよう、セト」
寝起きのかすれた声が、シャワールームの扉を開ける。
「もう起きたのか。もっと寝てても良かったのに」
「起きちまったもんはしょうがねえだろ。たまには早起きもいいさ。……一緒にシャワー浴びさせてくれよ」
毛布を脱ぎ捨てたままの格好、つまり裸でスエは入り口に立っていた。そのまま、俺の返事を待たずに近付いてくる。裸の胸の谷間に、銀の十字架が小さな音を立てている。眠るときもシャワーの時も、そして俺とスエがお互いの肌を味わう時も。俺たちはこのペンダントを外さない。どうしてなのかはわからないけれど。
「あんまり水の勢いがない。それに温度もこれ以上上がらない。ボイラーがイカれたのかもしれない」
壁に取り付けられているシャワーのノズルを、スエの髪に向けながら俺が言う。顔を上に向けてその流れを受けながらスエがうなずいた。
「ああ、そうだろうな。あとで見てきてくれよ。ボイラーならセトが直せるだろう? 水の勢いは…しょうがねえな。ここは屋上だからよ。下からここまで持ってくる間に勢いがなくなっちまうんだ。流れては来てんだから良しとするさ」
「……スエ?」
「ん?」
「さっき……俺が目を覚ます前に……何か言ってなかったか?」
「…何か聞こえたか?」
うつむいて、髪を洗い始めるスエの顔は見えない。
「いや……聞こえたような気がしたんだけど……なんて言ってたのかが思い出せないんだ。夢なのかもしれないし」
「んじゃぁきっと夢だろ。オレは帰ってきてすぐに、服脱いでベッドにもぐりこんだし。おまえもよく寝てた。オレは何も言ってないし、言ってたとしてもおまえには聞こえねえだろ」
笑いを含んだスエの声が水音に紛れていく。
「そうだな。スエがそう言うんならきっとそうだ」
「……そうだ、思い出した。髪、切ってやる約束だったろ」
濡れた髪を勢いよくはね上げて、スエが顔を上げた。
「シャワーが終わってからでいいだろ」
「今、やっちまえば、切った髪の毛も一緒に流せるじゃねえか」
そう言ってスエが笑う。すぐに踵を返して、シャワールームの入り口近くにあった洗面台へと歩いていった。
そうして、流した髪の毛で詰まるかもしれない排水口のことはスエは考えない。でももしも排水口が詰まったら、きっと向かいのビルの地下に住んでるサキ婆さんに掃除をやらせるつもりなんだろう。でもそれでもいいのかもしれない。サキ婆さんは足が弱ってて、自分一人じゃろくに外にも出られないから。外に連れ出して仕事をさせて…そうすれば、スエはサキ婆さんに報酬を払う。サキ婆さんのほうでも、スエが持ってくる雑用を待っているような時があるから。
洗面台からハサミを見つけだして、スエが戻ってきた。
「ほら。あったぜ、ハサミ。セト、そこに座れよ」
そこに、とスエが指さした先は、ほとんど本来の用途で使うことのないバスタブだ。俺たちはほとんどシャワーで済ませるから、バスタブは洗濯をする時にしか使わない。
俺はバスタブの縁に腰掛けてスエを仰ぎ見た。濡れて顔に張り付いた黒髪を無理矢理にかき上げて、スエが笑う。右手にはハサミ。高い位置から降り注ぐ、勢いの弱いぬるま湯は、まるで雨みたいだ。スエの白い裸に流れていく雨はなんだかひどく優しそうに見える。
「セト、目ぇ閉じろよ」
言われるままに目を閉じる。瞼を透かして、スエの腕が動くのが感じられた。
じょきり、と髪を切る音がすぐ近くから聞こえてくる。時々、スエの指が俺の髪をかき回す。
髪をいじられるのは気持ちがいい。スエの細い指が触れるのは気持ちがいい。頬にあたるぬるいシャワーの雨とか。かがみこんだスエが体を動かすたびに、スエの裸の胸にかかったきりのペンダントが俺の頬を撫でていくこととか。鎖と、あまり見かけない意匠の十字架とがぶつかって、時々軽い音を立てる。水音とハサミの音とペンダントの音と。でも、一番気持ちがいいのは、音を立てないで俺の肩や胸に触れるスエの濡れた髪だ。
