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天使の棺
◆ 3 ◆
その生活が、唐突に終わりを告げたのは、小学校三年生の夏休みが始まるその初日だった。日雇いで工事現場に働きに行っていた父親が、事故で亡くなったのだ。
出かけていった父親が帰るまでに、桐人は家を少しでも綺麗にしておかなくてはならなかった。食事の支度や掃除は、桐人の仕事だったのだから。たとえ家に一銭の金もなくても、食事の用意が出来ていないと、それを理由に父は桐人を殴る。その日は、運良く、父が生活費として置いていった千円札が一枚だけあった。だが、それはいつでもあるとは限らない。だから少しでも節約しなくてはまた殴られるから、と、桐人は自分の昼食を取りやめることにした。そうすれば少しでも長く、この千円で夕食をまかなえるだろうと思ったのだ。
空腹を抱え、それでも夕飯の材料を思案していると、アパートのドアが乱暴にノックされた。呼び鈴は随分以前から電池が切れている。そもそも、この部屋に訪ねてくる人間はあまり歓迎出来ない種類の人間ばかりだ。電気代やガス代、そして家賃の徴収。普段なら、事情を知っている近所の人間は、桐人が一人の時にはあまり訪ねてこない。桐人に金の話をしても意味がないことは周りが一番よく知っていた。
訝しみながらも、桐人はドアを開け、そしてもたらされた知らせを聞いた。
桐人が手にしていた、垢じみた千円札は使われることはなかった。
アパートの住人と、父を雇った会社の人間とで、簡素な葬式が執り行われた。
桐人は泣かなかった。
周りを見ても、誰一人泣いている人間がいない。悲しみの空気がない場所で、泣こうという気持ちすら起こらなかった。ぼんやりと、父親が死ねばいいと思ったことを思い出す。願いが聞き届けられるまでに一年以上。その間に、とうとう自分は父親を心底まで憎みきることは出来なかったと、わずかな悔しさが浮かんだ。
繰り返される打擲の中で、あれ以来、桐人は一度も相手の死を願ったことはない。ただそれは意識の表層に浮かばないだけで、本当はあの時からずっと自分はそれを願い続けてきたのではないかとも思う。そうでなければ、あの日々に耐え続けたのは、どんな情熱だったというのか。
あの時のハンカチは、ぼろぼろになってしまったけれど、それでも桐人はそれを大事にしようと思った。なのに、残骸さえも父親はあの次の日に取り上げて燃やしてしまった。そして憎しみよりも哀しみのほうが強まる自分の気持ちが、桐人は不思議だった。燃やされてゆく幸せの残滓よりも、それを燃やさずにいられなかった父親に哀しさを感じた。
そして、あの日から、父親に何も期待することはなかった。ただ憎しみを強めることもなかった。諦めにも似た、それでも情熱と呼べる、どこか昏い気持ちを心の奥底にずっと凝らせてきた。
そして結末はあっけない。仕事に出かけて行った父の背中を見て、少なくとも半日は父親から離れていられると息をついた。その数時間後には、父親はもう二度と戻ることはないと告げられた。
張りつめていた脆い糸。もう緩めてもいいはずの糸を、それでも桐人は緩められずにいる。緩める方法を知らないのだ。もう怯えなくていいことはわかる。だが、怯える代わりにどうすればいいのかがわからなかった。
ただ、初めて見る棺は簡素だけれど、中に敷き詰められている白い布団は、奥の部屋の押入にあるものよりもよほど立派だと、そんなことしか思いつかなかった。
誰か親戚はいないのか、とか。
ここの奥さんは何年も前にいなくなったらしい、とか。
無遠慮といたわりとの中間のような声が、桐人の耳を時々くすぐる。
「ええと……桐人君、だったっけ。誰か、一緒に暮らす人とか、お父さんの代わりになってくれる人はいるかな?」
何をするでもなく、ただ棺の横に座っていた桐人に話しかけてきたのは、まだ若い男だった。父親を雇った会社の人間だと、その男は自己紹介をして、桐人に缶ジュースを差し出す。
