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◆ カフェの名前 ◆

 足元には水たまりがあった。何故か、ここらの道路は渇いていた記憶がないように思える。いつだって濡れてる。そしていつだって、夜だ。それはきっと、俺たちが待ち合わせる時間がいつだって夜だからだろう。この路地は仕事前の待ち合わせの時にしか足を踏み入れないんだから。
 ひびの入った古いアスファルトに水がたまる。そして、安っぽいネオンが映る。ひどく趣味の悪いグリーンのネオンは、水たまりに反射して色が滲んでる。HOTEL、と書いてあったのだろう。何年か前までは。今は、HOTEまでしか読めはしないけれども。それならいっそ、Eも消えてしまったほうが、単語として成立するのに、と思ってしまう。 そしてそれよりも今は、その隣にあるカフェのネオンのほうが賑やかだ。突き抜けるようなブルーが店の名前を告げている。その下にイエローのラインが二本。あのカフェの綴りは何て読むんだっただろう。いつもここで待ち合わせる相棒にそれを尋ねるんだけど、結局は覚えられないんだ。確か、どこかの国の名前だとか街の名前だとか。でもやっぱり、ホテルのグリーンのネオンは取り替えたほうがいいんじゃないだろうか。今のままじゃ、隣のカフェの引き立て役になれるかどうかも怪しい。
 滲む。雨も降っていないのに、へこんだアスファルトに溜まった水で、ネオンが滲む。ぢぢ、とネオンが息継ぎのような音を立てる。こんな場所ではネオンでさえも息苦しいんだろうか? でさえ、と言っても、俺は息苦しくはない。なら…きっと違うんだ。
「よう、待たせたか?」
 スエの声がした。黒いくてごついブーツの先が水たまりに突っ込まれる。ネオンの文字は読めなくなってしまった。
「いや。そんなに待ってない。多分、時間通りだ」
「OK、それならいい」
 聞いてみようか。スエならカフェの名前を答えてくれるだろう。いつだって答えてくれるんだから。スエは頭がいい。俺の知らないことを幾つも知っている。
 スエの黒い髪はまっすぐに腰まで伸びている。くびれた腰とボリュームのある胸と太腿を、黒いレザーに包んでいる。綺麗な女だと、見るたびに思う。化粧もしてないのに、白い肌にそこだけ赤い唇。カフェのネオンよりも綺麗な青い青い瞳。
「セト、どうしたんだ? …また、カフェの名前を忘れちまったのか?」
 歩き出さない俺に、スエが笑みを漏らす。何度も聞いた店の名前。何度でも忘れる俺。そして何度でも教えるスエ。
「………忘れた。でもいいよ。どうせまた聞いても忘れる。覚えにくい名前なんだ」
「そんなことあるもんか。まぁ、聞く気がないなら、教える必要もねえだろうけどな。さ、行こうぜ、セト。オレたちの今夜の獲物はいつもとひと味違ってるんだ」
 楽しそうにスエが言う。長い黒髪が揺れる。街灯もない、さびれた路地を照らす明かりは俺の背後にある二つのネオンだけだ。仕事の時には邪魔だろうに、スエは黒髪をまとめない。でも、俺もそれをとやかく言わない。一度、スエの髪が有刺鉄線にひっかかって、それでバランスを崩したスエを助けて足をくじいたこともあったけれど。警察のやつらに見つかって、逃げる最中に背後にまわりこまれて、スエの髪をつかまえられた時もあったけれど。それでも俺は何も言わない。だってスエの髪は綺麗なんだ。ホテルのネオンが一文字足りないけれど、スエの髪に光を投げるだけならそれで構わない。安っぽくて趣味の悪いグリーンのネオンは、そんなときだけひどく綺麗になるから。
