天使の棺



◆ 6 ◆

 ──そうだ、夏だった。
 今日の昼間に見たコンテナを思い出す。仕事の途中では、そこから繋がる記憶の糸をたぐる時間はなかった。だから、そのまま立ち去った。そうして仕事に戻った。
 だが、本のページに書かれた言葉が、途切れていたはずの記憶を結びつける。一度結びつけられてしまえば、それを思い出すのは容易い。
 あの空き地。あのコンテナ。それはあの日の記憶そのままだった。
(何故……忘れていたんだ。確かにあの頃のことはよく覚えていないし、覚えていようとも思わなかったけれど。ああ、でもあの日は……そうか、終業式だった)
 小学校三年の夏休み前日。終業式を終え、学校から家に帰る途中の寄り道だった。そしてその翌日には、父の死を知らされる。
(結局、あの給料で何をするつもりだったのかは、わからないままだ。家賃を払うつもりだったのか、それとも俺の服か靴を……)
 どうでもいいことのはずだった。
(日雇いの給料なんかたかが知れている。当時で十日間働いて、どのくらい貰えたのかは分からないが……おそらく家賃は溜めていたはずだから、一ヶ月分がせいぜいだと思われる金額を稼いだからといってどうなるものでもないだろう。だとしたら、服を買ってくれるつもりだったんだと、そう思いたい……)
 どうでもいい。……なのに、気にかかった。あの日の父親は自分のために働いていてくれたのだと思いたかった。息子のために金を稼ごうとして、そうして事故にあったのだと。
(もしもそうなら……今更だけど、涙のひとつくらいは出るかもしれない)
 あの時、子供だった自分が泣かなかったのは何故だろうと考えてみる。たった一人の身寄りが死んでしまうことに哀しみを覚えなかったのか。
 ……覚えなかったのだ。たった一人の身寄りであるよりも、彼は唯一にして最大の敵だった。自分という人間の支配者だった。怯えて暮らすしかなかった、幼い頃の自分。そして、わずかとは言え世界が広がってからは、ただただ憎しみと、そしてそれよりも強く哀しみをつのらせるしかなかった相手。
 周りから差し伸べられる、ささやかな優しさも。同情も慰めも何もかも。受け入れる余裕はなかった。それを受け入れてしまえば、その先が耐えられなくなるから。耐えるために……最後に残っているはずの自分の中の殻を守るために、何も受け入れてはいけなかった。
 がんばってね、の言葉も。
 可哀想に、の視線も。
 本当の安らぎをくれたのは祖母だけだった。
(そして、強さをくれたのは……彼女だった)


 コンテナの中で、桐人は息をついて、足を伸ばした。ここがどうやら安心出来る場所だと確認したのだ。
 他人の目も、耳もない。声も届かない。そして何より、父親の目がここには届かない。
 スポーツバッグを傍らに置き、古びてすりきれた靴を脱いだ。とっくにきつくなっていた靴を履いていたせいで、足の指が痛い。靴を脱いで、足の指を揉みほぐした。
(ああ……お腹が空いたな)
 学校に行っている間は、給食があった。そして、それは桐人が唯一、安心出来る食事だったのだ。父の目の届かないところで食べられる食事。そして量も種類も満足のいくもので、時にはお代わりすることさえ許される。学校はなんて素晴らしいところなんだと思わずにいられなかった。
 どうせ学校じゃ給食があるんだろう、と。そう言われて、桐人は朝も夕も、あまり満足な食事は貰えなかった。土曜日と日曜日は、父親の機嫌が良ければ、小さな茶碗に半分ほどの冷や飯が貰える時もある。カビたパンを食べて良いと言われる時もある。
 二年生になった頃から、桐人のすべき仕事の中には、食事の支度というのも含まれるようになった。買い物をして、食事を作って……なのに、それを食べて良いと言われることはあまりなかった。味見すら許されず、あげくに塩辛いと殴られることもあった。
