天使の棺




◆ 2 ◆

 幼い頃、桐人は父親と二人暮らしだった。母の顔は覚えていない。桐人が物心つく前に、母だった女は桐人を置いて失踪したのだと、それはあとから知った事実だ。
 物心ついてから、九才になる夏までずっと、桐人の記憶は父親のことで占められている。いや、そのはずだった。実際は、その頃の記憶には綻びがある。
 多分、父は母を愛していたのだと……成長してからの桐人がそう考えるようになったのは、桐人にとってそうでなくばあまりにも救いがないからなのか。実際はわからない。父は、桐人が九才の夏に死んだ。
 父は、母の代わりとなって桐人を育てた。そして同時に、母の面影を宿す桐人を憎んだ。自分と子供を置いて出ていった女の……それでも、確かに愛していた相手の面影を憎んだ。
 記憶は痛みでしかない。ろくに仕事もせずに、生活保護と時折どこからか見つけてくる日雇いの仕事の給金とで、桐人の父は酒に溺れていた。そして視界をかすめる小さな子供を捕まえては打擲するのだ。
 小学校にあがる年まで、桐人は外に出ることを禁じられていた。勝手に外に出てはいけないといって、その頃住んでいた小さなアパートの柱に桐人を縛り付けて、父は仕事に出かけていった。そして帰ってきては、桐人が粗相をしたと言って殴る。その繰り返しだった。
 ほんの時折、酔っていない時の父は、桐人に優しかった。自分が殴って出来た傷に薬を塗り、絵本を読み聞かせ、文字を教える。ごくわずかな生活費の中から、菓子を買い与えることもあった。当時で十円か二十円、どことなく粉っぽい味のする安いチョコレートを、それでも桐人は宝物のように片手で握りしめ、もう片方の手で、父親の節くれた指を握るのだ。
 台所の片隅にいつでも置いてある安い焼酎の瓶。桐人はそれが怖ろしかった。優しいはずの父親を悪魔に変えてしまう魔法の薬だと信じ込んでいた。あの瓶さえなければ父は優しいままでいてくれると、その瓶を隠してしまおうと思ったこともある。だが、それは必ず父親に見つかり、そしてひどく殴られるのだ。
 その頃の桐人は、父親と二人だけの生活が世界の全てだった。父親が一緒じゃないと外に出ることも許されず、家にいても誰が訪ねてくるわけでもない。父親が支配する世界の中で、父親にすがって生きていた。世界はしばしば、桐人に痛みを与えるけれど、他の世界を知らない桐人はそれを受け入れるしかなかった。

