そりゃないゼ Dr.



◇ 5.歯科その2 〜よみがえる歯医者 ◇
<おもしろいってよりも痛い話>

 …と、サブタイトルをつけてはみたものの、思い返せば、私は別に歯医者を倒したわけではない。だから、歯医者がよみがえってきたわけではないのだ。むしろ、よみがえったのは、私という患者だろう。…歯医者にしてみれば、迷惑きわまりない話である。前述のとおり、私は麻酔に強い。この場合の「強い」というのは、私にとっても歯医者にとっても、「弱ったなぁ〜」という事態しか引き起こさないが。

 とにかく、私はまたしても歯医者通いを始めたわけである。今回の「病巣」は奥歯と前歯。奥歯はごく普通に進行しまくった虫歯である。かぶせていた冠(銀色のアレ)が外れたのち、仕事の忙しさを口実に歯医者から逃げ回っていたツケがきただけのこと。それはそれで、別段、特筆すべきモノはあまりないが、問題は前歯である。
 その前歯。虫歯的痛みじゃない。歯というよりも、その近辺の歯茎の奥が、何ちゅーか、こう「もややや〜ん」と痛いのである。それを歯医者に相談した。細身で長身、眼鏡をかけた若い彼は、レントゲン等の診察ののち、こう説明した。
「これはですね、歯を支えている骨の奥に、膿の溜まった袋状のものがあって、それが、神経を圧迫して、痛みになるわけです」
 なるほど。理解。確かに、以前にも似たようなことで、歯茎を切開したことがある。私はその旨を彼に告げた。そうすっと、彼はしばし考え込んで、こう言った。
「前歯も、それ、差し歯ですよね? それ自体古いみたいですから、この際、一度全部取ってから、根をぜ〜んぶ、きれいにしましょう」
 …確かに。上の前歯は実は4本全てが差し歯である。エナメル質が弱いらしく、かつ、ずぼらな私は虫歯になりやすいのだ。それがわかってるなら、歯の健康にもっと気を遣えという意見もあるだろう。もっともだ。私もそう思う。何をやってるんだ、自分! よし、今度からは気をつけよう。といっても、その言葉は『ダイエットは明日から』と同義であろう。そのうち、どこかの天才科学者が、歯を治す飲み薬とか、歯を抜いた後、新しい歯が生えてくる薬とかを発明してくれないだろうか。間違いなくノーベル賞なのに。
 それはともかく。彼の提案は実に、正当な意見である。差し歯も古いし、実際、根のあたりがじわわ〜んと痛み出しているモノもある。ならばここらで、前歯の虫歯根こそぎ一掃大作戦を展開してもよかろう。
 私の了承を得て、治療が始まった。担当している歯医者さんは、実は正式には口腔外科医らしい。このテの治療は慣れているはずだ。歯医者に来て、生まれて初めての安心感を私は味わった。

 とりあえず、差し歯を外して、縦方向から攻めることにした。問題の病巣は、歯茎の上のほうだ。外から見るならば、鼻の下と唇をつなぐ『ナゾの谷間』のあたりである。上唇をひんむいた際に、歯茎と唇をつないでいるぎりぎりのあたり。唇の支えになっているかのような『ナゾの柱(?)』の両脇である。縦方向から…つまり、歯を取ったあとの空間から、上に向けて攻めるのが一番、傷が残らない方法である。切開しなくていいんだから、それですめばそれにこしたことはない。
 …が、そうウマクはいかないのが世の常。っつーか、北白川の常。だいたいが、それでウマクいったのなら、このエッセイそのものを書いていないわけだからして。そう、賢明なる読者の皆様方がお気づきの通り。ウマクいかなかった。
 縦方向の、隙間から何度も何度も薬を注入した。それでも痛みが残る。んどーーーっしても残るのだ。一旦、うまくいったかに見せかけても、しばらくするとよみがえる痛み。歯医者さんは一大決心をした。そんでもってそれを私に告げた。
「どうやら、病巣に届いてはいるんですが、なかの掃除をしきれないようで。この際、歯茎を切開してはどうでしょう? そのほうが早く終わるし、実際、痛みも少ないと思うんですよ」
 …そうだろうなぁ。だって、治療も痛いんだ。多分それは私の体質が悪い。麻酔が思うように効かないせい。治療にかかる時間そのものは短いから、麻酔を何とかして効かせるよりも、直接やっちゃったほうが早いってのを、私も歯医者さんも納得の上、麻酔ナシの治療を続けてきたのだ。神経に沿って、骨に届く寸前まで、細い洞窟を穿ち、その中に薬と洗浄用の消毒液をぶち込む。冷たさと痛みが渾然一体となって脳髄に届く。それをこれ以上繰り返すならば、麻酔をふんだんにつかって、切開し、一度にきれいにしたほうがいいだろう。それに、縦方向に攻めるのと違って、歯茎を直接切開すれば、病巣そのものが、彼の目に触れる。つまり、治療しやすい。
「そのほうが確実っすね。やりましょう」
 私と歯医者さんは、強くうなずきあった。