(明日から夏休みだ。今日みたいに、父さんが働きに出るなら、その間に何か食べられるけど……でも、家にはどうせ食べ物もないし。それを買うお金もないし)
 自分が働いてお金を稼げるのならどれだけ良いかと思わずにはいられない。自分一人の働きで、幾らかでも貰えるのなら、幾らだって働くのに、と。
 桐人が小さな溜息をついた瞬間。
 コンテナの入り口から顔を覗かせた人影があった。桐人のいる位置からは逆光になる。白い光の中で、シルエットだけを浮かび上がらせているのは、それでも少女だと知れた。ふわりと柔らかそうな髪が、光に透けるのを見たからだ。少なくとも、あんな柔らかそうな髪を持っている大人には会ったことがない、と桐人はそう判断した。
「誰かいるの?」
 聞こえてきた声が、桐人の推測を裏付けする。ややかすれた……それでもそれは、少女の声だった。
「……いる」
 短くひとことだけ答え、桐人は様子を窺った。自分より、相手は明らかに年上だ。ひょっとすると、無粋な大人の真似をして、通学路から外れたところで遊んでいる自分を叱るかもしれない。そうじゃなければ、クラスのませた女の子と同じことをするかもしれない。この場は見逃しておいて、あとで親や教師に言いつけるのだ。
「あ。この中、日影になってるんだ。ね、あたしも入っていいかな」
 面白がるような口調。桐人が返事に迷っている隙に、それを無言の承諾ととったのか、少女はコンテナの中に入ってきた。
 ワンピースの裾を気にしながら、そうっと入ってくる少女を見て、やはり自分よりも年上らしいと桐人は思う。自分より背の大きい女の子も、同じクラスには珍しくないが、それとは明らかにどこかが違う。おそらくそれは、手足のバランスなのだろうと思った。少女の体は大人ではない。だが、子供でもないのだ。
 少女を間近で見て、桐人は先刻の考えを捨てた。どう見ても、同じ小学校に通っているとは思えない。それなら、告げ口される恐れもないだろう。
 桐人がそう考えているうちに、少女はコンテナの中を歩き回り、そして桐人の隣にすとんと腰を下ろした。
「……お、姉ちゃん……どこの人?」
 桐人の問いに、少女は微笑んだ。桐人の隣で、両膝を抱え込んで座りながら、指さす方角に迷ったあげく、それを諦めたように、悪戯っぽく微笑んだ。
「丘の上にある、赤い屋根の家に住んでるの」
「……赤い屋根、なんか、たくさんある、よ」
「あ、そういえばそうね。でもいいじゃない。そのうちのどれかひとつよ。君は?」
 聞き返されて、桐人はうつむいた。古い住宅地に住んでいる人間であれば、わざわざ聞き返さなくても桐人がどこの家に住んでいるのかはよく知っている。近所づきあいが云々というレベルではない。桐人とその父親は、近所では有名なのだ。
「じゃあ、名前は? あたしはね、ユノっていうの。柚子の柚に、こういう字」
 こういう字、と、少女は空中に指を走らせた。乃の字を象って、わかる?と桐人に目で問いかける。
 うなずいて、桐人は少女の名前をゆっくりと口にした。
「……柚乃?」
「そう。柚乃。君は?」
「……キリト。木の桐に、人で、桐人」
 ぼそぼそと答えた桐人を見て、柚乃は頷いた。
「桐人君かぁ。あ、そうだ。ねぇ、キャラメルあげようか」
 柚乃が、ポケットを探る。彼女が着ている真っ白なワンピースは、染みひとつない。ともすれば不健康に見えてしまいそうな真っ白な肌と、少し癖のある栗色の髪は肩口で揺れている。
「ね、手出して」
 柚乃の無邪気な微笑みにつられるように、桐人は掌を差し出した。柚乃の白く細い指先が、半透明のパラフィン紙に包まれた四角い菓子を桐人の掌の上に載せる。わずかに触れた指先は冷たい。
