天使の棺



◆ 4 ◆

「馬鹿だね。おまえは子供なんだからね」
 祖母の言葉を思いだした。最初にそう言われた時に、何故か目頭が熱くなったことを。
 声を出さずにいられないような痛みを、それでも声を出さずにこらえると、それは涙となって頬を伝う。そんな涙なら知っていた。母がいないことは寂しかったけれど、寂しさで泣いたことはなかった。
「我慢しなくていいじゃないか。……なんて子だよ、まったく」
 呆れたような祖母の声と、皺だらけの温かい手が頭の上に載せられる感触。
 桐人は知らなかった。それが愛情だと言うことを。そして、今はそれが自分に向けられている。
 鼻の奥がつんとする。手が温かいというだけで、言葉が心地よいというだけで、どうして涙が出るのかわからなかった。それまで、涙というものは我慢するものでしかなかった。泣けば鬱陶しいといってまた殴られたのだから。
 どこかが痛いわけでもないのに、こみ上げるものをこらえきれなかった。顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、桐人は泣いた。そんな風に泣いたこと自体、初めてのことだった。
 胸に満ちた感情の名前を桐人は知らない。ただ、それは悲しさでもなく痛みでもなく。どこか温かくて切ない、心地の良いものだった。
 目の前にいる相手には……祖母には甘えてもいいのだと、そう気づいた、それが初めての瞬間だった。
「おまえは、今まで頑張ってきた。偉かった」
 これからは我慢しなくていいのだと告げる祖母の声も震えている。家出した自分の娘を捜しても、行方は知れず、そして何年も過ぎた後に、彼女が見つけたのは自分の娘ではなく孫だった。しかも、婿という関係にあったはずの男が死んだことで、それが知れた。
 桐人の体に幾つも残る虐待の痕跡。それを見る祖母の視線が揺らいでいる。最初にそれを感じた時、桐人は祖母に済まないと思った。大抵の大人は、その傷痕から目を逸らす。困惑と同情とわずかな保身が入り交じった視線を。そんな風に思わせてしまうことが、桐人には心苦しかった。これから自分の面倒をみてくれる相手と初めて会ったのに、その相手を困らせてしまうことが。
 だが、祖母は視線を逸らさなかった。視線を逸らさずに、泣きながら桐人の傷痕を撫でた。
 困惑する桐人に、彼女は言ったのだ。
 おまえは子供なんだから、と。
 九才という年齢で、痛みや悲しみで泣くのではなく、怒鳴られて泣くのでもなく。ただ、優しい言葉に涙が零れた。
 その自覚はなかったが、どうやら自分はずっとずっと我慢をしてきたらしい。そのことに、桐人は祖母の言葉で初めて気が付いた。堰を切ったように涙が溢れ、鼻がぐずぐずと鳴る。今まで自分が耐えてきたものの重みを、それが外れて初めて知った。
 祖母との生活は、穏やかに過ぎていった。最初はおそるおそる……それでも、甘えていいのだと知ると、不器用に桐人は甘えた。そして祖母はそれを全て受け入れた。
「今までのことは忘れてもいい。おまえは一から覚えなおすんだよ」
 祖母の手が上がるのは、自分を殴るためではなく、自分の頭を撫でるためだということを、桐人は一番先に覚えた。
 これからは、靴が小さくなったり穴があいたりしたら、遠慮をせずに言ってもいいし、汚れた服を我慢して着続けなくても着替えがあるのだと知った。祖母がくれるお金は、それで夕飯のおかずを買うのでもなく、そのために昼食を我慢しなくてもよく、ただ自分の欲しいものを買っていいのだと知った。
 自分が一番先に布団に入ることに。夕飯の支度をしなくてもいいことに。板の床ではなく、畳の上に、しかも座布団を敷いて座ってもいいことに。桐人は、本当にいいのかと祖母に尋ねた。そしてそのたびごとに、祖母は柔らかく、だが少しばかり苦く笑った。そして言うのだ。
「馬鹿だね、何を遠慮するんだい。おまえは子供なんだから」
 馬鹿だね、と。その言葉が、桐人にはとても不思議だった。馬鹿野郎、役立たず、と怒鳴る口元を覚えている。言葉そのものは同じなのに、どうして祖母が口にする『馬鹿だね』は優しく聞こえるのか。しょうのない子だね、と乗せられる掌はどうしてこんなに温かいのか。

