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天使の棺
◆ 8 ◆
翌朝、出勤した桐人は、自分が乗るトラックに積まれた荷物を点検しながら、息を付いた。それは安堵の息でもあり、落胆の息でもある。手渡された配送予定表には、昨日の場所は入っていない。あの少女との記憶が息づくあの街は入っていない。
運転席に腰を下ろすと同時に、弁当の入った袋を助手席に放る。かたり、と音を立てたのは箸箱だ。昨夜、靖子には何も言わなかった。だから、靖子はいつもと同じように弁当を作り、いつもと同じように箸箱をそれに添えた。
棺を連想させる箸箱。不吉な連想だと、初めは思った。だが、桐人にとっては棺は不吉なものではなかった。黒い染みに思えたものは、柔らかな闇にも似た安らぎ。内臓の奥に粟立つ、それは官能めいた衝動。
果たしてあの時の自分が、柚乃のことをどれだけわかっていただろう。
けれど、柚乃は言ったのだ。天使の仲間だと。
一人じゃないと思えることで、桐人は救われた。そうして、どれだけあの日々が続いたとしても耐えるつもりだった。
だが、実際にはあの次の日に、牢獄の日々は終わりを告げた。唐突に。支配者の死という形で。
いつか、何かを諦める時。せめて安らげるようにと思ったのがあのコンテナだった。桐人自身と、柚乃のための巨大な棺。絶望の場所ではなく安息の場所として。
父親が別の棺に横たわったことによって、桐人は逃れることが出来た。あのコンテナを、桐人は思い出さずにいられた。
──柚乃は、どうだったのだろう。
予定表に従って、荷物の配達を続けながら、桐人は思う。
自分は、捨てずに済んだ。祖母との優しい生活の中で、父の死と一緒に、全てを塗り込めることが出来た。だが、彼女は。
昼が近づく。ぎらつく真夏の太陽がフロントガラスを灼く。目の前に大きな橋が見えた。あの橋を渡って、更に車を走らせれば、昨日の場所に着く。だが、今日の予定では、橋の手前で幾つかの配達をすることになっている。
橋の手前で車を停め、見つけたコンビニエンス・ストアに立ち寄る。昼食のための飲み物と、煙草を買うつもりだった。
レジでそれらの品物を並べ、ズボンの尻ポケットからくたびれた財布を取り出す。そうして、首を巡らせた時。子供用の菓子が並べられているのに気が付いた。
(あの頃のような、粉っぽい味のするチョコレートはもうないんだろうな)
ふと、そんなことを思い浮かべる。父親に菓子を買ってもらえたことなど、数えるほどしかない。だが、だからこそ、桐人はその全てを覚えていた。
コインの形をしたチョコレート。香料がきついだけの風船ガム。当たりくじのついたキャンディ。まだ消費税も導入される前のことだ。父親が無造作に掴んだ幾つかの菓子の代金は、三十円だったり、五十円だったり。
無性に、そんな菓子が食べたくなった。
レジを打とうとするアルバイトの青年に、軽く手を掲げて、制止の意を示した。そうして、桐人は菓子の棚に歩み寄る。
昔、売っていたものによく似た菓子もある。それに手を伸ばしかけて、桐人は別のものを見つけた。
(……これにするか)
馬鹿げていると思った。甘党ではない自分が、子供用の菓子を買うこと自体、馬鹿げていると。それは郷愁でもなく、懐古でもなく、ただの記憶の確認なのかもしれない。
桐人は、キャラメルを一箱買った。
店を出たところで、ふと思いつく。
──どうせなら……昼食を摂る時間を短縮して、あの場所に行こうか。道は空いている。多少の寄り道をしたところで、予定に狂いは生じない。
ポケットに入れられているキャラメルは、あの場所で食べるのがふさわしいように思えたのだ。
そんな考えを見透かしたように、ポロシャツの胸ポケットで携帯電話が着信を告げた。表示を見ると、職場からの連絡だ。
車を路肩に停める。今どこに居るのかとの問いに、桐人は二十三区の外れであることを告げた。
「……ええ。そうです。川の手前です」
小さな携帯電話から流れる声に、桐人は小さく息を呑んだ。
急で悪いが集荷に行ってくれ、と。その言葉と共に告げられた住所は、昨日のあの街だ。
空き地の脇、古びたコンテナが見える位置にトラックを停め、桐人は電話で聞いた住所のメモと住宅地図を見比べた。
以前は、丘の上に広がる新興住宅地と、ろくに区画整理もされていない古い住宅街とが隣接する街だった。だが、今では古い住宅街は姿を消している。幾つかの大きな建物は昔のままだが、ひしめき合うように建っていた小さな住宅たちは跡形もない。味気ない真っ直ぐな道路で描かれた碁盤の目のような街になってしまっている。
地図と住所を頼りに進むのなら、確かにそれは便利だろう。だが、どこに辿り着くのかわからない、あの夏のような期待感はもう持てない。
集荷に行く約束の時間は十一時半だ。地図で確認したところ、ここからなら車で五分ほどの距離だろう。どんなに多く見積もっても十分はかからない。
──あのコンテナの中に、入ってみようか。
桐人はそう思った。時間はある。
昨日は、外側を確認しただけで、中には足を踏み入れなかった。何故か、そうしてはいけないような気がしたのだ。
だが、今なら。
柚乃の言葉をひとつ残らず思いだした今なら。入っても許されるかも知れない、そう思った。
自分自身を捨てにきたわけではない。だから、自分には入る資格がないのかもしれない。けれど、柚乃はあの後、どうしただろう。自分が父親の葬式に出ている間。自分が、隣の町の施設に預けられている間。自分が祖母と出会っていたあの時。柚乃は。