 綺麗に整えられた柚乃の爪を見て、桐人は急に気恥ずかしくなった。自分の手はお世辞にも清潔とは言えない。いや、手だけではない。薄汚れた半ズボンはところどころすり切れて穴があいているし、着ているTシャツもすっかり襟が伸びて、あちこちに染みがある。
「あ……ありがと」
 消え入りそうな声で桐人が呟く。それを耳にして、柚乃は嬉しそうに微笑んだ。が、次の瞬間、その微笑みが消えて、眉がかすかに顰められる。
「桐人君、そこ、怪我してる」
 そこ、と指さしたのは、キャラメルを受け取ろうと伸ばされた腕の内側だ。細い腕を痛ましく彩る青紫の痣。明らかに内出血の跡だ。
「こ、転んだんだ。何でもない。もう痛くない」
 慌てて桐人はそう答えた。それにはうなずかず、柚乃は更に、桐人の額を指さした。
「そこにも傷があるよ。おでこの……ほら、髪の毛に半分隠れてるけど」
「これも……転んだ。学校、の……階段で」
 嘘だった。伸びたTシャツの下には、他にもたくさんの青痣がある。左手首は先週ようやく、動かしても痛くなくなってきたばかりだし、生え替わる前に折れてしまった歯は、まだ新しい歯が生えてきていない。
(……言っちゃいけない。みんな、本当は知ってるのかもしれないけれど、言っちゃいけないんだ。告げ口したことが知れたら、また父さんに殴られる。それに……)
 せめて、今日初めて会ったこの少女には、自分の境遇を悟られたくないと思った。
 毎日のように、父親に殴られたり蹴られたり、時には、柱に縛り付けられたりすることを、この少女には知られたくない。
 桐人とその父親のことを知っている近所の人間は、桐人を見ると、目をそらす。下手にかばい立てすると、その後で桐人がいつもよりももっとひどく殴られることを知っているから、口出しは出来ない。けれど、酒に酔った父親に、さしたる理由もなく単なる鬱憤晴らしの対象として殴られている子供に、同情しないでいるのは難しい。桐人を見る目は、そういう微妙な感情が混ざり合った、中途半端な温度の視線なのだ。
 桐人は、ためらいのない視線で見つめられることに慣れていなかった。柚乃の視線に晒されて、居心地悪そうにうつむく。握りしめた手の中で、キャラメルが柔らかくなっていくのがわかる。
 自分の、不潔な体と服が気になって仕方がない。それでも、風呂に入れるのは、父親が機嫌の良い時だけだし、今着ている服も、持っている中では一番まともな服だ。
 柚乃の、傷ひとつ無い肌が、桐人には眩しかった。
「……そっか」
 小さく息を吐き出して、柚乃がそう呟いた。それまで、桐人が肌で感じていた視線の重圧が不意に消える。それと同時に、蝉の声がやかましく聞こえ始めた。それに気づいて初めて、今まで蝉の声が聞こえていなかったことを不思議に思う。周囲の蝉たちが一斉に泣きやんでいたのか、それとも一定の大きさとリズムを保ったままの蝉の声は、聴覚を素通りしてしまっていただけなのか。飽和した痛みが皮膚をすり抜けていくように、飽和した音もまた、耳をすり抜けるのか。
「ね、桐人君は何年生?」
「……三年生」
 ぼそりと口の中で答えてから、桐人は柚乃をちらりと見た。その動きで了解したのか、柚乃が頷く。
「あたしは中学生。二年生だよ。小学校って、明日から夏休みかな?」
 尋ねられて、頷いた。
 だからこそ、自分はここにいるのだ。明日からはもう学校に行けない。学校は、あの父親のもとから逃げ出せる場所だったのに。先生も級友も、自分のことを不思議な温度の視線で見つめるけれど、それでも殴られるよりはよほどましだったのに。