 桐人が初めて、隣の県にある祖母の家に行った日。その日まで桐人は四ヶ月をアパートの大家のもとで過ごし、二ヶ月を施設で過ごしていた。父が死んだ日は、薄汚れた半袖のシャツと半ズボンだったけれど、祖母のもとに行く日は冬服だった。それでも、すりきれたジーンズのポケットには、あの日の千円札が入っていた。
 桐人に着替えをさせた祖母がそれに気づいた。それまでの生活で桐人に小遣いを与える人間はいなかったろうと、祖母がわずかに首を傾げる。そんな空気を感じ取ったのか、桐人はおそるおそる、その千円札を祖母に差し出した。
「こ、これ……」
「おまえの小遣いだろう? ちゃんと財布に入れときな」
「小遣い、じゃ、ない……」
 たどたどしく、それでもしっかりと首は横に振って、桐人は説明した。それは父が残した最後の食費だったのだと。
 祖母の返事が遅れたことを、桐人は今でも覚えている。
 おそらく祖母は迷ったのだろう。自分の一人娘が愛した男。その愛は数年で冷めてしまったのかもしれないが、少なくともあの男は桐人を育てた。歪んだ愛情が、ひどく哀しい憎しみになってしまってはいたけれど、それでも桐人を捨てることも殺すこともなかった。
 本当なら、あしざまに罵ってやりたかったかもしれない。祖母が心の中で何を思っていたか、桐人は知らない。ただ、桐人の前で、死んだ父親を悪く言うことはなかった。だから、数瞬の空白のあと、祖母は微笑んだのだ。
「大事に取っときな。これから、小遣いは婆ちゃんがやるから。その千円、使わないでおきな」
 祖母と過ごす穏やかな日々。今まで知らなかった、『普通』という名の生活の中で、桐人は昔のことは忘れようと努めた。あれほどに強烈な記憶を忘れられるわけがないと思いつつ、それでも、祖母のためには忘れたほうが良いのだろうと思った。そしてそれは、桐人が思っていたより難しいことではなかった。
 思い出せば息が詰まる。もう死んだはずの父親の視線を背中に感じる。意志とは無関係に指先が震え、体の芯が冷えていく。意識的に忘れようとすると、記憶はいつでも背筋の内側を凍らせた。背骨に沿って駆け上がる凍てついた炎が、神経を焼き切ろうと燃えさかった。だから、その記憶から意識を逸らす。目を向けず耳を傾けず、全ての感覚をその記憶から遮断した。
 長い年月をかけて、桐人はその記憶を封じ込めた。そして、祖母の優しさで上から塗り込めた。