「いつもと違う獲物って? 別にいつも同じモンを狙ってるわけじゃないだろう? 俺たちは依頼を受けて仕事してるんだしさ」
 言いながら、俺は背中のディパックを背負いなおして、一歩前に出た。スエの足元で歪んだネオンを、俺のブーツが踏みにじる。スエと同じ黒革のツナギを着てるけれど、男のくせに女のスエと同じだけしか背がない俺にはあまり似合っていないのかもしれない。
「そりゃそうだろうけどよ。でも、いつもは人さらったり、金目のモン盗んできたり…とかだろ? いや、今回だって多分金目のモンではあるんだろうけど。……セト、おまえ、遺伝子って知ってるか?」
 スエの少し低い声は気持ちがいい。スエは男みたいなしゃべり方をするけれども、それさえも気持ちがいい。
「いや。知らない。それは金になるものなのか? 誰がそれを欲しがってるんだ?」
 俺たちは、普段はここから少し離れた貧民街に暮らしている。別に店を構えて看板を出しているわけではないが、こういう仕事をしているってのは、知ってる人間は知ってるらしい。自分では出来ないけれども、表だってどこかに依頼することは出来ない、なんていう、微妙な仕事が俺たちのもとに依頼として舞い込む。殺したりとかはしないけれど…盗んだりさらったりとかならお手のもんだ。頭が良くて口も立つスエが表向きの交渉役をすることが多い。俺はスエ以外の人間とはあまり口を利きたくないし。でも、それでいい。スエが交渉して、二人で仕事に出かけて……。そうすれば、俺はスエのそばにいられるから。
「誰がってぇのは…えっと…セト、知ってるか? リーマシーって会社」
「いや、知らない。……どうでもいいよ。聞いて悪かった」
「……すねてんじゃねえよ」
「すねてなんかいない。…本当だよ。誰が何を欲しがっているかなんてのは、どうでもいいことなんだ。スエが話を聞いて、OKしたんだろ? それなら俺が動くには十分な理由だから。それだけでいい」
「おまえは……頭いいよな」
 スエの呟きが耳に届く。吐きだした息と一緒に。それほど近くにいる。ほとんど変わらない背のおかげで、スエの顔がすぐそこにある。
「どうしてだ? 俺は…馬鹿だよ。スエのほうが頭がいい。言葉だってたくさん知ってるし。俺は、スエに教えてもらったカフェの名前だってすぐに忘れちまうんだ」
 苦笑を漏らす俺にスエは微笑んだ。綺麗だと思った。随分と長く一緒に暮らしているはずなのに、スエの年を聞いたことはない。多分、俺と同じくらいだろう。俺は確か、そろそろ十八になるはずだ。ひょっとすると、スエのほうが一つか二つ年上なのかもしれない。
「頭がいいとか悪いとかってのは、そんなことで決まるんじゃねえよ。おまえは、自分のするべきことを知ってる。それは頭のいい奴だってことだ」
「俺は……」
「いいさ。知らなくていいって、おまえが言うならきっとそうなんだ。ま、とにかくそんな名前の会社に勤めてる偉いオッサンが、遺伝子ってものを欲しがってるんだ。遺伝子ってのは…オレもよくわからないんだけどよ、人間の設計図みたいなモンらしいぜ。それを専門に扱ってる会社とか研究所とかだと、それを読みとる機械があるんだってよ。そうしたら、遺伝子の善し悪しがわかるとか何とか……」
