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天使の棺
◆ 1 ◆
かたり。
箸箱の中で安い塗り箸が乾いた音を立てた。
児童公園の脇に停めたトラックの運転席で、桐人は食べ終えた弁当を包み直し、箸箱を結び目の下に差し入れた。
(今、何か……)
ほんの一瞬、心のどこかにわずかな解れを感じたような気がして、持っていた弁当包みを見つめる。が、思い出せない。
気のせいか、と、助手席に置いてあった烏龍茶のペットボトルに手を伸ばした。すっかりぬるくなってしまったそれを、ごくりと飲みくだした瞬間に思い出す。
(そうだ、棺だ)
箸箱に箸を入れ、蓋をスライドさせた瞬間、桐人は棺を連想したのだ。
(全く。我ながら不吉な連想をする)
片頬をわずかに歪め、あらためて、弁当箱の包みを助手席に放り投げる。から、と棺の中で箸が音を立てた。
くだらない、と笑い飛ばせるはずの連想だ。だが、一度思いついてしまえば、それは小さな染みになる。何度洗濯しても落ちない、小さな小さな黒い染み。
それでも、棺という言葉に奇妙な安らぎを感じるのは何故なのか。不吉な連想だと、自分でもそう思った。なのに、それよりももっと深い部分では、どことなく愛おしさにも似た、ぬるま湯のような優しさを感じた。
(それこそ……くだらない)
ぬるま湯の奥を探るのはやめて、桐人は大きく息を吐き出した。
木陰を選んで車を停めたが、それでも時折、枝葉の隙間から夏の陽射しが降り注ぐ。外は風があるのかもしれないと思った。エアコンを効かせた車内は涼しいが、外に吹く風は、おそらく肌を乾かし体温を上昇させる熱い風だろう。それでも、ここで奇妙な連想にとらわれているくらいなら、いっそ外に出て夏の風と陽射しに晒してしまうのもいいかもしれない。
ルームミラーに映る三十男の顔を見ながら思う。妻に、弁当はもういらないと言おうか、と。
妻は今、身重だ。大変だろうから、落ち着くまでは弁当を作らなくてもいいと言えば、それはさほど不自然でもないだろう。だが、昼に弁当がなければ、昼食代がかかる。これから産まれる子供のために、少しでも金を貯めたい今、それは無駄な出費に思えた。だからこそ、妻も毎日早起きして弁当を作っているのだ。……ならばせめて、おかずを作らなくてもいいから、握り飯でいいと言おう。それなら、箸箱は必要なくなるから。
そこまで考えて、桐人はまた片頬にわずかな笑みを刻む。
(馬鹿らしい。そんなことを考える前に、俺は考えなくちゃいけないことがあるだろう)
子供の名前を考えておけと妻に言われていた。
三年前に結婚した妻の靖子は、桐人よりも二つ年上だ。しっかりしてはいるが、年上ぶったところはなく、桐人にとって家庭は居心地の良い場所だった。半年前に妊娠を告げられ、桐人は喜んだ。もともと桐人自身が、家庭に縁が薄かったこともあり、自分の力で妻と子供という家庭を築けることが何より嬉しかった。
だが、妻の腹の大きさが目立ち始め、出産に関わる幾つかの準備を始めた頃、急に桐人の心には翳りが生まれた。それがどこから来る翳りなのか、桐人自身、気が付いてはいる。
多分、自分は自信がないんだ、と。
それは経済面の不安ではない。裕福とは言えないまでも、今の自分が勤めている運送会社の経営は安定している。今はまだ三十を過ぎたばかりの自分の年齢がもっと上がれば、給料も上がっていくだろう。子供が生まれれば扶養手当もつく。一家三人が暮らしていくには、不自由のない給料のはずだ。
なのに、日に日に大きくなる妻の腹を見るたびに。妻が愛おしそうに腹の中に何か呼びかける姿を見るたびに。
不安になる。
果たして自分は、この子供の父親になれるのだろうか。自分とその子の関係は、自分と自分の父との関係と、同じものになってしまわないか。
心の中に生まれた翳りは、どす黒い霧となってそこから這い出してくる。膨張と収縮を繰り返して、その霧は人間の形をとる。顔の見えない黒い人間のシルエット。それでも、それが誰であるのかを桐人は知っている。それは自分の父親だ。幼い頃、共に過ごした、桐人の実の父親なのだ。
父親の顔をイメージしようと思って、桐人はトラックの運転席に座ったまま目を閉じた。エアコンを効かせた車内は快適な温度に保たれている。駐車した場所の横には公園から大きな銀杏の木が枝を伸ばしていた。まだらな光に染め抜かれたフロントガラス。八月中旬にふさわしい気温であろう外とは、全くの別世界だった。
(もう……二十年以上前か)
父親との思い出は幾つもある。だが、思い出の中の父親も、そして今、自分の心の中にいる父親も、桐人にとってはただのシルエットでしかなかった。
顔を思い出せない。
思い出そうと思えばいつでも思い出せると思っていた。忘れるはずがないと思っていた。だが、脳裏に浮かぶのは、顔ではない。煙草を持った節くれた指先。鬢に混じる短い白髪。安酒を呷っていた無精髭の目立つ口もと。細部は呆れるほどの明確さを誇り、なのに、顔をイメージしようとすると途端にそれは黒い霧に包まれる。