 後日、私は『手術』に挑んだ。まず、麻酔である。たっぷり使う。んもういいっちゅーのってくらい、使う。それでようやく効き始める。そして、切開。彼はメスを手にして言った。
「ちょっと、嫌な音しますけど、我慢してください」
「んが」
 歯医者においては、『はい』という意味で使われる音を私が発する。歯医者さんが、メスを入れた。
「ぶちっ! ぶちぶちぶちっ!! ……ざく?」
 ……誇張ではない。ホントに、ぶちぶち言うのだ。歯医者さんが説明してくれたところによると、歯茎の皮膚(粘膜)は、特別に頑丈にできているらしい。その粘膜を、骨に達する寸前まで切り開くのは、相当な力がいるそうだ。かつ、音もすごい。私は、過去ン十年の人生のなかで、これほど嫌な音を聞いたことがない。しかも、バーチャルな振動つきである。自分の体から発する音とはとても思えなかった。
 ともかく、世にも不気味なその音とともに、私の口の中には生暖かい鉄の味が感じられる。骨膜剥離子という、歯医者で使うモンじゃねーだろ的なものを使われたりする。次第に患部が明らかになっていくらしい。そうこうするうちに、麻酔は切れ始める。
「んが」
 今度は、『先生、ちょっと』の意味で、私はそう言った。先生が手を止める。
「そっちのほう…今、真ん中あたりを切ってますよね。もう少し進むと、麻酔が効いてないエリアかも」
「はい、わかりました」
 別段、驚きもせずに麻酔を追加する歯医者。患者と歯医者の連係プレー。ああ、本来の治療とはかくあるものか。と、訳の分からぬ感慨を抱きつつ、治療は進んだ。にしたって、麻酔が効いているはずなのに、切っている箇所がわかるのもなんだかイヤな話ではあるんだけどさ。
 が、やはり、奥の方に触れると、そのあたりは十分に麻酔は効いていないらしい。次第に痛みがつのる。それを訴えると麻酔は追加されたが、効く気配はない。院長と呼ばれる別の先生までのぞきこみにきた。
「こっちのほうに、麻酔うってみたら?」
「いえ。そのあたりは、もうたっぷりうってるんですよ」
 先生同士の会話。それを聞きつつ、私は次第に落ち着かなくなってきた。生理的現象である。そう、私はトイレに行きたかった。我慢していたものの、麻酔が追加されるたびにトイレへの欲求は募る。麻酔=尿意。…私はミルク飲み人形か?
 いくらなんでも、反応が早すぎないか? …いや、だから麻酔が効かないのかも知れないが。とりあえず、先生に尋ねてみた。血まみれの口で。
「先生、あとどれくらいかかります?」
「え? 麻酔が効けば、あとは、ここをきれいにして、セメントで穴を埋めて、歯茎を縫合して…そんなに時間はかからないけど。…どうかしました?」
「いえ…あの…トイレに……(笑)」
「う〜ん、麻酔が効くのに時間かかりそうですからねえ。今のウチに行って来ますか?」
「はい〜」
「じゃあ、ちょっと…」
 といって、今まで切開していた傷口にガーゼをのせ、上下の唇を『血糊』で張り合わせる先生。
「口、開かないでね」
 血まみれの口を、血糊で張り合わせたまま、私はトイレにいった。そうでもしておかないと、麻酔に集中できないと感じたからだ。自分自身が麻酔に集中しなくては、麻酔が効かないってのも何だかなとは思ったが、その時は本当にそう思ったのだからしょうがない。実際、トイレを済ませ、気持ちのゆとりを持って臨んだ麻酔は、それから程なく効き始めた。
 縫合する際にも、麻酔は切れかけた…いや、有り体にいえば、切れたのだが、私はあえて黙っていた。あとは縫合だけだ。わざわざ麻酔で痛い思いを味わうことはあるまい。縫合のタメに刺される針と、麻酔のタメに刺される針の数は、たいして違わないだろう。私の表情で、どうやら歯医者も麻酔が切れかけていることに気がついたらしい。が、彼も黙っていた。その時、2人は心が通じ合っていた。同じことを考えていたのだ。

 翌日、消毒のために歯医者を訪れることになっていた。事前に予言されていたとおり、顔は腫れていた。鼻の下あたりから、口にかけて、ぱんぱかぱーんと腫れていた。思わず鏡を覗いて、『おまえ誰だ?』と自分自身に問いかけたくなるほどだった。
 消毒に行くと、出てきたのは前述の院長だった。未だにひかぬ痛みにぼんやりしている私に、院長はひどく機嫌よく話しかけた。
「どう? 北白川さん、腫れたでしょう? ああ! やっぱりだ。腫れてるねぇ。痛い? ああ、痛いよねえ、そりゃ」
 ……真空飛び膝蹴りと、二段回し蹴りと、どちらをかまそうかと迷った。どちらも、勘弁しておいてやったが、それにしても彼はゴキゲンだった。
「大丈夫、傷口、きれいだから。切開した時に時間がかかるとさ、それだけバイキンが入りやすくなっちゃうんだけど、時間かかった割に化膿しないですみそうだねえ」
 …ヤツは、いつでもこんなに上機嫌なんだろうか? 確かに、患者よりもブルーになっている医者ってのも困りものだが、ここまで朗らかにならんでもよかろう。…それとも、私にだけ上機嫌なのか? 私が何かおもしろいことでもしたか? さては、(前述の)動物の石膏像を造らせてるのは貴様だな!? いや、貴様本人が作っているのか!?

 まあ、何はともあれ、完治はした。願わくば、もう二度とこのようなことがないようにしたいものだ。ゴキゲンな彼に笑われないように。
 みんなも気をつけてね。

   
           
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