 銀細工の古びたペンダントを指先にひっかけながらスエが呟く。同じペンダントが俺の首にもかかっている。本当は純銀じゃなくて、銀と何かの合金だと聞いた。でも、それは銀色に光るし、本物の銀みたいにところどころ黒ずんでいる。だから、銀のペンダントと言っても差し支えないと思う。あまり細くはない鎖の先にぶら下がるのは少し凝った意匠の十字架だ。片手に収まるサイズの十字架が、いつでも俺たちの胸にぶら下がっているけれど、別に宗教的な意味はない。ただ、ずっと昔からそれは俺たちの胸にある。いつから持っているのかはもう忘れてしまったけれど。ひょっとしたら、誰かにもらったものなのかもしれない。この十字架にまつわる幾つかのことはもう俺の記憶にはないけれど、それでもこれはスエと同じもので、これを握ると奇妙に落ち着くことだけは今でも確かだ。
 スエが言う遺伝子とやらはよくわからない。…俺には難しいことはわからない。でもスエが言うことなら理解したい。
「設計図ってことは、その遺伝子とやらがあれば人間が作れるってことなのか? それに、それで善し悪しがって…いい遺伝子と悪い遺伝子があるのか?」
「それはオレにもよくわかんねえよ。髪の色とか瞳の色とか肌の色とか…そういうことが書いてあるのかもな。……興味ありそうだな。よし、んじゃ今度調べておいてやるよ。そしてわかったら教える。それでいいだろ?」
 ひどく嬉しそうにスエが笑む。それにつられるようにして、俺も笑った。
「うん。ありがとう。スエ。じゃあ、そろそろ仕事に行こう。その遺伝子とかってのを盗んでくればいいんだよな? どこにあるんだ?」
 髪の色とか瞳の色とか肌の色とか。設計図、と言うからには、色合いだけじゃなくて形とかも書いてあるんだろう。じゃあ、スエの設計図と俺の設計図は随分と違う。黒い髪と青い瞳のスエ。それに比べて、ひどく頼りない色合いの俺。琥珀色の髪も瞳もあまり好きじゃない。肌が白いことだけは同じだけれど、スエの肌は綺麗に見える。俺の肌はなんだか頼りないだけのように見える。せめてこの髪が黒かったら良かったのに、と思わずにいられない。
「ライバル会社の金庫ン中だとよ。セキュリティシステムのオンパレードらしいぜ? ……セトの腕が頼りだ」
「いつもと同じなら多分大丈夫」
 背負ったディパックを顎で示して見せる。このなかには俺の仕事道具が入ってる。それを見てスエがうなずいた。


「いつもながら、いい腕だな。っていうか、オレにはセトが何をやってるのかわかんねえよ。やっぱ、オレよりセトのほうが頭いいって、絶対」
 金庫の鍵を開ける俺の手元を覗きこみながら、スエが言う。
 俺は自分がやっていることは、多分わかっているんだと思う。ただ、他人にそれを教えろとか説明しろと言われてもできない。俺はそれを教える為の言葉を知らない。
「でも俺はこれしかできない」
 ちょうど両手を広げたくらいのサイズにおさまる小さなコンピューター。裏の市場で出回ってるそれを、更に俺が使いやすいようにいくつか改造してある。
 ……いっそ、電気信号ならわかるんだ。機械が使う言葉とか。鮮やかな色の配線とか。小さな小さな集積回路は、レンズで覗くとすごく綺麗だ。人間とかそういうものが入っていなくてすごく綺麗だ。俺は綺麗なものが好きだから。
 かすかな電子音が俺の手の中で鳴る。鍵が開いた合図だ。それはスエも知っている。
「……開いたか。よくやった、セト! おまえは働き者だぜ!」
 スエが笑う。俺がどうやって開けてるのか、機械の使い方を教えてくれとか、スエは聞かない。役割分担だと笑って言うけれど、スエは俺が説明したくともできないのだと知っている。
「働き者なのはスエのほうだ。俺が監視カメラとセキュリティに手間取ってる隙に、警備員を片付けたのはスエだ」
「オレは肉体労働担当だからな」
