そりゃないゼ Dr.



◇ 8.歯科その4 〜逆襲 ◇

 久々にこのコーナーを更新してみる。更新しなかった間、ヒドイ目に遭わなかったわけではない…と思う。が、自信がない。げに怖ろしきは人間の慣れ。たとえば、鼻粘膜。匂いを感じる細胞は、一番慣れやすいと言う。他の五感に比べて、匂いには慣れやすい。それがどんなにクサイものであっても。ほんの数時間…ヘタをすると1時間程度で、人間はその匂いを感じ取れなくなってしまう。匂いが消えたわけではないのに。
 …いや、だからってね。痛みに慣れたわけではないんだけどね。っていうか、歯医者って痛い場所だと思うわけだ。いくら、麻酔が効きやすい人であっても、麻酔の針を刺してそこから麻酔液が注入されればそれは痛かろう。だから、多少痛い目とかヒドイ目に遭ったとしても、「エッセイに書くほどじゃないかも…」と諦観の境地に達してしまう私がいても不思議ではない。
 でもね。

歯科衛生士「ちょっと痛いですけどね〜我慢してくださいね〜」
私(口開け中)「んが(はい。の意)」
歯科衛生士「………この治療、普通は麻酔するんですけどねぇ(治療開始)」
私(治療中)「んがっ!?」

 ………待て。ちょっと待て。普通はって何だ? 私は普通じゃないとでも? この仕打ちは一体、何っ!?
 予想通り。………痛かったさ(ほろり)。←ちなみに、『歯周ポケットの奥の歯石をとる治療』


 だが、私とてやられっぱなしでいるわけにはいかない。ちゃんと、歯医者に逆襲はしている。その名も!

「オレ予約」

 別に、ミルクを半分入れた、カフェオレのような予約だというわけではない。「俺様」、つまり、自分の都合に歯科医を合わせさせる予約である。通常、歯科医の予約というものは、だいたいが歯科医の都合が中心になって決められる。
「この日の夕方でいかがでしょう?」
「あ、すみません、その日は…」
「じゃあ、こちらの日は?」
「その日なら…」
 これが、通常の予約の流れかと思われる。確かに私もそうだ。が、そうやって、歯科医の予定があいてる日を提示されて、自分もうなずいたにも関わらず、私は大抵、行けない。いや、イヤガラセではない。イヤガラセなんかしたら、どんな逆襲を受けるかわからないので、そんなことはしない(小心者)。ただ、仕事が忙しいだけだ。
 かくして、私は毎回、電話をする羽目になる。
「すみません。仕事が終わらなくて……」
 私の電話を毎回取っていた、歯科助手のお姉さんは、次回の診療時に私にこう言った。
「次、いつ来られます?」
 そして私は答える。正直に。
わかりません
 それを受けてお姉さんが、諦めまじりに微笑む。
「じゃあ、来られそうな日に電話してください。予約はしなくて結構ですから」
 まさに。『今日、暇だから歯医者行こっかなぁ〜♪』状態。
 ふふ…勝った(違)。
 そんなことに、ささやかな勝利感を見出してる自分も時々可愛いなと思える今日この頃。


 さて。先日のこと。
 抜いてきました、親知らず。3本目。残りはあと1本。
 そして、私が「親知らず抜く」と言うと、周りの友人知人どもは、こぞって言いまくる。「ネタだね」と。………ふっ…そんな……毎回毎回、ネタを拾ってきてたまるものか。
 事前に歯科医(口腔外科医でもある)から丁寧に説明は受けた。最近は、インフォームドコンセントとかいう代物が、どこの病院でも流行っているらしい。何もそこまで丁寧に説明せんでも、ってくらい丁寧にしてくれる。
 私が今回、抜いた歯は右下顎の親知らず。左右どちらにも言えることだが、人間の頭蓋骨の形状からいくと、上の親知らずよりも下のほうが大変らしい。つまり、下顎の曲線のほうが上顎よりも急なカーブを描いていて、そのカーブの一番曲がっている場所に、親知らずが生えるからだ。顎の骨の中には、歯のそれぞれに行き渡る神経の大本の流れがある。そしてそのすぐ脇には動脈。レントゲンで見る限り、確かにそれは立派な神経と血管である。立派、ということは太い。太い、ということは大事。つまり、傷つけちゃいけない。
「細心の注意は払いますが……ごくごくまれにそういう事故も起こり得ます」
 ありがとう。丁寧な説明(遠い目)。
「それと、わりと大きな親知らずですから、傷口も大きくなるでしょう。次の日はかなり腫れると思います。体調を整えてきてください」
 ……なるほど。よし、わかった。
 丁寧な説明を受けて、私は準備を整えた。抜歯予定日の次の日はすかさず有給休暇をゲットする。そして、真向かいの席で風邪をひいて、咳をしている後輩を「うるせぇ。あっち行け」と蹴り飛ばす(ヒドイ)。万が一にでも風邪をひいてしまっては、この『気合い』が台無しではないか。

