天使の棺



◆ 7 ◆

 半陰陽と書かれたページを開いたまま、その本を持って桐人は小さなベランダへと出た。昼間の熱の名残が、夜気の中にも漂っている。皓々と降り注ぐ月の光は、陽光のような熱を持たない。この不可思議な生ぬるさは、あのコンテナの中に少し似ていると、埒もないことを思いついて、桐人の片頬にほろ苦い笑みが浮かんだ。
 ポケットの中から、潰れたマイルドセブンの箱を取り出す。
 今でも室内では吸ってはいないが、これから子供が生まれることを考えるなら、煙草はやめたほうがいいのだろうと思う。だが、なかなか踏ん切りがつかない。そんな些細なことでさえ、自分が子供を本当には待ち望んでいないことの現れかと思うと、かすかに心がざわめく。
 煙草の煙が室内に入らないように、風向きに気を遣いながら、桐人は部屋から漏れる明かりで、ページに書かれている文字を辿った。
 それは、一般に育児参考書と呼ばれるものよりも、かなり詳細なことが書かれている。靖子は妊娠を知った頃から、少し神経質になっていた。それはどうやら、親戚の中に遺伝性の病気を持っている人間がいることが原因だったらしい。おそらくは、その不安から、こういった本を買ったのだろうと想像はついた。
 半陰陽、と書かれた箇所は、その本の巻末近いページだった。幾つかの症状が、『病気』として書かれている。そのことが不思議だった。では、やはり柚乃も病気だったのかと思う。だが、彼女は身体の不調を口にはしなかった。逆に、病気ではないと言ったのだ。病気なんかじゃない、と悔しそうに。
 とても珍しい事例なのだろうと思った。自分はたまたま、柚乃と名乗る少女がそうだと知ってはいるけれど、世間ではあまり聞かない。だから、例えば何十万人に一人といったような確率なのだろうと。
 そして、続く文字に目を疑った。よく耳にする先天的な障害よりも、よほどに確率が高い。もちろん、半陰陽にも様々な種類があって、一概には言えないようだが、それでもその確率の高さ、そう呼ばれる人間の多さを桐人は初めて知った。
(……生まれた時に病院側で便宜上の性を決めることが多い……?)
 記述を読んで、内心で首を傾げる。便宜上の、とはどういう意味かと考えて、そして思い当たった。出生届だ。二週間以内で決めなくてはいけないのだから、今の内に子供の名前を考えておけと桐人自身も言われていた。
 紙切れ一枚。たったそれだけのために、子供の一生を二週間で決める。時には無理矢理、手術をしてまでも。将来的に、成長の途中で未分化だった性が変化をきたしたり、表面的な性と内部の性が違ってきたりすることも多いと記述しながら。
 ならば、柚乃も。
 この本の記述が正しいならば、柚乃は生まれ落ちた瞬間には女の子だと判断されたのだろう。もしくは、女ということに、決められた。周りの人間に。不都合が生じれば、治療をすれば良い、と。
 身勝手だと思った。出生届に、男女の別を記入するためだけに、柚乃があんな思いをしたのかと思うと、憤りさえ湧いてくる。
 居間を振り返った。そこから続く寝室で安らかな寝息を立てている妻を思った。その腹で息づく子供のことも。
 ──産まれてくる子供が、もしもそう判断されたなら、果たして自分は医者の言うことに逆らえるだろうか。
 成長するにつれ、女性化することが多いのだから、女性ということにしてしまいましょう、と。もしもそう言われたら。表面的には女の子のように見えますが、DNA検査では男の子ですから、と。そう言われたら。
 二週間では決められない。
 だが、決めるしかないのだ。名前よりも重要な、性別というものを。たった二週間で。
 そんな矛盾の中で彼女は生きていたのかと気付かされる。ページを繰るにつれ、桐人の頬に涙が伝った。
 ──自分は、柚乃のことを理解してなんかいなかった。
 あの夏の日、確かに心は通じ合ったと思っていた。だが、あの幼かった自分が、果たして柚乃のことをどれだけわかっていたのだろう。
 自分はただ生まれてきただけなのに、病気だと言われ、半ば強引に治療をされる。柚乃、という名前も。あの時着ていたワンピースも。それは、柚乃の性が戸籍上は女性であったことを示している。そしてそれは、この本に書いてあることが事実だとすれば、周りの都合で便宜上決められただけのものなのだ。
 どうして、と。
 あの日の柚乃の声が脳裏に蘇る。
 何故、あのコンテナが棺だったのか。桐人はそれを思いだした。