 巨大な金庫の中に、俺たちは足を踏み入れた。見渡すと、いろいろなものがある。棚に詰まったそれぞれは、金庫にしまうくらいだから、相当に値打ちものなんだろう。でも、俺たちは目的のもの以外には手をつけないことにしている。余計なことでアシがつけば、そのせいで命を落とすことになる。最近の警察は容赦がない。同業者が何人も殺されてる。あいつらは馬鹿だったんだ、とスエが呟いていたことがある。俺もそう思う。だから俺たちは賢い仕事をするんだ。
 それに、無理矢理に手に入れたいほど綺麗なものはそうあるもんじゃない。どんな宝石よりもスエの瞳のほうが綺麗だし、どんな絵よりもコンピューターの回路のほうが綺麗だ。
「突き当たりだ。試験管に入ってるはずだって聞いてる」
 スエが、言いながら突き当たりまで進んでいく。そのあとをついて行って…そして、俺は見つけた。
「スエ…これは?」
「……ん? 何か見つけたのか?」
 スエは、試験管を納めた、温度調整機能付きのジュラルミンケースを見つけたところだった。中身を確認しながらも、俺の問いに答えてくれる。
「これ……なんだろう? 何かの種かな」
 透明なアクリルのケースに納められた茶色い粒が二つ。アクリルケースに敷き詰められた真綿の上に、眠るように納まっている。
「そうだな、種みてぇだな。なんだ、気になるのか?」
「いや…だって、目的以外のものに手を出すと……」
「種の一つや二つ、ポケットに入っちまうだろ。アシがつきそうになりゃ飲み込めるサイズだ。かまいやしねえよ」
 気にならない、と言えば嘘になるかもしれない。確かに俺は気になっている。小さな茶色い種は綺麗でも何でもないけれど。どんな花が咲いたとしても、それはスエより綺麗ではあり得ないだろうけれど。
「じゃあ…一つだけ」
 アクリルケースの蓋を開けて、俺は種を一つ手に取った。左胸のポケットにそれを入れる。とくん、と鳴ったのは種だろうか、俺の心臓だろうか。
「よし、んじゃ行くぞ。帰り道は警備員が待ってるかもしれねえからな、気ぃつけて行こうぜ」
 目的のジュラルミンケースを片手にスエが微笑む。


◆ 牛肉入りの麺 ◆

 貧民街、とそう呼ぶ人間は多い。実際に、住んでいる俺たちでさえ、そう呼ぶことが多い。誰も正しい名前を知らないからだ。小難しい名前の通りだとか地区だとか…そんなものは覚える気にならない。他人と話をして通じるかどうかを問題にするなら、正しい名前を思い出すよりも、貧民街と言ったほうが簡単だし通じやすい。
 朝日が昇る頃に、俺たちは貧民街にたどり着いた。崩れたビルや、傾いたアパート。それでも人は住んでいる。瓦礫の隙間に段ボールと板きれで自分だけの家を建てている人間もいる。貧民街のなかでも、一応は小綺麗な部類に入る路地では、小さな店や屋台がひしめきあっている。高級なものやマトモなものはここでは手に入らない。けれど、そうでなくてもかまわないと言うなら、この街で手に入らないものなどない。缶詰、ビスケット、麺、肉、銃、ナイフ、盗聴器、コンピューター、冷たくなった赤ん坊、まだ温かい死体。買おうと思えば何でも買える。金がなければ、物で買えばいい。
「ゴミ溜めみたいな街だ」
 人があふれて、物があふれて、そしてゴミがあふれる。この街はそんな街だ。人間はたくさん死ぬけれど、その分どこかで生まれてる。綺麗な街で暮らせなくなった人間が迷い込んできたりもする。だから、死体が増えても、生きた人間は減らない。
 もっとましな地区を回っている街路清掃ロボットは、この街には未来永劫来ないだろう。でも、もしも来たとしたら、奴らは死体も片付けるんだろうか?