 夏休みを心待ちにする子供達が不思議だった。家という牢獄に繋がれる日々が何故待ち遠しいのか。週末なら一日半で終わる。なのに、夏休みは一ヶ月以上続くのだ。夏休みの予定を嬉々として話す級友たちの声を聞いて、桐人は思い出す。毎年、長い休みのたびに同じことを思って、同じことに気が付く。級友たちにとって家は牢獄などではないことに。
 ……羨ましい、と。そう思う心さえ疲弊しきっている。他人を羨んでしまえば、自分の境遇に耐えられなくなる。生き続けて何が待っているのかはわからない。それでも、負けたくなかった。ただ純粋に、負けたくなかったのだ。だから耐え続けた。時には憎しみを糧に。時には、何もかもに無感情になることで。
 父親による暴力がいつから始まったのか、桐人は覚えていない。他の家には母親がいるのに、自分の家にはいないことに気が付いたのは幼稚園の頃だった。父子家庭という言葉を覚えたのはつい最近だが、そのことを寂しいとは思わなかった。寂しさを感じる余裕すらなかった。ただ、時々思う。ほんの時折、心のどこかで思う。もしも母親がいれば、自分を助けてくれただろうかと。
 じっとりと、肌の上に浮かんだ汗がやがて寄り集まって、背中を流れていく。不快な感覚ではあったが、そのことで桐人は、時間が止まってはいなかったことを思いだした。
 何故、柚乃はここを立ち去らないのだろう。そう思った。確かに、このコンテナの中にいれば、強烈な陽射しは遮られる。だが、風がほとんど吹き込まない状況では、涼しいとは決して言えない。奇妙に反響する蝉の声。不思議な形のまま留まった空気。それは桐人にとっては安らげる場所だ。父親の目と声と腕が届かない。それだけで桐人には十分なのだから。
「……柚乃、は……夏休み、楽しみ?」
 とぎれとぎれにそう聞いてみたのは、答えが欲しかったからではない。キャラメルの礼のつもりだった。会話を続けることで、柚乃がここに居やすくなるのなら、と。
 ひょっとすると、柚乃も家にいたくない理由があるのかもしれないと気が付いたのは言葉を口に出してからだ。
「う……ん。そうでもない、かな。中学校はね、昨日から夏休みなんだけど。今年の夏休みはちょっと……うん、ちょっとだけ忙しくて」
 ちょっとだけ、と。そう微笑んだ頬が、わずかに歪んだ。薄暗いコンテナの中で向かい合っていなければ、陽光に紛れてしまいそうなほどわずかに。
「僕も……夏休み、嫌い」
 嫌いなのは夏休みではなく、家そのものなのだとは言えなかった。だが、ひょっとすると柚乃は気づいていたのかもしれない。桐人の答えに、柚乃は頷いた。
「そうだね。学校が休みって、いいことだけじゃないよね」
 ざ、と風が吹いた。コンテナの入り口、柚乃の座っている方向から、風が吹き付ける。涼しい風ではなかったが、澱んだ空気を吹き払うには十分な風だった。
 桐人の鼻に、柚乃の匂いが届いた。汗の匂いのはずなのに、どこか甘い、くすぐったくなるような匂い。
「家に、いたくないの?」
 桐人が尋ねる。柚乃の白い肌と清潔な服、そして綺麗に整えられた爪と髪を見る限り、自分と同じような状況にあるとは考えにくい。それでもそう聞いてみたのは、柚乃がそれに頷く確信があったからだ。何故なのかはわからない。ただ、夏休みが楽しみではないと言った柚乃に、自分と同質の何かを感じたからかもしれない。
「そう……だね。いたくないわけじゃないけど……ああ、やっぱりちょっとだけ、家にはいたくないかな」
 柚乃の頬が大人びた苦笑を刻む。
 スカートの上に載せたままだったキャラメルの箱に気が付いて、柚乃は、その中からひとつ取りだした。パラフィン紙をはぎ取り、口の中に入れる。それを見て、桐人も自分の手の中で柔らかくなっているキャラメルを思いだした。同じように口に入れる桐人を見ながら、柚乃が囁くように言った。
