天使の棺



◆ 5 ◆

「ただいま」
 玄関で靴を脱ぎ、部屋の奥に向かって桐人は声をかけた。が、その返事が聞こえない。部屋の中に料理の匂いが漂っているのは、妻の靖子が夕食を用意している証拠だろうに。
 住んでいるアパートはあまり広くはない。二DKでは、どんなに奥の部屋にいたって、玄関からの声は聞こえているはずだ。
 居間へ続く扉を開けた桐人は、返事がなかった理由に気が付いた。ソファの上で靖子はうたた寝をしていたのだ。人の気配に気が付いたのか、靖子が身じろぎをする。左手に持ったままだった団扇が、するりと指をすり抜けて床に落ちた。
 テーブルの上に、空になった弁当箱の包みを置き、桐人は奥の部屋に入っていった。
 桐人が着替えている気配で目を覚ましたのか、靖子がわずかにけだるげな声をかけてくる。
「あら……帰ってたの。おかえりなさい」
「ああ、ただいま。今日はカレーか」
「うん、それなら早いうちに作って、あとで温め直せるでしょう?」
 手抜きなの、と笑って靖子はソファから立ち上がった。床に落ちていた団扇を拾い、ソファの上に載せる。淡い黄色のワンピースはゆったりとしたシルエットを保ってはいるが、腹の部分ではその余裕が少ない。細い手足に似つかわしくないその腹が、桐人をまた不安にさせる。
 そんな桐人の不安とは裏腹に、靖子の動きは決して鈍重ではなかった。もちろん、軽やかに動き回るというわけにはいかない。時折、よいしょ、という声を漏らすこともある。それでも、部屋の中は綺麗に片づけられているし、洗濯物が溜まることもない。
 女は、こうして十ヶ月かけて母になるのだろう。そう思う。だが、自分はまだ父になれてはいない。喜びよりも不安が。期待よりもおぞましさが。
 着替えを終えて、居間に戻る。古いエアコンのスイッチを入れた。あまり冷やしすぎては靖子の身体に良くないだろうと、『弱』と書かれた位置でダイアルを止めた。
「あ、少し強めにしてもいいよ。外から帰ってきたばかりだから暑いでしょ。夕方からずっとエアコン切ってたから、部屋の中もなんだか蒸し暑いし」
 笑いながら靖子が台所へと向かう。その途中で、テーブルの上の包みに気が付いてそれを手にした。
 かたり。
 靖子の手の中で、箸箱が音を立てた。エアコンが唸り始めた音に溶け込むように、けれど決して混ざることはなく、桐人の耳にそれが届く。
 それは桐人にとっては棺の音だ。生ぬるい空気が満たされた、四角い箱。側面に塗料で記されているのは、あの街を走っている私鉄と同じグループの運輸会社の名前。それも塗装が半分近く剥げ落ち、錆びが浮いて読みとれなくなってはいたけれど。そう……棺は、コンテナだった。
 今日の昼過ぎ、桐人は偶然にも自分が幼い頃を過ごした街を見つけた。忘れていた、と言うよりも、ただ知らなかったのだろう。あの頃、桐人の世界はひどく狭いものだった。学校と自宅と近所の商店街。それだけしかなかった。その商店街すらも、余裕を持って眺め歩くことなどなかったのだ。いつだって、急いで買い物をして急いで帰っていた。帰りが遅れれば父親に撲たれるから。息が切れるほどに走って帰っても、遅いと言って父親は不機嫌になる。寄り道をしようなどと考えたこともなかった。
 自分の記憶が曖昧なのは、自分を守るためだろうと考えていた。だが、今日の昼間にその商店街を見つけ、それと同時に気が付いた。商店街の名前は、忘れていたのではなく、知らなかった。アーケードの表示を見上げたことなどなかったのだ。そして、その他のことも、忘れていたわけではない。ただ、日々の全てが同じだったのだ。
 外に出ることが許されなければ家の中でしか過ごせないし、外に出たとしても自由な時間はなかった。限られた世界と、束縛された時間。そんな中で、覚えているのは手を振り上げる父親の歪んだ口もと。目を見ると自分の心がくじけそうな気がした。それに、視線を合わせると父親の暴力は一層増した。だから、目を合わせないように、ただ堪え忍んでいた。
 一週間前に殴られた場所も、十日前に蹴られた場所も、そしてほんの数時間前、突き飛ばされてテーブルの角にぶつけた場所も。痛みに変わりはないし、その痛みを与えたのが父親だということも変わりはない。だから、区別して覚えておく必要などなかった。日々が全て同じものなら、どれかを覚えていなくても、そしてどれを覚えていても同じなのだから。
(ただ、それでも……あのコンテナのことは、今日見るまで忘れていた)
 唯一、父親とは関係のない記憶のはずなのに。