 小学校に入学した頃は、他の同年代の子供達よりも発育が遅く体も小さかった。文字もろくに覚えていなかったし、数の数え方も危うかった。
 とは言え、もとが聡明な子供だったのだろう。すぐに学力そのものは他の子供達に追いついた。だが、体も小さく、着ているものは粗末で不潔な桐人には、友人はいなかった。
 それでも桐人にとって、学校は素晴らしいところだった。文字や数を覚えてからは、勉強そのものも楽しいものであったし、友人がいなくても、それは寂しいことではなかった。今までいたものがいなくなったのではなく、今までいなかったものが、そのまま増えないだけのことなのだから。
 ただ、家から離れていられるだけで桐人には幸せだった。学校に行っている間だけは、父親から離れていられる。父親が、あの悪魔に変わる薬を飲んで豹変する瞬間を見なくても済む。本当の父親は優しい。なのに、悪魔の薬を飲んで変わってしまえば、父親は父親ではなくなってしまう。その瞬間が桐人には何より哀しかった。見なくても済むのならそのほうがいい。
 殴られて、生え替わる前に折れてしまった歯も。テーブルの角に打ち付けて裂けた額も。胸や腹に広がる青紫の痣も。桐人にとっては、父親を憎む材料にはなり得なかった。友人もなく母もなく、世界には自分と父親だけしかいない。それならば、父親を憎んでしまっては、自分の世界には何もなくなってしまう。ほんの時々、優しくなる父親。あれがきっと本当の父親なんだと桐人は信じて疑わなかった。父親が自分を殴るのはあの悪魔の薬を飲んでしまうからだし、きっと他の家でも同じような光景が繰り広げられているのだと思っていた。みんな、口に出しては言わないだけで、本当はあの綺麗な服の下は痣だらけなんだ、と。
 だから小学校の健康診断で、クラスの全員が服を脱いだ時に、桐人は愕然とした。他の子供達には痣がないのだ。そして逆に、周りの子供達と担任の教師は桐人の体を見て愕然とした。だが、その視線も、桐人は感じていなかった。どうしてみんなには痣がないのか。そればかりを考えていたからだ。
 そして考え続けて、桐人は一つの結論を出す。自分が殴られる原因は、きっと自分が悪い子供だからなのだろう、と。
 自分が悪い子供だから、父親は殴らざるを得ない。思い返してみれば、同じアパートに住んでいる住人も、自分とすれ違うたびに、目を逸らす。隣のラーメン屋のおじさんも、向かいのクリーニング店のおばさんも。
 周りの住人たちは、父親が桐人にしている行為のことを知っていた。だが、下手に口を出しては、そのことでまた殴られるのは自分たちではなく桐人なのだ。いっそどこかへ連れ去ってしまえばと考える者もいた。だが、当の桐人が父親のもとで暮らすことを望んでいる。だから、彼らが桐人を見るのは、同情と困惑と、そして自分たちの無力さを謝罪する、そんな複雑な温度の視線なのだ。桐人はそれを知らない。そして、周りの大人たちも知らない。桐人が父親のもとで暮らすことを望むのは、他の世界の一切を知らなかっただけだということを。
 ──自分は悪い子供だから殴られる。それは仕方のないことなのだ。
 だから桐人は、父親が拳をふるっている間じゅう、ずっと謝り続けていた。ぶたないで、とは言わなかった。言えなかった。ただひたすらに謝ることしか出来なかった。