「これ……」
飲んでもいいのか、と尋ねようとした。周りの大人から何かもらって食べたり飲んだりしたことが、父親に知れたら、決まってあとでしたたかに打ち据えられる。だから何も欲しがってはいけないし、父親が自分を殴ることを他人に話してはいけない。
そこまで考えて、桐人は思いだした。
(ああ……もう、ぶたれないんだ……)
恐る恐る、缶ジュースを開ける。ぷしゅ、という音を聞いて、びくりと肩が震えた。今の音を、棺に横たわっている父が聞いていやしないかと。
そうして桐人が振り返った仕草を見て、若い男が神妙な顔をする。
「お父さんは、本当に気の毒だった。それで……会社から、保険金が……ああ、保険金ってわかるかな? ううん、こういう話は君にするよりも大人にしたほうが……」
「ああ、増木さん、こっちでも相談してたんだけどね」
桐人が振り向く。増木さん、とその若い男の名前を呼んだのは、このアパートの大家だった。五十絡みと思しき、恰幅のいい女性だ。
「ああ、大家さん。ええと、山内さんでしたか」
「ええ、こんなことになっちまって……ほら、保険金ってのも支払い手続きに何日もかかるだろう? だから、その間に、この子の身内を何とか探して……もしも見付からなければ、施設っていうことも考えてるけど。この子の行き先が決まるまで保険金の振り込みは待ったほうがいいんじゃないかねぇ?」
「それはもちろんですが、ではそれまでは……?」
「ああ……まぁ、あたしらがね、面倒見ようかと思ってるよ。一ヶ月か二ヶ月か……ま、三ヶ月経って、身内が見付からなけりゃ、どっか施設を探そうとは思うけどさ。ただね、ここの滞納してる家賃をちょっと……その保険金とやらから貰いたいんだけどさ。保険金とか慰謝料ってのはどのくらい出るんだい?」
薄汚れた格好と、怯えたような表情、そしてあまり口を開かないこともあって、桐人は誤解されていたかもしれない。少々、頭の鈍い子供であると。
大事に缶ジュースを抱えこむ桐人のすぐ目の前で、その会話は交わされていた。そして、桐人はその全てを理解していた。
自分の生活費は必要になるだろうけれど、ここの家賃を滞納していたことは桐人も知っている。だから、大家の山内がする要求は妥当だと思った。しかも、ある程度の期間は面倒を見てくれると言う。桐人には何の不満もなかった。例え、この太ったおばさんが自分を疎ましく思ったとしても、父親のような所業はしないだろうし、もしそれをしても、今までと同じ生活が続くだけのことだ。
増木と呼ばれた男が、声を潜めて口にした金額は、桐人には想像もつかない金額だった。相場から見て、安いのか高いのかもわからない。ただ、今までに聞いたこともない金額だったことだけは確かだ。
それが、今まで自分を殴り続けてきた人間の価値なのかと思った。
吸っていた煙草を踏み消して、携帯灰皿にその吸い殻を入れる。
「さて、午後の配達だ」
殊更に声に出してそう言って、桐人は立ち上がった。
トラックの運転席に戻り、エンジンをかける。ぶるん、と尻に震動を受け取る。ダッシュボードの上に置いてあった配達予定表をめくりながら、ふと思う。
──それでもやっぱり、自分は父に愛情を抱いていたかもしれない。それは途方もなく歪んでしまっている愛情だったけれど、紛れもなく自分の肉親ではあったのだから。
桐人は、ズボンの尻ポケットから財布を取りだした。中には、透明なカードケースが入っている。どこにでも売っている、名刺サイズの安物だ。その中には、四つに折り畳まれた千円札が入っている。今はもうめっきり見かけなくなった旧札が。
使おうとした。何度も。
けれど、そのたびに迷う。そうして結局はこのケースの中に戻してしまうのだ。あの日、祖母に言われたように、使わずにとっておこうと。
この旧札を見るたびに、父のことを思い出す。いい思い出ではない。なのに、使い切って忘れることも、捨ててしまうことも出来ない。