「桐人君……あたし、女の子に見えるよね?」
 柚乃が問いかける。
 天使なんだから性別はない、と。そう言ったのは柚乃だ。なのにそれを問いかける。
 桐人は答えに迷った。本当は男の子なのに、間違えて生まれてきたと柚乃は言った。ならば、女の子なのか。それともやはり男の子なのか。見る限りは、白く細い腕も、柔らかな髪も女の子のように見える。だが、柚乃がどちらの答えを望んでいるのかが桐人にはわからなかった。自分にとってどう見えるかなどはどうでもいい。ただ、柚乃の望む答えを返してあげたかった。
 返事を躊躇う桐人をしばし見つめ、柚乃はその場で膝立ちになった。そして、着ていたワンピースのボタンに手を伸ばす。
 生ぬるい空気。
 気が付けば、蝉の声はまた途絶えていた。柚乃と桐人の息づかいだけが古いコンテナの中に響く。
「柚……乃……?」
 ワンピースのボタンに指をかけた柚乃の名前を、桐人が呼ぶ。何をするのかと問いかける。
 桐人が声を出した瞬間、何かの呪縛が解けたかのように、蝉が再び一斉に鳴き出した。
 澱んだ空気が蝉の声に染まる。柚乃は黙ったまま、俯いて、ワンピースのボタンをひとつひとつ外していった。
 途中まで外したところで立ち上がる。袖から細い腕を引き抜くと、するりとワンピースは床に落ちた。
 ワンピースよりも白い下着が桐人の目に映る。
「ね、桐人君。……もうすぐ、あたしはあたしじゃなくなっちゃうかもしれないから……だから、桐人君は覚えていて。あたしがあたしだった時のことを」
「どう……して……?」
 そう問いかけた桐人に、柚乃は曖昧な微笑みを返した。残った下着に手をかけて、それも脱ぎ去る。
「……わかんない。でも、桐人君はなんだか……うん、天使みたいな感じがしたの。あたしと同じ、天使の仲間。あたし……明日から入院するの。手術なんかしたくないけど……がんばってみるけど……それでも、駄目かもしれないから。だから、その前に、誰かに見ておいて欲しかった」
 誰でも良かったのかもしれないと、桐人は思う。それでも良かった。誰でもいいのなら、自分であって悪いわけもない。
「……うん。わかった」
 脱いだ下着を、ワンピースの上に置いて、柚乃は桐人の正面に立った。全裸になった少女の姿を見て、桐人は恥ずかしさに目を背けたくなる。
「……駄目。ちゃんと見て。お願い」
 柚乃の声に引き戻される視線。
 日焼けの跡のない、白い素肌が眩しかった。ふくらみかけている乳房。肉付きが薄いせいで、やや浮き出している肋骨の曲線。そこからなだらかなカーブが下腹に続き、その下にはごく淡い茂みがあった。そしてその茂みからわずかに覗いているものは……。
「……あ」
 桐人が小さく声を漏らした。母のいない桐人は、女性の裸体など見たことがない。それでも、頼りないものではあるが、知識はあった。女性のそれと男性のものとは違うのだという知識だけは。
 なのに、柚乃の下半身、淡い茂みの中に見えるものは、桐人のものとあまり変わらない形をしている。
「……ね。これが、あたしなの」
 柚乃が小さく微笑んだ。裸体をさらす羞恥からか、肌がかすかに赤みを帯びている。
「天……使?」
「そう、天使」
 乳房と、腰の曲線。それは未発達ながらも確かに女性のものだった。だが、色の薄い茂みの奥に見え隠れするものは、女性のものではない。かといって、男性のものとも言い切れない。どちらかというと、少年のもののようにも見える。
「他の……同級生とかはね、もう胸もおっきくて。あたしなんか、ほら……ブラジャーとかしなくても平気なんだもん」
 中学二年生という年齢で、普通はどの程度発育しているものなのか、桐人にはわからない。
「でも……すごく綺麗だ」
 それは正直な思いだった。
 少女でもあり少年でもある、柚乃のその体は、おそらく普通ではないのだろうとは思う。けれど、桐人の目には、それはひどく美しいものとして映った。
 座ったまま、柚乃を見上げる桐人からは、小さなほくろが見えた。柚乃自身も気付いていないかもしれない位置だ。ちょうど、わずかにふくらんだ乳房の真下。
 視線を感じて、かすかに柚乃が身じろぎをする。未発達な乳房はあまり揺れない。けれど、浮き出した肋骨に沿って、肌が動いた。骨の曲線をなぞるように、ほくろがわずかに移動する。
 知識の無い桐人は、性的な欲望や衝動を感じはしなかった。ただ、そのほくろだけが、奇妙に目に焼き付いた。
「うん。……柚乃は……天使みたいに綺麗だ」
「……ありがとう」
 微笑んで、柚乃はその場に膝をついた。
 ささくれたベニヤ板が、白い肌に小さな棘を刺す。
「……あたし、がんばってみる。お父さんもお母さんも、お医者さんも、いろいろ言うけど……でも、がんばってみる。だって、あたし、悪いことしてないもの」
 だから、と小さく囁いて、柚乃は桐人の手を取った。
「……だから、桐人君も、がんばろう」
 がんばって、と言う声は聞いたことがある。何度も。けれど、がんばろうと言われたことはなかった。
 言葉が、出なかった。
 鼻の奥が詰まる。涙がこぼれそうになる。けれど、なんとなく、泣いてはいけないと思った。
 だから、涙の気配を無理矢理に呑み込んで、それでも声にならないその返事を、両手に託して、桐人は柚乃の手をしっかりと握り返した。
「……うん。わかった。……うん。がんばろうね」
 柚乃が微笑む。
 脱ぎ捨てた下着と服を手に取り、それらを身につけながら、柚乃は殊更に明るい声で言葉を繋ぐ。
「ね、桐人君。今日のことは二人だけの秘密だよ。この場所も、二人だけの秘密の場所。……がんばろう。でもね……でも、がんばってもがんばっても……それでも、最後までがんばっても、どうしようもなくなったら、またここに戻ってこよう」
「……うん。わかった。それまで、ここはずっと、秘密……だよね」
 ワンピースのボタンを留める、柚乃の指の動きを見つめながら、桐人が頷く。
「そう。いつか、どうにもならなくなったら、ここに来て……捨てるの」
 何を、とは聞かなかった。
 全てに抗う情熱も、折れずにいるためのしなやかさも、立ち上がるための強さも。何もかも失ってしまったら、捨てるしかないのだと桐人は気付いていた。自分自身というものを、捨てる場所がここなのだと。


   
           
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