「……ん?」
ハサミを動かす手を止めて、スエが小さく呟いた。
目を開けて問い返す。
「どうした、スエ?」
「……セト、ひょっとして具合悪いんじゃねえのか? 顔色あんまり良くねえし…今、セトの頭とか額とか触ったら熱っぽかったような気がしたんだけどよ」
「いや…それほどでもない。眠る前に土を取りに行ったり、種を植えたりしたから疲れが残ってるのかもしれないけど」
「あ、んじゃシャワー浴びながら髪なんて切らなきゃよかったな。切り終わったからさ、さっさと流して服着ろよ」
言いながら、スエが体を離す。洗面台にハサミを戻している間に、俺はスエに言われたとおりに、体に張り付いていた短い髪を洗い流した。
「ボイラーの調子見るのは、明日でもいいからさ。今日は寝てろよ」
笑うスエの体に、俺の髪が何本か張り付いていた。白い肌に琥珀色の髪が。あれも洗い流してしまうんだろうな、と思ったら、少し残念な気がした。……けど、俺から離れたものでしかないのなら、洗い流されてしまうほうがいいのかもしれない。俺じゃなくなったものがスエの体に残っているのは少し悔しいから。
「セト? 聞いてんのかよ?」
「ああ、聞いてる。……なんて顔してるんだ、スエ。少しぐらい体調崩すのは別に珍しくないだろう?」
思わずスエに微笑みかける。心配してるのと怒ってるのと、その中間の顔をしたまま腰に手を当ててにらみつけるスエが、いつもよりも小さく見えたから。
「珍しくねえから心配してんじゃねえか。おまえはオレの相棒なんだからな。セトがいねえとオレは仕事ができねえんだから」
さっきの顔に、少しだけ照れたような表情が混ざる。シャワーの流れの下から出てきた俺にスエがタオルを投げつけた。
「ちゃんと乾かしてから服着ろよ。そして寝てろ。いつもみたいに裸で寝ないほうがいいぜ」
そう告げるスエにうなずいて、俺は髪を拭き始めた。スエが切ってくれたおかげで、さっぱりとなっていて拭きやすい。
タオルを頭にひっかけたまま、俺はシャワールームを出た。戸口をくぐる寸前に振り返ってスエを見る。スエの白い肌から、俺の髪の毛が流れていくのが見えた。俺は、残念と安心を同時に味わった。
◆ 冷蔵庫のモーター音 ◆
まだ濡れた髪にタオルを引っかけたまま、ジーンズだけをはいて、俺は種を植えたバケツを覗き込んだ。裸の胸にぶら下がった銀の十字架から水の滴がひとつ落ちた。
赤茶けた土の表面がうっすらと渇いてはいるものの、まだ湿り気はあるようだ。これならやっぱり夕方まで水はやらなくてもいいだろう。
日当たりのいい場所へとバケツを移動させて、バケツを置いた窓際に俺も腰を下ろす。
『赤茶けた土ってのは痩せた土なんだ。いい土は黒い色をしている』
親父の言葉をまた思い出した。
なら、バケツに入っているのはきっと痩せた土なんだろう。土に痩せてるとか太ってるとかがあるのかどうかはよくわからないけれど。いい土、と言うのが黒い色をしているのなら、このあたりにそんないい土はない。どこを向いても、赤茶けた土ばかりだ。あとは崩れ果てたコンクリートの瓦礫。錆びた鉄。融けたアスファルト。割れた煉瓦。穴のあいたアルミとステンレス。砕けた硝子。全部、“大災害”の置き土産だ。
…喉が渇いた。
モーターをうならせている冷蔵庫から、缶ビールを持ってきて、そのタブを押し開けながら俺はもう一度バケツのそばに腰を下ろした。
少しだけ開けてある窓から入ってくる風はまだ少し肌寒い。けれど、シャワーよりも勢いよく降り注ぐ陽射しは暖かい。