「桐人君……信じないかもしれないけど。あたしね、天使なんだ。だから、人間の家にはいたくないの」
「…………天、使?」
 唐突に投げられた言葉に、ただ鸚鵡返しに問うことしか出来なかった。そして柚乃も。
「そう。天使」
 天使なんて、おかしい。自分を天使だなんていう人は見たことがない。そう非難しようとした。だが、出来なかった。柚乃の瞳がふざけているようには見えなかったからだ。かといって、正気を失っているようにも見えない。桐人の目には、酔って自分を殴る父親よりも柚乃のほうがよほど正常に映っている。
「どうして、天使?」
「知ってる? 天使には、性別もなくて、年もとらないの。永遠に子供のまま。男の子でも女の子でもなくって、ずっとずっとそのままなの」
「でも、柚乃は女の子だ」
 言ってしまってから、桐人は後悔した。桐人の言葉に微笑む柚乃がとても哀しそうに見えたから。確かに笑っているのに、頷いているのに、それでも自分は言ってはいけないことを言ったのかもしれないと思わせる視線。
「そうね。でも、そう見えるだけ」
「……じゃあ、男の子……?」
「どっちでもないの。だから、天使だって言ったじゃない。ね、桐人君。見た目なんて幾らだって変えられる。桐人君だって、髪を伸ばしてスカートをはけばきっと女の子に見える。それだけのことじゃない?」
「スカートなんて……はいたことないから、わからないよ」
 それが論点ではないことに気が付いていながらも、桐人はそれしか答えられなかった。ただなんとなく、柚乃の言うことを否定してはいけないような気がしたのだ。
「ねぇ、桐人君。どうして……今のままじゃいけないのかなぁ……」
 囁かれた言葉は、確かに桐人に向けられてはいたが、柚乃の視線は桐人のつま先だった。ざらついた床に押しつけられている、泥で汚れた裸足のつま先。
「今のままなんて……嫌だよ」
 少なくとも自分は。
 今のまま、いつまで父親に怯え続ければ良いのだろう。例えば、十年、十五年。桐人が成長して父親よりも強くなれば、このくびきから逃げ出せるのかも知れない。ただ、痛みの記憶は桐人の足を萎えさせるのに十分な強さを持っている。あの父親に逆らう自分を、桐人は想像出来なかった。殺したいほどの憎しみを抱いたことはある。あの小さな幸せを……薄紅色のハンカチの形をした幸せを、父親が踏みにじった瞬間に。けれど、そんな憎しみも長くはなかった。何かが萎えた後に訪れた哀しみのほうが、奇妙に桐人の心を捉えていた。
 あの瞬間、自分は諦めることを知ったのかもしれないと思う。諦めるばかりでは生き続けられない。なのに、憎しみを持続させるための力さえ、あの支配者は奪い取る。
 哀しみに流されそうになる瞬間、桐人は憎しみにしがみつく。そして、憎む力が持続する間はそれにすがる。力尽きれば哀しみの海に漂い、溺れそうになれば、全ての感情から自分を切り離した。今のまま、というのは、そのサイクルが永遠に続くことを示しているのかと思う。それなら……それなら、いつか自分は。
「あたしは……今のままでいたい」
 変わりたくないのだと、柚乃の横顔が告げていた。
「だから、逃げてきたの?」
 桐人は今の状態から逃げ出すために。少しでも、あの家に帰る時間を引き延ばそうと。そして、柚乃は今のままでいたいのに、それでもそれがかなわないからこそ、自分を変える環境から逃げ出してきたのかと、桐人はそう思った。柚乃が紡ぐ言葉の意味を理解したわけではない。ただ、蝉の声がこもる、この生き物めいたコンテナの胎内は、避難場所としてはなんだかひどく似合っているような気がしただけだ。
「そう、逃げてきたの。来週ね、あたし……手術しなきゃいけないから」