 ゴミ溜めみたいな街、と俺は口に出した。それを隣で聞いていたスエが笑う。
「ゴミ溜めってよりもクソ溜めだな。おい、どっかで朝メシ食っていかねえか? 朝日が昇ったんなら、そろそろヤム爺が屋台出してんだろ」
「そうだな。ヤム爺んとこの麺はうまいから」
「ああ。どんな材料使ってんのかは知らねえけどな」
 言いながらスエが笑う。それはそうだろう。店で売ってるものは、どこかから盗んできたものが大半だ。そして屋台で売られている食べ物は材料などほとんどわからない。
「知らなくていいことなら、俺は知ろうと思わない。……うまけりゃ十分だ」
「まったくだ。だからおまえは頭がいいよ。オレなんざ、知りたくてしょうがねえな。だってよ、ヤム爺んとこで、牛肉入り麺とかって言ってるだろ? けど、こないだ南通りの奴らがどっかの牧場から牛かっぱらって来た次の日にゃあさ、ヤム爺の奴、でけえ板っきれに牛肉入り麺ってでかでかと書いてよ、しかもいつもの三倍の値段すんだぜ? んじゃ、いつもの牛肉入り麺は何だって思うじゃんよ」
 言葉ほどには、険しい顔にならずにスエが笑う。もちろん、俺が知ってるくらいだからスエが知らないわけがない。ヤム爺の店の牛肉入り麺には牛肉なんてひとかけらも入っちゃいないんだ。でも、ヤム爺は、豚肉とも鶏肉とも書かない。羊肉と馬肉なら、別のメニューになって、値段も違う。
「安くてうまけりゃそれでいいんだ。…行こう、スエ。眠くなってきた。朝メシ食ったら寝に戻りたい」


「いよっす、ヤム爺! いつもの牛肉入り麺二つな。あとチャイもくれ。やっぱ、夜中から朝方にかけての仕事ってのぁ冷えちまう」
 ヤム爺の屋台にスエが声をかける。ぼろぼろの屋台の奥から、ぼろぼろのヤム爺が顔を出した。
「おう、スエとセトじゃねえか。仕事帰りかい。今日の天気じゃ、体が冷えたろ。爺のメシであったまってけ」
 爺、と自分も呼んでいるから、俺たちも他の奴らもみんな、ヤム爺と呼ぶ。でも本当の年は知らない。浅黒い肌には、たくさんの皺が刻まれてるし、もじゃもじゃの髪も髭もなんだか灰をふりまいたみたいな色だから、相当の年寄りなんだろうとは思うけれど。
 俺の記憶のなかのヤム爺はいつだって年寄りだ。多分、何年か前までは今よりも少しくらいは若かったのかもしれない。けれど、それだって年寄りに変わりはない。だからヤム爺はいつだって年寄りなんだ。
「どした、セト?」
 スエの問いかけ。
「いや、何でもない。座ろう」
 ここらの屋台には椅子なんかない。適当な瓦礫とか木箱とかが椅子代わりになるだけだ。それでもまるで椅子であるかのように並べられている木箱にスエが座る。テーブル代わりの更に大きな木箱をはさんで差し向かいに俺が座った。
「セトはまぁだスエのあと、くっついてまわってんのか? てめえくらいになりゃ一人でも仕事できんだろうによ」
 しわがれた声で笑いながら、ヤム爺が鍋をかき回す。不思議な匂いの湯気があがる。どんなに朝日が射し込んでも、ゴミ溜めの街は綺麗になんか見えない。けど、湯気が広がればゴミは見えなくなるから少しはマシになる。
 曖昧にうなずく俺を無視して、スエが笑う。
「ははっ! 違うよ、ヤム爺。セトは一人で大丈夫さ。オレがセトなしじゃ仕事できねえんだよ」
「何言ってんだか。おまえさんは、銃だろうがナイフだろうが、武器使わせりゃ天下一品ってなもんだろが」
「へっ。そりゃあ違うね。武器だけじゃねえさ。オレは素手でもイケるぜ?」
 湯気のなかで笑うスエは綺麗だ。胸元を大きく開けてある、黒いレザーのツナギ。白い胸の谷間が湯気で曖昧になっていくのが綺麗だ。そこにかかる、長くて真っ直ぐな黒髪が綺麗だ。
「ンなぁ腕っ節のつえぇおまえさんが、セトなしじゃいられねえってか? 冗談もたいがいにしろよ?」