低い音でうなり続けている冷蔵庫のモーターは、時々撃ち殺したい気分にはなるけれど、冷蔵庫は必要なものだから撃ち殺すわけにはいかないんだろう。何度修理しても、あのモーター音はあまりよくならない。いっそ新しいものを買ったほうがいいのかもしれないとは思う。買うための金はあるはずだ。それでもスエが冷蔵庫を買い換えないのは、新しい冷蔵庫がここらには売っていないからだ。ビールでもコークでもアイスクリームでも、食べ物や飲み物なら、手に入る。俺たちが“中央”と呼ぶ、小綺麗な街区から、あまりタチの良くない業者が時々、卸しに来るからだ。売れ残りの処分だったり、賞味期限切れの廃棄代わりだったりするけれど。それでも、食料品を手に入れるのは、ここらでも困らない。金があって、贅沢を言わないなら。でも、電気製品となると、なかなか手には入らない。それもあたりまえなのだろう。本来なら、この辺りには電気は供給されていないはずなんだから。俺たちが電気製品を使えるのは、送電線から電気を勝手に盗んでいるからだ。コンピューターの通信に使うケーブルも、俺たちは勝手に使っている。料金なんかくそくらえだ。料金を徴収したいなら、ここまで集金にくればいい。この、貧民街に。
「寝てろって言ったろ。それに、何だよ、その格好は」
スエの声がした。振り向くと同時に、俺の頭の上にシャツが放り投げられる。着ろ、ということなのだろう。
「大丈夫だとも言ったろう? 平気だよ。ここは暖かい」
それでもシャツの袖に腕を通しながら俺が返事をする。少し零れたビールをシャツの袖で軽く拭って、俺は立ち上がった。ビールの色は俺の髪の色に似ているな、となんとなく思いながら。
「スエこそ、その髪ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ」
「オレは大丈夫だよ。おまえよっか丈夫に出来てるさ」
笑いながらスエが冷蔵庫を開ける。俺と同じ缶ビールを取り出しながら、冷蔵庫を軽く蹴った。
「…にしても、いつもうるせえな。このモーターはよ。セトが何度修理してもダメだったし…いつか絶対撃ち殺してやる」
「同意見だな、それには」
「だろ? …ん? なんだ、そのバケツ?」
「ああ、これにあの種を植えたんだ。この部屋には植木鉢なんてなかったから」
「確かに、そんな気の利いたモンはここらにゃねえな。ま、バケツでもいいだろ」
ホントだ、ここはあったかいなと言いながら、スエが俺の隣に来て腰を下ろす。まだ濡れているスエの髪が、薄いシャツを着たきりのスエの背中に張り付いている。
俺はスエの背中側にあらためて腰を下ろした。そうして、さっきまで自分の肩に引っかけてあったタオルでスエの髪を拭く。
「さっきさ…種を植える時とか、シャワー浴びてる時とか。親父のこと思い出してたんだ。スエも知ってるよな? 俺の親父のこと」
「ああ。もちろん知ってるさ。そういえば、あの親父は植物とかに詳しかったな」
「そうだったみたいだな。…昔のことだし、あまりよくは覚えてないんだけど。ただ、髪の色が俺と同じ色だったのは覚えてる。瞳は……濁ってたから、もとの色なんか知らないけど。種を植える時に、あまり水をやりすぎないほうがいいって親父が言ってたことを思い出したんだ」
くるり、とスエが振り向いた。タオル越しに掴んでいた黒髪が俺の手から離れていく。
「おまえ、あの親父のことは…」
「ん? ……正直、あまり覚えてない。どうして植物に詳しかったのかとか、視力を無くしたのはいつからだったんだろうとか…」
思い出そうともあまり思わなかった。親父のことを忘れたままでも生きていける。
スエの、青い瞳が俺を見つめた。この色は好きだ。晴れた空みたいな色。窓に背を向けて、こうやって俺を見つめてる瞳は、今は光を受けていないから濃い色になっているけれど。そんな時のスエの瞳には、時々きらりと表面に金色っぽい光が混じる。
「そっか、覚えてないか」
「ああ。……スエは何か覚えているか?」