「五丁目……ああ、橋を渡った先か」
 住宅地図と照らし合わせ、ふとわずかな違和感を感じて、桐人はあたりの風景に目を凝らした。配達予定表に書かれている通りの住所だ。住宅地図が正しければ、今、桐人がトラックを走らせている道路から、二本目の角を右に曲がれば、目印になる橋がある。
「ここは……もっと、田舎じゃなかったか。ああ、宅地の造成工事が……」
 呟いて、あらためて気づいたように首を振る。
(馬鹿な。確かに、二十三区からは離れたとは言え、ここは都内なんだから、そんなに田舎であるはずもない)
 だいたいが、いつと比べてるんだ、と自分に言い聞かせる。自分はこのあたりに住んだことなどない。祖母と過ごしたのは隣の県だったし、大学は、こことは離れた区だ。知るはずのない場所が、昔と比べて都会になったなどと、言えるはずもない。
(コンテナ……)
 ふと、何の前触れもなくそんな単語が思い浮かぶ。それを認識してからあらためて、桐人は自分に驚いた。
(コンテナ? 何の? それよりも、なんでそんなものを連想した?)
 違う、と心のどこかで声がした。
 それはコンテナではない。コンテナの形をしてはいるけれど、それは、棺だと。
 ──棺。そうだ。夏だった。蝉の声が雨のように降り注いでいた。さっきの公園で、足りないと思った蝉の声。どこと比べて足りないのかを……。
 クラクションの音がした。
 その音で桐人は目の前の信号が青になったことに気が付く。車を発進させる。曲がるのは二つめの角だ。
 その角を、桐人は曲がらなかった。
(……知ってる。俺はこの街を知ってる。この道をまっすぐに行くと川に出て、その手前には、川に沿って走っている私鉄の線路が……)
 商店街が見えた。古びたアーケードには、改修工事のための足場が組まれている。
 ──がんばってね。
 アーケードの奥に見える小さな金物屋を見つけた途端、脳裏にその言葉が浮かんだ。思わず右足がブレーキを踏む。トラックを路肩に寄せて、桐人は息を吐き出した。そして自分のその仕草に、今まで息を詰めていたことを知る。
 がんばって、と。確かに言われた。あの金物屋の店先で。見知らぬ相手だった。確か、初老の女性だったように思う。近所の噂で、桐人の家庭のことを知ったのか、通りすがりに、ふと桐人の頭に手をのせて、そう呟いた。
 その光景を急に思いだして、桐人はあらためて周囲を見回した。
(そうか。ここは……俺が昔住んでいたところか)
 見知らぬ老婦人に、がんばってと言われたのは、おそらく小学校二年生の頃だったろうと思う。ひょっとしたら三年生になっていたかもしれない。ただ、二年生よりも前は、桐人は父親に対して、歪んだものではあったけれど愛情を持っていたし、三年生の夏休みに父が死んだのだから、その合間の出来事だったろう。父が自分にする行為の意味を知り、父がいなくなればと願いながらも、まだ父のもとにいるしかなかった時期。
 のせられた温かな手を振り払ったことも思いだした。
 がんばれと言うのは容易い。その女性は、自分の無力さも思い知りながら、ただ他に言い様もなくそう言ったのかもしれない。だが、日々を耐え続けている桐人にはその言葉は届かなかった。
(……これ以上?)
 女性の手を振り払いながら、桐人はそう考えたことを覚えている。
 安らぎのない日々。よりどころにしようと思った小さな幸いも、父の手によって引き裂かれた。そして、あの時桐人にハンカチを与えてくれた女性教師は、あのすぐ後に結婚退職してしまったのだ。
 いっそ逃げ出してしまいたいと思ったこともある。だが、小さな子供が逃げる先などない。他に身よりも無いのだから、逃げても父のもとに連れ戻されるだけだとわかっていた。だから、耐えるしかなかった。せめて自分が押しつぶされないように。
 あの老婦人がどんな気持ちで桐人に囁いたのかはわからない。けれど、老婦人のほうも、桐人がどんな気持ちでそれを振り払ったのかを知らない。乱暴な、とか、可愛げのない、とか……そういった呟きが彼女の口から漏れたのを桐人は聞いた。
 ああ……だからか。
 そう思った。初めて祖母に会った時、祖母の手と言葉で泣いてしまったのは、そのせいか、と。
 それまで、桐人に対して、がんばれという言葉を与える人間はいた。通りすがりの老婦人や、住んでいるアパートの大家、学校の養護教諭。表面は温かい、けれど聞く側にとっては無責任とも思えるその言葉を、桐人は幾度と無く聞いていた。その度に思った。
 ──がんばっている。
 いつでも。どこでも。がんばってる。これ以上どうしろと言うのか。がんばるだけではどうしようもない。けれど、がんばって耐え続けるしかない。
 息を詰め、奥歯を噛みしめる生活の中で、祖母だけが、それを評価してくれた。もうがんばらなくてもいいのだと許してくれた。
 路肩に停めたトラックのハンドルが、小刻みに震えている。かけたままのエンジンの響きが伝わってくる。
(あの時、祖母がいなければ自分はどうなってしまっていただろう)
 そう考える。それでも……と、心のどこかで声がした。それでもきっと、生きてはいられた。それは自分が……。
 ふと上げた視線の先に、小さな空き地が見えた。
 真夏の陽射しが照り返す街並みに視線を巡らせる。古びたアーケード。川に続く道。そしてその手前にある、小さな空き地。それは、鉄道会社の所有している土地だった。薄汚れた看板がそれを告げている。置き去りにされたままの、古い電車の車両と、そして、コンテナ。
 何かに導かれるように、桐人は車のエンジンを止めた。運転席から下りて、靴の裏に舗道の感触を味わう。刺すような外の熱気と、車から立ち上る生き物めいた熱気とにむせかえった。芝浦運輸、とペイントされた車のドアを閉める。
 そう、それは自分が別の何かを知っていたから。あの日。あの夏。父の死と一緒に閉じこめた何か。
 歩き始める。
 アスファルトを溶かすかのような気温の中で、視界はかすかに歪んでいた。じりじりと照りつける太陽は、境界を揺らがせる。記憶と現実との境界を。
 空き地の入り口は、錆び付いたフェンスが設けられていた。だが、それは据え付けられてから手入れなどされたことがないのだろう。風雨に晒され、蝶番の片方は外れてしまっている。熱気を含んだゆるい風に煽られ、きぃ、と耳障りな音を立てた。
 空き地に幾つも積み上げられたコンテナはその全てが古いものだ。多少の年代の差こそあれ、塗料の剥げた鉄枠は、皆同様に錆が浮いている。空き地に敷き詰められた無彩色の砕石。それを踏みしめながら、桐人は耳で蝉の声を探した。だが、脳裏に浮かんだのは別の声だ。
 ──あたしね、天使なんだ。


   
           
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