 吐き出された言葉は、何故か無表情で。
「手術? どこか……病気なの?」
「ううん、違う。病気じゃない。病気なんかじゃ……ない。でも……そう、ひょっとしたら病気かもしれないね。だって、ずっとお薬飲んでるし。このままじゃいけないから治そうねって、お父さんもお母さんも、病院の先生も同じこと言うし」
「病気なら……治さなきゃいけないよ」
「桐人君は、あたしのこと、病気に見える?」
 わずかにからかうような口調。なのに、その瞳は不思議なほど真剣だった。
 わからないよ、と答えかけて、桐人は口を噤んだ。柚乃の望んでいる答えはそんなものじゃない。
「ううん、見えない。でも、お腹が痛いとか、そういうのは、外から見えないし」
 自分のように、打撲の跡や裂けた傷痕が見えているのならわかりやすいと思う。ただ、わかりやすいからと言って、それが一番痛い傷とは限らない。それは桐人自身がよく知っていた。本当に痛いのは、広がった青紫の痣じゃなく、歯が折れて傷ついた歯茎や唇でもなく。ましてや血が凝(こご)ったこめかみの傷でもない。
「……病気じゃないの。病気なんかじゃ、ないの。あたしね、間違えて生まれてきたんだって。本当は男の子として生まれるはずだったのが、間違えて女の子として生まれてきちゃったんだって。……おかしいよね、そそっかしいの」
 かすかに声が震えたのは、泣き出す前兆かと思えた。もしもここで柚乃に泣き出されてしまっては、自分に慰める術はない。そう思って、桐人は柚乃の瞳を見つめた。まるで視線の力で、その涙を止められるとでも言うように。
 だが、柚乃は泣かなかった。
「だから、天使なの」
 そう言って、かすかに笑ってみせる。
 柚乃がそう言うのなら信じたいと、信じようと思った。
「天使ってね、素敵なんだよ。性別もなくて、年もとらなくて、病気にもならない。ずっと、天国で、遊んでいていいの」
「天国……?」
「そう。神様のところ」
「天国なら……」
 その言葉の意味は知っていた。良い人が死ぬと天国に、悪い人が死ぬと地獄に行くと教わったことがある。
 ならば、と桐人は考えた。
 自分はどうなのだろう。自分が父親に撲たれるのは、自分が悪いからではないことはもう分かってしまっている。それは桐人を叱るためではなく、ただ単に父親自身の歪んだ感情のはけ口でしかないのだと。その感情の正体が、怒りなのか焦りなのか哀しみなのか……それはわからないけれど。
 悪い子供ではないだろうと思う。けれど、ならば良い子供なのかと問われれば、桐人には自信がなかった。役立たずと罵声を浴びせられたことはあっても、良い子だと誉められたことは一度もなかった。
「なあに?」
 問い返されて、桐人は言葉の続きを口にした。
「天国なら、誰にも撲たれない……?」
 おそるおそる問いかける言葉。心の中で思いついた問いはもっと具体的なものだった。もしも天国にいけるなら、そこに父親はいないかと。あの、悪魔のような支配者は自分を撲つことは出来ないかと。
「そうね。天国なら誰も叱られない。撲たれない。大丈夫よ」
 柚乃が微笑む。
「僕も……天使になりたい」
 呟く言葉は、その時の桐人本人にも子供じみたものだとわかっていた。けれど、本心からの呟きだった。
「そうね、桐人君なら……天使になれるかもしれないね」
 柚乃が囁いた言葉は同情だろうかとも思う。桐人の服装や、幾つかの痣を見て、境遇を察した上での同情だろうかと。
 違う、と思った。顔を上げて、柚乃と視線を合わせる。小さく首を傾げて、柔らかく微笑んだ柚乃の表情からは、同情めいたものは読みとれない。それはどちらかというと、奇妙な仲間意識だったのかもしれない。
 同じ避難場所に逃げ込んできた者同士の。