 桐人が二年生の時。桐人のクラスを担任として受け持ったのは、まだ若い女性教師だった。
 テストの答案を返してもらう時、国語の教科書を朗読しながら彼女が机の間を歩く時、桐人はその女性教師から、やわらかな香りを感じた。香水かもしれないし化粧品かもしれない。どちらにしろ、今までの桐人の生活の中になかった香りだった。初恋と呼んでもよかったかもしれない。桐人は、ゆるく編まれた三つ編みが揺れるのをいつでも目で追っていた。丸みを帯びた頬に、記憶に残っていない母の面影を重ねた。
 初めて、幸せの形というものを夢想した。
 ──その担任教師がもしも母として家にいてくれたなら。父が酒を飲むのをやめて、二人で桐人を愛してくれたなら。ほんの時々は殴られるかもしれない。それでもいい。このやわらかな香りが、父と二人で暮らすあの小さな部屋にも満ちるなら。クラスの全員に等しく向けられているあの笑顔が、桐人一人に向けられるなら。
 ある日の放課後、教室の中に桐人は一人だった。他の子供達はとっくに帰ってしまっている。遊びに夢中な彼らにとっては、教室は牢獄だ。解放の合図が鳴れば、次の瞬間にはランドセルを持って駆け出していってしまう。だが、桐人にとっては、教室は天国だった。なにしろ、ここにいれば殴られることはないのだから。
 学校という世界を知ることで、桐人の世界はほんの少しだけ広がった。ランドセルを買ってもらえず、古びたスポーツバッグで学校に通っていた桐人に友達はいなかったが、それでも世界は確かに広がったのだ。父と暮らすあの家が牢獄であると認識出来るほどには。それでもその日まで、まだ桐人は信じていた。牢獄なのも仕方がない、なぜなら自分は悪い子供なのだから。
 授業が終わったら早く帰らなくてはいけない。掃除や夕食の支度、その他、父が思いつくいろいろな仕事をこなすために帰らなくてはいけない。ぐずぐずしていると殴られてしまう。それでも、一分でも一秒でも、牢獄へと戻る時間を遅らせたかった。
 巡らせた視界の中に、華やかな色合いが映ったのはその時だ。教卓の上に置き忘れられた薄紅色のハンカチ。近づいて、それを手に取った桐人には、それが担任教師のものだとすぐにわかった。同じ香りがするのだ。そして、同じクラスの女子生徒が持つにはあまりに大人びたハンカチ。白いレースの縁取りがついた、やわらかなその布を桐人は握りしめた。こんなに薄くてやわらかで繊細な、そしていい匂いのする布は触ったことがない。
 無性に、そのハンカチが欲しくなった。だが、ただでさえ自分は悪い子供なのに、ここでこのハンカチをポケットに入れてしまえば、本当の泥棒になってしまう。桐人は、そっとそのハンカチを教卓に戻そうとした。
 その時、教室の扉が開いた。声を掛けてきたのは担任の教師だった。まだいたのかと驚いて、桐人の手元にハンカチがあるのに気が付く。
「それ、先生のなの。忘れちゃって」
 微笑む彼女に、ハンカチを手渡そうとした。そして、最後にもう一度だけあの香りを感じたいと、わずかに鼻を近づけた。
「……どうしたの?」
 桐人の行動に、教師は首を傾げた。何か悪いことをしているかのように、急に後ろめたくなって、桐人は慌ててハンカチを差し出した。
「い……いい、匂い……した、から」
 決して自分は悪いことをしようとしたのではないと、自分は悪い子供ではないのだからと必死で訴えようとした。そんな桐人に、教師は微笑んだ。そして、信じられないことを口にしたのだ。
「そう。気に入った? 桐人君にあげようか、そのハンカチ」
 自分が耳にした言葉を桐人は信じられなかった。嘘だと思った。そんな幸せが自分に舞い込んできていいはずはない。
 ハンカチを差し出し続ける桐人の手をそっと包み込んで、彼女は桐人の手を押し戻した。そして、気を付けて帰りなさい、と言い置いて、教室を出ていった。
 ハンカチを握りしめたまま、桐人は呆然とした。教師が自分に向けて言った言葉を、何度も何度も、胸の中で思い返す。
 彼女にとっては、単なるハンカチでしかなかっただろう。桐人にそれをやったのも気まぐれだったかもしれない。ひょっとすると、桐人の家庭の事情を知った上で、それが桐人をほんのわずかでも幸せにするのなら、と思ったのかもしれない。
 だが、桐人にとっては、わずかどころではなかった。薄紅色のやわらかなハンカチは、幸せそのものだった。
 教室の中に誰もいないのをあらためて確認して、桐人はそのハンカチをポケットに滑り込ませた。そして、そのまま逃げるように帰宅した。自分がほんの少しだけ特別扱いされたことが嬉しかった。ごく普通の愛情だったのかもしれない。けれど、今まで桐人はそんなものを味わったことがなかった。
 これは父親に見つかってはいけない、と思った。盗んだわけではない。だが、物を欲しがることさえ、桐人には罪悪だ。食べ物を、菓子を、服を、靴を。欲しがってはいけない。例え必要なものであっても、父親にそう申し出ると決まって殴られたからだ。