(記憶力は良かったはずなのにな)
そう。覚えている。例えば右の眉に一本だけ長い眉毛が混じっていたことも。左手の中指の爪が少し変形していたことも。右手の人差し指が煙草のヤニで黄褐色に染まっていたことも。
なのに、顔だけが思い出せない。
生まれてから九才になる夏までずっと、一緒に暮らしたはずの父の顔を。
ひょっとしたら……と考えて、桐人は苦笑した。
(ひょっとしたら、俺は親父の顔を見たことがなかったのかもしれない)
そんなはずはないと思っている。だが、ふと思いついたその考えは、何故かひどく納得のいくものだった。
ぴしゃ、と。公園から飛び立った鳩が、フロントガラスに白い糞を残して飛び去っていく。
煙草とライター、そして携帯用の小さな灰皿を持って、桐人は車のドアを開けた。エアコンの効いた車内とはまるで違う外の世界。むぅ、とした熱気に一瞬息が詰まる。銀杏の木は暴力的な直射日光を遮ってはくれるが、そんなわずかな日影では、溶鉱炉のような熱気を和らげることなど出来はしない。
歩道と公園との境界に立つ、背の低い柵に腰を下ろして、桐人は持っていたマイルドセブンに火をつけた。
昨夜、妻の腹を触った感触がまだ、煙草を持つ右手の指先に残っている。大きく丸く膨らんだ腹からは、予想外の固さが伝わってきた。もっと柔らかいものだと思っていた桐人は驚いた。これまでずっと、触ってみろという妻の言葉から逃げ続けて、実際にしっかりと触ったのは昨夜が初めてだったのだ。
八ヶ月にさしかかる腹は、見ている人間のほうが何故か少しだけ落ち着かなくなるような大きさだ。そして、あの固さ。
せめて、あの腹がふよふよと柔らかければ、現実味が失せるかもしれなかったのに、と桐人は考える。あの大きさと固さを感じてしまえば、あの中には確かに一人の人間が入っているのだと認識せずにはいられない。
自分と妻との間に子供が出来たことを、最初は喜んだ。だが、日を追うにつれ、喜びは影を潜め、不安が大きくなる。
生まれてくる子供の性別は、産婦人科で聞けば教えてくれるらしい。それを聞きたいか、と靖子は尋ねてきた。桐人は答えた。
……聞きたくない、と。
「産まれてくるまでわからないほうが、楽しみがあっていいよね」
靖子の笑顔は、母としての笑顔だった。
──聞きたくない。子供が産まれるというその事実さえ忘れていたい。今まで通り、自分と妻の二人だけで暮らして何が悪いというのか。靖子が寂しいというのなら、犬でも猫でも飼えばいい。自分の血を……自分の遺伝子を受け継ぐ赤ん坊が産まれることが怖ろしい。そして、父親の遺伝子を受け継いだはずの自分が、あの父親のようになりそうで、それがおぞましい。
指に挟んだ煙草の灰が落ちる。桐人の耳に、近所の子供達のものらしき声が届く。どうやら、公園で遊んでいるらしい。世間では夏休みの最中であることを、ぼんやりと思いだしていた。
(そういえば……家にも棺があった)
桐人と靖子が住んでいるのは、新しくはないアパートだ。間取りは二DK。寝室の隣で、今は物置に近い状態になっている小さな洋室が、これからは子供のための部屋になる予定だ。先日、その部屋には真新しいベビーベッドが運び込まれた。靖子の両親からの贈り物だ。シンプルな白木のベビーベッド。幾つかの飾りが、枕元を彩っている。そこに敷き詰められた布団は白。
白木の枠に囲まれた白い布団を見て、桐人は胸の内側に鳥肌が立つのを感じた。肌などないはずの場所に、確かに何かが粟立った。そしてその時も感じたのだ。粟立つ内臓の奥底で、何かが柔らかな吐息を漏らしたことを。
それも、箸箱と同じく不吉な……それでいてつまらない連想だったのかと思う。
今更、何をどう連想しようが、もう遅い。子供は産まれるのだ。あと二月もすれば、あの真新しいベビーベッドの上に子供が横たわるはずなのだ。
だから、桐人は想像する。恐ろしさもおぞましさも、黒い霧と一緒に押し込めて、出来る限り想像する。
柔らかな白い布団に横たわる赤ん坊を。
白木の柵に無邪気に手を伸ばす赤ん坊を。 ぎらりと照りつける太陽は翳る兆しさえ見せそうにない。まだ、正午を過ぎたばかりだ。これからどんどん気温は上がっていくだろう。真夏にふさわしい、殺人的な気温にまで。
桐人の額に汗が滲む。運送会社のユニフォームである、ライトグリーンのポロシャツが汗で色を変えていく。
子供達の甲高い叫び声。何もかもを気化させていきそうな太陽。焼けたアスファルトから立ち上る熱気。公園の芝生から匂い立つ土と草の匂い。その全てのなかで、ふと桐人は考えた。
(そうだ。蝉の声が足りない。鼓膜を覆う、あの耳障りな声が、ここにはない)
また、一羽。鳩が飛び立った。白い羽毛が桐人の目の前に舞い落ちる。
──想像する。
棺の中に横たわる白い羽毛を。
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