「……柚乃。ぼ、僕……僕は、ううん、柚乃は……」
 何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。そんな桐人に、柚乃が優しく微笑みかける。
「うん。どうしたの?」
 うん、と。返事をしてくれたことがただ嬉しくて。例えば、可哀想でとか、不潔だからとか、そんな風に微妙な温度の視線ではないことが嬉しくて。
 今までは、誰に何を言っても、同情の視線が消えはしなかった。そうでなければ、先日、商店街で声を掛けてきた老婦人のように、無責任な励ましの言葉。
 今日出会ったばかりのこの少女には、何も知られたくないと思っていた。けれど、この少女になら、何を知られてもいいとも思った。
「自分の……家族、を、嫌いでも……いいと思う?」
 とぎれがちに問いかけた桐人の言葉に、えっと、と小さく呟いて柚乃が考え込んだ。
「桐人君は、自分の家族が嫌いなの?」
「……わかんない。わかん、ない、けど……自分の家族を嫌うのは、いけないこと? 天使になれない?」
「ううん、それは……関係ないと思う。あのね……あたしも、最初に自分の体のことを知った時に、お父さんもお母さんも嫌い、って思ったの。だって、あたしは何も悪いことしてないのに……こんな風に生んだお母さんが悪い、って。……おっかしいよね、そんな風に思ったくせに、病院に行く時とか、一人じゃ怖くて、お母さんについてきてもらうの」
 泣きそうな顔で、それでも微笑む柚乃の、わずかに歪んだ目元を桐人は見つめた。
「僕……お母さん、いない。お父さんと二人。だけど……だけど、あの……お父さんが……僕を、叩くんだ。僕が何もしてなくても、すぐに撲つし、蹴るし……本当は、転んだんじゃなくて、全部……全部、お、お父さん、が……」
 小さな声で、そう言ってから、慌てて周囲を見回す。自分と柚乃の他には誰もいないとわかっていても、怖ろしかった。他人に言いつけたと言ってはまた殴られるかもしれないと、そんな恐怖が桐人の背中には染みついている。
 誰にも言わないでくれ、と、口にしようとして、やめた。この少女ならば、口止めするまでもなく誰にも言わないだろうと、何故か確信に近いものがあった。そして、同時に思った。自分も、柚乃が告白したことは決して誰にも漏らすまいと。
「桐人君」
 柚乃が、そっと桐人の腕に手を触れた。青痣の広がったそこを、冷えた指先が優しく撫でる。
「どうして……どうしてだろうね」
 羽のように優しく、柚乃の指先が桐人の肌の上を動く。囁くような声に涙の気配を感じて、桐人は顔を上げた。
「どうして、あたしたち……生まれたまんまじゃいけなかったんだろうね」
 震える声で囁いて、柚乃は目を閉じた。きつく閉じられた瞼の端から涙が伝う。
「…………柚……」
 問いかけようとして、それはそれ以上言葉にはならなかった。
 ああ、同じなのだ、と。そう思った。
 生まれたままの身体を間違いだと言われ続けている柚乃と、生まれたままの自分を愛してはもらえない自分と。
 どうして、と。
 柚乃の言葉は問いかけではない。
 問いかけよりも優しい囁きでありながら、問いかけよりもきつく詰る言葉。
 どうして。
 それは桐人がいつでも叫びたかった言葉だ。どうして、自分が殴られなくてはいけないのか。どうして自分には、他の子供と同じような幸せが与えられないのか。新しい服がなくてもいい、靴に穴が開いてたって構わない、せめて、たった一晩だけでも、怯えずに眠ることが出来るなら。どうして……そんなひとときさえも自分には与えられないのか。
 泣きわめくでもなく、しゃくり上げるでもなく、ただ静かに涙を流す柚乃を、桐人は見つめた。