 さて、そんな風にして臨んだ当日。体調も気合いもばっちり。どーんと抜いてくれやがれとばかりに私は診療台に腰をおろした。
 案の定、麻酔は効きにくい。通常の倍(倍で済んだだけラッキー)を使用して、抜歯に臨む。が、歯科医はここで、秘密兵器を出した。だが、彼がその兵器を出す少し前から、「水とか飛ぶといけませんから」と、私の顔は口を残して全てタオルで覆われてしまっていた。だから兵器の形状はわからない。『とか』ってのは、多分、水だけじゃなくてもなんだろうなと思いながら…それでもそんな些細なことは気にせず、私は新兵器に集中した。
「ちょっと…失礼しますね。北白川さん、お口小さいみたいですから」
 いや…別に普通だと思うけど。決して小さくはないと思うけど。そりゃ、あんたが求めるよりは小さいかもしれないけど…人外の大きさを求められても困るし。
 とにもかくにも、そんな言葉と共に新兵器は私の口にハメられた。……どうやら、ステンレスの輪っかのようなものらしい。弾力性を利用して、口を無理矢理に広げるのだ。唇に当たる部分にはゴムやプラスチックが装着されている。だから痛くはない。……だが、口が閉じられないではないか。
「いろいろ、器具とか使いますからね。これをしてれば、口の周りが傷つかないんですよ」
 いや、あんたの言うことはわかる。わかるが……。
「あ、お口、楽にしてていいですよー」
 ……どうやって。この状態で、『お口を楽に』できるんだとしたら、私はオリンピックに出られるぞ(根拠なし)。

 そんな私の心持ちは気にもとめずに、親知らずを抜きにかかる歯医者。が、抜けにくい。あたりまえだ。事前にレントゲンを見て、確認した通り。私の親知らずの根は、通常、緩やかなカーブを描いて2本ある根が、緩やかどころではなく、激しく曲がっている。そして、その2本の根は下顎の骨間近で根と根の間を急激に狭めており、あろうことか、下顎の骨の一部(ごく薄っぺらい部分)を根で抱き込んでいるのだ。つまり、まっすぐに抜こうとすれば、下顎の骨が邪魔をする。かといって、斜めに抜くには、2本の根の角度が互いに邪魔をする。
 結局、歯そのものを、抜く前に割り、抱き込んでいる骨は薄っぺらいカケラだということを利用して、その場でへし折ることに。

 途中、麻酔を追加しながらも、歯医者はミクロな力仕事を展開する。私の口の中で。……口の中でそんなに力を込められては、私は精一杯の力で下顎を保ってなければなるまい。それが自然の反応というものではないか。
「おやー? 北白川さん、力入ってますねぇ。緊張しなくていいんですよー」
 ……緊張じゃなくて。
 口の周りにハメられた謎の輪っかのせいで、言葉はいささか不明瞭だが、私は歯医者に説明した。
「この角度で、顎に向けて力入れられちゃうと…顎が外れそうになるじゃないですか。それに少しでも抵抗しようとして、自然に力入っちゃうんですよ」
 それを聞いて、歯医者はにこやかに答えてくれた。
「あ、大丈夫ですよ。僕、口腔外科もやってますから。顎が外れたらすぐに入れてあげられます
 ……………そういうことじゃなくて。
 っていうか、随分と得意げじゃないか。そうじゃない。そうじゃないんだ。『外れたら』ではないんだ。『外れたくない』んだ。
「あ〜…はは……そうです…ね。そりゃ……安心だ。……ははは」
 乾いた笑いながらも、こんな答えを返せた自分は割とオトナだと思った、秋の日の夕暮れ。