 靖子がカレーを温め直している。台所から漂う匂いを感じながら、桐人は息を付いた。
 サラダを作るから待っててね、と。台所から靖子の声がした。ああ、とだけ答えて、桐人はソファの上に投げ出されていた本を手に取った。うたた寝をする直前まで靖子が読んでいたものだろう。
 育児参考書のひとつらしく、ぱらぱらと捲ると、ところどころに胎児や女性の体に関する図解があった。妊娠中に気を付ける病気、新生児が罹る可能性のある病気……。それらを見ていると、昼間とは違う不安もよぎる。健康に生まれてくれるだろうか。健やかに育ってくれるだろうか。
 視線は、ページに書かれている文字を追う。追いながらも、それは頭には入っていかなかった。
 結局、自分は臆病なままなのだろうと、そう思う。何が不安なのかと問われれば、口に出して答えるのは、『やはり、人の親になるのは緊張するから』と、そう答えるだろう。だが、その奥底にあるのは、自分はごく普通の親というものを知らないから、という思いだ。
 慈しまれること、愛されること。時には、叱られることもあるだろう。叩かれることもあるかもしれない。けれど、自分が受けたそれとは違う。
 ごく普通の親を知らない自分は、普通ではないのかもしれない。だとしたら、こんな自分が親になれるのか。
 それでも自分に言い聞かせる。自分は、祖母に愛された。そうして、働いて、結婚して……一人前の大人と言われる年になっている。誰も自分を異常だと非難しなかった。だから大丈夫……大丈夫だ。
「お待たせ。ご飯出来たよ」
 靖子が食卓に皿を並べながら声をかける。
 それに頷いて、桐人は本を閉じようとした。あてもなく捲っていたページのひとつが、ふと目に入る。
(……? 今……)
 何かの単語が気に掛かった。だが、そうと気づいた次の瞬間には本は閉じられている。
「どうしたの?」
 今のページを探そうと、本を開き直す桐人に、靖子が問いかける。
「いや……何でもない」
 夕飯を遅らせるまでもないかと思い直し、桐人は、その作業を諦めた。

 桐人が次にそれを思いだしたのは、靖子が眠りについてからだった。
 シャワーでも浴びようかと立ち上がりかけたその時に、食事前に片づけた本が目にとまる。
 数時間前に自分の目を引いたページを探し、そしてそれは程なく見付かった。
(『半陰陽』……そうか、あの時の……)
 桐人は、『天使』の声を思いだしていた。


