そりゃないゼ Dr.



◇ 2.歯科 ◇


 歯科…そこでは数多くの悲劇が生まれる。歯痛の苦しみを知らない者は人生の苦しみの半分を知らないと言った人物は誰だったか……。
 誰もが痛みと情けなさを経験し、「今度から歯は大事にしよう」と帰り道に誓いをたててしまう、そんな歯医者に関して、あえて私は宣言しよう。「私は歯医者でひどい目に遭う名人だ」と。すでに達人の域に達しているかもしれない。

 鼓膜を突き破るかのようなドリル音、唾液と一緒に頬の内側の肉までも吸い込もうとするバキューム、「ここは?」と言いながら虫歯の穴をとがったピンセット状の器具でほじくりまくりやがる歯医者。そんなものは、誰もが経験済みのものだろう。
 そういったごく一般的なものには、今更ツッコミを入れる気も失せるというものだ。私の場合、痛みを感じるだけではなく、しばしば血を見る。

 そう…あれは確か私がいたいけな中学生だった頃。近所の歯医者で、前歯を差し歯にすることになった。数々の痛い目を見た治療が一段落し、いよいよ差し歯をはめる日になった。芯だけを残してある前歯に、合うように差し歯をはめてみる。サイズが少し合わないようだ。医者はおもむろに差し歯を削った。まだ合わない。また削る。幾度か繰り返したのち、医者は私の前歯を見て首をかしげた。そして無表情に私に告げた。
「ちょっと痛いけどね、すぐ終わるから我慢してね」
 私が返事をするまもなく、医者は行動を開始した。おもむろにドリルを手に取ると、私の歯茎を削り始めたのだ。当然、麻酔はない。…飛び散る血しぶき。私は自らの血を、私の眼鏡に浴びた。前掛けも血で汚れた。……痛かった。おまけに終わるのはちっとも〈すぐ〉じゃなかった。…嘘つき。

 さて、時は流れ、私は自分名義の保険証を持つ年になった。そして歯医者に行った。一番奥の歯を削る羽目になった。万が一にも舌や頬の内側を削られてはたまらんと、私は身じろぎ一つせずに耐えていた。その時、医者の手が滑った。頬の内側にヒット! 当然、痛い。血も出る。医者があわててドリルを止めて、ひとこと言った。
「あーあ、動くからだよ」
 ……誰が動いた? 患者に責任をなすりつけるくらいなら、微笑んでごめんと言った方がまだマシだ。
 他にも、「おかしいなあ」と言いつつ、私の歯茎の同じ場所を三回も切開したり、「ホントにこの歯、痛くない?」と何度も同じ歯をコンコンたたいてみたりした医者もいた。

 一番、新しい話と言えば、奥歯を削ったまま、そこに薬を詰めて、何日か放置していたときの話。周りの歯茎が盛り上がってしまい、しかも盛り上がった歯茎が、削りっぱなしに近い歯のギザギザ部分にのっかって、ものを食べる度にそこが痛んで仕方がなかったことがあった。そこで私は歯医者に申告した。
「コレ、どうにかしてください」
「おや、これは痛いでしょうね。…この部分、切り取ってしまいましょう」
「…………はい?」
「大丈夫、麻酔するから」
 そして、医者は歯科助手に声をかけた。
「レーザーメス、持ってきて」
 レーザー…? ああ、LDのコトやね。そら、レーザーディスクでんがな! …ああ、パソコンについてるプリンターで、ほら、早いヤツ。そら、レーザープリンターでんがな!……と、思わず一人漫才をやってしまうほど、その時の私はびっくりした。歯医者で聞く単語ではないだろう。
 そして、おもむろに麻酔。…あまり効かなかった。が、私は些細なことは気にしないタチだ。レーザーメスはすばらしかった。なんと言っても血がほとんど出ない。だが、煙は出る。自分の歯茎が焦げる煙が目の前に立ち上る。自分の歯茎が焼かれてゆく臭いが、口から鼻孔にかけて広がる。あまり気持ちのいいものではない。
「はい、じゃあ口ゆすいで」
 医者の言葉で、私はレーザーメスの出番が終わったことを知った。そして、医者の言うとおりに口をゆすいだ。吐き出した水とともに、黒いものがチラホラと出てくる。私の歯茎だったものだ。焦げ臭いような味が口の中に広がる。……歯茎の味?
 ふと、私は冷静になった。
(…何かの味に似てる…。ああ! 炭火焼き鳥の焦げたヤツ!)
 自分の歯茎を冷静に味わうなよ。そんなツッコミを入れつつも、世界広しといえども、自分の歯茎の味を知ってるヤツはあまりいないに違いない、おお、貴重な体験だ、などと考える私は少しヘン。

 そして、私はつい最近まで、歯医者に関して知らなかった事実がある。親知らずを抜くときに、友人と電話で話していて気がついたことなのだが。職場の同僚も、ほかの友人たちも口をそろえて同じコトを言う。
「麻酔が効いてたら、歯を削るのも歯を抜くのも痛くない。痛くないどころか、ほとんど感覚がない。麻酔が切れた後は痛むけどね」
 と、こう言うのだ。……嘘だ。そんなことは信じない。なぜなら、私はそんな風に麻酔が効いたことはないからだ。麻酔をしても、歯を削って神経に届くときは、全身をモーレツな痛みが駆けめぐるし、歯医者が自分の歯に対してどんな作業をしているのかが全て感じられるような状況の中で、歯を抜かれることは地獄の責め苦に似ている。ソレを言うと、同僚と友人はみんな一様に微笑んだ。
「それ……麻酔が効いてないんじゃない?」
 ひょっとして、私は麻酔が効かない? …というか、効きにくい? 言われてみれば思い当たることは多すぎる。麻酔をされた後でも、食事をするのに不自由はしないし、口をゆすぐ水を口の端から水鉄砲のように吹き出した記憶もない。