 それでも、ポケットに幸せの欠片が入っていることに桐人は満足だった。駆け足で家に帰ると、待ち受けていたのは酒臭い息を吐いて血走った目をした父親だった。帰りが遅れたと言って、桐人の胸倉を掴み上げる。勢いで取り落とした、教科書の入ったスポーツバッグが父親の足の上に落ちる。それを桐人の反抗だと言って、そのまま桐人の体を床に叩きつけた。
 肩と頭に痛みと衝撃が走ったが、桐人はそれを気にしなかった。慣れている。だが、それよりも、今の衝撃でポケットからハンカチが落ちてしまったことのほうが桐人には重要だった。あの幸せを。……父に見つかってはいけない。
 だが、桐人が見つけるよりも早く父親がそれを見つけた。女物のハンカチを拾い上げて、口の端を歪める。
 どこから盗んだ、と怒鳴る声。
 色気づきやがって、と嘲る声。
 その全てを意に介さず、桐人は取り返そうとした。だが、たった八才の子供が、酔っているとは言え大人の男にかなうわけもない。薄紅色のハンカチは、引き裂かれて踏みにじられた。それだけで終わるわけもなく、桐人自身も蹴り飛ばされ、殴られて、踏みつけられる。
 折れた歯と血を吐き出しながら、桐人は生まれて初めて、父親を憎んだ。憎しみを、意識した。
 どうして、と。鼻の奥に広がる血の味が問いかけてくる。
 どうして今まで父親を憎まずにいられたのか。どうして今まで、それでも自分は父を愛していると……父は自分を愛していると、錯覚していられたのか。確かに、桐人にはふさわしくない女物のハンカチを持っていれば、盗んだと疑われても仕方がないだろう。だが、自分は盗んではいない。自分があのハンカチを欲しがったから、悪いのか。それともただ単に帰りが遅れたのが悪いのか。今までのことを考えるなら、確かにそれは悪いことかもしれない。だから、殴られるのはいい。それは構わない。けれど、あの、たったひとつの幸せを、踏みにじる権利が父親にあったのか。
 ぼろぼろになってしまったハンカチを拾い上げ、そっとそれを鼻に近づけた。血の匂いしかしない。そして、床には焼酎が零れていたのか、かすかに、安いアルコールの匂いがする。あの、やわらかな香りはどこにもなくなってしまった。
 香りと肌触りが失われたことに。
 自分が憎しみを抱いてしまったことに。
 腫れた頬に流れる涙で、何かが崩れていったことを桐人は感じていた。
 ひとしきり殴って満足したのか、父親は桐人に背を向けてまた酒を飲み始めている。そっとその背中を盗み見て、桐人は知った。父親が自分を殴ることに何も意味などありはしないことを。単なる、苛つきと憎しみの歪んだはけ口でしか無かったことを。
 桐人に向けられた背中には、何の感情も窺えなかったのだ。そこには怒りもなく憤りもなく、ましてや優しさなど欠片もなく。
 涙が止まらないのは、痛みのせいだったろう。だが、その痛みは殴られた傷の痛みではなかった。父親が意味もなく自分を殴るのだと認めてしまえば、父親にとって自分がどんな存在なのかに気づいてしまう。自分の中にある憎しみとともに、桐人はそれを認めた。そしてそれは、ひどく心が痛んだ。この痛みを味わいたくないがために、自分はこれまで自分を騙し続けてきたのかと、桐人は気が付いてしまった。自分が悪い子供だから……それも拙い言い訳でしかなかったのかと。悪いことをしたから殴られると思ったほうがましなのだ。たった一人の肉親に愛されない子供でいるよりは。
 ──いなくなってしまえばいい。
 初めて思った。それまで自分の世界を支配してきた人間の死を初めて願った。その存在の消滅を、心から祈った。
 それで世界が壊れるならばそれはそれで構わない。たったひとつの幸せさえ許されない世界なら、いっそなくなってしまったって構わない。……これが夢だったらどんなにいいだろう。ハンカチが引き裂かれてさえいなければ、自分は父を憎まなくて済むのだから。

 痛みと、そして後半は憎しみに彩られた記憶は、ところどころ綻びている。全てを覚えていておかしくはないほどの強烈な記憶のはずなのに。忘れた振りをするのも自分を守るためなのかと考え始めたのは、かなりあとになってからのことだった。
 そして同じように、大人になってから不思議に思ったことがある。何故自分は、あそこで父親を憎みきってしまわなかったのかと。
 憎しみに全てを押し流して、自分という人間を怒りと憎しみの塊にしてしまえばおそらくは楽だったのだろう。何もかもを捨てて、憎んでしまえばよかった。それはきっと何よりも簡単なことだったろう。
 なのに、桐人はそれをしなかった。たったひとつの幸せが踏みにじられたあの時は、怒りと憎しみで呼吸さえままならなかったが、過ぎてしまえばそれは哀しみに変わった。父を憎まなくてはならない哀しみに。
 自分を包むあの世界が崩壊しても構わないとまで思ったのに、いっそ夢であればと願った。憎まずに済むものなら、憎まないでいたい。それは歪んでねじくれてはいても、ある意味では愛情だったのかもしれない。時折訪れる、ほんのわずかな優しさを受け取った、それが証だったのかもしれない。
 桐人が、父の死を願ったのは、その時だけだった。


   
           
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