それが歪んだ愛情なのか、それとも子供じみたこだわりなのか。そうでなければ、くだらない惰性と贋物の感傷なのか。桐人にはわからなかった。
ただ、父が死んだ時にも泣かず、安堵と困惑の気持ちのほうが強かった。酒を飲んでいる時の父の視界には入らないように、物音も極力立てず、怯えた小動物のような生活だった。それでも、自分から憎んでしまえば、ほんの時折もたらされる小さな小さな……ひどくわずかな幸せが無くなってしまうと思った。酒も飲まず、機嫌が良い時の父。自分の用意した食事を、美味いと言ってくれた父。ごく稀にもたらされるその幸いを待ちわびることが、自分の生活だったと思う。それ以外は、声を押し殺し、痛みをこらえ、割れんばかりの怒鳴り声に耳を塞ぐことしか出来ない、非力でひ弱な子供だった。
財布をポケットへと戻す。あらためて予定表の住所と時間を見て、ポロシャツの胸ポケットに入れてあった携帯電話で時間を確認する。平日の昼間なら、おそらく渋滞には引っかからずにいけるだろうと計算する。
住宅地図の文字を追いながら、それでも考えるのは、二ヶ月後に生まれる子供のことだ。
自分が受けた痛みを覚えている以上、同じ痛みを自分の子供に与えるわけがない。そう思う。なのに、虐待された子供は我が子を虐待するという、本か何かで読んだ説が気にかかる。それは忌まわしき怒りと憎しみの輪廻だと。ならば父もそうだったのか。そしてその片鱗が自分の血の奥に流れているとしたら。
妻は……靖子は泣くだろうか。子供を庇って。あの日の自分が、母の手を望んでいたように、これから生まれる自分の子供も靖子の手の中に逃げ込むだろうか。自分はそれを……どんな目で見ればいいのだろう。
九才までの記憶に綻びがあるのは、自分がそれを覚えていたくなかったからなのだろうと思っている。父の葬式のことも、九才にもなればほとんどのことを覚えていて当たり前だと思われるのに、桐人が覚えているのは、あの時の棺と、自分の目前で交わされた保険金と慰謝料に絡む会話だけだ。
(見舞金と慰謝料と保険金と……合わせても五百万にも満たなかったはずだ。日雇いの人間、しかも、ろくな働きもしなかっただろう人間にそれだけ支払ったのは、あの会社の誠意だろう。……いや、あとひとつ覚えている。あの時、彼からもらったジュースは、オレンジ味だった)
その缶ジュースの銘柄も、はっきりと覚えていた。今ではもう見かけなくなってしまった銘柄だが、あの後、そのジュースを見るたびに葬式を連想していたことも覚えている。
ただ、どこに住んでいたのかの記憶がない。おそらくは都内だったはずだ、と思う。古い商店街が近くにあった。ラーメン屋とクリーニング店と。同級生の一人は、肉屋の息子だった。桐人より遙かに高い身長と、桐人の倍近い体重を誇る小学生だった。そういった細部は覚えているのに、通っていた小学校の名前を思い出せない。商店街のアーケードに掲げられていたはずの地名も思い出せない。
(あとは……せいぜい、あの千円札だ)
父が残していった、生活費。あの日、それを見て昼食を我慢しようと決めた千円札。折り跡の目立つその紙幣の存在を思いだしたのは、通夜も葬式も済んでからだった。喪服どころかまともな着替えさえなかった桐人は、知らせを受けた時からずっと同じ服を着ていた。葬式のあと、大家の山内が桐人を自宅へと連れていった。まずは風呂に入れと、そう言われて脱いだ半ズボンのポケットが、かさりと音を立てた。
子供なりに気を遣った。その千円札に気が付いて、桐人はそれを『山内のおばさん』に差し出した。山内は苦笑しながらも、それは受け取らず、大事に取っておけと桐人の手に戻した。
「子供は気を遣うんじゃないよ」
(そう言えば、婆さんも同じことを言ったっけ)
父が死んで半年後に、桐人は母方の祖母に引き取られた。桐人の正確な記憶はそこから始まる。
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