 そしてそれは後日、歯医者自身の口によって証明されたのだ。
 それは親知らずを抜く当日のこと。医者は麻酔を打った。三本打った。しばらくの時間を置いて、麻酔が効いたと思われる頃、医者はおもむろにペンチ状の器具で私の歯をはさんだ。その瞬間、激痛が走った。
「んがあっ!」
 歯医者においては〈痛い〉という意味で使用されるその言葉を、私は叫んだ。医者は驚いて、私の口から名称不明の器具を抜き取った。首をかしげつつ、麻酔を追加する。さらに三本。それから五分ほどして、医者はおそるおそる、私の口の中にピンセットを入れた。歯をコンコンとたたく。
「……痛い?」
 私は無言でうなずいた。歯医者、困惑のなかでさらに麻酔を追加。……二本。そして、さらに数分後、先刻の言動を繰り返す。
「……痛い?」
 うなずく私。医者は困ったように笑った。だが、その笑いは乾いていた。ついでに視線も遠くをさまよっている。
「はは…麻酔、効きにくいんだねえ」
 さらに追加すること二本。ここでようやく、私の歯に感覚がなくなった。医者は急いで抜きにかかった。そう、私は麻酔の効果が切れるのも早いのである。そのことをたぶん推測したのであろう。偉いぞ、歯医者。
 結果、麻酔を効かせるのに一時間以上。抜歯に十五分という不思議な治療内容になった。……これは歯医者のせいではない。私の体質が悪いのだろう。歯医者に罪はない。
 麻酔と言えば、友人は幼少の頃、通っていた歯医者で麻酔をする際、歯医者の手元が狂ったため、麻酔の注射針をあごの皮膚に刺されたことがあるらしい。しかもそのあと、歯医者は、指でぐいぐいとぬぐって、「ごめんね」と言っただけだと言う 。

 このように(どのように?)誰もがおそれる歯医者。あの椅子に座っただけで、気分はまな板の上の鯉。口に手を突っ込まれたまま、「ここ、どう?」と聞かれても、よけいな反論などせずに、「あんが(意味不明)」と素直(?)に答えずにいられなくさせる歯医者。この歯医者で、今まで私とその友人が耳にした恐ろしい言葉ランキングをここで発表しよう。

 第三位 レーザーメス(歯医者で使うモンじゃねえだろ)
 第二位 骨(こつ)メス(つまり骨のメス…怖い…!)

 ……そして、堂々第一位に輝いたのは!
 第一位 骨膜剥離子(こつまくはくりし) (わかんねーっ! わかんねぇから怖い!)

 ところで、歯茎に縫った糸があるというのはとても不思議な感覚だ。唇や舌がぶつかると邪魔。だけど常に何かには触れている。慣れてくると、舌でさわって遊ぶようになる。そして三日から一週間ののち、抜糸をすると、解放感とともに感じるわずかな寂しさ。ああ、この短い間に私はこんなにもこの糸になじんでいたのだなあと、感慨もひとしお。

 ではここでほほえましい話題を一つ。
 私が最近まで通っていた歯医者には、かわいらしいものが置いてあった。ちなみに、近所に住んでいる友人Aも同じ歯医者に同時期に通っていた。Aは、あごに麻酔を刺されたり、骨メスを使われた人物である。ちなみにAはレントゲンをとる時に十字架のピアスをしたまま、撮影してしまい、レントゲンの歯の両端に×印がついてしまったこともある。
 さて、そのかわいらしいものとは、何のことはない、手作りの小さな動物の石膏像である。高さ四、五センチの小さなものだ。材質が石膏であることから、私とAは、歯の型を作る石膏のあまりで制作されたものだろうと想像した。ペンギンやウサギ、カバ、ライオンなどなど、バラエティに富んでもいた。ご自由にお持ちくださいとのことだったので、私もペンギンを一つ持ち帰った。Aはほかにもウサギやラッコを持ち帰っていた。だが、ある日のこと、その中に違う色のものがあることに気がついた。偶然にもその日、私とAは待合室で一緒になっていた。
A「これだけ、色が付いてるね。不思議なピンク色じゃない?」
私「でもたまに、石膏にペンや絵の具で色ついてるじゃん」
A「じゃあ、これもそうかな?」
私「…………なんか…違うかも。……あ、やなこと思いついた。けど、それが正しいような気もする」
A「……何?」
私「これって石膏じゃないよね? この色…この質感…入れ歯の歯茎部分じゃない?」
A「まっさかあ! んなもの使うわけないじゃん」
私「でもほら。そうじゃない? …じゃなきゃ、歯の型とるときに使うピンク色のゴム?」
A「…きっとソレだよ」
 …………そうであってほしい。歯茎部分ってのはちょっと……。それらの動物のコレクターと化していたAも、さすがにそのピンク色のものは持ち帰ろうとはしなかった。(後日、行ったらなくなっていた。誰か持ち帰ったのか?)

 以上のように、近所の歯医者さんはチト変な感覚を持ってはいるが、夜間診療をしているので、きっとまたお世話になることだろう。

   
           
    NEXT   
 
    MENU   
 
    HOME