 小学校三年生の夏だった。その記憶に絡みついているのは蝉の声だ。何匹もの蝉が一斉に鳴き、夏という季節を強調していた。
 その頃、桐人が住んでいた地域は、新興の住宅地と古くからの住宅地が混ざり合う、奇妙な街だった。新しく出来た住宅地は、きっちりと区画整理され、交差点は必ず直角に道路が交わっていたし、ほとんどの道路は直線で構成されていた。そして、古い方の住宅地は、変形の交差点が多い。道幅の狭い路地に木造の古い家が軒を連ね、歪に伸びた道路は、そこを歩く人間の方向感覚を狂わせる。
 その日、桐人は通い慣れたいつもの道をわざと外れた。小学校からの帰り道だ。新旧の住宅地が隣り合って、そこそこ大きな街にはなっているが、桐人の住む家と小学校とはさほど離れてはいない。
 いつもならばそのわずかの距離も、何かに追い立てられるようにして走って帰る。寄り道をしてはいけない、近所の人に余計なことを言ってはいけない。いつも、桐人はそう言い聞かされていた。それでも、それは承知の上で、桐人はいつもは曲がらない交差点を曲がった。明確な目的地があったわけではない。ただ、違う場所に行きたかっただけだ。
 見慣れない路地。馴染みのない家々。照りつける夏の陽射しでさえも、いつもとは違うものに思えた。
 いつもと違う道、いつもと違う建物、そしていつもと違う陽射しと、蝉の声。それなら、いつもと違う行き先が待っていていいのだと思えた。そしてそれは、桐人にとって紛れもなく安心することだった。
 細く歪んだ、錆びた針金のような道は、小高い丘に向かって傾斜していた。その丘の上に新興住宅地があることは知っている。あのまっすぐな道に入り込んでしまえば、途端に今の安心は消えてしまうのだろうかと、唐突に不安を覚えて、桐人の足が速度を落とす。肩にかけた古いスポーツバッグが、急に重さを増したように思えた。
 そうして、桐人の目は、小さな空き地を見つけた。位置的には、丘の麓にあたる。ちょうど、新旧の住宅地の狭間だった。すぐ近くを走っている私鉄の車庫……いや、車庫というよりは廃車置き場だった。用を為さなくなった古い車両や、使われなくなったコンテナが積み上げられている。もちろん、近隣の子供が入り込んで悪戯をしないように、周囲はフェンスで覆われ、入り口には粗末なゲートが設けられている。当然、鍵もかけられていた。桐人の身長の倍はある鉄のゲートだ。乗り越えるのは難しい。だが、足元を見れば、そこには桐人が通り抜けられそうな隙間がある。
(あいつならきっと入れない)
 同じクラスにいる肉屋の息子の顔を思い浮かべながら、桐人はそこをくぐり抜けた。
 視界が開けた先にあるのは、無彩色の砕石。それが敷き詰められた空き地だ。
 足元の砕石を焼き尽くそうとするかのような陽射し。そこに、雨のように降り注ぐ蝉の鳴き声が、周囲の気温を実際よりも高くしているように感じられる。陽に晒され、熱に炙られて、周囲の家々が輪郭を曖昧にしていく。周囲を圧する蝉の声は、屋根と壁を溶かしていく。ただ、その空き地だけが蝉の声に抵抗しているように見えた。
 もう少し。もう少しだけ、家に帰る時間を遅らせてもいいだろうか。そう、ほんの少し。今日は父親は出かけているはずだ。昨日から十日間の契約で、日雇いの仕事に出かけたのだから。どこで何をしているのかは知らない。ただ、珍しく酒を飲まずに桐人よりも早く出かけていった。
(しばらく家賃を溜めていたみたいだから、きっとその分を稼ぎにいったのかもしれない)
 そう思う。家賃をどれだけ滞納しているのか、そんなことはどうでもいい。桐人にとっては、今日は夕方まで父親が戻らないことのほうが重要だった。ただ、時折、父親は途中で仕事を放り出して帰ってきたりもする。だから、本当の意味で安心は出来ないけれど。
 それでも桐人は帰ろうとはしなかった。
 急いで帰ることが多い通学路。寄り道などほとんどしたことがない。そして、家に帰ってからも、行くのは商店街へ夕食の買い物をするためだけだ。桐人にとって、この空き地は初めて来る場所だった。
 辺りを窺いながら、おそるおそる踏み出した足の下で、尖った砕石が、ざり、と音を立てた。