 ……無事、抜けた。顎も外れなかった。…………疲れた。

「ん〜…傷口、どうしようかな。縫っておこうか。そのほうが治り早いし。……ひと針……いや、ふた針……ん〜〜…」
 外れなかった顎に安堵して、なんとなく脱力していた私の横で悩む歯医者。……いいよ、もう。ひと針だろうとふた針だろうと変わりゃしねえし。っていうか、あんまりそこで悩んでると、麻酔切れるぞ。
「とりあえず…ひと針縫いますね」
「んが」
 返事をして、口を開ける。……っていうか、開きっぱなしだったんだけどね。いいや、もう。諦めたから。うん、いろんなことを。
 そして、縫い終えたあとに、一瞬躊躇する歯医者。そして、決意したように私に告げる。
「やっぱり、もうひと針サービスしときますね。…………これで、ふた針…っと。サービスでふた針縫っておきましたから」
「…………………ふが」
 ………いらん、そんなサービス。
 『サービス』と言うからには、そのひと針分は治療費を請求されないということだろうか? だが、そこまで細かい明細をもらうわけでもない。だから、彼の言うサービスが、何を指しているのかは不明だ。
 だが、サービスという単語を結局帰るまでに4回ほど口に出した彼の心情を考えてみるに…彼のギャグだったのだろうか。私はあそこで笑うべきだったのだろうか。それとも、ありがとうございますと、サービスに対して感謝すべきだったのだろうか。
 とは言え。私は不親切な人間ではないが……それしきのギャグで大喜びするほど、笑いに飢えているわけではない。それに、そんなサービスに感謝できるほど人間は出来ていない。っていうか、欲しい人がいるか、そんなサービスを?
 ただ、実を言えば。『サービス』発言をされた時に、何のリアクションも返さなかったのには理由がある。のっぴきならない理由が。
 ……口がまだ開けっ放しだっただけだ。………早くとれ、この秘密兵器を。

 一週間ほど経った後日。抜糸に行く前日の夜。夕食を済ませたあと、私はうがいをした。痛みはひいたものの、傷口はまだ生々しい。本格的な歯磨きをするのは、またあとでということにして、とりあえず口のなかをすすぐ。ついでに、柔らかい毛の歯ブラシで、傷口の上をそ〜〜〜っと撫でる。食べかすの除去が目的だった。
 そして、リビングに戻った私は、それまでしていた読書の続きを始めた。…と、口の中に異物感があるではないか。なんていうか……そう、たとえて言うなら糸のような。傷口を縫ってある糸は、端が比較的長い状態で切られているとはいえ、舌を無理矢理に曲げなくては届かない位置である。口の中がまだ腫れている状態なのに、そこまで舌は動かせない。……ならば何故、こんな異物感が? あ。しかもこの異物は動く。さっき口をすすいだばかりなのに。
 不審に思った私は、その異物を舌先に乗せて、指ですくいとってみた。
 ………。  たとえて言うなら…どころではない。本当に糸である。それも切れ端だというならば、まだわかる。糸の端が先刻のブラッシングの際に切れてしまったのかとも思う。だが、その糸は…輪になっていた。ついでに言えば、結び目もある。直径2ミリほどの輪。糸を結んで作ったその輪は、おそらく…傷口を縫い止めていた形状のままであろう。……なぜ?
 考えられる推論の1つ。………歯茎が切れた? でも、痛くはない。血も出ていない。じゃあ…別の推論は……。たとえば、もともと縫い止めるのに失敗していた結び目が、傷口の奥深くに隠れていた。そして、傷口が治るにしたがって、中からは新しい歯茎がもりあがってくる。腫れもひいて、出血もおさまったこの時期に、中から押し出されて………ひょっとして、これがサービスかっっ!?

 決して明かされることのない謎を残して、私の親知らず3本目の抜歯は、無事に終了した。


   
           
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