 縁の欠けたどんぶりに、ヤム爺自慢の牛肉入り麺を盛って、ヤム爺はそれを俺たちの前に置いた。どん、どんっと二つ。小麦粉を練った麺に、塩味のスープ。そして、上にはヤム爺だけが牛肉と呼ぶ肉が何切れか載っている。
「冗談なんかじゃねえさ。人は殺せても鍵は開けられねえ。セトは組むのには最高の奴さ。頭もいいしな。それに、優しいんだぜ?」
 何度となく繰り返された会話だ。ヤム爺とスエのそれは、挨拶みたいなものだ。もう慣れた。けど、スエはあまり嘘をつかない。時々はつくけれど、いつもじゃない。だから、スエの言葉なら俺は信じられる。スエの言ってることが本当ならいい。そうだとしたら、俺はいつまでもスエといられるだろうから。
 太さが均一じゃない麺をスープと一緒に啜る。上に載っている肉を噛む。
「………ヤム爺。チャイは?」
 ぐしぐし言い始めた鼻を手の甲でおさえて、俺は聞いてみた。きっとヤム爺は忘れてる。スエとの挨拶に夢中になってる。
「ああ、今作るところさ。忘れてなんかねえよ、心配すんな、セト」
 笑って答えるヤム爺のそれは嘘だ。でも、思い出してくれたなら、さほど問題にもならない。
「ん! んーん、ん?」
 麺と肉とを頬張ったまま、スエが箸で俺を指した。口ん中のもの飲み込んでから喋りやがれと、ヤム爺が怒鳴る。
「ああ、さっきの種はどうしたのかって?」
「…そう。それそれ」
 口の中のものをごくりと飲み込んで、スエがうなずく。
「あるよ、ほら」
 俺は胸ポケットのなかから、茶色い種を出して見せた。小指の爪よりも小さい種。こんなものがどうしてあの時、あんなに気になったのか。朝日が射し込む薄汚い路地で見ると、それはとても貧相なものとしか映らないのに。
「これ、植えてみるのか? 楽しみだな。どんなもんが育つのかさ。食えるもんだといいな」
 そういってスエは笑うけれど。俺は別に食えるもんじゃなくてもいいと思ってる。
「綺麗な……大きい花が咲くようなもんだといいと思う。食い物なら、この街では別に贅沢言わなきゃ困らないし」
「そっか、花か。うん、それでもいいな。セトはオレなんかより華奢で、可愛い顔立ちしてっからな。セトに似合う花が咲くといい」
 でも、俺が望むのはスエに似合う花だ。あでやかな大輪の花。
「可愛い花よりも…大きい花のほうがいい。そのほうがきっと綺麗だ」
「そっかぁ? ま、植えてみなけりゃわかんねえよな。……そういや、セト。髪、随分と伸びたな。前髪、邪魔じゃねえか?」
 箸を口にくわえて、半ば無理矢理にあけた右手で、スエが俺の髪に手を伸ばした。くしゃくしゃと軽くかき回す。朝日に透けて、琥珀色の髪の毛は、普段よりももっと頼りない色に見えた。
「そんなに邪魔じゃないけど…」
「あとでオレが切ってやるよ。セトはコンピューターとかいじくるからな。前髪が邪魔だと目が悪くなっちまう。それに、そんな風に長い前髪をおろしてると、せっかくのセトの目が見えねえからな」
 そう言って笑うスエ。スエは俺の髪と瞳が気に入ってるらしい。猫みたいだ、といつも笑って言う。そんな時の笑い方は、なんだかスエが嬉しそうだから、俺も嬉しくなる。こんな頼りない色だけどスエが誉めてくれるなら悪くないかも知れないと思える。
「ありがとう、スエ」
「……花、咲くといいよな」
 スエがまた笑った。嬉しそうに。
「花なんかぁ育てたって売れねえだろうによ。何か食えるもんが育てば、爺が買い取ってやってもいいぜぇ?」
 チャイのカップを俺とスエの前において、ヤム爺も笑った。


   
           
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