「いや、オレもあんまり。あの親父が死んだのは三年前で、オレとセトとで、裏の空き地に埋めたことは覚えてるけどな。野犬が掘り返さないようにって、におい消しの草をまくのが大変だったのも覚えてる」
「そうだな、そんなこともあった。さっきバケツに土を入れようと思って下まで行って…久しぶりにあの十字架を見た。すっかり赤く錆びついてた」
「……別にいいだろ。錆びついてたって十字架は十字架だ。どっちにしろ、そこに埋めたっていう目印でしかねえんだから」
「それもそうだ」
そうだ。十字架なんてただの目印でしかない。俺たちの胸にあるのと同じだ。スエと同じだという、ただそれだけのペンダントと。別に他の形でも良かったのかもしれない。ただ、一番わかりやすい目印になればいいと思っただけだから。それでも仕事のあとなら、その目印の意味すらなくなりかけるけれど。ただ、不思議なものが立っているからここは掘っちゃいけないんだとあの時も思ったはずだから…目印の役割は果たしているのかも知れない。
何時間か眠ったおかげで、頭の中の霧は晴れている。仕事をして、眠る前はいろいろと思い出せないことばかりだったけれど。
「もう少し寝ておけよ。やっぱり顔色わりいぞ」
俺の手からタオルを取って、自分で髪を拭いながらスエが微笑む。
「……スエは心配性だ」
苦笑を返して、仕方なくベッドに向かう。そこへスエの声が追ってきた。
「薬とか飲むか? それともシキの奴に来て貰うか?」
「いや、いい。……シキなんか呼ぶなよ。あいつの薬はマズイから嫌いだ」
ここら一帯で、モグリの医者をやっている知り合いの名前を出すスエに俺がそう答える。シキは、何年か前まで“中央”のでかい病院に勤めていたらしい。患者を死なせたとか何かの薬を横流ししたとか…どれが本当なのかはわからないけれど、とにかく“中央”にはいられなくなって、ここに流れてきたらしい。来たばかりの頃は、ここではあまり馴染みのないような上品な喋りだったシキも、最近は少し慣れたようだ。スエの影響もあるのかもしれない。俺とスエはシキよりも年は下だけど、ここでの暮らしは長い。年と経験を差し引きすればちょうどいい、と妙な計算が成り立って、俺とスエ、そしてシキは良い友人だった。
「呼ぶなと言われても…もう来てしまってるんだけど、こういう場合はどうしたらいいんだ?」
とぼけた声が、窓からする。スエと俺が同時に振り向いた。
「そのまま帰ればいい」
それだけ言い捨てて、俺はベッドの上に転がった。どうせ、多少冷たくあしらったところでシキは動じるわけもないだろうし。それに、シキとは確かに良い友人だが、スエ以外の人間と話すのは、やっぱりあまり得意じゃない。
体調があまり良くないところへビールを流し込んだせいか、少し頭の芯がぐらつく。それでもまだ記憶ははっきりとしている。これならあまり問題はない。それにさっきまで眠っていて、起きたばかりだ。スエの言うことを聞いてベッドに転がったものの、あまり眠くはなかった。
「相変わらず、セトはつれないなぁ。スエ、お邪魔してもいいか? 君は随分と…色っぽい格好をしてるみたいだけど」
窓から顔を覗かせたまま、シキが笑う。陽の光を受けた栗色の髪が少しだけ金色に見える。切るのも面倒で、と言って、伸ばしたきりのその髪は、うなじのところで一つにまとめられている。女のような髪型だといつも俺とスエに言われているが、シキの顔立ちには妙に似合っているから二人ともそれを切れとは言わない。
かろうじて下着はつけているが、その上は薄いシャツとペンダントだけというスエが玄関を指さして笑う。
「入ってくんのはいいけどよ、窓から入ってくるんじゃねえよ。そこにはセトが種を植えた大事なバケツがあるからな」
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