 じりじりと照りつける陽射しが、Tシャツの袖から伸びた桐人の腕を灼く。伸びきって穴のあいたシャツだ。ところどころに残る染みは、泥汚れだったり、血の汚れだったり。そして半ズボンも似たような状態だった。それでも、桐人の服の中では、ましなほうだ。
(ひょっとしたら、家賃よりも先に、服を買ってくれるのかもしれない)
 今頃は工事現場で働いているはずの父親を思い浮かべ、桐人は淡い期待を抱いた。
(でも、どうせなら服よりも、靴のほうがいいな)
 自分が履いている靴を見下ろす。布のズック靴は元の色がわからないほどに汚れ、あちこちがすり切れている。もともと、少し大きめのものを買ったにもかかわらず、そろそろ足先がきつくなってきた。小柄で、成長が遅いとは言え、本来は育ち盛りのはずの小学生だ。それも当然だろう。
 周りを見回す桐人の目に、一番最初に止まったのは、古い電車の車両だ。桐人はまだ、電車に乗ったことがない。ランドセル代わりの古いスポーツバッグを肩にかけたまま、桐人は車両に駆け寄った。色褪せた緑色の車体に、黄色と白のラインが一本ずつ入っている。それが、この近くを走っている私鉄のデザインによく似ていることだけはわかった。
 陽射しを受け続けて、熱を持った車体にそっと手を伸ばす。焼けるような熱さを指先に感じて、一瞬、手を引っ込める。だが、火傷をするほどではないと思い直してもう一度触れる。
 少し背伸びをして、ガラス窓にも触れてみた。幾つかはひび割れ、そして幾つかはガラスが嵌っていない。汚れですっかり曇ったガラス窓を覗いて、桐人は少々がっかりした。中にあるだろうと思われた座席が取り払われていたからだ。
(座ってみたかったのにな……)
 前後と中央にあるドアは、全て開かなかった。鍵がかけられているのかもしれないし、錆びているからかもしれない。
 諦めて、桐人は他に目を向けた。巡らせた視界に映ったのは、積み上げられたコンテナだ。幾つも積み上げられたコンテナのうちの一つが、細く開いていた。塗装の剥げ具合から見ても、どうやら一番古いものらしい。側面に、スライド式の戸がついている。そこに隙間が出来ていた。
 近づいて、覗きこむ。薄暗がりの内部は、空っぽだった。何もない。土埃と、いつからあるのか知れない、乾ききった落ち葉が数枚あるだけだ。
 今が落葉の季節にはほど遠いことを考えると、それは少なくとも半年以上は放置されていることになる。
 車輪が取り外されているコンテナは、桐人が入り込むのに何の不自由もない。一瞬だけ、辺りを見回し、人目がないことを確認すると、桐人はコンテナの中に足を踏み入れた。
 空気の、匂いが変わる。
 陽は射し込まないが、それでも周りから徐々に熱せられ、中の空気は奇妙に生暖かい。それまでずっと降り注いでいた蝉の声は、わずかにトーンを落とした。風の通り抜けない場所では空気がこもる。何もない、殺風景な四角い空間。どことなく饐えた臭いが鼻をつく。だが、それにはすぐに慣れた。
 薄暗く、生暖かい空間に、桐人はどこか安らぎを感じていた。
(大きな生き物の、お腹の中にいるみたいだ)
 自分の想像に、頬が緩む。
 外には七月半ばの陽射しが周囲の輪郭を溶かそうとしてる。だが、この生き物の胎内にいれば、それから逃れることが出来る。そう考えてみれば、確かに、陽射しで温まった内部の温度は、まるで生き物の体温だ。
 桐人は、コンテナの奥まで入り込んだ。そして、壁に背をつけて座り込む。壁は、コンテナの外殻そのままに、規則的な四角い凹凸が連続している。浮いている錆が服を汚すことはわかっている。だが、今更、ひとつやふたつ汚れが増えたところでどうということはない。桐人は躊躇わずに、壁に背中を預けた。
 そして、床には、ところどころささくれた、古いベニヤ板が敷き詰められている。指に棘を刺さないように、そっと床を撫でてみた。奇妙なぬくもりが伝わってきた。ざらついて、硬質で、なのにどこか生き物めいている。
 遮られた陽射し。吹き抜けずに澱む風。錆びた鉄を介して伝わる、柔らかな熱。呼吸をしない生き物の胎内。桐人はそこで出会った。ユノと名乗る少女に。


   
           
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