「しょうがない、んだよ。……神様なら、僕たち、の、ことも……」
 許してくれる、愛してくれる。そう続けようとした。だが、桐人の言葉は遮られた。柚乃の濡れた瞳に。
「でも、あたしは神様よりも、お父さんとお母さんに許してもらいたいの」
「だって、僕には、父さんしか……」
「それでも……だって、悔しくないの?」
「それは……」
 痛みと哀しみに塗り込められた心は、堅く萎縮して、麻痺している。けれど、柚乃が囁いたその言葉に、確かに反応した。
 悔しくないのかと、今まで桐人にそう聞いてきた人間はいなかった。今まで耳に届いて、そうしてすり抜けていったものたちは、同級生たちの揶揄の言葉、教師たちの慰めの言葉、近所の人々からの同情の言葉。
「しょうがないだなんて、言っちゃ駄目。だって、どうして? どうして、しょうがないの?」
 それしか知らなかったから。それが当然だと思っていたから。生まれ落ちた時から、世界にはそれだけしかなかったから。
 自分にふるわれる暴力のことを、桐人はそう解釈していた。それは哀しいことだし、痛いことだし、苦しいことではあるけれど、それでも他に道はないのだと思っていた。だが、柚乃の言葉で、そうではないのだと知った。
 いつでも叫びたかった言葉は、叫んで良いのだと。
 どうして。
 どうして僕だけが。
 抗う自分を想像してみる。身体が震えた。反抗的な瞳を少しでも見せれば、ふるわれる暴力は倍になる。ただ黙って従っていれば……そして、目を逸らしてごめんなさいと謝れば、暴力は終わる。すぐには終わらなくとも、いつかは終わる。けれど、逆らえば、おそらくは永遠に終わらないだろう。
 背筋を這い上がる怯えを、柚乃に見抜かれるのが悔しくて、桐人は拳を握りしめた。
「だって……柚乃だって、手術、するんじゃ、ないか」
「……え?」
「手術、するのも、しょうがないの? どうして? 柚乃は、生まれたまんまで、いたいんじゃなかったの?」
 悔し紛れに呟いた言葉だった。けれど、桐人のひと言に、柚乃が黙り込んだ。
 二人の間に落ちた沈黙に、蝉の声が滑り込む。
 桐人は蝉の種類には詳しくはなかった。それでも、それが少なくとも三種類以上の鳴き声であることは辛うじて聞き分けられる。
 古びたコンテナの入り口から入り込んだ蝉の声が、四角い空間を満たす。生き物めいた温度を保つ、この不可思議な空間を、別の生き物の声が侵していく。
 それが完全に侵される前に、桐人は、俯いていた顔を上げた。
「……柚乃、僕……」
 謝ろうと思った。自分は悔し紛れに口にしただけなのだから。それによって柚乃が傷ついたなら、謝るのは自分だと思った。
「桐人君」
 だが、またしても桐人の言葉は遮られる。桐人よりもやや遅れて顔を上げた柚乃の言葉に。
「桐人君。……あたしも。そうしていたいの」
 ぺたりと座り込んだ姿勢のままで、上半身だけを桐人に近づける。
「……え?」
「あたしも。生まれたまんまでいたいの。お父さんもお母さんも、手術するのがあたしのためだって言うけど……お医者さんも、今のうちに手術しておかないと、病気になるかもしれないし、今ならまだ周りに気付かれないからって。……でも、それでも、あたしは」
 柚乃が唇を噛んだ。瞳が再び潤み始める。震える唇をゆっくりと開き、そしてそれが何かを伝えようと、二、三度空回りする。
 桐人は、待った。
 涙を振り払うように、柚乃は目を閉じてゆるやかにかぶりを振った。熱い息を吐き出し、そうして囁く。
「……このままで、いたいの」
 桐人はその言葉に頷いた。頷くしか出来なかった。


   
           
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