例えば、羽根一枚ほどの重さでもいい。柚乃が背負っているものを軽く出来ただろうか。
本に書かれた文字の羅列なら、昨日の夜に理解した。けれどそれは柚乃を理解したことになるのだろうか。昨夜、狭いベランダで流した涙は、後悔の涙だったと思う。幼い頃の自分は柚乃のことを理解してなどいなかったという、悔恨の涙。
けれど、錆び付いて、今にも崩れ落ちそうなコンテナを見ていると、それはまるで逆のようにも思えるのだ。あの時の自分のほうが柚乃のことを理解していたかもしれない、そう思えるのだ。染色体の数を知らなくても、出生率を知らなくても。
外には、蝉の声が響いていた。あの日と同じように。眩さに焼き切れそうな視界の先に映る赤茶けた棺。傾きかけたフェンスの入り口を指先で軽く押して、桐人は敷地に足を踏み入れた。
棺の入り口が、かすかに口を開けている。
目の前にある、ガラスの自動ドアに刻まれた文字を確かめて、桐人はそのドアをくぐった。
この地域のコミュニティセンターである。幾つかの団体が常駐しているらしく、玄関を入ってすぐ脇には、団体名の入った、スチールの集合郵便受けがある。そしてその隣には、小さな受付の窓。あまり立派な建物ではないが、図書館も併設されているらしく、敷地と駐車場は広い。
古い煉瓦風のタイルが貼られた玄関は、やや薄暗い。だが、建物の中は冷房が効いているのか、ひやりとした風が桐人を包む。
誰かいないかと見回した桐人の視線の先に、幾つかのポスターや募金箱が見えた。防災用のポスター、喫煙の害を訴えるリーフレット、虐待される子供たちを救うための募金箱。
受付窓の手前に、小さな呼び鈴を見つけた。桐人のちょうど胸元に位置する受付窓を覗きこみながら、ちん、とそれを鳴らした。
「すみません。お電話いただいた、芝浦運輸の者ですが」
近づいてきた人影にそう告げる。
「ああ、集荷の人ね」
ややかすれた声がそれに応えた。
白いシャツとグレイのスラックス。近づいてくるまでは男性だと思っていた。背が高かったからだ。だが、その声を聞いて、桐人は自分の勘違いに気が付いた。
どちらかというと低音ではあるが、女性の声である。そして、桐人と同じように、やや前屈みになって受付窓を覗くその姿勢で、白いシャツの胸元に膨らみがあるのが見てとれた。
「通用口にまわったほうがいいですか」
尋ねた声に、女性は微笑んだ。
「いえ、こっちでいいですよ。今、出しますから。えっと……送り状、いただけます? まだ、書いてないの」
ごめんなさいね、と笑って、その女性はあらためて、受付窓の近くに置かれている席に腰を下ろした。
送り状を渡し、別の男性職員が奥の扉から運んできた荷物を受け取る。梱包の具合を調べ、重さを量る。
「ねぇ、ここには何を書けばいいの?」
かすれた声に桐人は顔を上げる。
彼女が椅子に座っているせいで、さきほどよりも顔の位置が近い。
綺麗な女性だった。桐人よりも幾らか年上だろう。先ほど、男性かと思ったのはその身長と、あとは骨格だったかもしれない。女性にしてはやや骨張った体格だ。だが、それでも肩先や手首には、女性らしい丸みが見られる。緩いウェーブのかかった柔らかそうな栗色の髪が、化粧の薄い顔の周りを縁取っている。
「いえ、そこはこちらのほうで記入しますので。こちらに、ご住所とお名前と……」
既に記入されていた名前を見て、桐人は息を呑んだ。
「……あれ? 私、間違えました?」
桐人の気配に、女性が顔を上げる。
「いえ。合ってますよ。……そちら、ご担当者様のお名前ですか?」
「ええ、私の」
微笑んで、送り状を桐人に手渡す。その左手の薬指には、銀色の指輪がおさまっていた。
「はい、では確かにお預かりいたします」
送り状を荷物に貼り付け、桐人は立ち上がった。
「よろしくお願いしますね」
会釈をするその声に振り返る。
桐人は、尻ポケットから財布を出した。
「あの……これ、そこの募金箱に入れてもいいですか」
桐人が差し出したものを見て、女性が頷く。
「ええ。もちろん。ありがとうございます。……でも、いいんですか? それ、旧札ですよね。大事なものなんじゃ……」
「いいえ。いいんです。……そうだ。よければこれ、食べませんか」
片手に荷物を持ち、桐人はもう片方の手でポケットからキャラメルの箱を取りだした。
え、と驚く彼女の手に、桐人はその箱を載せる。
「あら、ありがとう。好きなんですよ、これ」
女性の笑う声に、桐人も微笑んだ。
「だと思いました。……あの時のお礼です」
囁くような声が彼女に届いたかどうかはわからなかった。反応を待たずに、桐人は自動ドアをくぐる。
焼け付く陽射しと、降り注ぐ蝉の声。
トラックの運転席に戻り、半ば習慣のようにダッシュボードの上から煙草の箱を手に取る。が、それに火を付けることはやめた。
(煙草もやめるか。……子供が生まれるんだから)
桐人は、コンテナの中で見たものを思いだしていた。
コンテナの中には、何もなかったのだ。柚乃の痕跡は何ひとつ。
けれど、その代わりのように、白い羽根が一枚落ちていた。おそらくは鳩のものだろう。だが、桐人には、違うものに思えた。
棺は、空(から)だった。自分も柚乃も、何も捨てずに済んだ。
(……いや、それとも)
それとも、あの日、二人は同時に捨てたのかもしれない。天使である自分たちを。人間として生きるために。
棺の中には、天使の羽根が一枚、葬られていた。
── 了 ──
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